氷点の水底に落ちる

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 中堂が風呂から上がって寝室に行くと、小田桐はスウェットを着てベッドの片側で枕にもたれかかって待っていた。腕を組んで難しい顔をしている。 「どうせ脱ぐんだから着なくて良いのに」  笑って声を掛けると、 「寒いじゃないですか」 「暖房入れましょうよ」  ベッドに上がる。その時生じた揺れが、小田桐の眉間に皺を刻んだ。中堂のバスローブを指して、 「このバスローブって、そう言う目的なんですか?」 「そうですよ」  すぐに脱げるように。だから本当は神谷が使っていたもう一着がある。小田桐が裸で待っていたら面白いな、と思って言わなかったのだが、次回は彼の分も出しておこう。毎回スウェットを脱がせるのは面倒だ。 「はい、小田桐くん、ばんざいして」 「自分で脱ぎますよ」 「じゃあこの紐も引っ張ってください」  バスローブの腰紐を指す。小田桐は怪訝そうな顔をして、 「結ばなければ良いのでは?」 「こういうのが楽しいんですよ。ね? 楽しみましょう?」  唇の端にキスした。顔を覗き込み、 「どう言うことが好きですか?」 「中堂さんの好きにしてください……」  それを聞くと、中堂は一瞬だけきょとんとしてから、けらけらと笑った。 「言っておきますけど、私の欲が特別旺盛なわけではないですからね」 「そうですか……」  今日だけで……もう日付が変わったので昨日か。昨日だけで2回、抱かせたことを思い出して、中堂は告げた。小田桐の方は今にも眠りそうだ。環境が変わった上に、午前と午後で相手をさせられれば疲れもするだろう。しかもその内1回は無理強いだ。おまけに、布団まで買いに行ったのだから。  布団を買いに行った。そのことが無性におかしくて、中堂は笑った。 「なんですか……」  眠たそうな声で、小田桐が言葉を紡ぐ。 「なんでもありませんよ」  半開きになっている唇を塞ぐ。しばらくついばんで弄んでいると、小田桐が弱々しく押し返してきた。 「なかどうさん……今日は……もう……」 「わかってますって。私だってそんな体力ありゃしませんよ。良いですよ、寝てて。私は君の身体が気に入りましたから。君で良かったと思います」 「…う……くない……」  嬉しくない、だろう。中堂も別に喜んで欲しくて言っているわけではない。 「良かったですよ、小田桐くん」 「いやです……」  続きを迫られていると思っているのだろう。中堂も無理だと言っているのに。小田桐がしたければどうぞ、という気分ではあるが、自分から誘う気はない。ただ、本人が言うように、中堂は小田桐の身体を気に入った。行為の相手としてもそうだが、触り心地が良いと思う。彼が早いところ男同士に慣れてくれれば、もう少し楽しめそうだ。どれくらいで慣れてくれるだろうか。慣れたらどう楽しませてくれるだろうか。中堂の期待は、初めて朝顔の観察日記をつける小学生のそれだった。  やがて、小田桐が完全に沈黙した。深い呼吸が等間隔で聞こえる。 「おやすみなさい」  その規則正しい寝息を聞いている内に、中堂の方も眠くなってきた。小田桐の身体を腕に抱いて、中堂も眠った。  翌朝、先に起きたのは小田桐の方だった。中堂を起こさないようにと試行錯誤して腕から抜け出そうとする動きで、中堂も目を覚ました。それに気付いた時の小田桐の顔と言ったら。脱走を試みた子供の顔だ。表情の変化に乏しいが、言いたいことは顔に出る。 「おはようございます」  微笑み掛けると、彼はばつが悪そうに目を逸らした。 「お、おはようございます」 「ふふ」  小田桐の身体を抱き寄せる。戸惑った様に手が浮いた。やがて、おずおずとこちらの背中に腕を回す。中堂は肩を軽く叩くと、 「朝ご飯にしましょう。着替えて降りてらっしゃい」 「はい……」  むにゃむにゃしている小田桐を置いて、スマホを持って下に降りる。その時、画面に通知が来ていることに気付いた。神谷からだ。心臓が跳ねる。一体何の用で? 『彼のことは気に入った?』  たったそれだけのメッセージだった。返事をする気にもなれず、中堂はそのメッセージを削除した。  トーストとコーヒーの朝食だった。後から降りてきた小田桐は、まだぼんやりとしている。 「よく眠れましたか?」 「おかげ様で……」  その言葉に中堂は吹き出す。社交辞令なのだろうが、寝る前にしていたことを考えれば、確かにそれは中堂のおかげなのである。 「ご実家ではどんな朝ご飯を?」 「こんな感じですよ……コーヒーと、トースト……あ、砂糖いらないです」 「そうですか。健康的ですね」  短い髪の毛をぼさぼさにしたまま、小田桐は中堂が出したトーストをかじった。 「人がトースト囓る音、久しぶりに聞きましたね」 「ああ、そうですよね。神谷さんはトースト食べたんですか?」 「ええ、『もっと美味しいパン食べたら?』ってよく言われましたけど」  中堂が買うのは、コンビニでも買える王手メーカーの食パンだ。 「私はこれ好きなので」  と、パッケージを見せると小田桐は目が覚めたような顔をした。 「うちもそれですよ」 「ああ、そうなんですか。じゃあ、君の朝ご飯もこれで良いですね」 「はい」  小田桐はもぐもぐしながらこっくりと頷く。コーヒーを飲んで苦みに顔をしかめる彼の正面に座ると、中堂は両手で頬杖を突いた。 「ねえ、知ってますか?」 「?」  カップに口をつけたまま、小田桐は目だけで疑問を表した。 「食べ物の好みが似てる人って、身体の相性良いらしいですよ」  それを聞くや、相手はむせた。にやにやしてそれを眺める。 「なんですか突然……」 「良いことじゃないですか?」 「そうじゃなくて……!」 「だって、私たちの関係で一番重要なのって、そこじゃないですか」  口の端からこぼれかけたコーヒーを、中堂の親指が拭う。ついたコーヒーを舌で舐め取った。 「ちょっと……」 「これくらいで騒がないでください。それとも、直接舐めて欲しかったとか、そう言うことですか?」  身を乗り出すと、小田桐は手の甲で口元を覆って座り直した。やや顔が赤い。もっと赤くしたいと思う。どんなに常識的なことを言っていたって、仕掛ければ興奮してしまうんだから。その落差を見るのがとても楽しかった。どこまで溺れてくれるだろう。 「いいえ……」 「何回でも言いますけど、私は君の身体が好きですよ」 「そ、それは……」 「喜んでください」  手を取って、微笑み掛ける。神谷の機嫌を取るときの笑顔。 「……」  目を逸らした小田桐の唇を塞ぐ。  コーヒーの香りが鼻に抜けた。
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