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第2話 予告状とメリッサのウエディングドレス
「先日、あの怪盗クラウンからドルフ様が大事にされている【メリッサのウエディングドレス】を頂戴すると、予告状が届いたんです」
グレンに引き続き、アパートを訪れたのは、このロンドンでも名を知らぬ者はいないドルフ・ラゼーフォン伯爵の貴族邸の使用人だった。ブラウンの髪を後ろでまとめている内気そうな女性で、先ほどからずっと俯いている。
「それで、オーセット様に守っていただけないかとお願いしに参りました」
「このロンドンを騒がせている、大怪盗クラウンからの予告状か。うちでもクラウン対策本部が設置されてるけど、成果は芳しくないからな」
成り行きで同席しているグレンが話に割り込んできたので、俺は軽く視線で窘めた。
「依頼人を不安にさせるようなことを言うのは、やめてくれないか」
依頼人に向かいの席を譲り、俺の隣に座り直していたグレンは「あ、すんません」と肩をすくめてみせる。
「でも、クラウンが予告状を送るのは、裏で悪事に手を染めてる金持ちの家だけって聞きますし……。ラゼーフォン伯爵もまさか、なんてことはありませんかね」
ついさっき謝ったばかりだというのに、悪びれることなく依頼人の機嫌を損ねるようなことを口走るグレン。俺はいい加減にしろと、その足を思いっきり踏んだ。
「痛えーっ、なにすんですか!」
「言ってもわからないから、制裁を加えたまでだ」
「口があるんですから、言葉で注意してくださいよ」
「しただろ、一度は口でな。でも、君が懲りずに失言を重ねたんだ。躾のなってない犬にはムチも必要だろ」
涼しい顔でつんっと顎を上げれば、グレンが「俺は犬かよ」と不満をこぼす。そんなグレンを無視して、俺は使用人に向き直った。
「話が逸れて申し訳ない。その依頼を引き受けよう」
クラウンの盗みの動機には、個人的に興味がある。とある芸術家一族の芸術品だけを狙い、必ずその美術品を所有している金持ちは黒だという偶然のようで必然的な繋がり。暴きたいという衝動は、探偵ならばみんなが持ち合わせている感情だろう。
個人的な興味も加味して承諾すると、使用人の顔はパッと明るくなる。
「それでは明日、馬車を向かわせます。お引き受けくださり、本当にありがとうございました」
使用人はペコペコと頭を下げながら、立ち上がる。俺はドアまで彼女を送ったのだが、ふいに鼻腔を甘い香りが掠めるのに気づいた。
この香り、どこかで……。
どこでだったのかを考えていると、使用人はこちらを振り返ってにっこり微笑み、もう一礼する。
「それでは、失礼いたします」
「あ、ああ……気をつけて帰ってくれ」
アパート前に停まっていた馬車に乗って去っていく彼女を見送っていると、後ろから俺の首に腕が回された。その瞬間、『いつか、成虫になった君を迎えに行く』というヤツの声が頭の中に響き渡る。
「……っ、離してくれ!」
勢いよくその腕を振り払うと、パシンッと乾いた音が響いた。グレンは赤くなった手の甲をさすりながら、不意打ちにあったような驚きの表情をする。
「うおっ、と……すんません。驚かせましたか」
「男に触られるのが、気色悪いんだよ」
――ジャスパーのことを思い出すから。
俺はふいっとグレンから顔を背けて、バクバクと鳴り続けている心臓の辺りを服の上から押さえる。
「……で? なんのつもりで俺に奇襲をかけてきた」
平静を装って声をかけると、グレンは俺の隣に並ぶように立つ。それから、馬車が去っていった方角に視線を向けた。
「いや? やけに熱心に見送ってるなあと思いましてね」
なるほど、俺があの女性に気があると思ったのか。はっ、アホらしい。
心の中で悪態をつきながら俺は腕を組み、グレンをちらりと見やる。
「勘違いするな。少し、妙に思っただけだ」
「妙?」
「あのように控えめなご婦人が香水をつけていたことに、違和感を覚えた」
「香水くらい、女性なら誰しもつけるんじゃないですか?」
単純な回答だな、と俺は呆れ混じりのため息をついた。
「わかってないな、香水は化粧と同じだ。他者に美しく思われたいなどの承認欲求、自分の存在を匂いで認識させたいマーキング欲の現れでもある」
「どちらかというと、彼女は目立ちたくないタイプに見えましたね」
