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虐待の始まり
(二)
参観日の日、男の子二人が喧嘩を始めた。幼稚園の先生は何を思ったのか、由香に止めるように指示したのである。
「由香ちゃん、昌男君と芳樹君が喧嘩をしている。止めてあげて」
「はい」
そう言って何を思ったのか、由香はツカツカと二人のところへ歩いて行ったかと思うと、いきなり二人を殴りつけたのである。
殴られた二人は今度は怒りの矛先を由香に向けてきた。
「何するの?由香ちゃん」
「そうや、そうや。僕らは遊んでいたんやで」
「でも、先生が二人を止めてくれって言うから---」
そう言うと昌男君がいきなり由香の手をひっぱた。由香はもう一度昌男君の頬を殴りつけた。
事情を知らない早苗は、由香が突然男の子を殴ったと勘違いしたのだ。
由香の近くへ寄って来る早苗。そして、次の瞬間、早苗のビンタが由香の頬に飛んだ。
「何しよるんよ?この子は。いきなり人を叩いたりして。お前は頭がおかしいのか?」
そして、今までの鬱憤を晴らすかのように次々と由香にビンタを喰らわせる。
「ほんまに、この子はきっと何かの障害があるんだわ。この子は頭がおかしいのや」
「御免なさい、御免なさい」
そう言って泣いている由香の耳を早苗は思いっきり引っ張り、言った。
「由香、お家へ帰ります。早く来い、このウスノロが!」
そう言って由香を車に乗せた。
車の中でも由香は泣いていた。
「泣くな。このボケナスが。お前は要らん子やったんや。お前ななんか産むんやなかった。家へ帰るで」
車は発進し、家へ向かった。そして、家へ着くと早苗は由香を無理矢理物置に閉じ込めた。
「ここで暫らく反省や」
しかし、この「暫らく」が十年以上のことになるとは由香は想像だにできなかった。
*
早苗は物置の戸につっかえ棒をすると、精神安定剤を飲み、お酒をあおった。そして、精神的にも肉体的にも疲れていたので、そのままソファーの上で寝てしまった。
物置の中では由香が泣いていた。
暫らくして実柚が帰宅した。物置の中から由香の泣き声が聞こえてくる。
実柚はそっとつっかえ棒を外した。
「お姉ちゃん、母さんがひどいの」
泣きながら姉に訴える由香。
「わかったわ。何かあったのね。今から晩御飯をお姉ちゃんが作ってあげるからね」
そう言ったかと思うと、さっきまで眠っていた母の早苗が起きてきた。
「実柚、こんな奴にご飯作る必要はない。こいつは暴力をふるったんや。そやから閉じ込めてある。分かった?」
「でも---」
その途端、早苗のビンタが今度は実柚に飛んだ。
「お前までこんな暴力女の肩を持つのかい?お前は母さんと居ておくれ」
そう言われて実柚は何も言い出せなかった。
そして、早苗は嫌がる由香を再び物置に閉じ込めた。
「お母さん、お腹すいた」
「うるさい、このキチガイ。そんなに飯が食いたかったら母さんが作ってあげる」
そう言って、早苗はご飯を一杯よそうと、その上からコーヒーの残りをかけ、由香に手渡した。
これから由香にとって地獄の日々が始まる。
*
早苗はことあるごとに由香を殴った。それも靴が揃えられていないとか、醤油を切らせたとかいった理由で由香を殴るのであった。ある日なんかは早苗は包丁を持ってきて由香に突きつけたこともあった。
早苗の家族は団地住まいである。だから、子供の泣き声が聞こえてくると「何かあった」とわかりそうなものだが、それがここまで分からずじまいだったのには理由がある。
昔は団地では町内会がしっかりしており、どこに誰が住んでいるかはすぐに分かった。しかし、個人情報の保護の観点から、たとえ町内会長であっても家族構成まで把握することはできなくなった。
勿論、「由香ちゃんは最近何をしているの?」と尋ねて来る人も最初の間はいた。しかし、親が「親戚に預けてあります」とか、「今少し熱があって休んでいます」と言うと、それ以上は踏み込めないということが現実であった。
学齢期になると、学校の先生が尋ねてくることもあったが、家庭内のことまでは踏み込めないのである。
こうして、「忘れ去られた子」となった由香は、さらに過酷な虐待にさらされる。
