序章

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序章

(序)                    2016年の初夏、一人の少女が警察に保護された。古いジーンズに汚れたTシャツ、そして裸足という姿でコンビニの店員に付き添われて警察に入って来た時には、少年課の警察官も驚きを隠しえなかった。髪の毛は伸び放題であったが、一部の髪の毛は根元から引きちぎられたいた。身長は小柄で、誰もが小学校低学年かと思った。    この少女を最初に発見したのは地元に住んでいる二人の女子高生であった。  継接ぎだらけのジーンズに汚れたTシャツ、そして裸足といった恰好の女の子が歩いている。目もうつろだ。二人の女子高生は勇気を出して声をかけた。  「お嬢ちゃん、どうしたの?お家はどこ?お姉さんと一緒に帰ろうか?」  「嫌、家へ帰ったら殺される。助けて」  「お名前は?」  「由香」  これは普通ではない。二人の女子高生はこの娘を近くのコンビニまで連れて行った。  「お腹はすいてない?」  「お腹ぺこぺこです」  そう言うのでコンビニでおにぎりを買って少女に与えたところ、少女は貪るように食べた。  「こんなおいしいものがあるの?知らなかった」  少女は涙を流し始めた。  「お願いだから家へは連れて帰らないで。殺される」  二人の女子高生はコンビニの店員に声をかけた。  「この子、何かおかしいんです。警察を呼んで下さい」  コンビニの店員はすぐに110番をした。  程なく、パトカーが駆けつけた。中から二人の警官が降りてくる。  「お嬢ちゃん、警察のおじさんとあったかいものでも食べに警察署まで行こうね。ところで『殺される』って誰に殺されるの?」  「お母さん」  その言葉で警官は、すぐに虐待を疑った。  「とにかく警察まで行こう。婦警さんがいるから心配しないで」 こうして少女は恐る恐るパトカーに乗り込んだ。この少女は家へ送り戻されることを恐れていたのだ。  「お母さんの所へ送り返したりしませんか?」  この状況では、普通は児童相談所である。それはあり得ない。  しかし、少女は何度も聞いた。  「お母さんの所へ戻ったら、私、殺される。どこでもいいから助けて。お母さんの所へは戻さないで」  「わかった、わかった。そんなことは絶対にしないからね」  警官は優しく諭すように言った。   警察署内では既に婦人警官が待機していた。そして事情聴取が始まった。  「ちょっと背中を見せてもらっていいですか?」  案の定、婦人警官の恐れていた通りであった。無数の傷跡があった。  「お嬢ちゃんは歳はいくつかなあ?」  婦人警官が尋ねる。そして、その答えに周りにいた一同は驚愕してしまった。  「十六」  どう見ても十六歳には見えない。外見は小学校低学年である。  婦人警官はさらに尋ねた。  「学校はどうしたの?どこかの高校?」  「私、小学校も中学校も行ってない」  「これは虐待とネグレクトですねえ。さあ、警察のお姉さんについてきて。おいしい物をいっぱい食べさせてあげるからね。」    (一)               時は今から十年前に遡る。  由香には二人のお姉さんがいた。二人ともきちんと学校へ通い、高校は出してもらっていた。夫の稼ぎがよかったので、きちんと学校へやることもできたのである。  しかし、この夫は極めて酒癖が悪かった。そして職場で何かあると酒を飲んできて早苗に殴る蹴るの乱暴をはたらいた。元々この夫は田舎のマイルド・ヤンキーのドンであり、酒と喧嘩が三度の飯よりも好きだったのである。  今日も夫が酒を飲んで帰ってきた。そして間の悪いことに、この日は由香の母である早苗は食事の用意も風呂の用意もしていなかった。  「おい、早苗!お前は主人が帰ってきたというのに飯も風呂も用意してないのか?この馬鹿が!」  そう言って早苗を足蹴にした。早苗が倒れ込むと、まだ幼かった二人の娘がやってきてお母さんを守ろうとした。すると父親は娘をも足蹴にした。  この夫は最初からDV夫というわけではなかった。元々は物静かな夫であり、早苗が高校を中退して水商売をやっていた時に知り合った。そして夫のアパートに早苗が出入りするようになり、深い関係になってきたのだ。夫も早苗にコンビニのケーキを買ってきてくれたり、映画のDVDを借りてきたりしてくれる優しい夫だった。そして十八の時に長女を身ごもったのであった。  しかし子供が生まれてから性格が一変してしまったのだ。  ご飯を食べなかったり、オムツから大便が漏れていたりすると腹を立て、早苗を殴ったり蹴ったりし始めた。そして子供の夜泣きが始まるとDVは一層激しくなっていったのだ。  「お前が悪いんや。お前は子供の育て方がわかってない」  そう言って子供が咳をしただけで殴られた。  早苗は自分がきちんと子供を育てることができることを夫に見せるために長女を殴ることがあったが、長女に対しては後の由香のような暴力はふるわなかった。  もしも早苗にある程度の知識や職歴があれば自立することもできたであろうに、それができなかった。そしてDV夫のいいなりになっていたのだ。 二人の間にできた子供は実柚と唯という二人の女の子であった。しかし、唯が生まれると間もなく夫は家を出て行った。その後、この夫は酒を飲んでいて車にはねられて死んだ。  