「ああ、だから〝違和感〟なんだよ。彼女は一見、注目されるのが苦手な女性に見えるが、本当はそうじゃないのかもしれないな」
そう言いながら踵を返す俺の背に、グレンの声がかかる。
「大丈夫ですか?」
「なにが」
素っ気なく返事をして振り向ければ、グレンは困ったように頭を掻いた。
「なにがって、顔色が悪いですよ」
「ああ……匂いが、苦手だったから」
まだ室内を漂っているあの女性の香水に、なぜか胸騒ぎがした。
俺は止まらない動悸に目眩がして部屋に戻ろうとしたのだが、「待ってください」と引き留められて足を止める。
「強がりっていうか、頑固っていうか……。見てて、危なっかしいんですよ」
振り向くより先にグレンの低い声が俺の鼓膜を揺すり、力強い腕が腰に回る。そのまま引き寄せられて、ふらつく身体を支えられた。
「うっ……離せ」
今度は男に触れられたという嫌悪感が襲ってくる。カタカタと震えていると、グレンが訝しむように俺を見下ろした。
「ルクリア、お前……震えてねえか?」
「気のせい、だ」
まずいな、変に思われる。誰かに弱みを握られるのなんて、まっぴらごめんだ。
俺は力をふり絞って、グレンの胸を押し返す。そのまま数歩下がって距離をとると、後ろ手にドアノブを握った。
「もう用事は済んだだろ、さっさと帰ってくれ。進展があれば、こっちからロンドン市警に出向くから」
「いや、そんな状態のお前をほっとけるわけ――」
グレンがなにか言いかけていたが、俺は構わずにドアを閉めてカギをかけた。いきなり締め出しをくらった驚きからか、彼からの反応はない。
「いつまでも居座ってたら、警察呼ぶからな!」
一応念を押しておこうと思って出た発言だったが、すぐにこいつも警察だったなと苦笑いする。
でも効果はあったのか、足音が遠ざかるのがわかった。ほっとした俺はドアに背を預けてずるずると座り込み、前髪をくしゃりと握る。
男に触られるたび、蝶を見るたび、カーニバルをみるたび、俺はあの日のことを思い出す。何十年経っても、ジャスパーの影に怯えている自分が嫌になる。
「いつまで……あいつに囚われてるんだ、俺は……」
そんな呪詛のごとく重い呟きは初めからなかったかのように、人知れず部屋の空気に溶けていくのだった。
***
翌日、俺はラゼーフォン家の迎えの馬車に乗り、人の背丈を遥かに超える高い柵に囲まれた立派な邸にやって来た。
ピンク色のダマスクローズの庭園を抜け、重厚感ある邸の大扉の前で停まった馬車から降りると昨日の使用人に出迎えられる。
「オーセット様、よくいらっしゃいました」
彼女は確か、メアリー・ジェーン。年齢は三十歳で未婚。この邸では中堅の使用人なのだとか。
「お出迎えくださり、感謝します」
頭を下げるメアリーさんに、俺はシルクハットを脱いでお辞儀を返しつつ、この邸に来る前に調べたラゼーフォン家の情報を復習していると――。
「ルクリア」
聞き覚えのある声がして、俺はメアリーさんの背に視線を移す。すると、邸の入り口にグレンがいた。
「君、どうしてここに……」
文句を言おうとしたとき、グレンの隣に黒のロングコートに身を包んだ長身の男が立っているのに気づく。
男はアジア系の顔をしていて、緑がかった黒髪と眼鏡の奥にある切れ長の漆黒の瞳、ナイフで切られたような頬の傷が特徴的だった。
「ルクリア・オーセットだな」
低く抑揚に乏しい声で俺を呼んだ男は、無表情なまま歩み寄ってきた。
やがて俺の前に立つと、感情の見えない瞳で見下ろしてくる。
「うちの駄犬が世話になったな」
男はちらりとグレンを見ながら、俺に軽く頭を下げてきた。それを見ていたグレンは不服そうに眉間にしわを寄せる。
「その駄犬って、俺のことですかね」
「お前以外に誰がいる。好き勝手しているようだが、俺の目が黒いうちは自由行動は慎め」
男に説教されて、ばつが悪そうに明後日の方向を見ているグレンに、俺はぶっと吹き出す。
「彼の首輪は替えがいくつあっても足りないのでは? 駄犬というよりは猪突猛進な獅子だからな」
単身で俺のアパートに乗り込んできて、警察の情報を売ってでも相棒の敵を討とうとした。そんなグレンの手綱を握ろうとする目の前の男の正体に、俺は目星を付ける。
「そうは思わないか、ユウ・バードランド警部」
