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電車の扉が開く。
決して少なくはない人の数がそれから出て行き、志織もカツンと軽い音を立ててホームへと降り立った。
職場に近い駅とは違い、少しさびれたそこはもう見慣れた景色だ。降りた電車が出発する音楽も、もう耳が認知しない雑音と化しているのに今日は妙にそれが大きく聞こえ、ここがいつも使っている自宅近くの駅なのだと変に意識した。
再び走り出した電車の風が足を止めていた志織の背中を押す。
長くパーマが掛かった髪が頬を撫で、一度だけ大きく深呼吸。カバンの肩紐を片手で握り締め、歩き出した。
慣れた手つきで改札口にカードをタッチして出る。
小さな駅では右を見ればすぐに出口が見え、途中には弁当屋や総菜屋があり、終わりかけの割引を手にするサラリーマンたちがいるそれもいつもの景色なのに、なんとなく今日はそれが新鮮に見えた。
夜風が頬を撫でる。
駅なのか電車なのか分からないが、独特な鉄のような匂いと夜のコンクリートや地面の濡れた匂いが混じり、胸を満たす。
それほどお酒を呑んでいないから口から吐く息にアルコール臭は感じられない。
志織はいつもの自分の歩く道を見つめながら数回呼吸を繰り返し、それからやっとカバンからスマホを取り出した。
別にここは治安が悪いわけではない。それでもこの時間にこんな場所で一人立っていたら変な輩に絡まれることもある。だからさっさと歩き出せばいいのに、それでも志織の足は進まなかった。
――――待ってるから。
見つめる暗い画面には何も映っていない。それなのに声だけが響く。
悪い男だけれど、悪い奴ではない。前にそう判断しているし、こうやって電話をすることも許している。
『俺らの繋がりは電話だろ?』とあの男が言った通り、自分たちの繋がりは電話のみ。直接会うという気は志織にはサラサラなかった。
ただ、電話だけなら良いかと思ったのだ。
だが今こうして画面を睨んだまま掛けられないのはなぜか。
(あんなこと言わなきゃよかった)
ムスッとした表情なのは自分でも分かっている。それが子供っぽいことも。それでもこんな顔になってしまうのだから仕方がないだろう。
もうこのまま掛けないで帰ってしまおうか。そして熱いシャワーでもサッと浴びて寝てしまえばいい。
それでも。
――――気ぃ使ったりすんなよ。逃げるのはいいけど、俺のこと気遣うのはナシな。
これではまるで逃げたようではないか。
普通ならそう勘違いされようがどうでもいいのに、どうしてあの男のことになるとこうも腹立たしくなるのだろう。
親友を騙したということもあるから、妙に敏感になっている節はあるのだろうけれど。
「あーもーっ、私らしくない!」
志織は持っている手の親指で先ほど掛って来た電話の画面を開き、そこの一番上――東雲祐悟(しののめ ゆうご)と書かれているそれをタップし、耳に当てた。
一回目のコールが鳴ると同時に止まっていた足を踏み出す。
プルルル、と軽い音のコール音は二回目から三回目になる前に途切れる。そして『もしもし?』と柔らかい声が聞こえた。
『お疲れさん。いま帰り?』
「…………」
そうだけど、だったらなによ。
心の中でそう文句を言う。音にならないそれの代わりとでも言うように、カツンとヒールの音が響いた。
『思ったより早く切り上げたんだな。あ、もしかして宇津保の奴が迎えに来たとか?』
笑う声は少しバカにしたようなものなのに、最初の頃よりはどこか優しい。こちらのことを気遣ってのことなのだろうか。そんな気遣い不要だし迷惑だ。そんなそこらの女のように扱って欲しくない。
『まぁあいつも心配性だからな。天宮ちゃんはそれに呆れたり嫌がったりしねーのかな。あー、でも彼女は宇津保兼うつぼさんが大好きだからそんなことないか』
「…………」
ひとりでペラペラ喋り続けているけれど、こちらが聞いていると本当に思っているのか。
繋がっているのか不安になったり、もしもしとか、確認をしたりするものだろう。それとも案外どちらでもよかったりするのだろうか。
電灯に照らされた道を歩く。
この時間だ。世界は暗闇に包まれているけれど、作り物の光が道を示してくれる。
