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ネグレクト
ある日のことである。母の早苗が喪服を着て出ようとしていた。二人の姉も黒いタイツを履いていた。
「何しよるの、二人とも、早くしなさい」母が実柚と唯の手を引いてそう言っていた。母の顔は悲しんでいるようには見えなかった。そう、早苗にとっては憎き姑がいなくなってくれたのだ。また、由香の件も外へ漏れる心配がなくなった。そんな安堵の表情であった。
由香には何が起こったのか大体の見当がついていたが、敢えて早苗にうかがってみた。
「誰か亡くなったの?」
「ああ、ババアがくたばったんや。もうお前を見てくれる奴は一人もいないからね。今から葬式に行く。お前はここで留守番や。逃げようとしたりするとひどいことになるからね」
そう。あのお婆さんが亡くなったのだ。由香は葬儀にも出してもらえなかった。
三人が出かけてしまった家で由香は大泣きに泣いた。
「おばあちゃん、おばあちゃん、なんで死んだの?由香を助けて!助けてよ、おばあちゃん!」
しかし、その声は家族にも近所にも、そして天国のおばあちゃんにも届かなかった。
由香は完全に絶望の淵に立たされていた。かすかな希望の明かりが消え、学校へ行くという望みも完全に潰えてしまったのだ。唯一由香に優しくしてくれたおばあちゃん、その優しい声だけが脳裏を駆け巡った。あのおばあちゃんはもういないんだ。
そして、家族が留守中に初めてリストカットをやった。
血がじんわりと滲みだしてきた。なぜか痛さは感じなかった。早苗から叩かれる時は本当に痛かったが、これからおばあちゃんのところへ行けると思ってリストカットをやったのだ。悲しみが痛さなんかをはるかに凌駕していたからだ。
「これで死ねるんや。もうお母さんから虐められることもないんや。それに、お婆ちゃんの所へも行ける」
由香の心は安堵感でいっぱいであった。
しかし、夕方に早苗が帰って来てから由香は地獄を見ることになる。
夕方、家族が帰ってきた。由香はリストカットをしたままいつもの物置で寝てしまった。
それを見つけたのは早苗であった。
「大変や、由香、お前一体何するんや」
しかし由香が死んではいないことを確かめると、早苗は言った。
「このキチガイが。死ぬのなら遠くへ行って死んでくれ。私が殺したと思われるやないか」
そう言って物差しで何度も頭と言わず顔と言わず叩かれた。
由香には死ぬことさえ許されなかったのだ。そして、早苗の虐待はその日から一層激しさを増していった。
早苗は完全に昼夜が逆転し、朝の四時頃に寝るのだが、その前に由香を起こして廊下の雑巾がけを毎日やらせるようになった。
「お前はただ飯食わしてもらってるんや。仕事せえ」
そして、廊下に少しでもゴミが残っていると容赦なくひっぱたかれた。
由香は既に小学校へ行っていたら3年生になっている年頃であった。
学校の教師の訪問もあったが、例によって早苗に追い返された。
そして、この頃に教育委員会から児童相談所を通して出席を促す督促状が送られてきた。
「木下早苗様
木下由香さんの保護者の方と連絡がとりたく思います。木下由香さんは小学校を長期欠席されております。児童相談所が出て行く状況ではないと思われますが、何卒学校へ顔を出して頂けるように保護者の方からも説得をお願いします。
○○市教育委員会 」
しかし、早苗はそれを完全に黙殺した。
由香には夏休みの楽しい思い出も、家族旅行の写真も何もなかった。普通の家庭にはあるはずの家族団欒さえなかった。
この当たり前のことが母早苗の手によって完全に奪われてしまっていたのだ。
(四)
やがて由香は小学校高学年の年齢になった。既に姉の実柚は就職し、唯は高校生になっていた。
由香は勉強が遅れていたので、母親の早苗は余計に「この子は頭が弱い」と決めつけてかかっていた。
しかし、二人の姉の教科書などを使って、物置で漢字の書き取りや算数などはやっていた。
また、学校は民生委員や近所の人達に由香の所在を聞いていた。
「清水小学校の校長ですが、お隣の木下さんには由香さんというお子さんがいるはずなんですが、所在がつかめません。ご存じないでしょうか?」
