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第3話 タナトスの犠牲者
深い眠りの中にいた俺は、ふわっと香るコーヒーの香りに意識が急浮上するのを感じた。まだ微睡んでいたい気持ちになんとか勝利して、ゆっくりと瞼を持ち上げる。俺の視界には見慣れた天井が広がっていた。
ここは……俺の部屋か?
上半身を起こそうとすると、やけに身体が重く怠い。
「ルクリア、目が覚めたか」
唐突に聞こえた、ここにいるはずのない人間の声。俺はびくっと肩を震わせ、勢いよく振り返る。そこにはカップをふたつ手にした、グレンの姿があったのだが……。
「君、なんでそんな恰好でここにいるんだ……」
グレンは俺のお気に入りであるピンク色のフリル付きエプロンを身に着けていて、ガタイのよさとのミスマッチさがかなり気色悪い。
俺は顔を引きつらせながら、そばにやってきたグレンを見上げる。
「ほら、コーヒー」
グレンはカップを差し出してきた。
「……どうも。けど俺、砂糖入ってないと飲めないぞ」
「飲んでみろって。健康を害さない程度にドバドバ入れといたから」
勧められてカップに口をつけると、あと一歩甘さが足りないが、飲めないほどではなかった。
「あと少しだけ砂糖を……」
「それ以上は病気になるから、やめておけって。その代わり、苦いならミルク入れてやるから」
グレンは銀のミルクポットを俺のカップの上で傾ける。コーヒーはみるみるうちに、ブラックから淡いブラウン色に変わった。
これじゃあ、カフェオレじゃないか。
心の中で文句をこぼしつつ、飲んでみると自然に口元が緩む。
「ほっとするな……」
優しいミルクの味がそうさせるのか、それとも誰かが自分のために淹れてくれた飲み物だからなのか、理由はわからないけれど心が温まった。
「君、そのエプロンをよくつけようと思ったな」
果てしなく似合っていない。ムキムキの男がフリフリのピンクエプロンを着ているなんて、おぞましいだけだ。
「そんな不審者を見るような目、すんなよ。今昼飯作ってて、シャツが汚れたら困るから借りただけだ」
「昼飯?」
俺は壁に掛かっている時計をちらりと見やり、驚愕した。
「もう昼なのか!?」
「ああ、昨日の今日だからな。疲れが溜まってたんだろ。一応、朝飯のときに声はかけたんだぞ。けど、起きる気配がなかったから、そのまま寝かせといたんだ」
グレンの言葉で思い出すのはシークレットパーティーで、下卑た目を向けてくる男たちを前に、肌を晒したことだった。
観客の男たちの視線が今も纏わりついている気がして、途端に吐き気に襲われる。俺はカップを落として、うっとうめきながら口元を両手で押さえた。耳元にカップの割れる音が聞こえたけれど、あまりの気持ち悪さに自分の身体を抱きしめるので精一杯だった。
「ルクリア! 大丈夫か?」
「も、問題な……うっ」
ダメだ、喋ろうとすると吐きそうになる。
口を塞いで嘔気に耐えていると、グレンは俺の背を擦ろうとしたのだろう手を空中で彷徨わせる。でも、俺が嫌がると思ったのか、触れずに顔を覗き込んできた。
「お前……こんなになるなんて、過去になにがあったんだよ」
「うっ……言いたく……ない」
「……わかった、もう聞かねえから。俺は今、お前に触れてもいいか?」
戸惑いを滲ませた声に上向くと、グレンは俺の前に跪いて確認するように見つめてくる。その真剣な眼差しに自然と恐怖は薄れていき、俺は静かに首を縦に振った。グレンは安心したように表情を綻ばせて、ベッドに腰かけている俺の背をさする。
「改めて謝らせてくれ。ひとりで身体張らせて悪かった。もう、同じような目には遭わせねえから」
「グレン……昨日のは君のせいじゃないと言っただろ。むしろ、警官である君には辛い役だったと思う」
逆に頭を下げると、グレンは「お互いさまってことか」と小さく笑った。
それからお互いに気持ちが落ち着いてきたのを見計らって、俺は尋ねる。
「聞かせてくれないか、グレン。昨日の事件はドルフ伯爵が起こした、ただの人身売買で終わったのか?」
「その聞き方、ルクリアはこの事件が終わったとは思ってないってことだな?」
「……ああ。まだ、偽の予告状の謎とメリッサのウエディングドレスを美術商に譲った貴族の正体がわかってないだろ」
今回の事件が明るみになったのは、予告状がきっかけだ。警察や探偵である俺を頼るなんて、ドルフ伯爵は墓穴を掘ったと言ってもいい。そんな危険を自ら起こすことが、やはり違和感として残る。
やはり、ドルフ伯爵は何者かの思惑に動かされていたと考えるのが妥当だろうな。
「その件についてだけどな、俺は昨日ルクリアをアパートに送ってから、一旦警察署に戻ったんだ。そこでユウさんがドルフ伯爵の聴取をした」
「それで、白状したのか?」
「ああ、あっさりな」
「あっさりか……」
バードランド警部の尋問……じゃなかった。聴取がよほど恐ろしかったんだな。俺でさえ、あの冷酷な目で凄まれたら三秒ともたずに自分の悪事を吐露することだろう。
「まず、あの予告状は偽物だった。でも、ドルフ伯爵の発案じゃねえ。ドルフ伯爵にシークレットパーティの計画を持ちかけた人間の仕業だ」
「計画を持ちかけた……?」
「あの使用人のメアリー・ジェーンだよ」
さすがに耳を疑った。俺の推理をもってしても、彼女が関わっている可能性には辿り着けなかったからだ。
「地下付きシークレットパーティの会場の手配、それに関わる口の固い使用人の雇用。全部、メアリーが考えた完璧な犯罪計画だった。虫も殺せないような顔して、とんでもないことをやりやがる」
肩を竦めつつ、グレンは俺の隣に腰掛けた。
「犯罪計画を売りに金を得るためと考えるのが普通なんだろうが……それと偽物の予告状の繋がりがやはり謎だな」
どうしても、そこに行き着く。振り出しに戻った気分だ。
俺はカップに視線を落とす。真っ黒で見えない底……予告状がもたらす謎と同じだ。
「ああ、だよな。それからメアリーの行動には、もうひとつおかしな点があんだよ」
「おかしな点?」
カップから顔を上げれば、グレンは珍しく気難しい顔をしている。
「今回、メアリーがドルフ伯爵の犯罪に加担する条件として上げたのはふたつ。ひとつは金、もうひとつは偽物の予告状を作り、警察やルクリアに依頼することだったらしい」
「じゃあ、メリッサのウエディングドレスはメアリーが用意したものだな。それも、直接ドルフ伯爵に渡すんじゃなく、わざわざ美術商を介した。俺たちに自分の存在を匂わせ、かつ情報を得やすいようにな。意図はわからないが、随分とナメられたものだ。警察や探偵など、リスクにもならないとたかを括ってるとしか思えない行動だ」
腹立たしいことこの上ない。俺は結局、メアリーに辿り着けなかったわけだからな。依頼を受けて、こんな敗北感を味わったのは初めてだ。
持っていたカップが苛立ちで震える。静かに憤慨している俺を、グレンはいつ中身がこぼれるかとハラハラした様子で眺めていた。
「俺たちを試したってことか?」
「そんな生易しいものじゃない。捕まえられるものなら、捕まえてみろって宣戦布告だ。で、メアリー・ジェーンの聴取はどうなった」
「それがな……ルクリア、先に約束してくれ。俺を殴らないってな」
嫌な予感しかしない前置きだ。まさか……と、最悪の事態が頭を掠める。俺の予感は当たってほしくないときほど、的中するのだ。
「ありえないとは思うが、メアリー・ジェーンを逃がしたんじゃないだろうな」
「殺傷能力の高い前置きだな……」
「君のも、なかなかだったぞ」
「あー……はは」
後頭部に手を当てて、グレンは乾いた笑みをこぼす。
俺は「笑い事じゃない」とグレンの腕を殴った。
「いてて……ほんと、悪い。メアリー・ジェーンは、シークレットパーティーの摘発と同時に姿を消してる。邸もユウさんが警察に見張らせてたってのに、不甲斐ない。今は行方を追っているところだ」
「やっぱり無能だったか」
だから警察は嫌いなんだ。まともに犯人すら見張っておけないのか!
はあっと、俺は呆れと怒りを吐き捨てるように息を吐く。
「まったく、君とバートランド警部以外に使える警察はいないのか? もっと鍛えておけ、でないとただの税金泥棒だぞ」
「言い返す言葉もねえ」
「これじゃあ謎が残ったままだ……すっきりしない」
俺は止まらない胸騒ぎに顔をしかめる。
メアリー・ジェーンに対する違和感は出会ったときから、ずっとあった。といっても、大人しそうな外見からは想像できないほど強い、香水の匂いに引っかかったというだけの話なのだが。
それにしてもあの香り、どこかで嗅いだことがあるような……。
記憶を必死に手繰り寄せていると、グレンが立ち上がる。
「よし、それ片付けるからこっちにくれ。ルクリアは顔でも洗ってきたらどうだ?」
俺の手からカップを受け取ったグレンは、そそくさとキッチンに向かった。
ジャーッと洗い物をする音がする。
昨日、俺をこのアパートに送り届けたあと、グレンは警察署で事情聴取に参加したと言っていた。
それでまた、ここにグレンがいるということは、わざわざ俺のところに帰ってきてくれたってことだよな? なんでそこまでして、俺の世話を焼くんだ?