やっぱり電話を繋げていてもいいなんて言うんじゃなかった。
スマホを持つ方とは逆の方の手を強く握りしめ、唇を噛みしめる。冷静になって考えればなんて恥ずかしいことを言ったのだろうと後悔の嵐だ。
もう電話を切ってしまおうと耳を離そうとすれば、『あのさ』と声を掛けられ、離す寸前だったスマホを無意識に戻し耳に押し当て「なに」と返してしまった。
しまったと思ってももう遅い。東雲は『うん』と頷いて話を続けた。
『道、大丈夫? 暗くねぇの?』
「……聞きたかったのはそれなわけ?」
返してしまった以上また無視しづらく、呆れながら返せば彼はどこか苦笑しながら返す。
『いや、まぁ、違うけど』
「なによ。何が言いたいのよ」
赤色の信号機で足を止める。
車の通りは、ほぼない。いつもなら行儀悪く適当に渡ってしまうのだが、今日はちゃんと止まって待つ。
『いや、その、呼び方のことなんだけど』
「…………」
その話題にまた自分の表情が歪んだことが分かった。
「ねぇ、やっぱり切っていい?」
『あー、だよなー。そう来るよなぁ』
苦笑しながら言うセリフだろうに、どこか楽しそうな声音だ。それに志織は表情を歪めたまま首を傾げた。
「なによ。何が面白いのよ」
『んー? 電話を許してくれたから名前の呼び方も許してくれるかなーって思ったんだけど、そんな甘くはなさそうだよなって思ってたんだ』
「思ってたなら言わないで」
『でも言ってみないと分からないこともあるだろ?』
それはあの日、『電話だけでもしませんか?』と言ったことを言っているのだろうか。
確かにああやって言われなければもうこの男との縁は切れていたし、自分から切っていただろう。
言ってみることに価値はある。それは認めよう。だからといえど、全てが勝ち戦というわけではない。
「私は関係を変えるつもりなんてないから。野上志織っていう呼び方で固定だから」
『じゃあ逆に考えてみろよ。関係を変えるつもりがないなら呼び方なんてどうでもいいだろ?』
「……どうでもいいなら野上志織でもいいじゃない」
『どうでもいいなら野上さんでもいいんじゃねぇの?』
「…………」
信号が青になる。だが志織はそれに気付かず止まったままだ。
「なによ。フルネームじゃ問題があるわけ?」
『じゃあ逆に聞くけど、フルネームじゃないと問題が起こるわけ?』
「質問に質問を返さないで」
『フルネームじゃなかったら関係が変わるかもしれないって不安なんだ?』
少し意地悪な声に志織は間髪入れず「そんなわけないでしょっ!」と噛みついた。
「ただっ……私は、ちゃん付けとか、嫌いなだけで……」
『なんで?』
「……あんたに教える義理はない」
過去の話だ。それにもう清算されたもので、わざわざ愚痴るものでもない。
ならば〝ちゃん〟でもいいんじゃないかと思わなくもないけれど、そんなフレンドリーみたいな、そんな関係になる気はサラサラない。というか、この男にそう呼ばれるのは単純に気持ちが悪い。鳥肌が立つ。似合わない。
『じゃあ呼び捨てじゃダメ?』
「は?」
我ながら殺気立った声だっただろうに、東雲は特に気にした様子もなく続けた。
『苗字でも名前でもどっちでもいいからさ。あ、呼び捨ても嫌い?』
「いや、嫌いとか、そういう問題じゃなくて」
やばい。ダメ。これは完全にこの男のペースになっている。
志織は青信号が点滅していることに気が付いて、慌てて走った。
ヒールがカツカツ音が響く。だが焦っていたせいもあり、ヒールの着地がうまくいかず、足首を捻りそうになり「きゃっ」と短く声を上げれば、『志織っ!?』と声が響いた。
『おいっ、どうしたっ、何かあったか!?』
「ん、ううん。大丈夫。ちょっとつまづいただけだから」
『本当か? 脅されてたりとかしてないか? お前、そういうところまで意地張りそうだからさぁ』
「小説家は想像だけじゃなくて、喧嘩を売るのもお上手ね……っ」
声を低くして言えば『いや、マジな話さ』と溜息をつきながら東雲が言う。
『本当に大丈夫?』
「……大丈夫」
本当に心配している声音に、志織は小さく返す。
「ちょっと走ったの。そしたらヒールの着地失敗して転びそうになっただけ。でも捻ったりとかしてないから」
