氷点の水底が揺らぐ

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 中堂はカレンダーアプリの画面をじっと見つめていた。自分でつけた赤い丸印。それの意味を知っているのは、自分と小田桐だけだ。  小田桐が自分の生活の一部になってしまった。その事実をどう扱って良いかわからずに、持て余している。小田桐がそれを受け入れていることも。  自分がどう感じているのか、それすらも、中堂は判じかねている。この感情に名前がつけられない。何も感じていないわけではない。ひどくもどかしい。ただ、その感情を遠くに押しやって、近くで見ないようにしているのは間違いなく中堂の意思だった。じっくり眺めて、もしそれが……。  いや、考えるのは止そう。 (就活の予定は自分だけのカレンダーに入れましょうかね……)  小田桐の前でははぐらかしたが、その内就職活動も始めなくてはならない。面接だの、履歴書の締切りだの、そう言うものを入れておくのには便利そうだ。 「あ、そう言えば」  不意に、風呂から戻ってきた小田桐が声を掛けた。代わり映えのしないグレーのスウェット。色違いが黒という個性のなさだ。 「どうしました?」 「先輩にちょっと食事にも誘われてて、ご飯要らないときってどうしたら良いですかね?」 「連絡くれれば良いですよ」  連絡先は交換してある。 「休みの前の日は、早く帰るようにします」 「一番誘われるじゃないですか。良いですよ。休みの日に相手してくれれば」  中堂は取り繕うように、ベッドで見せる笑みを浮かべる。この顔をしていれば小田桐は黙ると思っているし、実際にそうだ。 「気になるなら、帰ってきてからでも良いんですよ。君、睡眠足りないと困るから、そこまで遅くならないでしょう?」 「まあ、そうですね……皆俺の睡眠時間知ってますから……」 「良い職場じゃないですか。私の事を明かしても、理解してもらえるのではありませんか?」 「……」  冗談のつもりで言ったのだが、小田桐は腕を組んで検討を始めた。中堂は息を吐き、 「冗談ですよ。検討しないでください」 「五月女さんは間違いなく『ふーん』で済ませてくれるし、百瀬さんも『へー! そうなんだ!』で終わると思うし……」  百瀬って看護師とカレンダー共有してる薬剤師か。男か女かは知らないが、その人も案外訳ありなのではないか。 「薬局長も『感染防御はちゃんとしなさい』で済ませてくれそう」 「君の職場の倫理感どうなってるんですか?」 「別に俺も中堂さんも既婚者じゃないし……あ」  小田桐が何に「あ」と言ったのか、中堂は一瞬理解が及ばなかったが、すぐに追いついた。  この前まで既婚者に身体を求められていた男。この家にもその延長で住んでいるのだ。 「……忘れてたのに……」 「す、すみません……」  小田桐が「既婚者じゃない」と言ったことに怒っているのではない。「あ」などと、余計な引っかかるような事を言うから怒っている。 「君は、私が倫理にもとることをしていたと言いたいわけですね」  実際、その通りなのだが、小田桐に言われると何故か無性に腹が立った。ぶん殴りたくなる。しかし中堂の方がやや体格が良いので、グーでぶん殴った日には小田桐の顔のどこかしらの骨が折れるだろうし、下手したら救急、警察沙汰だ。  お前は道を外したことをしていたと、改めて小田桐から糾弾されているような気がして、気分が悪かった。  さっきから、不安だとか不快だとか、そう言う感情ばっかり意識してしまっていて、それがますます中堂の機嫌を損ねている。 「いや、あの、その」 「……お風呂もらいます」 「あっ、はい……」  しょんぼりしている小田桐に背中を向けて、中堂は洗面所に向かった。  数日後。  スマホが震えるので、何事かと覗き込むと、小田桐からメッセージが来ていた。珍しい。何かあったのか。 『今日は先輩と食べて帰ります! あんまり遅くはならないつもりです』 「ええ……そんなぁ……」  言葉では理解していたつもりだったが、いざ小田桐が「今日食べて帰ります」と連絡を寄越してくると、2人分用意した食事の前で固まってしまった。その時連絡をくれれば良い、と言っていたのは自分だが、実際に「その時」が来るとこんなに狼狽えてしまうものなのか。 「……まあ、良いですけど……これ全部お弁当に入れれば良いですから……」  ラップを掛けて置いておく。弁当箱は小田桐が持っているはずだから、帰ってきたら自分で詰めてもらおう。  なんとなく、小田桐が帰って来てから、弁当箱を受け取って詰める気にはとてもなれなかった。残った皿の洗い物は明日でも良い。  何時頃帰ってくるんだろう。明日仕事だから、そんなに遅くにはならない筈だが……味噌汁を鍋に戻しながら、中堂は溜息を吐いた。 (ああ、良くない、こんなことでは……小田桐くんがいなくなったときにどうなるんだ……)  やっぱり、こういう関係は良くないと思うので実家に帰ります。あるいは、自分でアパートを借ります。そう言われたら、自分はどんな顔をするんだろう。  嫌なことがあると、悪い方ばかりに想像が寄る。女の恋人ができる可能性だってあるんだから。  その想像に至ったとき、中堂の心臓は少し跳ねた。  女の恋人。 (別に俺も中堂さんも既婚者じゃないし)  あの口ぶりからすると、小田桐は相手のある人間が、別に身体だけの関係を持つというのを倫理的に嫌がりそうだ。 (考えるのよそう)  首を横に振る。  今日は早く寝た方が良さそうだ。  いつもは早めに寝る小田桐を先に風呂に入れていたが、今日は久しぶりの一番風呂だ。沸かし立てのお湯に浸かる。ああ、誰も入っていないお湯ってこんな感じだったっけ。 (休みの前の日はお風呂先に入らせてもらおうかな)  つい、平日の癖で小田桐には「早くお風呂行ってください」と言ってしまうのだが、たまには自分が入っても良いか。 (ていうか、別に2人分の洗い物なんて大した事ないからやってもらっても良いんだよな……)  そもそも、小田桐がやるというのを中堂が断っているのが今の状態である。 (やってもらおうかな……)  そんなことをぼんやりと考えていると、ドアの向こうで物音がした。物思いから引き戻される。一瞬、誰がいるのかわからなくて、恐怖に近い感覚に襲われる。ドアが叩かれた。 「帰りましたー」  小田桐の声だ。さっきまで彼の事を考えていたくせに、彼が帰って来ることが、すっかり頭から抜けていた。 「中堂さん?」  返事がないことを不審に思ったのか、ドアが開いた。少し顔の赤い小田桐の顔が湯気の向こうに見える。酒を飲んできたのだろう。それを察して、中堂は少しだけ苛立ちを感じた。 「……お帰りなさい」 「ああ、良かった。溺れてるかと思いました」 「何でですか。それより、寒いから閉めて下さいよ」 「すみません」 「お食事、楽しかったですか?」 「はい」  小田桐はにこりと笑って頷く。 「……それは良かった。夕飯、置いてありますから、良かったらお弁当にどうぞ」 「すみません、急に連絡しちゃって」 「良いんです。どうせお弁当に回せば良いだけの話ですから」  そう、良いんだ。  この生活だって、本来は小田桐が望んだものではないのだから。
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