「そういえば君、仕事はいいのか?」
キッチンに向かって声をかけると、グレンがタオルで手を拭きながら戻ってくる。
「ああ、今日は非番なんだよ。飯も軽くだけど作ったから、一緒に食おうぜ」
勝手に朝食まで作ってたのか……。
恐ろしいくらいに俺の家に馴染んでいるグレンに、唖然とする。
「君は俺の家政婦かなんかか?」
「仕方ないだろ、あんな状態のお前をほっておけなかったんだから。ほら、身体が大丈夫になったんなら、洗面所に行って来いよ」
「なんなんだ君は……調子が狂うな」
自分の生活の中に他人が入ってくるなんて、不快でしかないと思っていたのに、こうして気遣われるというのはなんだかくすぐったい。
俺はキッチンのグレンをもう一度振り返ってから、洗面所に向かう。顔を洗ってタオルで拭いたあと、俺は鏡越しに自分の格好を見た。
そういえば、服は昨日のまんまなんだな。
それに安堵したのは、グレンに背中のバタフライタトゥーを見られていないとわかったからだ。
俺は部屋に戻ると、グレンの目を盗んで着替えを済ませ、ソファーに腰かける。目の前にあるテーブルには、チキンとマッシュルームが入ったパイ、キャロットアンドコリアンダースープ、サラダといったフルコース料理が並んでいた。
「無骨な君にも、捜査以外の特技があったんだな」
本当に刑事か?と、俺はグレンをまじまじと観察する。
「ひとり暮らしが長いからな、自然と上達したんだよ」
「普通、逆じゃないのか? ひとり暮らしならなおさら、食事なんて適当になるだろ。俺は毎日、パン一枚で事足りる」
「だからルクリアは痩せてんだな。俺は飯だけはしっかり三食、健康的にとるようにって親から言われて育ったから、なんとなく習慣づいてんだよ」
全ての料理を運び終えたグレンが、俺の前に座った。それを合図に、俺たちは食事を始める。
俺はまず、いちばん気になっていたパイにナイフを入れた。サクッと食欲をそそる音がして、唾液があふれてくる。それをフォークで口に運ぶと、舌の上でチキンの肉汁がぶわっと広がった。
「おいしい……レストランの食事みたいだ」
ぱくぱくとパイを口に入れていると、ふいに視線を感じて顔を上げる。
すると、テーブルに頬杖をついてこちらを見つめているグレンと目が合った。その顔はどこか優しげに緩んでいて、俺はなんだか居心地が悪くなる。
「な、なんだよ」
「いや、本当にうまそうに食うんだなって思ってな」
自分でも頬が緩みきってる自覚はあるが、改まって指摘されるのは恥ずかしい。俺はふいっとそっぽを向き、パイを貪った。
「おい、さっきから全然、野菜食べてねえじゃねえか。ほら、サラダも食えって」
「なっ、人の皿にブロッコリーを入れるな!」
隙あらば野菜を放り込もうとするグレンから、俺は皿を死守する。
「俺は子供じゃないんだぞ! そういうの、やめてくれないか。 あと、どさくさに紛れて敬語を忘れてるぞ」
本当はそんなこと、どうでもよかった。グレンが親しみを込めて、砕けた口調で話してくれるのはむしろ……むしろ、嬉しかったのだが、他に強がる理由がなくて項垂れる。
そんな俺に気づいているのかいないのか、グレンは意に返していない様子で「はいはい、わかりましたよ」と生意気に相づちを打った。
「君は本当に──」
礼儀を知らないやつだな!と続くはずだった言葉は、グレンの「あ」というなんとも気の抜けた声によって遮られる。
「ルクリア、こっち向いてください」
少しだけ腰を上げたグレンは俺の顔に手を伸ばし、頬を軽く払ってきた。
「パイ屑ついてんぞ。そんながっつかなくても、おかわりありますって」
「――なっ、言ってくれれば自分で取れた!」
まるで子供扱いだ。俺はふんっと鼻を鳴らすと、食事に集中する。
そんなとき、アパートのドアが弱々しく叩かれた。一瞬、聞き間違いかと思ったが、グレンの視線も扉に向けられている。どうやら、空耳ではなかったらしい。
来客の予定はなかったはず、依頼か?
立ち上がりかけた俺を、グレンが手で制す。
「俺が見てきますから、ルクリアは食べててくださいよ」
「いや、俺を訪ねてきたんだろうし……」
俺の声が聞こえていなかったのか、ごく自然にドアに向かって歩いていくグレンの背中を見送る。
ここは俺の部屋だぞ。なんでグレンが普通に来客の対応をしてるんだ。料理のことといい、俺はグレンが一緒にいることに慣れすぎてないか?
着実に侵食されている。このままではいけない、と悶々としながらもグレンの作った馳走の誘惑に負けた俺は、フォークを握り直した。その時――。
「ユウさん!?」
グレンの取り乱した叫びが聞こえてきた。俺は慌てて席を立ち、ドアのほうへ走る。
「グレン、なにがあったんだ!」
ドアの前までやってくると、グレンの腕の中へ誰かが倒れ込む。それはぐったりとしたバードランド警部だった。脇腹を押さえる手の下には、赤く染まった衣服。出血の量からして、急ぎ治療が必要な状態であることは、素人目から見ても明白だった。
「病院に連れていくぞ、グレン。駅前で辻馬車を拾おう」
「ああ、わかった。ユウさん、立てますか?」
グレンがバードランド警部の脇の下に腕を差し込んで立ち上がらせようとしたのだが、当の本人が首を横に振る。
「悪いが、病院には行けない。それから……ぐっ、俺がここにいることは誰にも知られないように、してくれ……」
額に玉のような汗をかき、青い顔でそう懇願するバードランド警部。その緊迫した様子に、俺はグレンと顔を見合わせる。
「なにか事情がありそうだな。グレン、バードランド警部を奥のベッドに寝かせてくれ。俺は止血の準備をする」
手早く指示を出して、俺たちはしばらくバタバタと動き回った。やがてバードランド警部の出血もおさまると、俺はベッドサイドの椅子に座って尋ねる。
「それで、なにがあったんだ? しんどいとは思うが、匿う以上は事情が知りたい」
グレンも心配そうではあるが、黙って俺の後ろで壁に寄りかかり、上司の答えを待っていた。
「先週から……くっ、このパリスカター駅の路地裏で子宮が抉りとられた女性の遺体が複数発見されているのは知っているか」
話すだけでも傷が痛むのか、ときどき顔をしかめながら、バードランド警部は唐突に今世間を震撼させている連続殺人事件の話を切り出す。
「ああ、新聞で見た。あの殺人は今から二十五年前のタナトスの犯行によく似ているな」
俺はジャック・ザ・リッパーに続いて、ロンドンでも一、二位を争うほどの未解決凶悪事件と言われた子宮狩りをする殺人鬼――タナトスのことを思い出していた。
「そうだ。自身をギリシア神話の死神、タナトスと呼んでいる連続殺人鬼。ここからは話が長くなるが、聞いてくれ」
バードランド警部はそう言って、二十五年前の自らの過去について語り始めた。
当時、十歳だったバードランド警部は日本に住んでいのだが、ロンドン市警で刑事をしていた父に会いに母と旅行を兼ねてこの地を訪れていたらしい。
しかし、宿泊していたホテルにタナトスが現れ、そこで実の母を殺されただけでなく、幼いバードランド警部の目の前で子宮を抉り取ったのだという。
「タナトスは俺の母親の子宮を抉りとったそのメスで俺の頬を傷つけると、部屋を出て行った。顔はフードを深く被っていたから見えなかったが、手だけは目視できた。しわひとつない、二十代くらいの男のものだった」
自身の頬の傷を指でなぞりながら、バードランド警部は悔しさを押し殺すような声で過去を語る。
「自分の手であいつを捕まえてやるつもりだったんだが、母が巻き込まれた事件以来、タナトスは子宮狩りをしなくなってな。ゆえにめぼしい手がかりもなく、事件は未解決なまま片づけられた」
「そんな凶悪犯を野放しにしたまま、捜査を打ち切るスコットランドヤードが理解できないな。よほど無能なトップが警察を牛耳ってたんだろう」
悪態をつきたくなるのは、俺が追っているジャスパーの事件も犯行がなくなった途端にほぼ時効扱いになったからだ。新たな事件がなくとも被害者の戦いは犯人が捕まったあと、いや……それ以降も続くというのに。
警察は信用ならないと改めて失望する俺に、その職に就いているはずのバードランド警部が肯定するように頷いた。
「同感だ。それが許せなくて俺は警察になり、自分でタナトスの再捜査をしようとした。だが、署内からタナトスに関する事件資料が全て消えていたんだ」
それを聞いたグレンは目を見張って壁から背を離すと、前のめりに聞き返す。
「――なっ、それってまさか……警察関係者が隠ぺいを図ったってことですか?」
「俺はその可能性が高いと踏んでいる」
「犯行に使われたのは、確か医療用のメスでしたね。子宮を摘出する際の綺麗な切り口を見ると、医術の心得がなければ難しい」
「ああ、だから犯人は警察の上層部となんらかの癒着がある医者ではないかと踏んでいるが……。再捜査したくても警視総監の許可が下りない」
眼鏡越しに宙を睨みつけるバードランド警部の目には、悔しさが滲んでいた。
「警視総監はユウさんの親父さんだろ? 家族を失ったのは同じなのに、協力が得られないのはなんでなんです?」
「捜査を打ち切ったのは、当時警視総監を務めていた現在の警察庁長官だ。父は直属の部下だったからな、自分の地位を失いたくないんだろう」
疲れたように眼鏡を外し、ナイトテーブルに置くバードランド警部。俺はその話を聞きながら、本当にそうだろうかと疑念を投げかける。
「それは早合点じゃないか? 表立って動けない理由があった……という線もあるだろう」
「オーセット、あの男は母が死んでから捜査の鬼ではなくなったんだ。人が変わったみたいに上官の機嫌をとり、上にいくことだけを考えるようになった」
憎しみを宿したような暗い瞳に、俺は思わず息を呑む。
冷静沈着なバードランド警部にしては、珍しく感情的だな。
「警察のトップに上りつめなければならない理由があったとしたら? 急に権力に目がくらむなんて、それこそ動機がおかしい」
たとえば、そうしなければ事件の真相に辿り着けないだとか。
あくまで想像の範疇を出ない見解を口にすると、バードランド警部は押し黙る。その反応で、彼自身がその可能性を捨て切れていないことは明らかだった。
まあ、これ以上の話は平行線になるだろうな。人の感情というのは、理屈ではどうにも納められないものだ。バードランド警部自身が認めたくないのなら、俺の考えを押しつけたところで納得などできないだろう。
「それで話しを戻すけど、バードランド警部はなぜ怪我を? それが居場所を知られたくない理由に繋がるんだろ?」
話題をさりげなく変えると、バードランド警部は安堵したように息をつく。
「ああ、実はこれまでも水面下でタナトスを追っていたんだが、そのことが警察署内部で明るみになった」
「なるほど、そのタイミングで今回の連続殺人事件が起きた。事件現場を嗅ぎ回っていただけで、バードランド警部が怪しいと踏んだ警察官連中は単純で無能だな。晴れてバードランド警部は容疑者になってしまったというわけか」
「……説明の手間が省けて助かる。オーセットの言う通り、俺は容疑者になり事情聴取を受けていたんだが……」
「理由も聞かないまま、牢屋にぶちこまれそうになった。それで逃走してくるしかなかったんだな」
先回りして断言すれば、バードランド警部は血の気の失せた顔に微笑を浮かべる。その表情が俺の言葉を正当化していた。
「逃げたりしたら、疑ってくれって言ってるようなものじゃないですか! なんでそんなバカな真似をしたんです!」
一連の話を聞いていたグレンは、顔色を変えて横になっているバードランド警部の肩を掴む。その慌てように、俺は呆れ交じりにため息をつくと、グレンの耳をむんずと掴んでバードランド警部から引き剥がした。
「いてててててっ、なにすんですか!」
「バカは君のほうだ。バードランド警部の判断は正しい」
「は、はあ?」
「バードランド警部が牢屋にいたら、きっと今頃殺されていただろうからな」
そこまで進言してやったにも関わらず意味がわかっていない様子のグレンに、俺は本日二度目のため息をつく。
