氷点の水底で過ごす

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 ものすごい虚無感だった。自分が前提にしていた価値観が、むしろ事実の裏返しであり、そうしていたのは、自分の薄っぺらいプライドであったと認めるのは、あまりにも勇気が必要だった。中堂にそんな勇気はなかった。  そうだったから、当たり散らした翌日、小田桐の帰りが待ち遠しかった。明日は休みだと聞いている。中堂が唯一思い通りにできること。それは小田桐とのセックスだけだったから。 「今日は早く帰って来て下さいね」  朝、出勤する小田桐を送り出すときに告げる。小田桐は釈然としない顔でこっくりと頷いた。 (何をしてもらおうかな……)  君の好きなように抱いて下さいよ。私ばっかり頑張ってるんだから、とでも言ってみようか。どういう風にするのが好きなのか、尋ねても小田桐はあまり答えようとしないし、「中堂さんの好きにしてください」としか言わない。  神谷と関係があったときは、言うまでもなく向こうの好きなようにされていた。プレイの一環として「君の好きなようにしてごらん」と言われることはあっても、そんなの一瞬のことだ。どのみち、中堂の希望は退けられる。その自覚がフラストレーションになりつつあった。 (何してくれるんだろう)  あの小田桐が自発的に中堂を押さえつけるかもしれないと思うと、愉快である一方で、少し落ち着かない気持ちになった。どんな顔して抱いてくれるんだろう。  落ち着かないまま帰りを待つ。妙に長く感じた。 「帰りました」  いつの間にか日は落ちていて、小田桐が帰って来た。いつものように洗面所へ直行する。律儀なことだ。悪戯心が顔を出して、中堂は廊下で待ち伏せる。手洗いとうがいを済ませて、洗面所から戻ってきた小田桐の前に立ちはだかった。彼は少し驚いたように目を瞠り、 「おっと」  驚いて少し後ろに身体を引いた。中堂は微笑んで、 「お帰りなさい」  挨拶一つ済ませて、唇を奪う。  うがいした後の唇は冷たかった。  小田桐くんの好きなようにしてください。そう言ってベッドの上に寝転ぶと、相手は罠でも見るような目でこちらを見た。本気の警戒がそこにあった。 「どう言うことですか……?」 「そのままの意味ですって。好きなように抱いて下さい?」 「好きなようにって、これまでのことで中堂さんの好きなようにってことですか?」 「なんでそんなに疑り深いんですか。そんなテストみたいなことするわけないでしょうが」  中堂は起き上がると、小田桐にずい、と近づいた。同じシャンプーと石けんの匂いがする。首筋に顔を埋めた。 「小田桐くん、最近ちょっとずつ自分でも動いてくれるようになったじゃないですか? それ、百パーセント君の動きになったらどうなるのかなって、いわば興味です」  背中に手を這わせた。小田桐が肩を掴んでそっと離しに掛かる。 「本当に良いんですね?」 「そんなに激しいことをしてくれるんですか?」 「いや、下手かもしれないから……」 「良いですよ。下手だったら言いますから」  告げて、唇を合わせる。今度は小田桐の方もそれに応じた。目を閉じると、小田桐がこちらの胸を押した。   「どうしたんですか?」 「何がですか?」  事が終わって時計を見ると、日付はとうに過ぎていた。小田桐が不審げに声を掛けてくるのを、とぼけてかわそうとする。 「いや、なんか、珍しいなって……中堂さん、絶対主導権握りたいタイプだと思ってたから」 「失礼ですね……」 「だから何かあったのかなって」 「何があるって言うんです?」 「わかりません。なので聞きました」  何も考えていないくせに、わかりませんもへったくれもないだろう。 「考えてないのにわかりませんもないでしょうが」 「いや、昨日からずっと考えててわかんなかったんですよ。今考えたら、それこそ考えてなかった、じゃないですか」 「口の減らない」 「中堂さんがめちゃくちゃなんじゃないですか……」  少し腹が立って、中堂は寝返りを打った。小田桐を睨む。相手は少したじろいだらしい。それはそうだろう。ルームライトの灯りしかない薄暗い部屋で、彫りの深い中堂の顔は陰影がくっきりと浮かび上がって、壮絶ですらあっただろうから。 「その、めちゃくちゃの言うこと聞いてるのはどこの誰ですか?」  微笑んで、にじり寄る。小田桐の目が泳いだ。降参の三秒前。中堂はその上に覆い被さって顔を覗き込んだ。 「え? 言ってご覧なさいよ。私のめちゃくちゃに付き合って、ほら、ねぇ。こんなことになっているのはどこの誰ですか」 「わかりました。俺が悪かったです」  足の間に膝を当てると、小田桐はあっさりと降参した。 「わかればよろしい。ああ、そうだ。話は変わりますが、明日の夕飯、君の豚汁を食べてみたいです。作ってくれませんか?」 「唐突だな。言ってくれれば今日帰りに材料買ったのに」 「今思いついたんです」 「わかりました。作ります」 「嬉しい」  ほっぺたに口づける。 「ね、小田桐くん」 「何ですか?」 「……今日はもう寝ましょうか」 「そうですね……寝ましょう」  時計を見て時間を知ると、小田桐はあくびをした。わかりやすい。本当にこの男は騙されやすいというか流されやすいと言うか。 (君はもうしばらくいてくださいね)  今日はもう寝ましょうにすり替えた、中堂が言いかけたことにすら気付かない。もっとも、気付く由もないのだけれど。  中堂が小田桐の首に腕を回すと、彼は腕を腰に回して抱き寄せた。石けんの匂いは薄れ、男の匂いが混ざっている。  相手の体温を肌で確かめながら、二人は恋人のように眠った。  翌朝、珍しく中堂の方が先に目が覚めた。小田桐はぐっすり寝ている。昨日のことで疲れているのだろうか 「小田桐くん、朝ですよ」  頬をつついたが、反応はない。熟睡している。胸が大きく、ゆっくりと上下していた。少し開いた口の下で、髭が伸びかけている。頬を撫でると、ざらりとした手触りに男を感じてしまう。 「小田桐くん」  少しの熱を込めて囁くが、小田桐は起きない。彼の上を這うように、胸を合わせた。 「んっ! ぐふっ!」  更に身を乗り出そうとしたとき、小田桐の息が詰まってむせた。中堂は咄嗟に上からどく。体重を掛けすぎたらしい。初めてした後、「重い」と言われたことをそこで思い出す。 「……」  そう言えば、神谷には求められるがまま(ということにしたかったので)、自分から身体を寄せるようなことはしなかった。恐らく、彼に同じことをしたら、「重い」と言われたのだろう。仕方ないだろう。185センチだぞ。お前たちのような平均ちょっとの身長とは違うんだから。いや、小田桐も178センチか……あまり重たく感じなかったが……。 (言いにくいですが、重いです)  あの時の言葉がはっきりと思い出され、 「うるせー!」  思わず叫んでしまった。これには流石の小田桐も、ぴくりと身じろぎして目を開ける。 「んっ? あ、中堂さんおはようございます……俺、いびきかいてましたか?」 「おはようございます。いえ、ちょっと過去の君から嫌みを言われただけです」 「は?」  ぽかん、としてこちらを見る小田桐。頭の上に、漫画よろしく疑問符がたくさん浮いているように見えた。 「忘れて下さい。それより、今日は豚汁の材料買いに行くんでしょ」  中堂は首を横に振ると、ベッドの横に落ちていたバスローブを拾った。
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