第1話 マルター街の探偵

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第1話 マルター街の探偵

「――やめてくれ!」  自分の叫び声で目が覚めた。 俺はガバッと勢いよく上半身を起こして、息苦しさに喉元を押さえる。 「はあっ、はあっ……また、あの夢か……」  荒い呼吸を整えながら、奥歯を噛みしめた。荒々しく前髪を掻き上げて、ベッドから立ち上がると洗面所へ向かう。  蛇口を捻って冷水を出し、顔を洗った。すると、夢に囚われていた頭がたいぶはっきりとしてくる。  タオルで顔を拭って視線を上げると、鏡に黒髪とブルーアイの男が映った。  身体は筋肉がつきにくく細いし、背も一六○センチと英国紳士の平均身長を大幅に下回っている。 そして、今年で三十になるというのに、いまだに十代に間違われるほどの童顔。それに加えて、実の親が性別を間違えるほどの女顔。この面立ちと体型のせいか、俺は十歳のときに同性の男に強姦された。  あの男を見つけだして、牢屋にぶち込む日を何度想像したかわからない。  俺は汗でぐっしょりと濡れたシャツを脱ぎ捨てる。その拍子に鏡に映りこんだ背中には、忌々しい青のバタフライタトゥーが刻まれている。  タトゥーを彫りながら俺を犯したイカれ野郎――ジャスパー。巷で有名な強姦魔だったが、ここ二十年は雲隠れしているのか、新たな犯行もない。今やヤツの存在は人々の記憶から薄れつつある。  でも、ジャスパーは必ずまた現れる。あいつは俺に『いつか、成虫になった君を迎えに行く』と言ったんだ。一度犯したくらいで満足するようなヤツじゃない。 「あのときは子供だったから、ただ泣きじゃくっていることしかできなかった。けどな、今は違う。この探偵ルクリア・オーセットが世界の果てまで追い詰めて、地獄を見せてやる」  吐き捨てるように誓うと、俺はジャスパーの残像を消し去るように浴室のドアを乱暴に開け、シャワーを浴びたのだった。 ***  ――十九世紀末、ロンドン。  マルター街にあるアパートの一室を事務所兼自宅として借りている俺は、探偵業を営んでいる。最初は片手で数えられるほどしかなかった依頼も、数をこなしていくうちに名声が高まり、海外からも依頼がくるようになった。  それだけじゃない。俺の功績を聞きつけた政府から秘密裏に依頼を受けるようになったことで、刑事事件に関わる機会も増えた。つまり、ジャスパーの情報を集めやすくなったのだ。  俺はソファーに座り、新聞に目を通しながら、カップに口をつける。中身は角砂糖が大量に入った激甘コーヒーだ。俺の頭は、この糖分で動いていると言っても過言ではない。なので、もうひとつシュガーポットから角砂糖を取り出した。  そのとき、コンコンッと玄関からノック音が聞こえてくる。俺は顔を上げ、ドアをちらりと見やった。 「来客の予定は、なかったはずだけどな」  時刻は午前七時。家を訪れるにはいささか早すぎる時間だが、マカボニーの重厚感ある調度品で揃えられた室内に再びノック音が響く。 『おーい、誰かいないのかー?』  ドアの向こうから聞こえる声に、心当たりはなかった。朝から近隣住民の迷惑も考えずに騒いでいるところを加味すると不審者ではなさそうだが、常識人でもなさそうだ。 「……はあ」  俺はため息をついて新聞を畳み、面倒だなと思いつつ重い腰を上げる。それから自分が着ている丈の長い黒のケープコートを見下ろして軽く身なりを整え、最後にシルクハットを被ると、玄関に向かってドアを開けた。 「君、今、何時だと思って――」 「ここに、あの名探偵ルクリア・オーセットがいるって聞いて来たんだが……」  不自然に言葉を切ったのは赤茶色の髪に獰猛な獅子を彷彿させるゴールドの瞳と、健康的でほどよい小麦色の肌をした男だった。  白いシャツにサスペンダーで吊った茶色いズボンを身に着けていて、俺の頭ふたつ分ほど背が高く、がっしりとした体つきをしている。 「部屋を間違えたか?」  手に握られた紙切れと、ドアに書かれた【222】という俺の部屋番号を見比べた男は「んー」と唸って、ふいにこちらを見つめてくる。目が合うと、男は整った顔に人の好さそうな笑みを浮かべた。 「なあ坊主、名探偵の部屋、知らねえか?」  