心配させたのならちゃんと返すべきだろうと状況を説明すると、東雲は『そっか』と安堵の声に変わった。
『大丈夫ならそれでいいわ』
「そんなに心配しなくても私は弱くないわよ」
『知ってる。でも心配くらいしてもいいだろ』
東雲のその声は優しい。
いつも親友に淹れてあげるココアみたいに少しトロリとした甘いような、そんな声。
(普通の女ならこれにイチコロなんだろうなぁ)
志織はどこか冷静な部分でそう思い、自分はそんなことはないと改めてまだ男が嫌いなことを確信する――と同時に、どこかでこの男に落とされてきた女に苛立ちを感じる自分もいることに気付きつつも、そちらは見て見ぬふりをした。
「心配しなくて結構です。そしたらそろそろ切るわよ」
『ちょっ、ちゃんと家に着いたのかよ?』
「あーうんうん。着いた着いた」
適当に返しつつも実際にもう目の前にマンションが見えている。
もう電話をしなくても問題ないだろう――いや、これだけ明るい通りなのだ。元々電話する必要なんてなかった。
『おまっ……まぁいいか。電話掛けてきてくれただけでも一歩前進したわけだしな』
その最後の一言にまたカチンと来る志織は、マンションに視線を向けたまま「はい?」と冷たい笑顔を浮かべた。
「どういうことですかねー?」
『前なら絶対に電話して来なかっただろ』
「あんたが電話の前で番犬みたいにしてたら可哀想だと思っただけです」
『気遣うのはナシって俺、言ったよな?』
「……そうだけど」
どうしてこうも優位に立たれてしまうのだろうか。
なんとか自分のペースに持って行きたい。
(どうしよう、どうしたらいいの。そもそもどうしてこんなことになってるのよ)
もしかして少しは酔っぱらっているのかもしれない。だからこんなに振り回されてしまうのか。
志織はマンションの敷地内に入る一歩前で止まり、叫び出したかった気持ちを何とか抑え、冷静を努めて言った。
「べ、別に気遣ってないわよ。逃げたと思われるのが嫌だっただけ。だって仕方がないじゃない。自分で言ったことだもの。電話つなげててもいいかなって」
一息で言って、志織は一瞬だけ呼吸の間を置いて、呟くように続ける。
「自分の言った言葉に責任を持つのは当たり前でしょう? 悪かったわね、私らしくなかったわ。電話を掛けるとか私じゃないわよね」
ペラペラと話しながら自分がもう電話をしないという方向へ持って行っていることに気が付くも、口は止まらない。
でももうそれでもいい。
確かに自分は今後も電話をしていいとは答えたけれど、こんなに振り回されるつもりなんてなかったのだから。
「もう電話しないわ。そっちももう電話して来なくていいから」
なんて冷たい言葉だろう。心配してくれた相手に言うものではない。声音だって言葉同様に氷のようなそれで、志織はなぜか自分の身体が震えていることに気が付いた。
(あー、もうぐちゃぐちゃ)
別にこういうことを言いたくて電話をしたわけではないのに。きっともう向こうだって呆れただろう。これがきっと本当に最後の電話になるに違いない。こんなつもりでは本当になかったのに。
ただ、親友と呑んでいることを心配して掛けてくれた電話がきっと自分はほんの少し嬉しくて、お酒が入っていて気分が良かったから、また後で繋げてもいいかと思ってしまっただけ。
内容だって考えていなかった。掛けようか掛けないか本当に悩んだ。それでも掛けたのは――
『志織』
「っ――――」
呼ばれた名前にいつの間にか俯いていた顔を上げる。
そういえばさっきも呼ばれていたけれど、全然気にしていなかった。
『そんなこと言っても俺は別に志織のこと、嫌いになってやんねぇよ?』
「――――っ」
喉が引き攣る。でも涙は溢れない。そこまで弱い〝女の子〟じゃない。
「……どっちでもいいわよ、そんなこと」
出来るだけ適当に返したつもりだけれど、きっと向こうは気付いている。それを証拠に彼はこう返してきた。
『俺は嬉しかった。志織が電話してくれて』
「…………」
『嬉しいよ』
なんで、そんなことを言うのか。
(こんなこと言ってもらえるようなこと、あんたにしてないし、言ってないのに)
無言になってしまった志織に、東雲は小さく笑って別のことを聞いてきた。
