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六、妙法蓮華
三人の姉妹は、織田信長の葬儀を羽柴秀吉が執り行った大徳寺の側にある喫茶店に着いている。静かな店内の奥にあるテーブルで、姉二人と向かい合って席に座ると、華子は急に涙声になって話し始めた。
「私は小さい時に富山へ行って、あの時からずっとお母さんに捨てられたと思っていました。確かに富山では、何不自由の無い生活をさせて貰いましたが、二十歳の時に富山のお父さんが亡くなられました。それで、この頃からお父さんが社長をされていた薬の会社が、大変な苦境になってきました」
「あの高田はんが、亡くならはりましたか」
「そうです。そこで、弟さんの長男が家を継ぐことになり、私と結婚することになりました。十年ほどは会社もしんどかったのですが、私も働いて何とか苦境を乗り切ることが出来ました。置き薬の配置薬だけでは、大手の製薬会社との競争に負けてしまいますけど、流通に乗せられる薬の生産と漢方薬ブームに助けられたお陰なんです。それに、今は社長をしてますけど、うちの人もよう頑張ってくれました」
「華子は、それで良かったんか」
黙って聞いていた法子が、確かめるように聞いた。
「ええ、私もしんどい思いをしましたが、今は、それなりの生活が出来るようになりました。それで、会社が苦境だった頃に、お母さんが亡くなったと、富山のお母さんの京都にいる友達から聞かされました。半年ほど後やったと思いますが、西陣の家へ来て見ましたが、他の人が住んでいてお姉さん達の行先がわかりませんでした」
「あの家は借家で、お姉さんは結婚して家を出たはったし、うちも美容院に近いアパートへ、直ぐに引っ越したんや」
「そうでしたか。私は会社の仕事が忙しかったもので、近所の人にお寺の名前と場所を聞いただけで、そのまま富山へ帰りました」
「それで、お母さんの三十三回忌のことを、お寺さんに聞いたんか」
妙子が、ここまでの華子の生活を思いやりながら聞いている。
「そうです。三十三回忌となれば、きっと、お姉さん達に会えると思ったからです」
「華子、そやけどお母さんは、亡くなる直前まで、お前のことを気にしたはったえ。あの時は、そうするしかなかったと泣いたはった」
法子が、母親の最後の様子を思い浮かべながら話している。
そこで妙子も、法子の言葉に促されるように話し始めた。
「そうなんや。華子の養女の話は、先にお母さんから聞かされとったんやけど、食べる物にも苦労してた時に、世話になっとった組合長さんからの頼みでは、断ることが出来ひんかったと思うわ。それに、華子の将来を考えるとお母さんは、えらい決心をしやはって、うちもあの晩は泣いてしもうたわ」
妙子が、昔を思い出して涙ぐんでいる。
「私も大人になって考えると、何とかわかるようになりました」
今となれば、子を手放す母親の悲しい思いを、良くわかるようになっている華子は、うつむいて小さな声で答えた。
喫茶店には、音を抑えて静かな音楽が流れている。思い起こせば、人生の大半となる歳月が過ぎ去っている。三人の姉妹は、それぞれのここまでの生活に、思いを巡らせながら耳を傾けていた。
そこに運ばれて来たコーヒーを一口飲むと、法子が急に別の話を切り出している。
「それで今、ふっと思ったんやけど、お姉さんもお守りを持ったはりますな」
「蓮の模様が入ったお守りやな」
「それに、子供の頃、今宮さんへ三人で行った時に船岡山で、お姉さんはうちらの名前が山にあるてゆうてはったな」
「妙法か」
「それにお守りの蓮と華子の華を足すと、妙法蓮華になりますな」
「確かにそうなるな」
「そうすると、蓮は何やろ。お守りの模様にしやはっただけかな」
「そやなあ」
妙子が、何かを思い出そうとして、コーヒーをスプーンでかき混ぜながら、昔の記憶を辿っている。そのスプーンを持ち上げると、一滴がしたたり落ちた。
「そう言えば、うちがまだ小さい頃やったけど、お母さんが寝込まはった時があったな。法子が生まれた後やったと思うけど、今にして思えばあれは流産やったかも知れん。それに、船岡山の登り口にある神社で、お地蔵さんに手を合わせときとゆうたはったけど、あれは確か水子地蔵やったはずや」
「そうか、それでお父さんは、その子が無事に生まれておったら蓮子と名付けたかったんや。それで、蓮の模様が入った帯を織らはって、次に生まれた子を華子としやはったんやな」
法子が、思いついたように話した。
「そや、きっとそうや」
妙子も同じ思いでうなずいていた。
華子は姉達の話をじっと聞いていたが、問い掛けるように話し始めた。
「私には、もう一人のお姉さんがおられたかも知れなかったのですね。お母さんも悲しい思いをされましたな。それで、妙法蓮華は、法華経になるのと違いますか」
「うちのお寺は、法華経を根本にしたはる天台宗の系統やさかい、わからんことは無いけどな。しかし、お父さんはどないしてこんな名前を、うちらに付けはったんかな」
妙子が父親の思いをわかりかねており、二人の妹を促すように言い出した。
「天台宗の本山は延暦寺やったな。それやったら、今からこの寺のある叡山を見に行こか。何かわかるかもしれへんさかい」
「えー、お姉さん、今から山へ登るんか」
急な話に、法子が驚いて聞いている。
「いや、そやない。叡山がよう見える建勲神社へ行って見よか」
「そこまでやったらええわ。お姉さんは、言い出したら直ぐやからな」
三人の姉妹は、喫茶店を出て北大路を渡り、歩いて五分ほどで、船岡山の東側にある建勲神社の入口に着いている。ここから五十メートルほどの石段を登り参道を進むと、織田信長を祀る本殿になる。この本殿へ向かう手前に、東山を一望出来る絶好の場所がある。