ご近所の住民は訝しそうに校長を見る。
「ああ、由香ちゃんですね。何か幼稚園には通っていたそうですが、今は何か遠い親戚のお家から学校へ行っているとか聞いております。それか不登校なんですか?とにかく人様の家のことは私には分かりません」
質問を受けた近所の母親は本当に知らないのであった。まさかご近所で虐待とネグレクトが起こっているなんて思ってもいなかったのだ。
そして、この頃より由香の自傷行為の回数が増えていった。手首を切れば死ねるし、大好きなお婆さんの所へ行けると思ったのと、自分が何度も「いらない子」と呼ばれていたので、本当にいらないと思ってのことであった。
母親の早苗は、毎晩安定剤を酒と一緒に飲んで寝ていたが、相変わらず昼夜逆転の生活を送っていた。
そして、母親の依存する相手が次第に長女の実柚から次女の唯に代わっていった。
炊事や洗濯は全て唯がやった。
そして、この頃から学校の先生が訪問する回数も徐々に減っていった。由香は完全に「忘れ去られた子」になってしまったのだ。
ある日のことである。早苗が目を離している隙に由香が物置を出てアパートのベランダへよじ登った。
「ここから飛び降りたら楽になるだろうな」
そう考えて飛び降りを実行しようとしたが、足がすくんでしまって何もできなかった。
そして、思案しているところへ早苗が帰ってきた。
「お前は何をしてるんや?この間抜けが!」
早苗は由香の髪の毛を引っ張って台所まで連行した。
由香は髪は伸び放題で、洗ってもらったこともなかった。
「お前の汚い髪なんか洗えるか」
そう早苗が言って洗わせなかったからだ。
だから、髪の毛には油がついて簡単に抜け落ちるようになっていた。
その髪の毛を引っ張ったのだからたまらない。
髪の毛がごっそりと抜け落ちてしまった。
「死ぬのならどこか遠い所へ行って死んでおくれ。私が殺したと思われるから。そう言ったじゃないか」
そして早苗は由香に何回もビンタを喰らわせた。
「ごめんなさい。もうしません」
由香は涙が枯れるほど泣いて謝った。
そして、こういったことがあると決まって三日間くらいは飯抜きになるのだった。
死ぬことさえ早苗によって禁止されていたのだ。
(五)
やがて由香は中学へ上がる年齢になった。
学校の先生もあまり来なくなってきた。不登校だと思っていたのだ。
来たとしても、せいぜい「学校へおいでと言って下さい」とか言うくらいで、家庭内のことには踏み込めないでいた。
それが由香には悔しくてならなかった。
「中学校では、ほとんどの先生が来てくれなくなった」
そう考えるようになった。
そして、この頃には学校、教育委員会、児童相談所、民生委員で協議がもたれた。
「浜中学の一年生になる木下由香さんの件ですけど、小学校低学年以来ずっと不登校が続いています。どうしましょうか?」
「親御さんは何て言っているのですか?」
「何か頭が弱いので学校へ行きたくないと言って、親戚に預けているそうです」
「お母さんによる虐待やネグレクトの可能性はありませんか?」
「あったら訪問した時にお母さんと一緒に出てくると思いますがねえ。それからどこからもSOSは出てません。ご近所の方も姿を見ないそうです」
「それでは虐待の可能性は低いと考えてよろしいですね」
「低いと思います」
「では児童相談所は関係ないとして特別支援学校なんかへは行かないのでしょうか?」
「今、現住所にはいないということなので、難しいでしょう」
「わかりました。ではこの件はこれまでにします」
母親が一緒にいるので「虐待の可能性は少ない」という結論が出、由香は「学校へ来ない子」とされてしまった。
相変わらず暗い物置の中に閉じ込められ、安定剤と酒浸りの早苗の監視下に置かれているのだった。
早苗がいない間に児童相談所が尋ねて来たこともあったが、声を立てると殺されると思い、声を出さなかったので、「やはり親戚に預けてあるのかな」と思われ、引き返されたのだ。
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