とにかく、その日から由香には十分な食事さえ与えられなくなった。食事は日に一回。それも早苗が起きている時に、冷たくなったご飯に醤油をかけただけのものとか、実柚や唯の食べ残しなんかであった。ご飯を残すと早苗のビンタが飛んだ。
また、排泄も物置でさせられた。由香がたまらなくなって「お母さんおしっっこ」と言うと早苗はオマルを持って来て、「ここでやりな」と投げつけたのであった。排泄物の処理は実柚に任された。
勿論、服などは一切与えられず、いつも汚いジーンズとTシャツのみであった。
ある日、幼稚園の友達が尋ねてきた。
「由香ちゃんいますか?」
「ああ、あの子は誰にも会いたくないと言ってるので、悪いけど帰ってね」
と言って早苗に追い返された。
幼稚園の先生も尋ねに来てくれた。
「由香ちゃんは、今どうしてますか?」
「あの子は遠くの親戚に預けてあります。どうも御心配して下さって有難うございます」
それでおしまいである。母親が言うことだから、誰も敢えてそれ以上聞こうとはしなかった。
そして、由香がいる物置にはカーテンがかけられ、音が漏れないように二重の戸が取り付けられた。
一度、友達が来た時に、由香が大声で叫ぼうとしたことがあった。
「武君、助けて。私はここにいるのよ」と言った。
「今何か聞こえた」
「空耳よ、由香は親戚の家にいるの」
そして、その日は母親の早苗に思いっきり殴られ、それ以降、由香の口からは何も言いだせないでいた。
また、早苗の鬱病は余計にひどくなり、ことあるごとに由香に当たるようになってきた。機嫌の悪い時の早苗は、まさに鬼婆であった。
ある日、早苗は酒を飲んで帰ってきた。すると、三日間食事を与えられていなかった由香が冷蔵庫のものと炊飯器に残っていたご飯を食べようとしていた。
「何しよるんや!この泥棒が!」
早苗は烈火のごとく怒りだした。
「ごめんなさい。もうしません」
そう哀願する由香に早苗は容赦のない罰を加えた。
髪の毛を引っ張って引きちぎり、顔が膨れ上がるほど打った。
「ほんまに、この子は頭がおかしいから泥棒なんかするんや」
そう言って、由香を縄で縛り上げ、いつもの物置に隠した。
(三)
やがて、由香は小学校へ行くべき年齢に達した。市から就学前検診の通知が早苗の下に届いた。
「就学前検診のお知らせ
三女由香さんは来年四月で学齢に達します。
清水小学校にて就学前検診を行いますからお越し下さい。内容---
○○市」
「就学前検診やと?この子はおかしいに決まっている。何か見つかったら大変だ。こんなものは捨ててしまおう」
早苗はこれを握りつぶした。小学校へ行かせるつもりなんかはなかったのだ。
そんな由香を不憫に思ったのか、お婆ちゃん(前夫の母)がランドセルを買ってくれた。由香が押し入れから出られるのはお婆ちゃんが来た時だけだった。
「由香も小学生やねえ。このランドセルで学校へ行って、友達をたくさんつくるんよ」
お婆ちゃんは優しく言ってくれた。
「ありがとう」
由香にはお婆ちゃんの気持ちが子供ながらに有難く感じた。ここまで自分のことを思ってくれる人はいないだろうと思った。
しかし、その夜、お婆ちゃんと早苗の口論する声が聞こえてきた。
「お母さん、何でランドセルなんか買ったの?」
「そりゃ、小学校に上がったら当然要るだろう?」
「私はこの子を学校にやるつもりはないからねえ。給食費も文房具もみんなお母さんが払ってくれるなら話は別ですけど」
「早苗さん、この子を小学校にも上がらせないのかい?」
「うるさい!ババア、帰ってくれ。私は体の具合が良くないんや」
「それとこれとは話が別やないか?」
と言ったと思うや、食器の割れる音がした。早苗が祖母に投げつけたようである。
お婆ちゃんは帰っていった。
早苗は、また精神安定剤とお酒を一緒に飲んで寝てしまった。
この母親の生活は完全に昼夜が逆転しているのであった。
そして、ある日、この祖母が由香をこっそりと外へ連れ出した。
早苗は眠っていたので気付かなかった。
*
由香にとって、久しぶりに吸う外の空気は本当においしかった。
お婆ちゃんは由香を近所の公園まで連れていき、ブランコやシーソーに乗せてやった。
「本当に由香のお母さんは酷い人やねえ。学校にも行かせないなんてねえ」
由香は無言だった。どう切り返していいか幼い由香には分からなかったのだ。