動物並みの直観はあるくせに、こういう推理に関してはからっきしだな。
俺はグレンの耳から手を放すと、腕を組んで説明してやる。
「バードランド警部を邪魔に思っているタナトス。それに通じる人間が警察内部にいるとすれば、逃げ場のない牢屋に入れられたバードランド警部はどうなる?」
そこまで話すと、グレンもようやく俺の言いたいことがわかったのか、腑に落ちた顔をする。
「牢屋で殺される……だろうな。じゃあ、まさかその怪我は……」
グレンの視線を受けたバードランド警部は苦虫を噛み潰したように表情を歪めると、タナトスにつけられた消えない古傷を指でなぞった。
「聴取を受けている際に刑事を振り払って脱出してきたんだが、警察署を出た瞬間に何者かに狙撃された。それも、わざと急所は外してな。俺は一度ならず、二度までも……」
悔しさをぶつけるように拳を握りしめたバードランド警部に、俺は小さく呟く。
「過去の因縁っていうのは……簡単には消えないものだよな」
「ルクリア……」
なにか言いたげな目でグレンが見てきたけれど、俺は気づかないふりをした。グレンは人の気持ちに敏感な男だ。きっとなにかを察したのだろう。それでも今の俺にはバードランド警部やグレンのように、過去を語る強さはなかった。
俺は思い出すだけで痛む胸を服の上からそっと押さえつつ、バードランド警部をまっすぐに見据える。
「タナトスに関しては、俺が調査をしよう。バードランド警部は休んでいてくれ。なんなら事件が解決するまで、ここにいてもらって構わない」
「オーセット、引き受けてくれるのか?」
わずかに目を見張り、驚いている様子のバードランド警部に俺は笑みを返す。
この人がこんなにも、感情をあらわにするなんてな。
そんなことを考えながら、俺は椅子から立ち上がる。
「ここへ来たということは、俺と信頼のおける部下、グレンを頼ってのことだろ。その信頼と名探偵の名にかけて、バードランド警部の無実は晴らすと約束する」
「俺もユウさんにそんな怪我を負わせたヤツらを牢屋にぶちこんでみせますから、安心して養生しててくださいよ」
俺に続いてグレンが大きく出ると、バードランド警部は目を細めた。
「有能な探偵と刑事がそこまで言うのなら、俺は信じて待つしかないのだろうな。だが、この身体が動くようになればすぐにでも、ともに捜査に加わる」
本来であれば、容疑がかけられているバードランド警部が動くのは危険だと注意するべきなのだろうが……。俺がなんとしてでもジャスパーをこの手で捕まえたいと願っているように、バードランド警部もきっと同じ気持ちなのだろう。
「あとでクーに医者を寄越してもらう。それまで、ここを動かず休んでいてくれ」
無茶しそうなバードランド警部に念を押した俺は、木製のハンガーポールにかかっているコートを手に取り、羽織る。
「グレン、すぐにロンドン市警に向かうぞ」
杖置きに手を伸ばそうとしたとき、俺より先にグレンがステッキを取って差し出してくる。
「了解、遺体の確認をするんですね?」
「そうだ。タナトスの模倣犯の可能性もあるからな。この目で確認しておきたい」
俺たちは打ち合わせもそこそこにアパートを出ると、マルター街駅の馬車を拾って目的地へと向かった。
***
馬車で三十分かけて、俺とグレンはウォンシャー通りのロンドン市警にやってきた。身長の何倍もあるアイアンの柵に囲まれた、くすんだ白い外壁の建物の中へと足を踏み入れると、ロンドン市警の人間は慌ただしく駆けずり回っている。
おおかた、容疑者であるバードランド警部の失踪が原因だろう。
「司法解剖はこれからだったはずだからな。とりあえず、監察医のエリアルさんのところに行きますか」
グレンの案内で検死場所に向かう。【検死室】と書かれたそこに足を踏み入れると、桃色のくせ毛を後ろで束ねている白衣姿の長身の男がゴム手袋をはめながら振り返る。
おそらく三十代くらいだろうか。男は棒つきのキャンディを咥えながら、俺たちの存在に気づいた瞬間、ぱっと顔を輝かせた。
「グレンに、そっちは……誰かなあ?」
にやにやしながら、顔を近づけてくる男に不快感を覚える。
馴れ馴れしいうえに距離が近いな。
無条件に湧き上がる嫌悪感に黙り込んでいると、グレンがさりげなく俺と男の間に入ってくれた。
「エリアルさん、飴食ったまま仕事してっと、またバードランド警部に叱られますよ」
「グレン、バードランド警部は今やお尋ね者だよ。俺を叱るなんて、そんな機会が果たしてあるのかなあ?」
「……バードランド警部は、犯罪者ではありません。まだ、容疑者です」
「今は、ね。でも、ここを逃げ出したことで立場はより悪くなってる」
カランッと口内でキャンディーを転がした男――エリアルに、グレンが悔しげに奥歯を噛みしめるのがわかった。それを見かねて、俺は肘でグレンを軽くつつく。
「そのくらいでへこたれるな。俺たちがなんのためにここへ来たのか、思い出せ」
「あ……すんません、そうですよね。まだ動き出したばかりだってのに、情けないところを見せました」
「まったくだ」
肩をすくめたグレンは気を取り直すように、エリアルをまっすぐに見据える。
「エリアルさん、こちらは探偵のルクリア・オーセット。そしてルクリア、この人はうちの敏腕監察医のエリアル・ディーさんだ」
簡単にグレンが俺の紹介をすると、エリアルが目を瞬かせる。
「ルクリア・オーセットって、かの有名な名探偵じゃないか! まさか、こんな子供がねえ~。ますます、君に興味がわくよ」
「訂正させてもらうけど、俺と君の歳はさほど変わらない。三十だからな」
「ありゃ、俺のふたつ下かい! 年齢は俺とほとんど変わらないというのに、こんなにも成長が遅いなんて生命の神秘だねえ~っ」
「……わかった、歯を食いしばれ」
目をキラキラさせて悪びれずにはしゃいでいるエリアルに、俺は拳を構える。
「おさえておさえて、エリアルは少し変わってるんですよ。大目に見てあげてくださいって」
なだめるようにグレンが肩を軽く叩いてくるが、俺はムッとしたままエリアルに本題をぶつける。
「単刀直入に聞くが、エリアルの目から見て、今回の事件はタナトスの犯行と言えそうか?」
「それなら遺体を見れば、一目瞭然さ」
語尾に音符でもつきそうなほどご機嫌に、遺体に被せてあった布を剥ぎ取るエリアルのそばへ俺とグレンは行く。
「いいかな? この女性の遺体は卵巣と卵管といった両側付属器を残して、綺麗に子宮だけを摘出されてる。創部は二十から四十センチ、ちょうど開腹手術でできる創の長さと一致するね」
「つまり、医術の知識がある人間の仕業だということだな。バードランド警部には当然できない所業だ」
俺がそう見解を述べれば、隣にいたグレンが胸を撫で下すのがわかった。よほどバードランド警部の無実を晴らしたいのだとわかり、俺の胸にも闘志がわく。
二度も同僚が事件に巻き込まれるなんて、グレンにとっては辛い状況だろう。仮ではあるが、相棒の心がまた傷つけられることのないように俺も尽力したい。
「この検死結果を見れば、バードランド警部の関与はないと断言できるはずです。なのになぜ、容疑が晴れないんです?」
「そうそう、グレンくんの言う通り。俺はちゃんとバードランド警部との関係性はゼロに近いって報告したよ? でもね、上層部がその検死結果すら突っぱねたんだ」
まいったというように両手を挙げて、エリアルは近くの椅子に腰かける。そして、笑みを浮かべつつも苛立たしげに、ガリッと飴を噛み砕く。
「死したあともこうして身を切り刻まれ、亡骸は真実を伝えようとしたのに……死者への冒涜だよねえ。まったく、組織というのはつくづく胸糞悪いよ」
この男も自分なりの信念をもって、この仕事に就いているというわけか。死体を解剖しながら、飴を食える変人ではあるけれど。
「俺たちの敵は警察の上層部ってことか……よし、決めた。これから警視総監に会いに行く」
そのグレンの決断は、なんとなく予想していた。俺はまっすぐで感情の読みやすい男だなとかすかに笑みをこぼしつつ、グレンの隣に並ぶ。
「俺も行く」
「ルクリア……いいのか?」
この期に及んでいいのか?とお伺いを立ててくるグレンに、俺は迷わず「当然だ」と答える。
「猪突猛進な君だけを行かせるのは不安だからな。ただ直談判しても、返ってバードランド警部を窮地に追いやるだけだ」
一瞬、エリアルの前でバードランド警部の肩を持つような発言をするのは、まずいか?と懸念が頭を過った。
バードランド警部の居場所を、俺たちが知っていると悟られてしまう可能性があるからだ。
だが、エリアルの仕事への熱意からするに、真実をねじ曲げるような人間ではないだろう。バードランド警部を売るような真似は、おそらくしない。
そう踏んだ俺は、構わず話を続けた。
「今は下手にバードランド警部の無実を晴らすより、警視総監の真意がどこにあるのかを探るのが先決だろう。その結果によっては、タナトスだけでなく警察も俺たちの敵に回る」
同意するようにグレンはひとう頷き、エリアルに向き直ると軽く頭を下げた。
「それでは、俺たちはこれで」
「うん、頑張ってね~。バードランド警部のことをよろしく頼むよ。彼はこのロンドン市警……いや、イギリスに必要な人だからね」
俺たちがバードランド警部を匿っていることを、エリアルはなんとなく察しているのだと思う。それでいて、知らないふりを突き通してくれているのだ。
そのことはグレンにも伝わっていたのだろう。検死場所を出る際にグレンはもう一度、深々と頭を下げていた。
***
やたら存在感のある目の前の重厚な木製のドアをノックした俺とグレンは、中から聞こえてきた「どうぞ」という威厳ある声に促されて室内へと入る。
「失礼します」
グレンと声を揃えて警視総監の部屋に足を踏み入れると、東洋人特有の長い黒髪を後ろで束ねている五十代くらいの年配の男と目が合った。
ゴロウ・バードランド警視総監だ。苗字は異国の地に馴染むために奥さんからもらったのだろう。机に頬杖をつき、こちらを品定めするように見据えているゴロウ警視総監は現役を退いてはいるものの、鋭い眼光と凛然とした面立ちをしていて刑事の威厳を微塵も失っていない。
「君は……グレン・ディールか。君の活躍はユウから聞いている。このロンドン市警で検挙率が一位らしいな」
ほんの少しゴロウ警視総監が唇に笑みを滲ませただけで、部屋の空気が軽くなる。肩の力が自然と抜けると、ゴロウ警視総監の視線が俺に移った。
「名探偵と名高いルクリア・オーセットくんだね。君がここに来たということは……そうか、ユウは一気にこのロンドン市警の闇を叩くつもりか」
ゴロウ警視総監の物言いは俺たちがなにをしにここへ来たのか、あらかた想像がついている様子だった。
「俺はタナトスの事件について追っています。ゴロウ警視総監は、バードランド警部が犯人であるとお思いですか?」
単刀直入に尋ねるグレンにゴロウ警視総監は立ち上がると、窓際の棚に飾られたひとつの写真立ての前で足を止めた。
俺はグレンと顔を見合わせて、ゴロウ警視総監の隣に並ぶ。
「これはね、私が警視総監になる前の先代の警視総監と撮った写真だ。このロンドン市警での功績が認められて、私が表彰されたときのね」
「ゴロウ警視総監の前……ということは、アグリ現警察庁長官ですね」
グレンは警察関係者だから知っているのだろうが、俺は初めて耳にする名前だった。
それにしても、ゴロウ警視総監が急に昔話をし始めたのはなぜだ? なにか、意味があるに違いない。
俺は神経を研ぎ澄ませながら、ゴロウ警視総監の話に耳を傾ける。
「タナトス事件に関しては俺も刑事時代に犯人の手がかりを追っていたんだが、急にこの事件の総括をしていたアグリ・ランバー現警察庁長官が捜査の打ち切りを命じた」
だとしても、ゴロウ警視総監が本気で解決したいと思っていれば、警察の規則なんて無視して捜査を続けただろう。自分の妻を殺されているのなら、なおさら。それでも、アグリ警察庁長官の指示に従った理由はなんだ?
