行きつけの喫茶店

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 昨日の夜、彼氏に振られた。  久しぶりに向こうからメールが来たと思ったら「大事な話がある」の一言で。すぐに電話をかけた。やけに長くコールが続いた気がして、やっと繋がったと思ったら開口一番に「他に好きな人ができた」と。  ここ数ヶ月はデートの回数もめっきり減っていたし、連絡しても中々返信が来なかった。「お互い仕事が忙しいから」と自分に言い訳をしていたけれど、正直なんとなく駄目になりそうな予感はあったのだ。  ただ、それにしても。 「あっけなかったなあ……」  泣くのでも、怒るのでもなく、ただ、「そう……わかった」としか言えなかった。  一晩経っても、特に大きな感情は湧いてこない。なんだか妙に淡々としていた。  失恋直後だけれど、今日は土曜日。社会人にとって貴重な休日だ。ずっと一人で部屋にいるのも嫌になり、かといって今すぐに会える友人もいなかったので、散歩がてら行きつけの喫茶店にでも行ってみることにした。  駅前の大通りから少し外れた小路にある、こじんまりとした喫茶店。  街は人の行き交う声や車の通る音でいっぱいなのに、この店の中は客の囁くような話し声と穏やかなボサノバだけが聞こえる、柔らかな照明に照らされた空間が広がっている。心なしかゆったりと時間が流れている気がしてくるところが、私は気に入っていた。  今日はいつものケーキセットを頼む気になれず、コーヒーだけ注文した。  ブラックコーヒーを飲みながらお気に入りのノワール小説でも読もう。そうすればきっと気分も落ち着くだろう。  全く集中出来ない。おかしい。いつもならすぐに小説に夢中になれるのに。これでは息抜きにもならない。困った。小説のチョイスが悪かったのだろうか……でも今恋愛ものは読む気にはなれないし。  本を閉じてテーブルに置くと、隣の席にいる二人の会話が耳に入ってきた。  二十代後半くらいに見える男女だ。私の斜め前に座っている男は、笑顔で話してはいるものの、どこかぎこちない。笑い声もちょっとわざとらしく、静かな店の中で大きく響いてしまっている。聞こえてくる会話も双方が丁寧語を使っていて、なんとか打ち解けようと互いに努力しているようだった。  仕事内容や勤務先の場所について聞いているから、同僚でもなさそうだ。かといって学生時代の知り合いという訳でもないように思えた。  一体どういう組み合わせなんだろう。しばらく本の表紙を見つめながら考え込み、はっと気づいた。  お見合いだ!  おそらく婚活サイトかなにかで知り合った二人なのだろう。そう仮定すると全てがしっくりきた。  私が考えを巡らせているうちに、二人は映画の趣味が合うことが分かったらしく、だんだんと会話が弾んでいった。  よりによってこんな気分の時に、他人の恋愛がうまくいきそうになっている場面に遭遇することになるとは。  もう本を開く気にもなれなくて、すっかり冷めたコーヒーに普段は入れないガムシロップを入れて飲んでみた。  ただ苦いだけで、全然甘く感じられない。むしろ余計な物を入れたせいで香りの邪魔をしてしまった気がした。  読書もコーヒーも楽しめない。思わずため息が出た。隣の二人は何かの話で盛り上がっているようだし、聞こえなかっただろう。……なんで私は見知らぬ男女のお見合いを気にしているのか。もうひとつため息を吐いてから本を鞄にしまい、レジに向かった。  会計を済ませていると、突然クッキーの入った小さな袋を差し出された。この店でテイクアウト用に売っているものだ。この店のものは少し高めだけれど程よい甘さでバターの香りがして、市販のものよりもずっと私の好みに合っている。家でお茶を淹れる時おともにちょうどいいから何度か買ったことがあった。  咄嗟にぱっと顔をあげると、前に立っているのはこの店のマスターだった。〝喫茶店のマスター〟と言われてイメージするよりも、だいぶん若そうな人だ。三十代前半くらいだろうか。店員ではなくマスターだと知った時は驚いたけれど、ぴんと伸びた背筋やティーカップを扱う繊細な手つきに優しげな、でも芯の強そうな目を改めて見て納得したのを覚えている。今は眼鏡越しに私を見て少し心配そうな顔をしていた。 「差し入れです、良かったら」 「え……」  咄嗟に「ありがとうございます」とも言えず吃る私に苦笑して、 「驚かせてしまって申し訳ありません。貴女がケーキを頼まないなんて珍しいと思ったものですから。クッキーはどうかと思いまして」  マスターが微笑(わら)ってカウンターの上に置いたクッキーの袋を、そっと手に取った。 「――いえ、その、ありがとうございます。……すみません、気を遣わせてしまって」 「こちらこそ、突然渡して驚かせてしまい申し訳ありません。よかったら、紅茶と一緒に召し上がってください」 「……はい。ありがとうございます。頂きます」  受け取ってもらえてほっとしたというような顔になったマスターに軽くお辞儀をして、店を出た。  マスターとは、今までも何度か言葉を交わしたことがあった。しかし、まさか今日、こんな風に声をかけられるとは思ってもみなかった。  自分を覚えていてくれる人がいる。些細な変化に気づいてくれた人がいる。  それだけで、少し心が晴れたような気がした。 「……明日はケーキセット、食べに行こうかな」 そう呟いて、家路についた。
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