捲られたワイシャツの袖から見える筋肉質の腕を俺に向かって伸ばし、弟にでもするかのように頭を撫でてくる男に呆気にとられる。  ややあって、次第に冷静さを取り戻した俺は男の失礼極まりない発言に改めて気づき、怒りがふつふつとわいてくるのを感じた。 「ぼ……うず、俺が坊主だと?」  無論、俺の眉間にはしわが寄る。  確かに男にしては肩幅が狭いし、背も低いだろう。年齢に比べて、若く見られているのは自覚している。  ――とはいえ、俺は三十だぞ。どこからどう見ても大人の男だろう! いくらなんでも、さすがに坊主はあんまりだ。 「君の目は節穴か? 俺はどこからどう見ても三十歳だ!」 「……冗談だろ。俺より五つも年上って、人は見かけによらねえな」 「見かけのことは、ほっといてくれないか。それからその、心底驚いたみたいな顔をやめてくれ。あともうひとつ! 俺に敬語を忘れるな」  ――こっちは年上なんだぞ!  捲し立てるように文句をつらつらと述べたあと、俺はぜーっ、はあーっと荒い息を吐いた。  ……俺としたことが、それしきのことで熱くなりすぎた。  ゴホンッと咳払いをして取り乱したことを勝手になかったことにすると、俺はゆっくり顎に手を当てて目の前の男を観察する。 「左手の小指、薬指のつけ根にタコがあるな。紙を持つ手からするに、利き手は右のはずだけど……。さっきから、先に前へ出るのは左足だ」  ボソボソと呟くと男は目を丸くするが、それに構わず俺は人差し指と中指で顎をさすりながら続ける。 「日本の侍の居合抜きは左足を先に出して間合いを測り、刀を抜くと同時に右足を出す。これは柔道と剣道に通ずる作法で、この英国で日本の武術を嗜んでいるということは……」  急速に思考を巡らせた。脳に蓄えられている散らばった情報たちが瞬時に繋がり、回路を作ると、俺の中にひとつの閃きが生まれる。 「確か、スコットランドヤードには日本人と英国人のハーフで凄腕の警部がいたな。つまり君は彼の直属の部下で、警察の人間。私服のところを見ると、さしずめ刑事ってところか」  他にもサスペンダーに銃が入ったホルスターがついているのも、決定打のひとつだった。 「驚いた。この銃を見りゃあ警官だってことくらいは見当つくだろうけど、俺がバートランド警部の部下だってことまで言い当てるとはな。日本武術はあの人から教わったんだ。そんなに動いたつもりはなかったんだが、よく人を見てるんだな」  そう言って、男は目をぱちくりとさせる。 こんな隙だらけの男に刑事が勤まっているとは、ロンドンの平和が危ぶまれるな。 「無意識に習得した武術の作法が動きに出る。身体に染みついた癖と同じだな。でも、君は刑事だ。癖のひとつ隠せるようになれ。でないと、そのちょっとした情報が命取りになる可能性もあるんだからな」 忠告もほどほどに、今度は俺の正体がわかるようにとヒントを交えて返答する。 「というわけで、この鋭い観察眼と推理力が俺の商売道具だ。あと、敬語を忘れてるぞ」 「はいはい……って、ん? つーことはまさか、お前が……」 「ようやく答えに辿り着いたのか。俺がルクリア・オーセット、君が探してる探偵だ」  その察しの悪さに呆れながら自己紹介すると、男は予想するまでもなく驚愕の表情を浮かべていた。 「それで、君の名前を聞いても?」  ソファーに男を座らせて、俺はコーヒーが入ったいちご柄のカップを差し出す。男はそれをまじまじと眺めてから、なにか言いたげに見上げてきたので、俺はため息をついた。 「言いたいことがあるなら、はっきり言ってくれ」 「じゃあ、遠慮なく。これってルクリアの趣味か?」  男の〝これ〟が指すのは、カップの柄のことだろう。俺は動揺を悟られないように、素知らぬ顔を貫く。 「敬語」 「あー……、ルクリアさんの趣味ですか? このカップも、それからこれも」  ぎこちない敬語で話しながら男が引き寄せたのは、ソファーの角にもたれるように座っていたテディベア。その頭には赤いリボンがついていて、ベッドの枕元にも、お揃いのテディベアがいたりする。  可愛いもの好きなんて余計に男らしさから遠ざかるから、絶対に口が裂けても言えない。 けれど、この部屋の至るところにある人形と食器のデザインを見たら、ごまかしようもないだろう。  あれこれ悩んだ末、俺は――。 