それを探るために、俺は仕掛けにかかる。
「それは……ゴロウ警視総監はさぞ、心残りでしたでしょうね」
悔しそうにするのか、それともなんの感情の起伏も見せないのか。相手の反応を窺うのにうってつけの共感を口にすれば、ゴロウ警視総監はすっと目を細める。
「敵はタナトスだけではないと、気づいたからだよ」
ああ、なるほど……。
答えはそれだけで十分だった。
警視総監よりもひとつ上の階級に当たる警察庁長官は、このイギリスで国家の治安維持にも関与できる権利を持つ。そんな権力者の指示に従わなければ、警察どころか社会的に抹殺される可能性もあるのだ。
「敵が大きすぎる。下手に動けば、潰されるのは俺たちだ」
グレンの言葉に頷いたゴロウ警視総監は改めて俺たちに向き直ると、他愛もない会話の延長線上であるかのように「そういえば」と切り出す。
「警察庁長官には医者を目指していた息子がいたらしい。残念ながら試験に落ちて、医者にはなれなかったようだが」
医者志望の息子、医学の知識がなければできない所業。あれだけの事件を起こしておきながら捜査が打ち切られたことといい、その息子はタナトス像に当てはまるな。つまり、アグリ警察庁長官はタナトスである息子を庇うために事件を隠ぺいした。
ゴロウ警視総監がそこまで突き止めておきながら踏み出せなかったのは、もし自分がタナトス事件の摘発に失敗して解雇されたあと、このロンドン市警をバードランド警部に託せるように、息子が十分に力をつけるのを待っていたのかもしれない。
「……ゴロウ警視総監、あなたが権力を欲した理由がわかりました。あなたとバードランド警部は、このロンドン市警の光ですね」
「察しがいいな、さすがは名探偵」
「ですが、ゴロウ警視総監がその地位を失うことはありませんよ。手足の俺たちが動けば、お咎めはせいぜいグレンの解雇くらいで済みますからね」
隣を見ながら口元に笑みを漂わせると、グレンは「シャレにならねえ」と苦い顔をしていた。
「ははっ、これは一本とられた」
硬い顔を一気に崩したゴロウ警視総監は、笑顔で俺に紙切れを渡す。そこにはアグリ警察庁長官の自宅だろう住所が書かれていた。
「身辺には気をつけてくれ。君たちがここへ足を運んだ時点で、タナトスは君たちを警戒するだろう。狙われているということを忘れないように」
バードランド警部みたいに、いきなり狙撃される可能性もあるということか。
気を引き締めながら俺は「ご忠告感謝します」と返して、グレンとともに警視総監室をあとにした。
***
ロンドン市警を出た俺たちは辻馬車に乗って、アグリ警察庁長官の邸へと向かっていた。木々が多いためにうっすらと暗い街道を走っていると、向かいの席のグレンが口を開いた。
「タナトスはアグリ警察庁長官の邸にいますかね?」
「どうだろうな、行ってみないことには……」
そう言いかけたとき、銃声とともに馬車がつんのめるような形で止まった。
「なんだ?」
軽く腰を上げてドアを開けようとしたとき、グレンが「待て」と言って俺の手首を掴む。
「俺が先に行く。なにか異常があったなら、真っ先に御者が説明にくるだろう? でも、姿を現さないってことは……」
「狙撃された可能性があるな」
「そういうこった。ルクリアは俺の後ろにいろ。前に出るなよ」
張り詰めた空気の中、グレンはホルスターから銃を抜くと慎重にドアを開ける。続いて警戒するように周囲に視線を走らせると、ついて来いと目配せをしてきた。
俺は頷いて、一緒に馬車を出る。その瞬間、パーンッと銃声が鳴り、グレンが俺を抱きかかえて茂みに飛び込んだ。その勢いで地面の上を転がり、一本の木にぶつかって俺たちは止まる。
「ぐっ……ルクリア、どこも痛くねえか?」
「それはこっちのセリフだ! 君、背中をおもいっきり木にぶつけただろ」
俺は慌てて身体を起こし、肩を押さえるグレンの顔を覗き込む。すると、うっすら額に汗をかいており、早々に冷やす必要があるとわかった。
「とりあえず、ここを離れるぞ。グレン、立てるか?」
俺が手を差し出すと、グレンはなぜか頭を撫でてきた。
「なっ……君、なにを……」
「そんな顔すんなよ、ルクリア。こんくらいの怪我、俺にとっちゃ日常茶飯事だ」
「そんな顔ってなんだよ」
「俺のことが心配でたまらないって顔」
この状況でもにやっと笑うグレンに、俺は呆れつつも心強く思う。
「き、気のせいだろ。いいから早く立てって」
俺は無理やりグレンの腕を引いて、森の奥へと進む。グレンは後ろを振り返りつつ、声を潜めて報告してくる。
「御者は額を撃ち抜かれて死んでました」
「そうか……」
御者には申し訳ないことをした。俺たちの事件に一般人を巻き込むなんて、あってはならないことだ。それでも、俺に悔いている時間はないんだろう。そんな暇があったらこれ以上、被害者がでないように動かなければ。
そう新たに決意していると、グレンは俺の手を強く握って足を速める。
「犯人はあの街道を見下ろせるどこか、高台にいたんでしょうね。だから、森の中に逃げたほうが狙いをつけられずに済む」
ロンドン市警からつけられていたのか、そもそもこの辺りを張っていたのか……。どちらにせよ――。
「すまない。君ひとりなら、こんな怪我をすることもなかっただろう」
「ルクリア、俺は刑事なんだぞ。市民のお前を守るのは当然だ。だから、気にしなくていい」
「けど……」
俺は探偵だ。そして、グレンの相棒だ。ロンドン市民であっても、守る立場である俺が相棒の足を引っ張ってどうする。
無力感に打ちひしがれていると、グレンは「あー……」と宙を仰いで、自身の後頭部に手を当てた。
「わかった、わかった。なら、ルクリアがつきっきりで看病してくれ。そうすれば、元気になるからよ」
「……っ、君は安い男だな。そんなことでいいのか?」
グレンの気遣いに、俺の罪悪感は軽くなる。思わず涙が滲んで、必死にこぼすもんかと目に力を入れていると、グレンは俺の背を軽く叩いた。
「ああ。どうやら俺は、たったそれだけのことが嬉しいらしい」
はにかむように笑ったグレンに、不覚にも胸がきゅっと締めつけられる。ずっとひとりで危険に向かっていくことが多かったからか、相棒の存在がいかに大きいかを思い知らされた。
彼の存在に平常心を取り戻した俺は、周囲を警戒しながら森を抜ける。
すると、俺たちは小さな邸の前に出た。休める場所が必要だったため、邸のドアをノックすると中から四十代くらいの丸眼鏡をかけた男が出てくる。
「このような場所に誰かが訪ねてくるのは、珍しいですね」
「突然、訪ねてきて申し訳ありません。連れが怪我をしておりまして、よければ休ませていただけませんか?」
細かい事情は伏せて簡単に状況を説明すると、男はにっこりと人の好さそうな笑みを浮かべて、「どうぞ」と俺たちを招き入れてくれる。
彼はドーズ・マンダーさんというらしく、この辺で木こりをしているらしい。
グレンと俺は邸の二階にあるゲストルームで、休ませてもらえることになった。
「包帯と、これは化膿止めです」
木箱を差し出され、それを受け取った拍子に指先がチクリとした。
「……っ」
なんだ?