「……ほう、なぜ俺のことを知っている」
なにがバードランド警部の興味を引いたのかはわからないが、その口端にわずかに笑みが浮かぶ。
「日本人と英国人のハーフで、このロンドンの番犬とも呼ばれる凄腕警部。ユウ・バードランドの名を知らない人間はいないだろ。なんせ、あのロンドン史上最悪の凶悪事件と呼ばれた切り裂き魔――ジャック・ザ・リッパーを捕まえたんだからな」
齢三十五になるバードランド警部は、刑事として駆け出しの頃にこの連続殺人犯を逮捕したことで一気に今の地位まで昇格した伝説の刑事なのだ。
「ロンドン史上、などいつでも塗り替えられる。この世界に人間がいる限り、犯罪は消えない。それはすなわち、凶悪犯はいくらでも現れるということだ」
そうバードランド警部は言うが、彼が存在するうちは、このロンドンはイギリスの中で最も安全な地といえるだろう。
「ふたりとも話し込んでないで、そろそろ行きませんか」
グレンの声で俺とバードランド警部は一旦話を切り上げる。
邸の中へ入り、ベルベット生地の赤い絨毯が敷かれた無駄に長い廊下を歩いていると、グレンが耳打ちしてきた。
「体調は大丈夫なんですか?」
「なんだ、急に」
そう言ったあとで、昨日グレンの前で見せた失態のことを思い出す。
ただ触られただけで、あんなに震えたりすれば、気にもなるか。とはいえ、詮索されるのは勘弁願いたい。
「……大丈夫じゃなかったら、ここにいないだろ」
当たり障りなく答えれば、グレンが顔を覗き込んでくる。その目は疑わしそうに細められていた。
「ルクリアの〝大丈夫〟って、信用ならないんで」
「信用するしないは勝手だ。けど、それ以上は聞くなよ。鬱陶しいから」
踏み込んでくるなよ、と忠告もかねて突っぱねた俺に、グレンは呆れとも憐れみともとれる顔をした。そのなんとも形容しがたい面を俺は手で押し返す。
「顔がうるさいぞ」
「知りませんでした。俺の顔って勝手に喋ってんですね」
「屁理屈」
「そういうルクリアは天邪鬼だな」
しれっと敬語を崩すグレンに文句を言おうとしたとき、生徒を注意する教師のような声が飛んでくる。
「お前たち、ふざけていないで早く入れ」
グレンとふたりで振り向くと、バードランド警部が客間のドアの前で圧のある無表情を浮かべていた。
使用人のメアリーさんに促されて部屋に入ると、肥えた腹を揺らしながら中年の男が近づいてきた。
「これはこれは、ロンドンの番犬ユウ・バードランド警部に名探偵ルクリア・オーセット様。よくぞいらっしゃいました」
男は目がチカチカする黄色のモーニングコートを身に着けており、手には大きなルビーやダイヤモンドの指輪。足は上質な革で作られただろう靴を履いて、権力の高さをこれ見よがしに主張していた。身なりからするにラゼーフォン家当主、ドルフ・ラゼーフォン伯爵だろう。
まあ、そんな解説は置いておくとして。問題は俺でなく、グレンをルクリア・オーセットと呼んだ点だ。
「おふたりがいれば、安心ですな」
上機嫌のドルフ伯爵にグレンは空笑いを返しつつ、手を添えながら隣にいる俺の紹介をする。
「かの有名な名探偵ルクリア・オーセットは、こっちですよ。俺は刑事のグレン・ディールです」
「なんと!」
目を剥く勢いで驚くドルフ伯爵に、俺は引き攣った笑みを向ける。
「それでさっそくですが、『メリッサのウエディングドレス』を拝見させてもらっても?」
「あ、ええ、失礼いたしました。こちらです」
ドルフ伯爵は気まずそうに俺たちに背を向け、部屋の奥へ向かいながら「まさか、こんな子供だったなんて」と呟いていた。
「聞こえてるっての」
小さな声で不満を漏らせば、隣にいたグレンがぶっと吹き出した。それをひと睨みして咎めるも、グレンは素知らぬ顔で話しかけてくる。
「いいじゃないですか、若く見られて。ユウさんなんて、入社してすぐに上司と間違われてたらしいですよ」
「それは見た目どうこうというより、バードランド警部の寡黙さが原因だろ。俺の場合、若いなんて生易しいもんじゃない。子供だぞ、子供」
「可愛いって、ことじゃないですか」
にやにやしながらグレンは俺の頭を撫でようとしたのだが、伸ばされた手は触れる寸前でピタリと止まる。
「ん? どうし……」
そこまで言いかけて、ある考えにいきつく。
まさかこいつ、俺が触れられて怖がったのを気にして……?