その後、早苗はこの夫の友人であった男と結婚し、由香が生まれたのである。  早苗は二人の子供を小学校にやって、子育ても一段落したかと思った頃に三人目の妊娠が発覚したのである。DV夫と別れることが出来たと思ったら、今度は三人目の女の子の世話である。早苗は新しい主人と生活を共にしていたが、この主人は仕事が忙しく、子供に構ってやれなかった。だから、子供の教育も家計のやりくりも全て早苗に任された。上の二人の子供は前の主人との間の子供であり、由香は新しい主人との間にできた子供であった。また、子供が三人もいて、早苗は家計のやりくりに四苦八苦していた。光熱費を払えなくてライフラインが止まる一歩手前までいったこともあった。  というのは、新しい主人は暴力こそ振るわなかったが、生活力には乏しかったのだ。転々と職を変え、またギャンブルにのめり込んでいた。  だから由香は望んで生まれてきた子供ではなかった。「こんな男の子供なんかいらない」と早苗は思っていたのだが、由香が生まれてしまったのである。  早苗の口癖は「この子さえいなければ」だった。  そして、由香の妊娠中に早苗は鬱病を患ってしまった。 鬱病を患ってからの早苗は長女の実柚と完全に「共依存」の関係に陥ってしまった。早苗は長女の実柚が鬱病の自分を捨ててどこかへ行ってしまわないかと言う不安に常時襲われるようになった。  日本の福祉制度では、問題のある親と子を別々に支援する制度はある。しかし共依存に陥ってしまった親子を引き離すのは難しいのだ。  「今日は学校が終わったらすぐに帰ってきてね。お母さん、何もできないから。それから食事の用意と由香のミルクをお願いね」  「分かったわ。心配しないで。お母さんはゆっくり休んでいて」  実柚は小学生だから、まだ母が必要な時期であったが、鬱病になった母を見捨てることができず、家事一切を取り仕切るようになっていた。  次女の唯は、まだ小学校低学年で、ことの重大さがよく呑み込めていないようであった。 そして、早苗にとってもう一つ心配だったことが、医者からもらった抗鬱剤であった。医者は副作用はないと言っていたが、母胎にはどんな影響が出るかわからない。そして、この薬を飲みながら産まれた由香には何か欠陥があるに違いないと思い込んでいた。  しかし、実柚が一生懸命育ててくれたので、幼稚園までは何の問題もなく育った。しかし、早苗にとって、この望まれずに生れてきた由香には何の愛情も湧かなかった。  それに気付いたのかどうか分からなかったが、由香の愛情は長女の実柚が独占してしまった。その実柚に対する嫉妬の感情も早苗には芽生え始めていた。  「この子は私から主人を奪ったばかりか、実柚まで奪おうとするのか?」そう早苗は考えた。  そんな折、二度目の夫が飲酒運転で交通事故を起こし、帰らぬ人になってしまった。早苗はシングルマザーとして三人の子供を育てなければならなくなった。ますます三女の由香が邪魔になってきたのである。  ある日、由香が早苗に尋ねたことがある。  「私の家にはどうしてお父さんがいないの?」  すると早苗の返答は意外なものであった。  「お前が奪ったんだろう!」 その他には言葉での虐待は多くあった。    「うちが貧乏なのはお前のせいだ」 「お前なんか生まれてこなければよかったんだ」  それに輪をかけるように由香のお婆さん、前夫の母が、由香を大変可愛がった。由香は完全に「おばあちゃん子」として育っていった。  「いっそのこと死んでくれないかなあ」と由香のことを考えることも珍しくはない早苗であった。 *  早苗はまだ若かった。と言っても女の盛りは既に過ぎてはいたが---。そこで、水商売に手を染めることになった。  と言っても、水商売をやるのはこれが最初ではなかった。前夫と知り合ったのは水商売のアルバイト先であった。  早苗は高校を中退して前夫と結婚していた。お腹の中に実柚がいた。早苗がまだ十八の頃である。そして、その頃から前夫のDVが始まったのであった。  やがて唯が生まれると、夫は家を出て行ったことは先述した。  その後直ぐに二度目の夫と結婚した時には早苗は三十歳になっていた。 この夫は暴力は振るわなかったが、長女の実柚に対して異常な性癖を顕わにし始めた。実柚が中学生の頃である。  眠っている実柚の布団へ突然夫が入ってきたのだ。そして実柚に言った。  「お母さんには絶対に内緒でな」  そして実柚の体を触り始めた。実柚は、まだそのことの意味が分からず、されるがままになっていた。  ところが、いつの頃からか、それが早苗の知るところとなってしまった。  早苗は夫も実柚も責めず、なぜかその矛先は由香に向かっていったのだ。  「お前には淫乱の血が流れているんや。淫乱のな。あの男(二番目の主人)が実柚に何をしていたか分かっているのか?みんなお前のせいや」  そう言って由香を定規や、時には食器で殴るのであった。  早苗は由香に物を投げたり、叩いたりし始めた。それも日に数度繰り返された。早苗は自分で自分の行動を制御できなくなっていたのだ。  「私もお前のせいではないのは分かってる。しかし『こいつさえいなければ』と思うと仕方がないんや」そう自分に言って聞かせていた。  そして、幼稚園の参観日に事件は起こった。
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