「……で、君の名前は?」  無理やり話題を変えることにした。 沈黙を貫き、素知らぬ顔で男の向かいの席に座れば、俺に答える気がないとわかったのか、男は苦笑いしながら名乗る。 「俺はグレン・ディールだ。ロンドン市警の刑事で、主に凶悪事件を担当してる」 「君の素性はわかった。でも、〝です〟をつけ忘れてるのが気になるな」  じとりと睨めば、男――グレンは肩を竦めた。 「すんません。あー……俺はある事件の手がかりをいちばん掴んでいるであろう、お前のことをずっと探してた……です」  ――おいおい、生まれてから一度も敬語を使ったことないのか!?  苦手どころの次元じゃない耳障りな敬語に衝撃を受けつつも、グレンの眼差しが空気を張り詰めさせるほど真剣みを帯びるのがわかって、ツッコミを入れるのはやめた。  俺はひとつ息をついて、「今は許す」と敬語縛りを解いてやることにしたのだが、グレンは軽く首を傾げる。  大事な話なんだろうことは、グレンを見ていればわかる。そんなときに話し方を強制するなんて、人としてどうかと思うからな。可愛いもの好きを知られた照れ隠しとはいえ、申し訳ないことをした。  気まずくなった俺は、ふいっと顔を背けながら説明する。 「君の話し方があまりにもひどくて、話が入ってこないんだ。だから今だけ、その馴れ馴れしい口調を許してやる。……それで、続きは?」  早く話せ、と顎でしゃくってみせると、グレンは戸惑いながらも首を縦に振り、ふいに遠い目をする。 「今から五年前、俺が刑事になったばかりの頃の話になる」  そう言ってグレンが語ったのは、相棒だった先輩刑事――マック・コフィンが巻き込まれた凶悪事件のことだった。 「マックさんは新人の俺にとって兄貴みたいな存在で、どんな状況でも落ち着いてて判断能力に長けた人だった。でも、俺は頭で考えるより先に身体が動く」  自嘲的に笑うと、グレンはテーブルの上に置いていた拳を強く握りしめた。 「俺とマックさんが、連続殺人犯(シリアルキラー)の潜伏先を突き止めたときのことだ。潜入はしないで応援の到着を待ってたんだが、建物の中から悲鳴が聞こえてきてな」  グレンの話す事件は犯人の名前はおろか、どんな犯罪を犯したのかさえも抽象的だ。それはきっと、警察の情報が俺に流れることを懸念したからだろう。そんな推測を巡らせていると、グレンが絞り出すような声で続ける。 「マックさんは応援が到着するまで乗り込むなって言ったんだが、俺は被害者の保護を優先するべきだと思った。先輩の指示を無視して突入し、その結果は散々でな。現場に到着してすぐに足を撃たれて、助けるどころか足手まといになったわけだ。自分がいかに考えなしだったのか、思い知ったよ」  そこからの流れは容易に想像できた。動けなくなったグレンを犯人は真っ先に狙うだろう。そして、グレンが無事だったということは──。  俺の立てた仮説を裏づけるように、グレンは告げる。 「動けなくなった俺に犯人はもう一度、銃口を向けた。けど、放たれた銃弾は俺には当たらなかった。マックさんが犯人に掴みかかったからな」 「さしずめ──そのあとは、負傷した君と被害者を見たマック刑事が、『俺を信じて逃げろ』とでも言ったんだろう」 「どうして、それを……」  信じられないというように、グレンは目を見張る。  俺はテーブルの中央にあるシュガーポットを引き寄せると、その質問には答えずに、彼の話から見えた推理という真実の仮定を述べる。 「被害者を守れ、ではなく俺を信じろと言ったのは、たとえ被害者がいようと君が相棒を犠牲にして逃げるようなタイプじゃないことマック刑事が熟知していたからだ。だからマック刑事は確実に部下と被害者を助けるため、信頼という言葉でお前の背を押した。判断能力だけでなく、部下の指揮にも優れた刑事だったんだな」  会ったこともないのに言い切った俺のプロファイリングは正しかったらしい。グレンは否定せず、ぎこちない笑みを口元に漂わせたまま、くしゃりと顔を歪める。 「俺は……あの人の言葉を間に受けて、マックさんならどんな修羅場も切り抜けられる、俺が誰よりも、あの人の強さを知ってるって、感情論だけであの場を離れた……大バカ野郎だよ」  血を吐くように、グレンは後悔を口にした。 