余計な気を回しやがって、と思いながら特に気にしてないふうを装ってグレンの手を軽く弾く。
「可愛いなんて言われても、うれしくないからな。それから、こういう子供扱いもするなよ」
「はいはい。ほんっとに、禁句ワードに禁止行為が多いですね。神経質って言われません?」
「ちなみに、俺を貶すのも禁止事項に追加しておいてくれ」
そんなくだらない話をグレンとしているうちに、俺たちはライトに照らされたひとつのショーケースの前に辿り着く。
「これが『メリッサのウエディングドレス』です。一週間前に美術商から買ったものでしてね。高い買い物でしたが、大を得るにはそれ相応の対価を支払わねばなりませんから」
ドルフ伯爵は自分の所有する美術品を自慢げに説明する。
ウエディングドレスはテンプレの白ではなく、赤のアネモネのコサージュがいくつも重なってできた深紅のドレスで、確かにひけらかしたくもなる代物だった。
「それなのに、あの大怪盗クラウンがこのドレスを狙っていると言うじゃありませんか。正直、気が狂いそうでした。これだけは、絶対に守らなくては……」
額に手をあてて嘆いているドルフ伯爵に気づかれないように、グレンが俺に半歩近づく。
「俺には、ただの布切れにしか見えませんけどね」
事件にしか興味がないという点については賛同できるが、グレンは言葉遣から振る舞いから品性の欠片もない、粗放すぎる。
「それは、君に美的センスが欠けてるからだろ」
俺はグレンの耳打ちを即座に切り捨てたあと、ドルフ伯爵に歩み寄る。
「ドルフ伯爵、クラウンからの予告状を見せてくれませんか」
「ええ、これです」
「ありがとうございます」
予告状と書かれたカードを受け取ると、そこには【十一月十日、メリッサのウエディングドレスを頂きに参ります。C】と書かれている。
十一月十日……五日後か。
じっと、その字体を視線でなぞる。いつかの新聞で見た予告状の写真と、実際の予告状を頭の中で照らし合わせていると、バードランド警部が俺の手元を覗き込んだ。
「管轄外ではあるが、俺もクラウンの予告状には目を通したことがある」
「はは、俺らは凶悪事件担当のはずなんですけどね。スコットランドヤードきっての最終兵器、ユウさんを投入しなきゃなんねえくらい進展がないもんで」
苦笑いするグレンに、俺はメアリーさんがアパートに依頼に来たときのことを思い出す。
『このロンドンを騒がせている、大怪盗クラウンからの予告状か。うちでもクラウン対策本部が設置されてるけど、成果は芳しくないからな』
グレンもああ言っていたし、それでバードランド警部たちが駆り出されたというわけか。
ひとりで納得していると、バードランド警部がグレンの頭を軽く小突く。
「今は仕事中だ。バードランド警部と呼べ」
「はあー、ユウさんもですか」
「……も、とはなんだ」
「ええ、ちょっとそこの童顔名探偵にも同じ注意を受けまして」
グレンは親指を立てて、くいっと俺を指す。
「君……本人目の前にして公開悪口とは、いい度胸だな」
ギリギリと奥歯を噛みしめながらグレンを睨みつけていると、バードランド警部が長いため息をついた。
「……話を元に戻すが。この予告状は完璧にクラウンのものを再現している。だが、ひとつだけ無視できない違和感がある」
バードランド警部は強制的に話の軌道を戻した。
さすがは多くの刑事のトップに立ち、取り仕切っているだけのことはある。部下の自由行動、自由言動にもビクともしないしな。
俺は密かに尊敬しつつ、バードランド警部の言わんとすることを先回りする。
「クラウンが狙っているのは、ウルドリッヒ家の美術品だけだ。それは、これまでクラウンが盗んだ美術品を振り返ればわかる」
理由までは定かではないが、クラウンは芸術家一族だったウルドリッヒ家の美術品に固執している。
ウルドリッヒ家は九年前に邸が火事になり、全員焼死したという悲劇の一族として号外に大々的に取り上げられた。それを『いわくつきの美術品がもたらした呪いだ』などと、はやし立てる者もいたが、邸の中からいくつか美術品が消えていたことから、何者かに持ち去られたと考えられる。それはつまり、美術品目的で意図的に邸に火をつけた者がいるということになり、事件性があると判断できる。