『天宮ちゃんと呑んだの、楽しかった?』
「……うん」
それにありがたく乗って小さく頷く。
『良かった。家には着きそう?』
「もう、敷地に入る」
『じゃあ玄関まで。天宮ちゃんとなに話したか教えて』
「……ねぇ」
一歩踏み込んで、敷地内へ。足はゆっくりと進み、いつもの歩調より遅い。
聞こうか悩ましいけれど、聞かずにはいられなかった。
「どうして、怒らないの?」
カツンとヒール独特の高い足音が響く。
それとは比べものにならないほど柔らかい声音が返ってくるのが志織には不思議でたまらなかった。
『なんか怒らせること言った?』
「……言ったじゃない」
沢山たくさん言った。冷たいことを言った。自分でも自覚している。
けれど東雲はまた小さく笑って『まぁ言ったな』と言う。
『でもさ、志織がそういう人間だって知っているし、本当はそう思っていて、そう思っていないことも知ってるから』
「どういう意味よ」
『作家は心理描写を書くためには人の気持ちも〝想像〟しないといけないものなんデス』
どこかふざけたような言い方に、普通ならここで私のことを想像であっても理解していると言いたいわけ? と噛みつくところだが、志織は口を開いたまま言葉が出てこなかった。
(本当になんなのよ、この男)
女の扱いが上手いという言葉で片付けるのとは少し違うような感じがして、それでもきっと目の前でそう言われたらムカついてカバンで殴っていただろう。
(変なの)
矛盾している。
自分も、彼も。
けれど、東雲祐悟がどういう人間かと考えた時、自分も矛盾した考えを持っているのだから結局どっちもどっちだ。
志織は小さく笑って、いつものペースで歩き始めた。
「それは大変ね。私は売れっ子作家様のように人の気持ちを理解するなんて到底無理だわ」
『まっ、そう言いながら俺も本当に理解している人間なんて一人もいねぇけどさ』
「そこは売れっ子作家の方を否定しなさいよ」
『え、だって売れっ子作家なのは本当のことだし』
「まぁそこは否定しないわ」
クスリと笑いながら着いたマンションのエントランスに入り、自動ドアをくぐって鍵を差し込んだ。玄関までと言っていたから着いたという報告はしない。
「……ねぇ」
『ん?』
志織はどこかスッキリしたような気持ちで言った。
「私はあんたの呼び方、変えないわよ」
『……お前、俺のこと呼んだことあったっけ?』
「さぁ、どうだったかしら」
軽くもう片方の手で髪を後ろへ流す。
「でも今後もフルネームなのは変わらない」
『…………』
無言が返事をする。
想像力が長けているのならば何が言いたいのか分かるだろう。
エレベーターで階を押す。部屋の高さに着くまで無言が続いた。
『ま、いいよ』
東雲の苦笑する声が耳に響く。
『色気ねぇけど』
「色気なんて必要ないから」
スパンといつものように一刀両断して、取り出したままの鍵を部屋のドアに差し込んだ。
上下に鍵のあるそれは面倒だけれどセキュリティを考えればこちらの方が安全だ。
けれど今日の安全は鍵だけではなかった。
「ねぇ東雲祐悟」
『なんですかー』
ふざけたような声音なのは、きっと本当は不満だからだろう。それでも許してくれるのは優しい人だから。
その優しさは嫌いじゃないけれど、志織からしたら彼の不満くらい嫌いだから。
「帰り道、ありがとうね」
そう一言伝えて、ブツンと通話を切った。
ドアを開けて部屋に入ればいつもの自分の空間だ。
ほんの少し香るアロマオイル。それがいつもよりいい匂いに感じるのに、何の香りだったか思い出せないでいる。
「ほんと、私らしくないわね」
小さく呟いて笑う。
彼にお礼を言うのは二度目。気持ちは同じくらいな筈なのに、あの日とは全然違うことに気付いていながら、それに気付かない振りをする。
だって仕方がないでしょう? 私はあの売れっ子作家様とは違うのだから。
「あーもー、ただいま!」
そう言った志織の顔は、誰も見たことがないくらい真っ赤に染まっていた。
お迎え恋愛
― 野上志織 ―
(電話の向こう側。卑怯だろという声を彼女は知らない)
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