「被害者を安全なところまで送って、君は現場に戻ったんだろう?」 「……っ、ああ。今でも忘れられねえ。あのとき見た光景は、戒めみてぇに脳裏に焼きついてやがる」  言葉を詰まらせたグレンの顔は、復讐に燃える猛獣そのものだった。 「マックさんは顔をめった刺しにされて、地面に転がされてたんだ。惨いなんて言葉じゃ生ぬるい。顔の原型すら、留めてなかったんだからな」  憤りを必死に抑え込んでいるせいか、その低い声は小刻みに震えていた。  人間の象徴である顔を傷つける殺人は対象への激しい憎悪、もしくは顔のパーツにこだわりのある人間の犯行だ。もし、マック刑事と犯人に面識がないのなら、犯人を憤慨させたなにかがあったのかもしれない。  息をするのと同じように犯人の考えを探っていると、次のグレンの言葉に耳を疑う。 「すでに犯人は逃走、遺体の隣には【Ugly moth(醜い蛾)】……そんな血文字だけが残されてやがった」 「……っ、醜い、蛾?」  頭にちらつくのは、俺の背に彫られた忌々しいバタフライタトゥー。根拠はない、ただの勘だ。ジャスパーは美しいものに対して、こだわりと執着を見せていた。だからもし、気に入った男にバタフライタトゥーを刻むという至福のときを邪魔されたとしたら……?  ジャスパーにとってターゲット以外の人間は醜い生き物というくくりで、マック刑事を蛾と称したのではないだろうか。だからこそ、逆上したジャスパーはその醜い顔を壊そうとした。美しくない、この目に映す価値もないからと。  グレンの話に出てくるシリアルキラーの話を聞いていると、どうしてもあいつの顔が頭を過る。マック刑事を殺したのはジャスパーではないか、という線が俺の中で色濃くなっていく。 「俺は相棒を見捨てた。それどころか、俺の浅はかな行動が相棒を死に追いやったんだって思ってる」  そのグレンの無力感は、俺にも理解できる部分があった。子供で抗う術もなく、ジャスパーにされるがままだった俺と同じだ。あの怒りや悔しさが複雑に混じり合ったような感情に苛まれているんだろう。  俺はシュガーポットの蓋を開けると、角砂糖をひとつとってグレンのカップに放り込む。  突発的な俺の行動を謎に思ったのか、グレンは「ルクリア?」と困惑が滲む目を瞬かせた。 「糖分を摂取して、そのうじうじ鬱陶しい頭をリセットしろ。それから、察しの悪い君のために粉末になる勢いで噛み砕いて説明するが」 「お、おお……悪いな」  俺の気迫に圧倒されてか、少し身を仰け反らせながらグレンは頷く。それを確認した俺は、ふんっと鼻を鳴らして腕を組んだ。 「確かに、君は浅はかだったかもしれない。でも、相棒のマック刑事なら、君が正義感に突っ走って行動することは予測していたはずだ」  そう言えば、グレンの頭の上にクエスチョンマークが浮かんだように見えた。俺ははあっと深いため息をついて、「いいか!」とグレンを指差す。 「もし、本当に君が考えなしの行動をとっていたとしたら、マック刑事はその単独行動をなにがなんでも止めているはずだ。でも、そうしなかった。つまり、マック刑事はその場面で君が被害者のために飛び出していくことを正しいと判断していた」  俺にはマック刑事がどんな人間なのかはわからないが、経験を積んだ刑事であれば、どんな状況でも冷静に判断できる。それがたとえ相棒を危険にさらすのだとしても、第一優先は被害者の命だからだ。 「君の無茶は、マック刑事からしたら想定の範囲内の出来事だ。君ごときの判断で死に追いやれるほど、経験を積んだ刑事というのは弱くない」  全ては憶測だけれど、この憶測こそが俺の武器だ。話を聞き、現場を見て、そこに関連する人間のプロファイルをすることで、目にしたこともない事件の光景や犯人の思考をまるで自ら体験したように感じ取ることができる。そうやって犯人や被害者の思考を自分に置き換え、想像で追体験するのはジャスパーを見つけたい一心で身につけた能力だった。 「君のことをマック刑事は信頼していたんだ。なのに、君がマック刑事を軽んじるようなことを口にするな。相手は頭のイカレタ犯罪者、ふたりの力をもってしても予測できない行動をとる。そのふいを突かれたことが、マック刑事の死因だ」 「……慰めて、くれてんのか」 「事実を言ったまでだ」 「はは、そうか……そう、だな。