氷点の水底に落ちる

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 唐突の別れは、予期していなかった分落差が激しい。ここまで自分がショックを感じるとは思っていなかった。  多分、自信があったのだと思う。自分が顔なり身体なりで彼を繋ぎ止めていた自信が。やや彫りの深い顔立ちは幼い頃からもてはやされたものだ。全てが得に繋がったわけではもちろんなかったけれど。  呆然としている内に、1週間があっという間に過ぎてしまった。自分の人生について、どう考えたら良いのかすらもわからなくて、ただ起きて、食事して、寝るだけの生活。そろそろ食べるものがなくなる。ストックしてあった冷凍食品も。 (今日こそ買いに行かないと……)  食材と一緒に、履歴書も。それから、掠れずにきちんと書けるボールペン。 「スーツ……」  仕事を辞めてから袖を通していない。あるとき、虫食いがあるのを見つけて処分してしまった。親戚含めて、一度も葬式がなかったのが奇跡のようなものだ。とは言え、中堂も42歳。親戚は軒並み高齢だ。そして、悪いこととは重なるものである。  考えることと、買う物がたくさんあった。  溜息を吐きながら起き上がると、スマートフォンにメッセージが来ていた。神谷からだ。心臓が跳ね、目眩に似た揺らぎに襲われる。 (一体、何の用で……)  全く検討がつかなかった。あの別れが嘘だとも思えない。期待していないわけではない。だが、神谷に限ってそんな時間の無駄とも言える芝居を打つことはないだろう、と言う確信めいたものが中堂にはあった。  開きたくない。だが、開かないわけにもいかない。恐る恐る画面をタップすると、 『今日の10時に、そこに引っ越してくる人がいるからよろしく頼む』 「……は?」  どう言うことだ……? 『私は出て行くんですか?』  思わず返信をしてしまった。この家は中堂の名義だと言っていたじゃないか。そこから出て行けと? 『いや、別に出て行かなくても良いよ』 『どう言うことですか?』 『時間になればわかるから』  それっきりだった。問いただしたメッセージを送っても、読んでいる気配すら感じない。 「何なんだ一体……」  時計を見る。午前9時30分。もうすぐ来てしまう。慌てて身支度を整えた。少し迷ったが、普段あまり着ないような、綺麗めの服を選ぶ。神谷の関係者なら、あまりいい加減な格好をしているとそれだけで嫌な顔をしそうだ。 (きみは美しいね)  神谷を部屋着で出迎えたのは、一度や二度ではない。でも、その度に彼は笑ってそう言っていた。 (何を着ていても)  当然、こちらの返事は「はい」である。 (どうせ脱がせるんだから、構わないでしょう)  中堂としても、神谷と部屋着で会うのは少しの後ろめたさがあった。だから苦し紛れにそんなことを言ったりもした。こちらの天邪鬼を、向こうもわかっていただろう。だから、あの目尻に深い皺を刻む笑い方をしていた。  そんなことを思い出していると、着替えの手が止まった。それと同時に、その後していたことを思い出して、落ち着かない気持ちになる。当然だが、神谷とすごした時間の大半はベッドだ。 (嫌だな)  来客前にこんな気分になる自分にも嫌気が差した。雑念を払うように首を振って、中堂はシャツに腕を通した。  10時きっかりにインターフォンが鳴った。モニターには、若い男性が映っている。 「はい」 『小田桐と申します。神谷さんのご紹介で伺いました』 「お待ち下さい」  応答してから玄関を開ける。さっきモニターで見た顔がそこにあった。顔はどちらかと言うと整っている方……いや、無個性と言った方が良いか。清潔感はある。背はやはり自分より少し低い。その時、自分が長身の部類に入ることを、中堂は思い出した。182センチ。目の前の彼は178センチ、という所だろうか。短くしてある髪の毛はまっ黒だった。 「こんにちは」 「はい、こんにちは」 「神谷さんは……」 「いません」 「あれ?」  そう言われて、小田桐は表情を変えずに首を傾げた。 「いらっしゃらない?」 「ええ。とにかくあがって下さい。ご説明しますし、私も君から説明してもらいたいので」  ドアを開けて促すと、小田桐はスーツケースを引っ張って上がり込んだ。  神谷の食器を処分する前で良かった。2人分の紅茶を淹れて、中堂は片方を小田桐の前に出す。 「ディーバッグで申し訳ありません」 「お構いなく」  馬鹿め、そんなこと考えてる訳ないだろ。内心で毒づきながら、中堂は自分も紅茶を置いて座った。小田桐はきょろきょろと部屋の中を見回している。神谷がいないのは一目瞭然だ。壁の中から出てくるとでも思っているのか? 「私は、神谷さんからあなたが来ることを、今朝まで聞いていなかったのですよ」  中堂は静かに告げた。それを聞くと、小田桐は少し目を瞠る。 「そ、そうなんですか? それは突然お邪魔して申し訳ありません」 「いえ、構いません。ですので、まずはご説明いただきたいですね。彼からなんと言われてきたのか」  そう言って穏やかな笑みを作ると、小田桐は少し安心した様な顔をした。それはそうだろう。話が通っていると思って行った先で、「聞いていません」と言われたら誰だって不安になると言う物だ。中堂にも経験がある。先方には伝えてあるから、と言われてその通りにしたら、その「先方」から「そんなことは聞いていない」と言われる時のあの苛立ちと不安。 「2週間ほど前のことなんですが」  と、小田桐は話し始めた。彼によるとこうだ。