木箱の底を見ると、使い込んでいるせいか木が棘のように飛び出ている。どうやら運悪く、それに刺さってしまったらしい。
「ありがとうございます。随分と薬品が充実しているんですね」
部屋の中を見渡すと、壁際のガラス棚の中には薬品瓶や一般宅にあるのは珍しいメス、鉗子などがずらりと揃っている。
「ええ、妻が病に臥せっていたので……。ここは診療所まで距離がありますし、いろいろ揃えておくことにしたんです」
ドーズさんは棚のガラスにスーッと手を這わせながら、にっこりと微笑む。
「手当てが終わったら、下に降りてきてくださいね。お茶を出しますから」
「あ……すんません。おかまいなく」
手当てをするために上着を脱いだグレンが申し訳なさそうに頭を下げると、見ず知らずの俺たちに親切にしてくれたドーズさんは部屋を出ていった。
それを見送った俺は、改めてグレンを見つめる。背中にはひどい打撲痕があり、痛みが相当なものであることは一目瞭然だった。
「背中、冷やすぞ」
俺はグレンが痛み止めを飲むのを待って、その背中に氷嚢を当てる。それにびくりと肩を震わせたグレンに、俺は慌てて氷嚢を離した。
「い、痛むのか?」
「ああ、いや……冷たくて驚いただけですよ。気にしないで続けてください」
顔だけで振り返ったグレンは平静を装って笑ってはいるが、氷嚢が患部に染みるのだろう。眉間にはしわが寄っていて、表情が苦しげに歪んでいた。
「……どうして、俺を庇ったんだ?」
前に向き直ったグレンに、静かに尋ねる。
グレンは木にぶつかったとき、少しも躊躇せず俺を衝撃から守るように深く抱き込んだ。
探偵という仕事柄、今まで危険な目に遭うことは数え切れないほどあった。警察ほどではないが、死と隣り合わせである職業に就いた時点で覚悟はできている。
なのに、こいつはどうして俺を守る? 相棒のくせに助けられてばかりだからか? 頼りないと思ったのかもしれない。
「俺だって男だ。君に守られなくても平気なんだから、自分を傷つけるようなことはやめてくれ。心臓に……悪いから」
俺はグレンが背中を向けているのをいいことに、項垂れる。胸を支配しているのは無力感やら罪悪感やら、とにかく自分の不甲斐なさが招いた感情たちだった。
「言ったでしょう? 俺はもう二度と相棒を失いたくないって。だからルクリアの言うことは聞けません」
「俺は君の相棒になれてるのか? 守られてばかりで、お荷物になっている気しかしない」
自分で言って落ち込んでいると、グレンは少し怒ったように俺を振り返る。
「……あのな、守られてばかりとか、そういう他人行儀な罪悪感は捨てろ。相棒なんだから、守って当然だろ。俺だってルクリアの推理のおかげで、むやみやたらに危険に突っ込まずに済んでんだ。持ちつ持たれつ、だろ?」
にっと笑うグレンに、俺は救われた気分になった。
「ふんっ、偉そうな相棒だな。無駄話してないで、さっさと包帯を巻くぞ!」
俺は照れ臭くて、軽く拳でグレンの背中を小突く。
「いてっ、優しくしてくださいよ」
涙目になったグレンの背にシップを貼った俺は、上から包帯を巻いて固定した。手当てを終えると、グレンは身なりを整えてベッドから立ち上がる。
「ドーズさんのところへ行きましょうか。俺たちは追われてるし、長居しても迷惑になる」
「ああ、一か所に留まってるのも危険だからな」
グレンとともに部屋を出て一階に降りる。その途中で刺激臭に近い匂いを感じた俺は、ふと階段で足を止めた。
「なにか、変な香りがしないか」
鼻をくんくんと利かせると、グレンも俺より少し先で立ち止まり振り返る。
「言われてみれば……よく、検死場で嗅ぐ匂いがしますね」
「検死場……ホルマリンか!」
ピンと来た俺は腕を組んで、眉間にしわを寄せる。
さっき二階に上がったときは、グレンの怪我が気になって匂いにまで意識がいかなかったが……。
なぜ、ホルマリンの匂いがこんな民間人の家でするんだ? ホルマリンの使い道といったら、生体組織の防腐……つまり、死体の死後変化を停止させるためだ。非常に毒性が高いため、消毒液として使われることは滅多にないはずだが……。
「ドーズさんは、本当に木こりなのか?」
そんな疑問がわき上がり思考を巡らせていると、グレンが俺の眉間を指で解すように軽く押す。
「また、なにか引っかかることが?」
「ああ、どうも違和感があってな。このホルマリンの匂いは、一般宅では絶対に嗅ぐことのない香りだ。それに、いくら奥さんが病気とはいえ、医療器具が揃いすぎだ。メスや鉗子まで必要か? 家で手術するわけじゃあるまいし。そもそも、木こりには扱えないだろ」
妻のために用意しておくとしたら、普通は一般人にも扱える薬くらいが妥当だ。
「確かにな」
「それに、俺たちがこの街道で襲撃を受けたのはなぜだ?」
「もしかして、タナトスが俺達を待ち構えてたって考えてます? でも、この辺りは盗賊も出ますし、関連付けるには証拠が足りない気かしますけど」
グレンは階段の途中にある、大きな窓の外に視線を投げる。そこには広くて鬱蒼と茂る森が広がっていた。
「狙撃者が仮に盗賊なら、御者の額を撃ち抜いてすぐ、俺たちのいた馬車を仲間と囲むんじゃないか? 金品は基本的に携帯してるからな。俺たちみたいに人が森に逃げてから馬車を漁ったところで、なにも収穫できない。これが荷物をたんまり積んでる幌馬車なら別だが」
視線を森からグレンに戻すと、納得したふうに首を縦に振っていた。
「それもそうですね……。それを見越して周囲を仲間で固めてなければ、その盗賊は相当の初心者ってことになる」
「あのとき、俺たちはすぐには馬車の外に出なかった。包囲する時間くらいはあったはずなのに、盗賊たちはなんのアクションも起こさなかったんだ。明らかに俺達が出てくるのを待っていたとわかる」
「俺達を殺すために……ですか。盗賊が狙撃者でないとなると、俺たちを狙う人間はタナトスしかいないでしょうね。にしても、どうやって俺たちを待ち構えてたんですかね?」
グレンの言葉に、俺はまた眉を寄せる。
俺たちがタナトスの事件に関わるだろうことは、バードランド警部と行動している時点でタナトスにも察しがつくだろう。
だから、行動を見張られていたとしても驚きはしない。
ただ、俺達が今日あの街道を通ることを予測するには、ゴロウ警視総監との話を聞かれているのが前提だ。
俺たちはそんなに長く、ゴロウ警視総監と話し込んではいない。
犯人と俺たちとでロンドン市警を出る時間に、そんなに差はないはず。
それなのに、俺たちより先にあの街道に行くだけでなく、狙撃に適した高台に登るなんて神業ができるわけがない。
だとすれば、アグリ警察庁長官がタナトスの事件に関与してると仮定して、自分を問い詰めに来た対象があの街道を通ったら狙撃するよう殺し屋を金で雇ったか。
だがそうなると、自分の罪を遠回しに認めることになる。アグリ警察庁長官に事情聴取へ向かった警官が、毎度殺されることになるのだからな。
それに、二十四時間、三百六十五日、あの街道を見張っていなければならないので、かなり非効率だ。
「思い返せば、俺たちを狙撃したタイミングもおかしいな。バードランド警部のことは人通りの多いロンドン市警の前で狙撃したのに、俺たちのことは人目につかない場所で始末しようとした。行動が矛盾してないか?」
「そう……ですね。堂々としているのか、そうじゃないのか、わからねえ」
「そこだ、タナトスの行動には一貫性がない。シリアルキラーに共通して言えることだが、自分の犯行が正しいと思っていることが多い。つまり、正義感のもと行われた犯行を隠す必要性はないはずなんだ」
たとえば、世界を救済するためだと謳い、犯罪者を狙った獄中殺人などがいい例だ。警察のお膝元で堂々とした殺人。この犯人は警察官だったのだが、本人は事件が発覚するまで普通に出勤していたという。
「だから、バードランドのときはタナトスで間違いないとして、問題は俺たちへの狙撃だ。人目を気にするようなタナトスの態度には、違和感がある。もしかしたら、タナトスじゃない誰か……協力者の犯行かもしれないな」
衝動的なタナトスよりも冷静で計画的な犯行を行える誰かの関与を示唆すれば、グレンは難しい顔をして腕を組む。それから俺に近づいてきて、周囲を気にしながら耳打ちしてきた。
「これは勘なんだが……。今その話をするってことは、ルクリアはドーズさんとタナトスがなんらかの形で関わってるって思ってるのか?」
「関連付けるのは早合点だと、わかってはいるんだけどな。揃いすぎている医療器具と医術の心得があるタナトス。あの街道で狙撃され、この邸に辿り着いたことといい、繋がりがある気がしてならないんだ」
ただの勘でしかないが、ドーズさんのもとへ向かうよう仕組まれていた気さえするのだ。
「ルクリアの気になるは、当たりの可能性があるからな。警戒しながら、とりあえずドーズさんのところへ行きましょう。ここで話してると、怪しまれます」
「そうだな」
俺たちはお互いに頷き合うと、ドーズさんのいるリビングに向かった。
***
「おふたりは、どこからいらしたんですか?」
向かいの席で、ドーズさんがこぽこぽとティーポットからカップに紅茶を注ぐ。
俺とグレンは、ソファーに横並びに座りながらそれを眺めていた。
「俺らはマルター街から来ました。ドーズさんはここに住んで長いんですか?」
他愛のない会話を装って、グレンがさりげなくドーズさんの身辺情報を探る。
それに特に不審に思った様子もなく、ドーズさんは肩をすくめながら暖炉上の写真立てを見た。
「ええ、病気の妻に環境がいいところで養生してほしかったので、ずいぶん前にここに移り住んだんです」
写真には二十代半ばくらいのドーズさんと、その妻であろう女性が寄り添って写っているものがいくつも並んでいる。それに目を走らせながら、俺は尋ねる。
「奥さんはどちらに?」
「あ……実は、十五年前に子宮の癌で亡くなりまして。気づいたときには、他の臓器にも転移していましてね。残念ながら助かりませんでした」
……妙だな。残念ながら、なんて最愛の妻に使うにしては他人事のようで、ドーズさんが悲観しているようには到底見えない。
「子宮の病気で……そうでしたか、それはなんといっていいか……」
当たり障りない返事をすると、ドーズさんは笑顔で首を横に振る。
「悲しくはないんです。もうすぐ、会えますから」
もうすぐ会える? 寿命を迎えたらあの世で……ってことか?
悲観していないのは本当らしく、晴れやかな笑みを浮かべているドーズさんに俺は「お強いんですね」と声をかける。
すると、ドーズさんは再び首を横に振った。
「信じているだけです。近い未来に、彼女に会えると」
「そうでしたか……」
なんとなくその先の言葉を見つけられずにいると、目の前にカップが置かれる。
「どうぞ。大した茶葉ではありませんが、アールグレイです」
ドーズさんが屈んだ拍子に、首からかけていたロケットペンダントが服の中から飛び出た。
目の前でぶらぶらと揺れるそれには【D・R】というイニシャルが彫られており、俺は首を傾げた。
確か、ドーズさんの苗字はマンダーじゃなかったか? イニシャルにするなら【D・M】になるはずなのに【R】って、なんの略だ?
考え事をしながら、俺がじっとペンダントを凝視していたせいだろう。ドーズさんは眉尻を下げて微笑み、俺に声をかけてくる。
「どうかなさいましたか?」
「ああ、いや……そのペンダントは奥さんの写真が入ってるんですか?」
笑顔を取り繕うと、隣でグレンが紅茶を飲もうとしていた。
俺はテーブルの下で警告する。なにが入ってるかわからないんだぞ?と目で訴えると、グレンはカップを置いた。
「ええ、アメリアというんです」
そう言いながら、ドーズさんはロケットペンダントを大事そうに指で撫でる。その仕草を見ていると、どれだけアメリアさんを想っているのかがわかった。
この人が犯罪に関与しているだなんて、そう考えたのは早計だったか?
自分の考えを改めようとした、そのとき――。
「……おふたりは、死者蘇生の魔術があることをご存知ですか?」
予想だにしていない言葉が耳に飛び込んできて、俺とグレンは同時に動きを止める。ドーズさんの顔を見れば、平然と微笑んでいて、たった今聞こえてきた『魔術』という単語は空耳だったのではないかと思った。
「腹を開き、病に犯された臓器を健康なものに差し替えて再び閉じる。でも、ちゃんと死者の身体にぴったり収まる臓器でないといけないんです」
「なにを言って……え……?」
声を発した瞬間、視界がグワンッと回った。急に眩暈に襲われてとっさにテーブルに手をつくと、カップが倒れてしまう。紅茶が一本の線のようにテーブルの縁のほうへこぼれていく様が、やけに緩慢に見えた。
なんでだ? 紅茶には口をつけてないのに。
「く、そ……頭がぼーっとしやがる」
額を押さえながらグレンが銃に手を伸ばしていたが、うまく掴めないらしい。そんなグレンをドーズさんは静かに見据えている。
「あなた方は今、紅茶を飲んでいないのにどうしてと思っているんでしょう?」
紅茶は飲んでいない。なら、他に薬を盛られるような場面はなかったか? そう、薬……そうか、あの薬か!
邸に来てからの数十分を思い返してすぐ、自分の失態に思い当たる。
「グレンに飲ませた薬……いや、水か? この際、どっちでもいい。なにか入れたな?」
「ええ。ですが、臓器を傷つけたくなかったのでね。軽い痺れ薬ですよ」
──おかしい。俺は薬も水も飲んでない。だとすると、どこで薬を盛られた……?