あの人なら、俺の不甲斐なさも承知の上で指示を出してくれていた。そんなこと、俺がいちばんわかってんのに……っ」  感極まった様子で言葉を詰まらせながら、そう話すグレンからすっと目を逸らす。  泣いているところなんて、見られたくないだろうからな。 でも……ただ待っているだけというのも居たたまれない。 俺は気の利いたことを言えないとわかっていながら、声をかけてしまう。 「それでも、自分のせいにしていないと、心が保てなかったんだろ。それならそれでいいが、どうせならそのシリアルキラーを捕まえることに闘志を燃やしたほうがよくないか?」  視線を外したままそう口にすると、グレンは当然だとばかりに強い言葉を返してくる。 「ああ、ジャスパーを野放しにしておけば、いずれもっと多くの被害者を生むからな」 「……っ、やっぱりか」  そうなんじゃないか、とは思っていた。ただ、その名前を耳にするたび、底知れない恐怖と憎悪が込み上げてきて、勝手に身体が震える。 「おい、大丈夫か? 顔、真っ青だぞ」 「……問題ない」  荒ぶった気持ちを落ち着けるため、カリッと親指の爪を噛んだ俺をグレンはなにか言いたげにじっと見てくる。 「……あまりジロジロと見るな」 「悪い。けどその反応……やっぱり、ジャスパーのことを知ってるんだな。刑事の間で、お前のことは有名なんだ。どんな謎の手がかりも、悔しいが刑事より早く見つけられるって」  だから、こいつは俺のところに来たわけか。実際、刑事から頼られることは多くあった。警察官という立場では安易に家宅捜索や職質ができない。その罪状や意図が明確でなければ、メディアに叩かれて市民の反感を買いかねないからだ。  それに、組織に属している以上は規則がある。常に上官の許可がいるため、動きに縛りが生まれるんだろう。捜査において、そういった時間のロスは命取りだ。犯人だってバカじゃない。捜査の許可が下りるのを待っているうちに、隠れ蓑を探して事件の謎ごと身を隠してしまう。 「俺の力を買ってわざわざ訪ねてきてくれたのに申し訳ないが、ジャスパーに関しては調査段階だ。でも、俺といれば必ず辿り着く」  ジャスパーが残した『いつか、成虫になった君を迎えに行く』という言葉。その中の『成虫』が意味するものが年齢としての成人を指すのか、それともヤツなりの対象の成長基準があるのかは定かではないが、必ず俺の前に現れる。  いや、すでに接触している可能性もある。そう、目の前にいるこの男もジャスパーでないと言い切れる根拠がない。なにせ、ヤツは変装の天才だからな。グレン・ディールという皮を被ったジャスパーという可能性もあり得るのだ。  そう思うと信用はしていないが、そばに置いておく価値はあるのかもしれない。俺の目的はジャスパーを見つけ出し、報復することだからな。 「警察は嫌いだが、正直、ジャスパーの件に関しては猫の手も借りたいくらいだ」 「おいおい、警察を猫呼ばわりか。どうしてそんなに邪険にするんだよ?」  それは、俺がジャスパー事件の被害者として警察に事情聴取されたとき、『男のくせに情けない』『本当はその気だったんじゃないか?』などと、辱めるような暴言を吐かれたからだ。十歳の被害者に浴びせる言葉にしてはあまりにも卑劣で、それに加えてなんの手がかりも掴めないでいる警察には不信感しかないに決まっている。 「〝無能〟な警察の〝無駄〟な捜査を見ていると、殺意がわくんだ」 「綺麗な顔して末恐ろしいこと言うな、お前……。俺たちも頑張ってるってのに、ずいぶんと辛辣な評価だ」 「勘違いするな、頑張るのは当然なんだ。辛辣だと思うなら努力して結果を出してくれ。自分の力じゃ解決できないからって、俺を頼ってくるようじゃ評価は変わらないぞ」 「痛いとこ突くな。それを言われると、反論できねえわ」  ひらひらと手を振って、俺の言葉を辛辣だなんて言いながら、さほど気にした様子もなくグレンは笑う。 「話を元に戻す。君が警察の握っている情報を俺に流すというのなら、俺も君にジャスパーに関する情報を対価として支払う。その条件を呑むなら、手を組もう」  警察の情報漏えいは、重大な規律違反だ。だが、その危険を冒したとしても事件を解決する覚悟があると、そう証明して見せろ。  その決意がどこまで本気なのかを確かめるように、俺はじっとグレンの返事を待つ。 