「お母さんの病気が治ったら、私学校へ行けるかなあ?」
「さあ、わからないねえ。でもきっとお婆ちゃんが説得して行かせてあげるからね。
いけない。もう三時や。早苗さんが起き出したら大変なことになる。お婆ちゃんが家まで連れてってあげるから静かに家にはいるんよ」
「うん」
この事態になっても行政は動かなかった。虐待の可能性は低いと踏んだからだ。そして、対応は完全に学校に一任された。
先ずは、担任の教員が家庭訪問に来た。まだ若い女教師であった。
ドアチャイムの音で早苗は起こされ、応対に出た。
「清水小学校で由香さんの担任をすることになった森本と申します」
「はい、今開けます」
「あのー、由香さんの件で参りました。始業式にも来ていらっしゃらなかったし、その後一回も登校していないので様子を見にきました」
「由香は今親戚に預けてあります。あの子は頭が弱いので学校へ行ってもご迷惑になるのではないかと思います。どうぞお引き取り下さい」
「分かりました。お家にはいないのですね。お家にいると思ってうかがったのですが」
「何よ、その言い方。私が嘘をついているとでも言いたいのですか?それとも虐待していると言いふらしたいのですか?」
ここまで言われたら学校としても引きさがるしかない。ただでさえ教師バッシングの多い昨今のことだ。「学校が私を虐待親にした」なんて言われるとたまったものではない。
先生はおとなしく引きさがった。
そして、この時、物置では由香がSOSを出していたとは気付かずに。
そう、学校には警察のような強制捜査権なんかないのだ。
そして、次に訪れたのはこの学校の校長であった。
「清水小学校の校長です。お母さんいらっしゃいますか?」
「はい、今出ます」
「あのー、こちらに学齢期の由香さんと言うお子さんがいると思うのですが、その件で参りました。先日はうちの教師の森本が何か失礼なことを言ったようで、どうもすみません。由香さんは御在宅ですか?」
「由香は学校へ行きたくないと言っております。だから遠くの親戚に預けてあります」
「そうですか。では、由香さんが帰ったら学校の方にもご一報下さい。幼稚園からのお友達も心配しております。それから、これが今までに渡されたプリント類です」
「そうですか。わざわざ来て頂いてどうもすみません」
しかし、またこれで終わりであった。学校には強制調査権も何もない。これ以上何もできないというのが現実であった。
由香は、先生が来ていることは分かっていたが、助けを求めたり、大声をだしたりしたら早苗から殴られることが分かっていたので、何も言い出せなかった。
そしてその夜、早苗は由香を物置で正座させてプリント類をやらせた。間違えるとビンタが飛んだ。
「お前はこんな簡単なことも出来ないのか?このキチガイが」 そう言って、食事を抜かれることは度々あった。
早苗は由香が憎かったわけではない。ただ、どうしても手が出てしまうのだ。そして一回手を出すことを覚えてしまうと誰にも制止できなくなってしまうのだ。
勿論、由香を学校へやらせなくてはならないことなんか重々承知している。しかし経済的な余裕がなかったのだ。前夫の母(由香を助けてくれるお婆ちゃん)に手助けを頼むという方法もあったのだが、暴力夫の母とはもう関わりたくなかった。そして学校や児童相談所なんかが来るたびに嘘に嘘を重ねてしまったのだ。そしてもう後には引けなくなってしまい、結果的に十年に及ぶ虐待とネグレクトに及ぶことになってしまったのだ。
そして、一旦憎いと感じ始めるとやることなすこと全てが憎くなってきた。実柚とは共依存の関係が出来てしまっているし、唯はことの全てを理解するにはまだ幼な過ぎた。その上に由香は生活力のない後添えの夫からできた子だ。だから虐待の対象は由香だけに向けられたのだ。早苗は虐待しながら考えていた。
「私もお母さんからいじめられていた。ご飯を抜かれたり棒で叩かれたりした。お母さんが憎い。でも今はなぜかこの由香が憎い。いけないいけねいと思っていても叩いてしまうんや。それに正直言って、うちにはもう一人の子供を学校へやる余裕がないんや。赦しておくれ」