小田桐の仕事は病院薬剤師らしいが、彼の親戚と神谷の間に付き合いがあったらしい。どう言う付き合いかは彼も知らないらしいが、とにかく神谷は小田桐を知っていた。  また、小田桐が勤めている病院はこの近くらしいのだが、二回電車を乗り換えないと辿り着かないところに実家があるらしい。それで、そろそろ病院の近くに引っ越そうか。そんな話を両親ともしており、その話が親戚から神谷に伝わった。 (仲の良い一族だな……)  そんなことを中堂はぼんやりと考えた。 「そしたら、神谷さんが俺に直接メールを下さいまして」 『だったら、その近くに下宿できるところがあるから紹介してあげよう。そうだな、生活用品は揃っているから、君は必要なものと着るものくらいを持って行けば良いよ』  メールにはそのような事が書いてあったらしい。中堂は目眩を起こして額を覆って肘を突いた。その様子を見た小田桐も流石に察したのだろう。 「中堂さんは、それをご存じない?」 「全く存じておりません」  そもそも、ここは中堂の独り暮らし用だ。そこに神谷が寄って、一つのベッドを使っていたわけであって、若い男一人寄越してどう下宿しろと言うのだ。 (私にソファで寝ろと?)  頭が痛くなりそうだ。 「何かの間違いだったんですね」  中堂が何も知らないとなると、小田桐の判断は早かった 「帰ります。お休みの日に申し訳ありませんでした。すみません。親戚が、神谷さんには頭が上がらないから行くだけ行ってくれと言われて」 「そうだと思います」 「神谷さんには俺から連絡しておきます。一応、この住所がこちらで間違いないかだけ確認させて下さい。神谷さんが住所を間違われたのかも」  間違いないのだろう。小田桐はスマホで件のメールを見せてきたが、中堂には確認する余力もなかった。神谷が何を考えているのかがわからなくて、ただこんなことをされたのが無性に悔しくて──。 「はい」  中堂は知らず、涙を流していた。 「中堂さん?」  小田桐がぎょっとしたように立ち上がる。傍に寄って、こちらの顔を覗き込んだ。流石病院薬剤師。様子のおかしい相手への対応が医療職のそれだ。 「どうされたんですか? 大丈夫ですか? お加減でも……」  発想や、掛ける声すら病院勤務を感じさせる。社会から離れて随分経つ自分との差が見えてしまうようで、中堂にはそれも煩わしかった。 「いいえ」  中堂は首を横に振った。何も知らない小田桐を疎ましく思うと同時に、おかしくも思った。 「いいえ、具合はどこも悪くないのですが、ちょっと色々ありまして……申し訳ありません。あの、こんなお願いをするのも厚かましいのですが」 「何でも仰ってください」  小田桐の声は真剣だった。表情の変わりづらい男らしい。中堂は寄り添ってくれている小田桐の肩に頭を預けた。 「寝室まで連れて行ってくださいませんか」 「わかりました。どうぞ」  小田桐は頷くと、中堂の手を取って立たせた。彼に支えられながら、男二人が並ぶには狭い階段を上がって2階に上がる。 「あちらは書斎なのです」 「そうなんですね。お仕事は?」 「今は何も。失業中です」 「そうでしたか」  寝室のドアを開ける。ベッドが一つしかない。それを特段おかしいとも思わないのか、中堂の体調に気を取られているのか、小田桐は中堂をベッドに座らせる。その前に、座り込みこちらを見上げて来た。 「何か飲み物でも買ってきましょうか?」 「いいえ、結構」  中堂は首を横に振ると、相手に見せつけるように微笑んで見せた。 「ねえ、それより君、おかしいと思いませんか?」 「何がですか?」 「この寝室を除いて、他に人が寝られるような部屋はありません」 「……?」 「そして、ベッドはひとつです。彼は君をどこに下宿させるつもりだったんでしょうね?」 「……どう言う意味でしょうか?」  小田桐の顔が疑問にしかめられた。中堂が後ろに倒れ込むと、慌てて上から覗き込んでくる。その腕を、中堂は掴んで引っ張った。 「ちょっと!」 「良いことを教えてあげましょう」  空いた手で小田桐の腰をホールド。中堂の意図を掴み損ねている小田桐は、引き寄せようとする力に抗いつつも、ふりほどかない程度の力で今の姿勢を保っている。 「私ね、神谷さんに捨てられたんですよ」 「捨て……?」  何を言われているのかわからない、という顔だ。 「金持ちが愛人囲ってる、なんて話、まったく聞いたことないわけじゃないでしょ」 「つまり、中堂さんと神谷さんはお付き合いされていた?」 「いいえ。愛人してただけですよ。家ごと捨てられました」  もう一度強く引っ張る。小田桐は今度こそバランスを崩した。自分の上に倒れて来るのを、抱えて横に倒す。そのまま上を取って、鳩が豆鉄砲でも食らったような顔をした小田桐の顔を見下ろした。 「中堂さん……?」 「君に先週から連絡していたと言うことは」  頬を触った。動揺しているのだろう。瞬きの回数が多い。 「君を後釜にするつもりだったのかもしれませんね」 「後釜?」 「若い男は、抱ければ相手の性別は問わない、と思ったのかもしれませんよ。ああ、怒るなら、私ではなく彼に」 「中堂さん!」  これから起こることにようやく想像が及んだのか、小田桐は抵抗の素振りを見せた。中堂はその上に覆い被さって、体重を掛ける。逃がすものか。今、このタイミングで神谷の言うことを聞いたことを、後悔すれば良いのだ。 「ね、小田桐くん」  囁く。 「抱いてくれませんか?」
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