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 八月も終わりに近づき、厳しかった夏も多少は穏やかなものとなり、時折、秋めいた風が流れてきては俺の火照った身体を優しく撫でる。  住宅街。狭い路地の角を曲がると、そこにだらんと足をたらした赤子を抱く女の背中があった。微動だにしない赤子はまるで死体のようで、あやしもせずに無機的にそれを抱く女は、母親ではなく誘拐犯のように見えた。少し前までのうだるような暑さで、壊れてしまった人のように見えた。  死体。様々な人達が、死者を鏡にして虚無的で捉えどころのない自分を掴み取ろうとしてきたけれど、俺はそんなテキストを見るたびに吐き気がした。今だって俺はこうやって歩いているし、死体を抱く誘拐犯を見て考えをめぐらせている。死人なんかに俺の断片が埋まっているわけはない、俺はここにいるはずなんだ。  蝉が鳴く。一匹二匹とまばらに鳴く。何故だか俺は、何かに責め立てられているような気分になり、息苦しくなって大きく息を吐いた。  身動き一つしない赤子が気になって、まとわりつく蝉の鳴き声を振り払い、早足に女を追い越していった。  通り過ぎる時、ちらりと赤子を覗き見る。  赤子は安らかな寝息を立てて眠っていたし、母親は慈愛の眼差しで、その寝顔を見つめていた。なんてことはない、おかしかったのは夏でもなければ誰でもない、ただひたすらに俺だったんだ。  雑司ヶ谷停留場で、三ノ輪橋方面のチンチン電車に乗る。チンチン電車、正式名称都電荒川線。かつて東京に、数多く存在した路面電車の中で唯一残ったもので、車がせわしなく往来する道路の真ん中を、まるで象のようにゆったりと、堂々と進む。俺は子供の頃から、無性にこの乗り物が好きだった。  チンチン、と軽快なベルを鳴らして、都電は走り出す。  頼りなく垂れ下がった吊革、至る所に設置されている『とまります』と丸ゴシック体で書かれた可愛い停車ボタン、沿線にあるローカル店の広告、ガタコトと大きく揺れる車体、機関部から聞こえる懐かしい電気モーターの重低音……路面に敷かれた錆びたレールの上を頼りなげに、だけど確信を持って進んでいく。  乗るときはいつも一番前か一番後ろで、過ぎ行く街の風景を一人、味わうことにしていた。今日は平日の午後ということもあってか乗客も数える程しかいなかったので、一番前の車窓から街を望んだ。  その流れていく街に俺はいない。都電の緩やかな速度がそう思わせる。  もう記憶にもない、ひっそりとアルバムの片隅に記録として残っているだけの幼年期。エネルギーを持て余し、ネズミ花火みたいに落ち着きなくそこらを走り回っていた小さな俺は、家族の目を盗んで家を出て、庚申塚の駅から都電に飛び乗り何処かへ行こうとしたそうだ。  終点である三ノ輪橋駅付近の交番で保護されて泣きじゃくっていた俺の所に、家族が大慌てで駆けつけて来たらしいのだが、お婆ちゃんだけは一人で俺の家出を面白がって、困り顔のお巡りさんと一緒に記念写真を撮ったらしい。その写真が実家の押入れに残っている。  古茶けた写真には苦笑いを浮かべた警官と、俺と両親、それにお婆ちゃんが写っていた。俺のツラは涙でグシャグシャになっていて、頼りなく母さんとお婆ちゃんの手を握っていた。  俺は、家族を捨てて、何処へ行こうとしたのだろうか?  もう忘れてしまった。  お婆ちゃんも、とっくの昔に死んでしまった。  ガタン、と大きく車体が揺れて、都電が停車した。 「荒川遊園地前、荒川遊園地前……」  年輩の運転手の低いしゃがれた声が車内に響く。くだらない感傷から、意識を目の前の現実に引き戻し、俺は電車を降りていく。  チンチンと音を鳴らし、都電は俺を置いて夕焼けの向こう側へと走り去っていく。足元に、夕日を背に受けた俺の長い影が伸びていた。
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