実際に早苗は虐待家庭で育った。母は家に帰ってきてすぐに酒を飲む。そして次第に苛立ってコップを投げたりノートや教科書を破ったりしていたのだった。理由は分からない。ただ目の前にいるだけで「邪魔や」とか言って殴る蹴るの暴力をふるうのだった。
ある時は殴られて頭から出血し、病院へ運ばれたこともあった。その時、早苗の母親は「この子が転んだんです」と医者に嘘を言った。
だから自分だけは絶対に虐待親にはならないと決めていた。だから実柚や唯にはできるだけ優しく接した。
しかし由香が生まれてからは自分も虐待親になってしまったのだ。
考えると自分が母親に言われたことと同じことを由香に言っている。
「お前なんか産まなきゃよかった」と---。
なぜか早苗は由香のことが生理的に好きになれなかったのだ。その理由は判然としないが、虐待が虐待を産むという負の連鎖に陥ってしまっていたのだった。
そして結婚した相手もDV夫だったり、生活力のない夫だったりしたのだ。
そしてある日曜日、家族旅行に出かける日になった。
*
由香は家族旅行には連れて行ってもらえないと思っていたが、予想に反して早苗は他の姉妹と一緒に動物園まで連れて行ってくれた。
しかし、そこでも早苗は度を過ぎた要求を由香にするのであった。 「お前は要らない子なんだから絶対に帽子を取ってはいけないよ。一回でも帽子を脱いだらお母さんがまた抓るからね」
由香は体中痣だらけで、半袖の手からは傷口が見えている。髪の毛も引きちぎられたままだ。そんなところを誰かに視られたくないと早苗は思っていた。だから由香には男子用のキャップのついた帽子を被らせ、夏だというのに長ズボンと長袖の服を着せたのだ。
「とにかくこの子は目立たないようにさせなくては」
そう思ってのことであった。
こうして家族四人は動物園に行くことになった。
娘は二人だけだと思っていた近所の人が、三人いるので訝しく思ったが、何も尋ねられることはなかった。
早苗達は電車を乗り継ぎ、動物園に到着した。
二人の姉と母が降りて来る。
二人の姉は母親にくっついて離れようとしなかった。そして、その後ろを由香が歩いた。
突然、由香が帽子を脱いだ。それを早苗は振り向いた時に見てしまった。
「このきちがいが!誰が帽子を脱いでいいと言った?」
そう言って耳を思いっきり引っ張られた。
二人の姉も見て見ぬふりを決め込んでいた。
由香には全く理解が不可能であった。なぜ二人の姉とこんなにも待遇が違うのか---。
由香は動物園に入ってもずっと下を向いたままであった。男子用の野球帽を被せられていたのは髪の毛が引きちぎられていることを隠すためであった。
昼食の時間になった。
動物園内の食堂のテーブルに家族四人が席をかける。
注文の料理が届いたので姉たちと由香は割り箸を割って食事にありつこうとした。ピザと飲み物が四人分用意されていた。由香もピザを一切れ口に入れた。
その途端に早苗が言った。
「おい、このきちがい、誰が飯食っていいと言った?お前は見てるだけでいい」
仕方なく、由香は空腹を我慢して三人が楽しそうに食事をするのをじっと眺める他に仕方がなかった。
この状況になっても二人の姉は黙ったままだった。この母に逆らったら今度は自分達がこのような目に遭うのだ。もしかしたら殺されるかも知れない。そう思うと二人の姉は恐怖のあまり由香にまで気を使うことができなかった。二人から見ても早苗は「鬼婆」だったのだ。そこで、食事が終わると実柚が言った。
「母さん、パンダ見に行ってもいい?」
「そうやねえ。せっかく来たんや。見に行くか」
こうして家族の四人はパンダの檻まで歩くことになった。
しかし由香だけは、二人の姉に遅れてついていって、また決して帽子を脱ぐことが許されなかった。
パンダの檻の前で二人の姉が騒いでいる。その様子を早苗は黙って見ていたが、由香だけはじっとうつむいたままだった。もしも顔を上げたりすれば、即早苗のビンタが飛んでくることは疑いなしだったからだ。
こうして、由香にとっては何の楽しさもない家族旅行は終わった。
そして、本当ならば由香が小学校3年生になっているはずの時に、由香を可愛がってくれたお婆ちゃんに異変が起こった。
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