するとそこで、ドーズさんから薬や包帯が入った木箱を受け取ったときのことが脳裏に蘇る。
「まさか、あのとき手に刺さった木の棘……」
「ご名答、さすがは名探偵。あの棘に薬を塗らせていただきました」
「名探偵、ね。あなたから聞くと、嫌味にしか聞こえないな」
使い込んでいるせいだと思っていたが、まさかここまで手の込んだ真似をするとは。
「さて、話を戻しますが。その魔術があれば、私はアメリアを救える。ですから……邪魔をしないでいただきたい」
穏やかな笑みをスッと消して、ドーズさんは棚から医療用のハサミを取り出す。
さすがに、血の気が引いた。
この状況はまずい、俺もグレンもまともに動けないぞ。
「君たちは男だからね、卵巣は使えないな。でも、他の臓器はいつかなにかの役に立つかもしれないから」
シャキンッシャキンッと物騒な音を鳴らしながら近づいてくるドーズさんを、俺はぐったりしながら見上げる。
「タナトス……は、君だな。ドーズ・マンダーは……偽名、か?」
「その質問に答える意味はあるのかい? もうじき物言わぬ屍になるのに」
「くっ……」
奥歯を噛みしめながら、伸びてくるドーズさんの手にぎゅっと目をつぶった、そのとき──。
「ぐっ、ああっ」
うめきとともに、視界に赤が飛び散る。
な、んだ……これ?
頬に付着した生暖かい液体を恐る恐る拭うと、指先に鉄臭い血がべっとりとついていた。
「おー、ちょっとばかし頭がはっきりしてきたわ……」
苦しげな声に振り返ると、グレンは自身の腕にペンを突き立てていた。眉を寄せて玉のような汗をかきながら、不敵に笑っている。
「まさ……か、痛みで意識を……保った……のか?」
どうしてそんな無茶をするんだと、そう怒りたいのに頭がぼーっとして叶わない。グレンはそんな俺を肩に担ぐと、勢いよく駆け出した。
「逃げるなああああああっ」
俺たちを迎え入れてくれたときのにこやかな表情を一変させたドーズさんが、ハサミを手に追いかけてくる。
グレンは俺を抱えたまま、森の中を走った。
だが、外に出た途端にビューンッとどこからか銃声が聞こえて、すぐそばの木に弾が食い込んだ。
「なんだ、どこから撃ってやがる!?」
グレンは木々を盾にするように蛇行しながら、身を隠せる場所を探している。
俺も今にも途切れそうになる意識をなんとか持ち堪えながら、追っ手との距離を確かめるべく背後に目を向けた。
しかし、そこにドーズさんの姿はない。銃弾もドーズさんがいるはずの後方ではなく、俺たちより高い位置、右側から飛んできているようだ。
やっぱり、ドーズさん──タナトスに協力者がいるみたいだな。馬車が襲撃を受けた場所から、ドーズさんの邸までは距離がある。馬車に乗っていた俺たちを襲ったのがドーズさんなら、邸を訪ねた際に出迎えるのは物理的に不可能だ。
「グレン……敵は、もうひとり……いる」
「やっぱりそうか、銃弾がドーズさんのいる位置からまったくもって別方向から飛んできてやがるからな。軌道がおかしいと思ってたんだ」
そう言っているそばから、銃弾がたった今横切った木々を掠める。
森の中で動いている敵を狙うのは相当の腕が必要だが、狙撃手の狙いは的確だ。グレンの機敏さがなければ、俺たちはとっくに仕留められているだろう。
「もし、ドーズさんに加担する人間がいるとしたら……」
ロケットペンダントのイニシャルが【D・M】ではなく、【D・R】だった理由。それはドーズさんの本名がドーズ・ランバーだからだ。医者を目指していたというアグリ警察庁長官の息子で、タナトスの正体。そのタナトスを庇うとしたら、彼しか考えられない。
「協力者は、アグリ・ランバー警察庁長官だろうな」
「ああ、捜査の打ち切り……証拠の隠蔽が警察署内で起きているところを加味すると、間違いないだろ。あと、俺たちを狙った銃弾、さっき御者の眉間を打ち抜いた七・六二ミリクラスの小銃弾だった」
あの状況下でそこまで観察していたのかと驚きつつ、俺はグレンの報告を受けての所見を述べる。
「ということは……協力者は最初から、俺たちを狙撃に特化したライフル銃で狙っていたってことか」
「そうなるな……っと」
いきなり足を止めたグレンの顔を、俺は怠さに抗いながら見上げる。
「どう……した、んだ?」
「まずいな……行き止まりっつうか、崖だ」
「え……」
険しい顔をしているグレンの視線を辿って下を覗き込むと、急な斜面の先に川が流れていた。背後からはドーズさんか、その協力者のものと思われる足音が近づいている。グレンはふうっと息をつくと、改まって俺を見つめてきた。
「森に戻るのは無理だ。だから……」
グレンの言いたいことは、すぐに察することができた。
俺たちに残された逃げ道はきっと、この崖の下にしかない。痺れ薬を飲まされたこの身体で川に飛び込むなど、正気の沙汰とは思えないけれど、不思議と恐怖はない。それはきっと、そばにグレンがいるからだろう。
「俺は君に、全てを預ける」
いつもとは立場が反対だなと思いながら先回りして信頼を伝えると、グレンは目を丸くしてから緊迫していた表情を徐々に緩めていった。
「言わなくても、伝わってるんだな。さすが、俺の相棒」
「君との付き合いは短いけど、修羅場は一緒に乗り越えてきてるからな」
「そんじゃ、イチかバチかの賭けといきますか」
軽い調子で崖っぷちに立ったグレンの頭を俺は小突く。
「賭けじゃ困る。絶対に俺も君も助からないと、バードランド警部の無実を晴らすことができないだろ」
「それもそうだな。それに俺は、相棒をみすみす死なせるつもりはねえよ」
なにも心配いらないというように、にっと笑って俺を抱え直したグレンは勢いよく崖から飛び降りる。重力に逆らうことなく俺たちは川へ落ちていき、叩きつけられるような衝撃とともに水の中へと沈んでいったのだった。
***
身体の芯まで凍りつくような寒気。息も苦しくて、死をすぐそばに感じながら意識を手放したはずだったのだけれど、ふいに身体が温かくなり、俺は重い瞼を持ち上げる。その瞬間、視界を占領したのは、空を飛ぶふたりの天使が描かれた天井と絢爛豪華な照明だった。
「ここ……は、どこだ?」
俺は確か、崖から落ちたんじゃなかったか?
窓の外は暗くなっている。不思議に思って寝返りを打とうとしたとき、ズキズキッと全身に痛みが走った。俺は思わず顔をしかめる。
「無理に動いちゃだめだよ。ルーくんは全身打ち身と擦り傷だらけで、ボロボロだったんだから」
「え?」
ふいに聞こえてきた声に驚いて、視線を室内に巡らせる。すると、俺の顔を見知ったブロンドヘアーの青年が覗き込んだ。
「ク、クー?」
「ルーくん、目を覚ましてくれてよかった! 君を川の浅瀬で発見したときは、死んじゃったかと思って心配でたまらなかったんだよっ」
にこっと笑ったクーが、ベッドに横になっている俺の身体に抱きついてくる。その力が地味に強く、俺が「うっ」とうめいていると――。
「クー、オーセットは怪我人だ。そのように乱暴に抱きついてはいけない」
また聞き覚えのある重低音の声に、俺は少しだけ上半身を起こして、クーの肩越しからその人物を確認する。
「バードランド警部まで、どうしてここにいるんだ?」
「ルーくん、ユウを医者に見せて欲しいって連絡くれたでしょ? なんか訳ありっぽかったし、うちで引き取ったほうが警備も頑丈だから、連れてきちゃった」
にこにこしながら事情を説明してくれるクーに、俺はいちばん気になっていたことを尋ねる。
「グレンはどこだ? グレンは無事なのか?」
「落ち着いて、後ろを振り返ってごらん」
言われた通り後ろを向くと、俺のいるダブルベッドの隣でグレンが眠っていた。服をまとっていない上半身にはクーが呼んだ医者が手当てしたのか、痛々しいまでに包帯が巻かれている。
「バードランド警部から君たちが捜査に出たっきり帰ってこないって聞いて、僕とアーロンで探しに行ったんだ」
「そうか……ありがとう、クー」
「どういたしまして。ふたりはもう少し休んでるといいよ。夕食ができたら部屋に運ばせるから」
そう言って、クーはバードランド警部とともに部屋を出ていく。俺はグレンに近づくと、部屋にふたりきりになって気が緩んだからなのか、ふっと嗚咽をこぼしながら涙をこぼした。
「早く起きないかっ、やるべきことが……まだあるだろ?」
血の気の失せた青いグレンの顔に、俺は指を滑らせる。川に長く浸かっていたんだろう。もし、今もクーたちに発見されていなかったら、俺たちは出血と低体温で命を落としていたかもしれない。
「すまない……俺は名探偵だとか、年上なんだから敬語を使えとか、威張るだけで君のことを少しも……っ」
――守れてない。
涙声を震わせて、俺はグレンの手を取ると、その甲に自分の額をくっつける。そうしてしばらく動けずにいると、ぎゅっと手を握り返された。
「え……グレン、目が覚めたのか!?」
慌てて顔を上げると、俺の目に涙がたまっているのに気づいたグレンは苦笑いした。それから、ワシャワシャと髪を掻き混ぜてくる。
「ルクリアの……声が聞こえたから、な」
「……っ、よかった……!」
くしゃっと顔を歪めて、俺は素直な気持ちと涙をこぼした。
「ははっ、子供みたいだな、ルクリアは」
グレンに頭を撫でられながら、俺は自分の変化に驚く。
あんなに男に対して恐怖心と嫌悪感を抱いていたというのに、こうしてグレンに触れられると安心する。無意識のうちに、頼りにしている自分がいた。
いつか、俺の全部を話せる相手がいるとしたら、きっとこいつだ。
そんな確信を抱いたとき、部屋にアーロンが入ってきた。その手には食事が載ったトレイがある。
「グレンも起きたんだね!」
アーロンの背から、クーが顔を出した。その後ろにはバードランド警部の姿もあり、ベッドサイドまで歩いてくると椅子に腰かけた。
「食べながら、話をしても構わないか?」
アーロンからおかゆを受け取った俺とグレンに、バードランド警部の深海を思わせる瞳が向けられる。それにグレンと同時に首を縦に振れば、バードランド警部は眼鏡を人差し指で押し上げながら話し始める。
「お前たちを探している途中で、街道に御者の死体があった。その遺体はアーロンに通報してもらって、今頃検死に回っているだろう」
「あの馬車は俺たちが乗っていたものです。アグリ・ランバー警察庁長官の邸に向かっている最中でした」
報告をしたグレンはロンドン市警でゴロウ警視総監と話したこと、川に飛び込むまでの出来事を掻い摘んで説明する。
すると、バードランド警部の表情はどんどん険しくなっていき、心配したクーが「大丈夫?」と顔を覗き込みながら尋ねていた。
いつの間に仲良くなったのか、バードランド警部はわずかに頬を緩め、クーに向かって無言で頷く。
「父の考えは、まだ明確には見えないが……。アグリ・ランバー警察庁長官が自分の息子であるドーズ・ランバーを庇って事件の隠ぺいを謀ったのは確実だな」
足を組んだバードランド警部は膝の上に肘をつき、両手を組んで、その甲に顎を載せる。