だが……捜査は不自然な形で打ち切られた。それから怪盗クラウンが現れたことを考慮すると、ウルドリッヒ家の放火事件となんらかの関係があることは明白だ。
「……つーことは、ルクリアは今回の予告状が偽物で、怪盗クラウンを名乗る第三者による犯行だってことを言いたいと?」
俺の考えを簡潔にまとめたグレンに頷いて答えると、ドルフ伯爵に予告状を返す。
「伯爵、このドレスを買いつけた美術商に会いたいのですが、住所を教えていただけますか」
「え、美術商ですか? それは構いませんけど……」
不安そうにしながら、ドルフ伯爵は使用人のメアリーに目配せする。メアリーは主人の意図を汲んでか、紙に住所を書き、俺に手渡した。
それを見届けたドルフ伯爵が口を開く。
「馬車を手配させましょう」
「お気遣い、感謝いたします」
「いえ、それはいいのですが……。クラウンのことはどうなるのでしょうか? もし、ルクリアさんが不在の間に、あのドレスが盗まれたら……」
ドルフ伯爵が言い淀んでいると、バードランド警部が前に出た。
「それに関しては俺が引き受けますので、ご安心ください」
「バードランド警部が、ですか」
ドルフ伯爵は困惑した様子で、ちらりと俺を見る。
……ん? 民間の職である探偵の俺より、公職に就き身元がはっきりしているバードランド警部にドレスを守られているほうが、ずっと安心できるはず。
なのに、ドルフ伯爵は乗り気じゃなさそうだな。
実績や役職も申し分ないはずなのに、と俺が不思議に思っている間にもバードランド警部はグレンを振り返って話を進める。
「グレン、お前はオーセットと一緒に調査をしてくれ」
「バートランド警部は、犯人がクラウンかもしれないという線でも捜査するんですね」
そう断言したグレンにバードランド警部は「ああ」と返して、眼鏡をクイッと指先で押し上げる。
「可能性としては低いが、クラウンがウルドリッヒ家の美術品を狙っていることを隠すため、あえて別の美術品を盗むパフォーマンスを見せた線も捨てきれんからな」
どんな可能性も徹底的に潰していくタイプの警部なんだな、と感心しながらも、俺は一点だけ受け入れがたい申し出を却下することにする。
「悪いけど、俺はひとりで捜査させてもらいたい」
「なんでですか」
心底疑問、と言いたげにグレンは目を丸くする。
「あの件については手を組むと言った。けど、今回の依頼に関しては君と協力するメリットがない」
「メリットだらけじゃないですか。俺、体術、剣術、なんでもいけますよ? ボディーガードに最適だと思いますけどね。あと、そこそこ鼻は効くほうです」
自画自賛もここまでくると、清々しいな。
本人曰く、鼻が利く──犯罪感知の能力には長けているらしいが、そこが問題なわけではない。
「警察は規律に縛られてるだろ。探偵の調査は正攻法ばかりじゃないんだ。君の存在はむしろ足手まといになる」
きっぱりとそう告げると、俺はスタスタと出口に向かって歩き出す。その後ろをグレンが追いかけてきたのだが、俺は『メリッサのウエディングドレス』が入っているショーケース以外にも、空のショーケースがいくつかあることが気になって足を止めた。
「うおっと」
急に立ち止まった俺の背中に、グレンが衝突する。
「……っ、どうしたんですか」
「いや、少し気になって。ドルフ伯爵、この空のショーケースには、なにか飾られていたんですか」
俺はひとつの空のショーケースに歩み寄りながら、そう尋ねる。
ガラスウィンドウの縁を覗き込めば、埃ひとつ溜まっていない。扉の開閉でついただろう擦り跡も加味して、使用感がある。
「はい、その辺のショーケースに入っていたものは、全て貴族の知り合いにあげてしまったんですよ」
「なぜ、とお聞きしても?」
「え、ええ、もちろんです。私は飽きやすいので、よく飾る美術品も模様替えするんですよ。それで、いらなくなったものを貴族の友人たちに差し上げているんです」
