早く帰ろう、恋人を嫌いになる前に

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早く帰ろう、恋人を嫌いになる前に

買い物カゴを持つ腕に、軽くはない何かの重みが伝わる。視線を下ろすと、見たこともないパッケージが飛び込んできた。 「これなに?」 「えー、知らないの?」 恋人はそう言い残すと、商品棚の陰に姿を消してしまう。 見慣れぬパッケージを手に取り、そこに書かれた文字を読む。「韓国冷麺」と書かれた隣には、恐らく韓国冷麺と書かれているであろうハングル文字が印刷されている。インスタントの麺物にしては、その袋はずっしりと重い。 「いくらするの、これ」 後を追いかけ、なにやら調味料の瓶を手にしゃがみ込んでいる恋人に尋ねる。 「さあ・・・・・・知んない」 瓶のラベルを読むのに夢中なのだろう、心ここにあらずの返事しか返ってこない。ため息を吐きそうになって息を止める。 「こういうの買ってみれば?パスタに和えるだけで美味いってよ」 恋人は緑色の何かが入った瓶を差し出している。 「嫌いだもん、パスタ」 そう言い残し、調味料売場を離れる。背後から、 「そうだっけ?」 恋人の声が遅れて聞こえてくる。 それが妙に大きくて、子どもっぽくて、我慢したはずのため息が、意識するよりも先に出てしまう。 ゴロン、とまた腕に重みを感じる。見ると、さっきの緑色の瓶がカゴの中にあった。 「こんなの買ってどうすんの?」 またもどこかの売り場へ消えようとする恋人の腕を掴んで訊くと、「俺が使うってー」私の手を振り解きながら、恋人はニッと歯を見せた。スキップする後ろ姿を見ながら、またため息が出る。   追いかけて問い詰めたい気分だった。 そうやって買ったものが私の部屋にはどれだけあると思っているの。そうやって使わなかったものがどれだけあると思っているの。あの狭い部屋を、あなたの思いつきで埋め尽くさないで。 「ちょっと」 背後からの声に我に返る。振り向くと、パサついた髪の女が睨みつけるようにこちらを見ていた。通路を塞いでいたことに気付くまでに数秒かかった。 「あ、すみません」 焦って後ずさりすると、通路にはみ出して陳列されていた缶詰のダンボールに足がぶつかった。派手な音を立てて缶詰が床に落ちる。カラフルなパッケージが、ビカビカと光る汚れた床に転がった。ため息よりも先に体が動き、床に膝をついて缶詰を拾い集める。 早く、早く。見つからないうちに。 音を聞いてか、それともたまたまか、やって来た恋人のスニーカーが私の視界に飛び込んでくる。と同時に、頭上から声が降ってきた。 「あーあ、鈍くさ」 声がして、一瞬、視界が白くなる。だけどすぐに色は戻ってくる。 隣には、一緒になって拾ってくれている恋人の姿があった。だけど、私の頬はみるみるうちに赤くなる。顔が燃えているんじゃないかってくらい熱くなって、だから缶詰を拾い終わっても顔を上げることが、立ち上がることができない。しゃがみ込んだままの私に、 「なに?そろそろ帰ろ」 そう言い残し、恋人はさっさとレジに向かった。 カゴに入った冷麺のパックと緑色の瓶を見つめる。 今晩、恋人はこの冷麺を食べるのだろうか。私が作ることになるんだろうか。冷麺なんて作ったことがない。レトルトだって言っても、やったことがないから上手くできるかわからない。この緑色の調味料。これでパスタを作って欲しいと言われるんだろうか。きっと上手くできない。自信がない。失敗する。どうしよう、がっかりされる。どうしよう。 「なんも心配ないよ」 声がして、顔を上げる。 嘘みたいに頭の中が空っぽになっている。さっきまで自分を支配していた大きな不安が全て、消えている。良い夢を見て目が覚めたときのような、幸福な気分に包まれている。  だけどそこには誰もいない。声の主の姿はない。 体がスポンジになったみたい。じゅわじゅわと悲しみが染み出して、泣いてしまいそう。 いないのだ、ここには。そんな当たり前のことを、なぜか今、思い出してしまったから。 私はもう大人だ。自分の、嬉しいや悲しいと上手く付き合わなくちゃいけない。明日も仕事だ。こんなところでダラダラと買い物をしていないで、早く帰って早く寝なくちゃいけない。 何も変わっていない気がしても、確かに何かは変わっている。毎日毎日、少しずつ、昨日よりも先月よりも去年よりも、あの頃よりも、年を取っている。うんと遠いと思っていた三十歳に手が届きかけている。こんなところで泣いてはいけないし、こんなことで傷ついていてはいけない。 鮮魚コーナーの商品に割引シールを貼る店員の後ろ姿が、景色みたいにしてそこにある。古いCDプレーヤーから流れる音が、時間に見合わない音量で客を呼び込んでいる。魚の名前を連呼する明るい女性の歌声。明るすぎて疲れてしまう歌声。あれはずっと鳴っていたんだろうか。全然、気がつかなかった。 さっきの声が、夢から覚めたときのような気分が、もう一度戻ってくるように意識を集中させてみる。 ここにはいないとわかっていること、自分を大人だと言い聞かせること。 それとは矛盾するのに、願ってしまう。また声が聞きたい。心配ないと言って欲しい、あの声で。 だけど聞こえない。CDプレーヤーから流れる音に、カゴも持たずにレジへと向かった恋人に、私の今が留まっている。
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