「そして、お前たちを狙撃したのはアグリ・ランバー警察庁長官だろう。あの人は現役の刑事時代、優秀な狙撃手だったらしいからな」
「相手はかなり手強いな。十五年前のように証拠を潰されるだけでなく、下手をすればバードランド警部とゴロウ警視総監をも消し去る可能性は否めない」
俺はそう言いながら、確実に警察庁長官のアグリ・ランバーとタナトスであるドーズ・ランバーを捕まえられる策について思考を巡らせる。
「……俺が女装して、タナトスの囮になるのが手っ取り早いな。タナトスの犯行現場を押さえれば、その父であるアグリ・ランバーの調査は避けられない。しかも、過去に捜査を強制的に打ち切ったことも問われるだろうな」
「でも、それじゃあまだ甘いんじゃない? 現行犯逮捕をしたところで、また権力を使って証拠を消されちゃうと思うよ」
コテンッと首を横に傾けたクーに、俺は想定内だというように余裕の笑みを向ける。
「だから、何人か記者を集める。警察関係者ではアグリ警察庁長官の権力に屈してしまうかもしれないが、民間の声は別だ。もしものときは真実を伝える記者を目撃者にして、徹底的に責任の所在について警察と戦ってもらう」
「なるほど、なら記者は僕が集めるよ。アーロン、いいかな」
クーが振り返ると、壁際に控えていたアーロンは恭しくお辞儀をする。
「承知いたしました、主。では、すぐに集めてまいりましょう」
手短に返事をしたアーロンは、足早に部屋を出ていく。それを見送る間もなく、クーは立ち上がった。
「じゃあ、僕はルーくんに合うドレスをあつらえてくることにしようかな」
「毎度のことだけど、巻き込んですまない。クー」
「いいんだよ、ルーくん。僕は私利私欲よりも、信念や強い悲願のために奮闘する人間を尊いと思ってるからね。力になれることなら、なんでもするさ」
ひらひらと手を振って、アーロンのあとを追うように去っていくクー。部屋に残されたバードランド警部は、改めて俺たちの顔を見た。
「グレン、部下の信頼も厚いお前なら、きっと警察をまとめられる。俺は容疑者だからな、自由には動けん。だからこの事件の捜査指揮権は、お前が持て」
「……わかりました。でも、指揮権を持つのはこの事件だけですよ」
企むような笑みを口元に滲ませるグレンに、バードランド警部は「どういう意味だ?」と片眉を持ち上げる。
「俺たちはユウさんの指揮で動いてるから、無茶もできるし背中を預けられる。だから、まだまだ俺たちの背を守ってもらわないと困るんです」
「グレン……そうだな。俺もまだまだ、お前たちと現場を駆け抜けたいと思っている。その道をお前が守ってくれ」
ふたりは熱い握手を交わすと、バードランド警部は俺に視線を移す。
「オーセット、お前は探偵とはいえ民間人だ。囮になるなんて、本当にいいのか?」
「そうだぞ、ルクリア。お前を危険に晒すくらいなら、女装は俺が……」
そこまで言いかけたグレンは無言で呆れる俺とバードランド警部に気づいて、口を噤むと頭に手を当てて苦い顔をする。
「まあ、こんなガタイのいい女いないですよね。わかってますよ、でも……」
「グレン、俺はお前の背に隠れているだけの相棒でいたくない。隣で一緒に戦いたいんだ」
引き下がりそうにないグレンを説得するべく、自分の意見をぶつける。すると初めは納得いかなそうな顔をしていたグレンが根負けしたように笑った。
「そうだな、相棒は常に一緒だ。ルクリアの背は俺に預けてくれていい。ナイフだろうと銃弾だろうと俺が弾き飛ばしてやっから、前だけ見てろ」
「ああ、信じてるよ」
気持ちに応えるようにふっと笑って、俺はクーやアーロンが用意してくれたおかゆに口をつける。
「食事はしっかりとっておけ。君のほうが俺より重症なんだから」
「……はい、ルクリアのことをしっかり守れるように食いますよ。空腹じゃ、ここぞってときに戦えないですからね」
俺の意思を尊重してくれたグレンは、それ以上の反対意見はなしに食事に手をつけたのだった。
***
三日後の夜、俺はタナトス事件が多発していたパリスカター駅の裏手の路地前をひとりで往復していた。
かれこれ三日間、女装をした俺は事件現場付近を歩いているのだが、いまだタナトスは現れていない。
先日、俺とグレンが接触したことで、ドーズさんも警戒してるんだろうな。
もしかしたら長期戦になるかもしれないと思っていたとき、後ろから自分のもの以外の足音が聞こえてきた。俺はゴクリと唾を飲み込むと、背後に気を配りながら慎重に歩を進める。
しかし距離は段々と近づき、俺はスリッドの入ったドレスの下に隠していたステッキに手をかけた。捕まえるのはタナトスが確実に俺を襲ったと断言できる状況になった時点でだ。
ただ声をかけようとしただけだとか、肩についていたゴミを取ってあげただけだとか、いろいろ言い訳をさせないためにも多少の怪我は覚悟している。
「お嬢さん」
ついに声をかけられて足を止めた俺は、緊張の面持ちで振り返る。すると、そこには――。
「……なっ、アグリ・ランバー警察庁長官!?」
タナトスではなく、その父であるアグリ警察庁長官が立っていた。それも手にはメスが握られており、いきなり襲いかかってくる。
どういうことだ? ドーズさんは……いや、そうか。アグリ警察庁長官はタナトスを自ら演じることで、息子を守ろうとしているのか!
十五年前に事件を隠ぺいしたのも、地位や名誉を失うのを恐れたから。そう言い逃れをすれば、息子の罪を被れる。
俺たちを狙撃した件もそうだ。自分を問い詰めに来た対象を毎度殺していたら、疑いの目はますますアグリ警察庁長官に向く。
でも、それも目的だった。息子の罪が明るみになりそうになったとき、自分がタナトスに成り代わるために。
こんな状況下でも頭は冷静に働いた。答えを導いた俺はドレスの中に手を入れてステッキを取り出すと、アグリ警察庁長官のメスを受け止める。
だが、アグリ警察庁長官は体重をかけるように俺の身体を地面に押し倒す。喉元まで迫った刃をぎりぎりのところで押し返しながら、俺は堕ちるところまで堕ちた警察のトップの姿を見据えた。
「アグリ……警察庁、長官。あなたは息子さんの罪を背負うつもり、ですね」
「なんのことだ。背負うもなにもない、私がタナトスなのだから」
「そう演じた……っ、のでしょう?」
「この罪は他の誰でもなく、私自身のものだ」
そのひと言で、目の前の彼がタナトスでないことは証明されていた。
「タナトスは、この行為を罪……くっ、とは言わない」
俺は少しでも気を抜けば、自分を絶命させられるメスには目もくれず、息子のために正義を捨てる決断をした父親を説得する。
「これは最愛の妻に会うために必要なことだと、タナトスはそう信じている。だからっ、本物のタナトスなら……罪とは言わないんだ」
「それは……」
「父親なら、わかって……るんだろ? ドーズさんは妻のために、子宮を集めることに罪悪感なんて抱いてないっ。当然のことだって、そう思ってる!」
メスの切っ先が一瞬、喉に触れた。チクリと痛みが走ったが、俺は構わず続ける。
「だから、タナトスが最愛の妻を蘇生させることを……罪と言うなんて、ありえないんだっ」
ドーズさんと直接話してプロファイリングした結果、見えてきたタナトスの人物像を語れば、それに納得するようにアグリ警察庁長官の手が緩む。その瞬間を見逃さなかった俺は、思いっきり叫んだ。
「――グレン!」
名前を呼んだ瞬間に路地から飛び出してきたグレンが、アグリ警察庁長官を蹴り飛ばす。「ぐあっ」と小さな悲鳴をあげながら倒れこんだアグリ警察庁長官は、光の速さで手錠をかけたグレンによって取り押さえられた。
「タナトスの事件の共犯者として、アグリ警察庁長官……いや、アグリ・ランバーを現行犯逮捕する。おい、こいつを署に連れていけ」
グレンは控えていた警察官にそう指示を飛ばし、身柄を引き渡す。それから、地面に座り込んでいた俺に近づいてきて手を差し出した。
「もっと早く俺を呼べよ。ひやひやして、何度飛び出しそうになったことか」
「きちんと待てができたようで、安心した。すぐに俺を助けたら、現行犯逮捕ができないだろ?」
「俺は犬か……って、喉切れてるじゃねえか!」
焦った様子のグレンが俺の喉に手を添えて、大騒ぎする。先ほどメスが肌に当たった感触があったので、そのときにできたものだろう。
「大げさだな。これくらい君の怪我に比べれば、掠り傷だ」
「俺と比べんなよ……はあ。さっきもだけど、頭ではわかってても簡単には受け入れられねえもんだよな」
「なにがだ?」
俺が聞き返すと、しょげた犬みたいな顔でグレンが俺の傷をじっと見つめているのに気づく。
「相棒が襲われてるっていうのに、見てるだけとか……。仕事上、仕方ないってわかってても、これが結構堪えるんだわ」
「……ああ、俺もつい最近、同じ気持ちになったからわかる」
俺は崖から落ちたとき、グレンが庇ってくれたときのことを思い出していた。
「それでも、俺を信じて従ってくれたことに礼を言うよ。グレン」
目の前の大きな手を取れば、グレンが力強く引き上げてくれる。向き合うように立つと、そこへバードランド警部とクーがやってきた。
「まさか、アグリ警察庁長官がタナトスの身代わりになるとはな。すぐにドーズの行方を追うぞ」
踵を返そうとするバードランド警部の背中に、「あてならある」と俺は声をかける。
「俺とグレンはアグリ警察庁長官の邸に向かう途中で、ドーズさん……タナトスの住んでいる邸を見つけた。そこにヤツはいる」
「でも……さすがにもう逃げてるんじゃないかな? ルーくんとグレンに居場所がバレてるのに拠点を変えないなんて、捕まえてくれって言ってるようなものだし」
半信半疑のクーに、俺は確信に近いものを感じながら首を横に振る。
「タナトスは常に、最愛の妻のために最善の選択をしている。つまり、最愛の妻と過ごしたあの邸を捨てることはない。そして、あの邸でしたホルマリンの匂い。おそらくタナトスは、妻の遺体をあの邸のどこかに保管している」
「妻にぴったりの子宮を探してるって言ってやがったし、被害女性の子宮もわんさか出てくるかもしれねえな」
苦い顔をしたグレンは、すぐに警察の手配した馬車に向かって歩き出す。
「町を出た先にある、街道まで行ってくれるか?」
控えていた御者にグレンが声をかけ、馬車の扉を開けると俺たちを振り返った。
「すぐに出れます?」
「ああ、この手でタナトスを捕まえる。それが俺と……おそらく父の悲願だ」
「十五年前とは違います。ユウさんには俺らがついてますから」
固い信頼を感じさせるふたりの会話を聞きながら、俺はクーとアーロンに視線を向ける。
「ふたりは邸に帰っていてくれ。これ以上、巻き込むわけにはいかない」
「ううん、僕たちも行くよ。危険な目に遭わせられないっていうんなら、もしものときのために外で待機してるから!」
「クー……」
もう十分、助けてもらってるんだけどな。
その気遣いだけでいいと断ろうとしたとき、アーロンが一歩前に出る。
「お待ちを、彼の同行を許可していただけますでしょうか」