東山は、比叡山を主峰とし、南側に右大文字の送り火が点けられる如意が嶽へと続き、更に伏見の山へ青みを帯びたたおやかな山々が連なっている。松尾芭蕉の門下となる服部嵐雪が、その景観を称え『布団着て、寝たる姿や東山』と詠んでいる。
「ここから見ると叡山の姿は最高やな。あの頂の向こうに延暦寺があるはずや」
「大きいお姉さん」
「何や、急に」
華子は何かを思い詰めていたのか、突然、妙子に話し始めている。
「五世紀の始めに、鳩摩羅什と言う人が法華経を漢訳された時に、サンスクリット語のサッダルマと言って、正しい教えのことを妙法と訳されたようです。そして、人はこの妙法により救われると説かれています。その救いとは諸法実相であり、あらゆるものの存在が真実であるということです。例えば、病になればそれが真実であり、禍がふりかかればそれも真実として、受け入れれば救いとなります。また、道端の石や草花、それに自身の存在にしても、価値を持つものとして、ありのままに見ることが大切であるとの教えなのです」
「華子は、よう知っとるな」
妙子が、感心した様子で華子の話を聞いている。
「私とこの会社のお得意先にお寺があって、そこの住職さんによく話を聞いています。それで、蓮華とは、極楽浄土の池に咲く蓮の華の様子です、青色、黄色、赤色、白色と、それぞれの色の光を精一杯放ち、互いに相手を照らし照らされ、我が美しいと自慢すること無く、また劣ると卑下することも無く、それぞれの光を大事にすることで全体が美しくなると言われています」
「そう言えば、うちのお守りは青色の蓮やわ。法子は何色や」
「うちのは、黄色や」
「私は白色の蓮になりますので、赤色はきっと蓮子さんに渡すお守りやったはずです」
「へー、そういうことになるんか」
妙子が、納得した様子で華子を見つめた。
「それから、如蓮華在水と言って、観音菩薩は汚れた世の中にあっても汚れず、清らかなことは、あたかも蓮華が泥水の中から出て華を咲かすようなもので、その泥水に汚されることが無いのと同じことになります」
「そう言われれば、観音さんはみんな蓮の上にいたはるな」
「観音菩薩は、世を救済するため三十三の姿に変身されます。言い換えれば、どこにでも姿を変えて現れられることになります。それに、菩薩と言うのは、道を求める人の意味です」
「華子は、詳しいな」
法子もため息交じりで聞いている。
「私は、もう一人のお姉さんのことは知りませんでしたが、私らの名前と蓮のお守りで、以前から考えていました。きっと、お父さんは、私らに観音菩薩の心を身に着けさそうと思っておられました。そして、それぞれの道をしっかりと歩けるように、このような名前を付けられたと、今日ではっきりわかったような気がします」
「今までは生活することに一生懸命で、こんなことを考えんかったけど、そういうことになるのかも知れんな。そう言えば、お父さんの若かった頃に、西国三十三カ所の観音霊場で写ったはる写真があったわ」
妙子が、父親の昔の姿を思い出していた。
そんな妙子を見ていた法子が、母親のことを思い出すように話始めた。
「お母さんかて、うちらの子供の頃に今宮さんへ三人で行かさはったんは、玉の輿にのれるとゆう願いが叶うと言われているし、やすらい祭りの花笠に入るのは無病息災に過ごせることになるようや。それに、あのあぶり餅は厄除けのご利益があるようで、そんなことを考えてはったんと違うか」
「そやなあ、お母さんもうちらのことはよう考えたはった。あの時には華子を養女に出すのを決めたはったさかい、いつかは三人が無事に会えることを願ったはったと思うわ」
妙子も母親の面影を、しみじみとよみがえらせていた。
いつの間にか日が沈む時刻になり、東山の山々は夕日で赤みを帯びていた。その上には淡い紅色に染まった雲が、幾つか浮かんでいる。
妙子がその雲の一つを指差して、叫ぶように話した。
「あの雲は赤い蓮に似てないか。そうや、きっとそうや。蓮子や」
「ほんとや、蓮に良く似た雲が赤く染まってるわ」
二人の妹は、微笑んでいるようにも見える雲を、慈しむかのように見つめている。そして、今日のこの日に蓮子も会いに来てくれたと、思わず手を合わせていた。
「うちは、お父さん、お母さん、それに蓮子の冥福を祈るために、西国三十三カ所の巡礼の旅に出ようと思う。うちの主人も、秋には仕事を辞めはるやろから、お願いするわ」
「大きいお姉さん、その時は私も行きます」
「うちは、美容院があるさかい、京都市内のお寺へ行かはる時に一緒させてもらいます」
「そうか。そやけどこの歳になって、今更ながら、親の恩と言うのを感じるようになってしもうたわ」
「大きいお姉さん、そんな歳のことは言わんと、今から河原町にでも行って、ご飯を食べましょか。私がおごります」
「えー、華子はさすがに社長夫人やな。うちの主人も呼んでええか」
「ぜひ、そうして下さい。お姉さんも一緒に行きましょう」
「うちは一応、美容院を経営してるさかい、自分の分はお金出すよって」
「あほやな法子、ここは華子にまかしとき」
夕闇が迫る建勲神社の境内には、五十年ぶりに会った三人の姉妹の笑い声が響いており、思い出が残る西陣の町並みには明かりが灯ろうとしていた。
参考
・延暦寺ホームページ
・今宮神社ホームページ
・わたしの南無妙法蓮華経 ひろさちや著
佼成出版社
・法華信仰のかたち 望月真澄著
大法輪閣
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