「ルクリアの条件はわかった」  グレンは考えるように視線を宙に彷徨わせ、ふうっと息を吐き出した。それから意を決したように、俺をまっすぐ見据える。 「正直、警察の力だけで太刀打ちできる相手じゃねえ。この数年間ずっと探してきたが、尻尾すら掴めなかったんだ。だから人の命以外なら、なにを失っても構わねえよ」 「なら、交渉成立だな」 「ありがとな、ルクリア」  お礼をしてくるグレンに俺は一瞬、唖然とした。これは契約であって、信頼ではない。ましてや、俺はまだこの男になんの利益ももたらしていないというのに、お気楽なヤツだ。グレンの脳内には、さぞ美しい花畑が広がっているに違いない。 「先に言っておくが、俺は君やその相棒に同情したわけじゃない。その事件に興味があるから、協力するだけだ」  ジャスパーに繋がる人脈は、多いに越したことはないからな。  俺は胸糞悪さを思い出してシュガーポットを掴むと、自分のカップの上で傾ける。角砂糖がコーヒーの中にドバドバと入っていくのを見て、グレンはぎょっとしていた。 「お前、限度ってもんがあるだろ」 「俺のコーヒーの飲み方に、いちゃもんをつけるのはやめてくれないか」 「いちゃもんじゃなくて、心配してるんだ。病気になるぞ」  げんなりしているグレンを横目に、俺はすっかり冷めた激甘コーヒーを飲み干す。 そして、カップを受け皿に置くとグレンを睨みつけた。 「俺は頭を使って糖分を消費してるから、いいんだ。それからな、もう敬語に戻せ」 「どうしてそこまで、敬語にこだわるんだよ」 「年長者ってことを忘れるなって、戒めを込めてるんだよ」 「ああ、ルクリアは年齢よりも若く見えるからな。俺も自分より年下だと思ってた口だ」 「……なにか言ったか?」  ぎろりと睨みつけると、グレンは肩をすくめる。 「いいじゃねえか、若く見られたほうが」 「仕事じゃ支障にしかならないんだよ。若いけど、任せて大丈夫なのかって依頼人が疑ってかかってくる。やりにくいったらない。俺にとって童顔は不名誉でしかないんだ」  席を立ち、俺はカップをキッチンに片付ける。その様子を見ていたグレンは、改めて物珍しそうに室内を見回した。 「ルクリアは、ひとり暮らしなのか?」  直らない口調を咎めるようにじとりと見ると、グレンは「あー……はいはい」と面倒そうに声を発しながら言い直す。 「ひとり暮らしなんですか」 「アパートの一室だぞ。俺以外にも同居人がいるとしたら、ここは狭すぎるだろ」  家族はいるが、汽車で三時間ほどかかる校外に住んでいるため、もう十年近く会っていない。別にこれといって関係が悪いわけではないが、いいとも言えない。あの事件から腫れ物に触るみたいな態度をとられ、会話も少なくなっていき、家にいるのが苦痛になった俺はジャスパーに近い場所にいるために生まれ育った町を出た。それ以来、家族からは手紙がときどき届くくらいで、ほとんど付き合いはない。 「つまり、ひとりってことか。なんだ、彼女のひとりもいないのか」  記憶の旅に出ていた俺は、ふとグレンの言葉で我に返る。 「おい、俺を敬うのを忘れてるぞ」  彼女って、それ以外に聞きたいことはないのか。もっと捜査のこととか、ジャスパーのこととか、あるだろう。まったく、なにをしにここへ来たんだか。 「もういいだろ、敬語。なんか気持ち悪いんだよ、ムズムズして」  自分の両腕を大げさなくらいさするグレンを、俺は半目で見る。 「そんなアレルギー、聞いたことないぞ」 「はいよ、わかりましたよ。そんなことより、彼女はいないんですか?」  にやにやしながらテーブルに頬杖をついたグレン。さながら、色恋に夢中の学生のようだと俺は呆れる。 「不要だな、むしろお荷物だ」 「そういうところ、サバサバしてんですね。ま、ルクリアは顔が整ってるから、引く手あまたでしょうけど」 「顔で寄ってくる女に興味はない」 「中身を愛してほしいってことですか? 純情なんすね。でも、少しくらい羽目外さないと、いろいろ枯れますよ」 「余計なお――」  余計なお世話だと言おうとしたとき、俺の言葉を遮るようにして部屋にコンコンッとノック音が響いた。
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