アーロンがすっと横にずれると、後ろから記者の中にいたブロンドヘアの男が現れる。見た感じ、二十代前半くらいだろうか。ワイシャツとサスペンダーズボン姿の彼は、変わった緑と黄色の縞模様の入ったネクタイをつけており、ベージュの帽子のつばを直しながらへらっと笑う。
「ロンドンタイムズの記者をしています、ジェイク・ハドソンです。今回の真犯人を見届ける役が必要でしょう? それなら、俺を連れて行ってください」
「いいのか? 危険なんだぞ」
再確認するグレンに、ジェイクは「あはは」と緊張感の欠片もない笑みをこぼした。
「タナトスの真犯人を特集させてもらえるなら、危険だろうが行きますよー。あー、でも、痛いのは嫌なんで守ってくださいね」
「調子のいいヤツだな」
グレンは呆れ交じりにそう言った。
とはいえ、警察のトップに君臨した相手と戦うなら、世間を味方につける必要がある。そのために、ロンドンタイムズの力は必要不可欠だろう。
「ハドソン様は主の客人ですから、できれば私どももついていきたく思います。ルクリア様、バードランド様、ディール様、構いませんでしょうか?」
アーロンが確認するように俺たちの顔を見ると、バードランド警部は「今回ばかりはやむをえないな」と同行を許可したのだった。
***
馬車で三十分ほどかけて、町境にある街道にやってきた俺たちは、暗い森の中を突き進んでドーズさんの邸にやってきた。
邸から少し離れた茂みにクーとアーロン、ジェイクを置いて、俺はグレンとバードランド警部とともに邸のドアの前に立つ。
「明かりは……ついてねえみたいだな」
邸の様子を窺っているグレンの肩に、バードランド警部が手を置いて後ろに下がらせた。
「先頭は俺が務める。オーセットと一緒に後ろからついてこい」
それにグレンは「了解」と答えると、バードランド警部と同時に銃を構えた。俺はステッキを手に、ドアを開けるバードランド警部に続く。
月明りだけが照らすリビングを抜け、俺たちはホルマリンの匂いに気づいた階段を上がる。そのたびにギシギシと鳴る音が緊張感からか、やけに大きく耳に届いた。
「ホルマリンの匂い、こっちからするみたいだな」
二階に上がると、グレンは左右に分かれている廊下の左側を指さした。明かりがついていないせいで、先はまったく見えない。このまま歩いていけば、奈落に通じると言われても驚きはしないだろう。
俺たちは慎重に先へ進み、ある一室から光が漏れ出ているのに気づいた。無言で顔を見合わせて、バードランド警部がドアノブに手をかける。その背後でグレンが銃のセーフティを外すのに合わせて、俺はステッキを握りしめた。
一呼吸を置いたあと、バードランド警部がドアを勢いよく開け放つ。
「タナトス、そこにいるか……!」
バードランド警部の怒号とともに突入した俺たちは、そこに広がっていた光景に目を疑う。部屋の壁際に設置された棚には、一面びっしりとホルマリンに漬けられた女性の卵巣が入った瓶。その中央に置かれた棺には、ドーズさんの妻であろう遺体がたくさんの真っ赤な小ぶりの花──アネモネと一緒にホルマリンの海の中でぷかぷかと揺れている。
「全部で千二百九十九の子宮を彼女にあてがったけど、これも……」
ドーズさんはガシャンッと棚にある子宮が入った瓶を床に落として割っていく。
「これも、これもこれも……っ、どれも妻には合わなかった!」
嘆くように叫んで、しゃがみ込んだドーズさんは床に転がった子宮を片手で握り潰す。その狂気じみた行動に、俺を含む一同は言葉を失っていた。
「セレアは……もう帰ってこないのか? いいや、あの人は言ったんだ。死者蘇生の魔術は本物だって。だから私は、また女を殺して……殺して殺して、子宮を集めて……なのに……なんで、だよおおおおっ」
子宮を握り潰しながら叫ぶドーズさんに、バードランド警部が銃口を向ける。
「死を覆すことは誰にもできない。そして、どんな理由があったにせよ、自分の願望のために他者の生死を操作することは、もっと許されない。お前の自己中心的な願いのために、どれだけの命が散ったと思う? お前が妻を失ったときと同じように、お前に殺された者の家族も悲しむとは考えなかったのか」
荒げはしなかったが、バードランド警部の落ち着きすぎているその声には、並々ならぬ悲しみと怒りが含まれている気がした。
「ならば、私を殺すか? それでもいいと、最近は思ってるんだ。だって、死者の世界にはセレアもいるからね」
晴れ晴れとした表情でドーズさんはホルマリンの中へ手を突っ込むと、棺の中で眠る妻の頬に触れる。
その言葉を聞いたバードランド警部は、ついに激高した。
「簡単に死ねると思うな! お前は自らの罪を牢屋の中で償い、奪った命の分まで許しを請い続けろ。この俺が存在し続ける限り、死への安寧に逃げることは許さない!」
「……これ以上、生きるのは疲れた。子宮を集められないなら、死にたい。死ぬしかない、彼女に会えないなら……死なせてくれよおおおっ」
発狂しながらドーズさんが自身の首にメスを突き刺そうとした、そのとき――。
「させるか!」
グレンがドーズさんのメスを銃で撃ち、弾き飛ばす。その隙にバードランド警部はドーズさんに馬乗りになって、手錠をかけた。
「離せえええっ、殺せええええっ」
暴れるドーズさんをバードランド警部は背後から押さえつけるようにして拘束し、はっきりと告げる。
「何度も言っただろう。お前に死という逃げ道などやらないと」
「くそおおっ、くそおおおおおっ」
絶望の叫びをあげるドーズさんに、グレンは銃を下ろしながら近づく。
「ドーズさん、あんたは十五年前の犯行のあと、しばらく卵巣狩りをやめていたな。アグリ警察庁長官から、犯行をやめるように言われたからか?」
「そんな理由で、私が諦めるはずないだろう!」
狂ったように叫ぶドーズさんに、俺は思考を巡らせる。自分がドーズさんだったら、どんな動機で動くかを考えた。
「犯人として逮捕されれば、奥さんのそばから離れることになるから……か?」
「え?」
反応したのはドーズさんではなく、グレンだった。
俺は驚いているグレンには気にも留めず、ドーズさんの瞳の奥にある心理を覗き込むように見つめる。
「もしくは、牢屋にいたら子宮狩りができなくなるから。だから一旦身を潜めていた……違うか?」
タナトスの中にある正義は一貫して、妻を蘇生することだ。タナトスの行動はその目的を軸に行われていると、確信を持って言える。それを裏付けるように、ドーズさんは「そうだ」と素直に認めた。
「なぜ、今になって再開させたんだ?」
「死者蘇生の魔術は実在すると、私を認めてくれた人がいたからです。今こそ子宮集めを再開させるべきだと、背中を押してくださった」
「……なるほど」
こういった類の魔術自体は世にあふれるほど存在する。この神の水を飲めば病気が治るだとか、悪魔に身体の一部を捧げれば死者が蘇るだとか。そんな耳心地のいい甘言を吐いて人の喪失感を利用し、金を取る詐欺も多い。
ただ、今回の事件は犯罪を後押しした人間がいることが問題だった。
「ドーズさんに犯行をそそのかしたのは誰だ?」
「……さあ。アドニスと名乗っていましたけど、それ以外はわかりません。見た感じ、三十代くらいの男に見えました」
それから話を聞いても、ドーズさんからはそれ以上の情報は得られなかった。バードランド警部はドーズさんの身柄を警察に引き渡しに行き、グレンは現場検証のためにバタバタと動き回る。
俺はその間、棺の中に浮かぶ血のように赤いアネモネの花を見下ろしていた。ホルマリンに交じって、わずかに香る甘い匂い。
「これ、どこかで……」
ずっと昔に……いや、最近か?
俺は黙り込んだまま、記憶という名の手がかりを手繰り寄せる。そこでふと、頭の中に浮かんだ【メアリー・ジェーン】の名前でハッとした。
「そうか……彼女の香水と同じ匂いなんだ」
ひとりで呟いていると、隣にグレンがやってくる。
「どうしたんだよ、変な顔して」
グレンは俺と棺を交互に見比べて、不思議そうにしていた。
「グレン、このアネモネとメリッサのウエディングドレス、なにかあると思わないか」
「ああ、ドレスもアネモネがモチーフになってたしな。偶然とは思えねえ。それに犯罪をそそのかしたアドニスは、名前を変えたメアリー・ジェーンの可能性もあるよな」
「同感だ。それに、このアネモネの匂い……。メアリー・ジェーンの香水と同じなんだ」
ここまで、自分の存在を主張してくる犯罪者は珍しい。
「マジかよ」
「大マジだ。これはなにかのメッセージかもしれない。グレン、アネモネの花言葉は知ってるか?」
「いや、俺はそういうのは詳しくないんで……」
グレンが困ったように頭を掻く。
「『嫉妬のための無実の犠牲』、だよ」
どこからか明るい声が飛んできた。グレンと振り向けば、いつの間にかクーが一緒になって棺の中を覗き込んでいた。その後ろにはアーロンの姿もあり、目が合うと微笑とともにお辞儀をされる。
「アネモネ、アドニス……まるでギリシャ神話みたいだよね。アネモネは、狩りで猪に殺されたアドニスの血から生まれた花と言われているんだ」
クーの話は真実の扉を激しく叩いているような気がして、俺は尋ねる。
「アネモネやアドニスにまつわることで、なにか他に知ってることはないか?」
「うーん、確か赤いアネモネの花言葉にはもうひとつ、『君を愛す』って意味があったと思うよ。関係あるかは、わからないけど……」
メリッサのウエディングドレス、予告状の謎、クーから聞いたアネモネの花言葉、事件を誘発させるメアリー・ジェーンとアドニスの存在。それらには、絶対に繋がりがある。
「事件を先導してるメアリー・ジェーンとアドニスの目的は金だけじゃないってことか?」
誰に問うでもなく、自分の頭脳に問う。
なにか、メッセージのようなものを感じてならない。
思考を巡らせていると、そこへ犯人の身柄を警察に引き渡し終えた、バードランド警部がやってくる。
「メアリー・ジェーンとアドニスを一刻も早く捕らえる必要があるな」
「ああ。でないとまた、直接手を下さずに犯罪を起こす」
険しい顔をみんなで突き合わせ、重苦しい空気が肩にのしかかってくるのを感じていると──。
「ともかく、これでバードランド警部の無実は証明できそうですね!」
いつから部屋の中にいたのか、ジェイクが場の空気を和ませるように言う。記事を書くために、情報収集をしていたのだろう。
「よかったじゃないですか! 俺がしっかり記事にしますから、安心してくださいよー」
その気の抜けるような語尾に、みんなの緊張が緩む。
やがて、バードランド警部が静かに頭を下げてきた。
「改めて礼を言わせてほしい。タナトスの逮捕に手を貸してくれて、感謝する。これでようやく、俺も母の死から前に進めそうだ」
謎は深まっていくばかりだが、バードランド警部の晴れやかな表情を前にしたら、自然と事件の解決を喜ぶことができたのだった。
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