ドルフ伯爵の言葉に「そうでしたか」と答えて、俺は再び出口へと向かう。
すると、戸口に控えていたメアリーさんがドアを開けて先導してくれた。
「貴族にもなると、高価な美術品をぽんぽん譲れるほど、羽振りがよくなるんですかね。それとも――」
追いかけてきたグレンは俺の隣に並ぶと、言いかけた言葉の先を紡ぐ。
「その知り合いとやらに貢ことで、ドルフ伯爵に得でもあるのか……」
メアリーさんがいるというのに、平然とこの家の主を中傷するグレンを俺は肘で突いた。
「君はもっと危機感を持つべきだ。口を慎んだほうがいい。どこで誰が聞き耳を立てているのか、わからないんだからな」
「だからですよ。挑発に乗ったネズミがひょっこり顔を出すかもしれない」
唇の端で不敵に笑ったグレンは、手で拳銃を作り、前を歩くメアリーさんの背に照準を合わせる。そんな無遠慮で危機感のない刑事に、俺はあからさまにため息をついてやった。
「俺は君とは違って、危ない橋をむやみやたらに渡ることはしない性質なんだ。着実に石橋を叩いて渡り、真実に辿り着く」
「俺はルクリアとは違って、どんな橋もとりあえず渡ってみますよ。推理だけじゃ、辿り着けない真実もあると思うんで」
やっぱり、俺とは正反対の人間だな。
その結論に至り、それ以上の説得を諦めたとき、前から花瓶を手にした使用人がやってくるのに気づく。俺は「すみません」と女性を呼び止めた。
「それはどこかに飾る予定ですか?」
「え? は、はい。廊下の置き台に……」
「薔薇、ですか。庭園に咲いていたものですね。ドルフ伯爵は花瓶……他の調度品も含めて、よく新調していますか?」
「そ、そこまで頻繁ではありませんが、ときどきカーテンや絵画を変えられたりはしています」
オドオドしながら答える彼女に、俺は「どうもも」と帽子を脱いで頭を下げる。
「時間を取らせて申し訳ない」
帽子を被り直して前を向くと、突然聞き込みを始めた俺にメアリーさんは困惑しながらも再び歩き出した。
「どこが飽きやすくて、よく模様替えする……だ」
「ときどきって言ってたな。とんだホラ吹き野郎ですね」
「全くだ。この俺を欺けると思うなよ」
邸を出ると、俺たちはメアリーさんが用意してくれた馬車に乗り込む。
向かいの席に腰を下ろしたグレンは、腕を組んで俺を見た。
「……で、その美術商に会って、どうするつもりですか」
「君は違和感を抱かなったか」
答えは与えず、俺はまったく別の問いを投げ返す。
メアリーさんとは邸で別れたので、馬車の中には俺とグレンのふたりきり。人目をはばかる必要はないため、俺は突っ込んだ話題をグレンにぶつけた。
「質問を質問で返さないで下さいよ」
グレンは苦笑して、興味深そうに「違和感って?」とさらに聞き返してくる。俺はドルフ伯爵がメリッサのウエディングドレスを紹介してきたときのことを思い返しながら、違和感のピースを口頭であげていくことにした。
「ドルフ伯爵はメリッサのウエディングドレスの購入に関して、『高い買い物でしたが、大を得るにはそれ相応の対価を払わねばなりませんからね』と言った。そして君も美術品を貢ことで、ドルフ伯爵に得でもあるのか、と……」
引っかかっていたドルフ伯爵への違和感を確かなものに変えたのは、グレンのひと言だった。
「それにあの空のショーケース、おかしくないか? 高さから横幅まで全て同じ大きさだった。これは芸術品でも同じ系統のものをコレクションしている可能性がある」
「つまり、ドレスを集めてるってことですか?」
「まだわからないけどな。それにしても、メリッサのウエディングドレスか……」
グレンは「なにか気になることでも?」と、訝しげに片眉を持ち上げる。
「あれはアドナードが手掛けた、幻のメリッサシリーズだ」
「アドナード?」
聞き覚えがない、といった反応だ。それもそのはず、アドナードは有名な画家でも彫刻家でもない。
「数百年前に存在した王室御用達の仕立て屋だ。他にもメリッサのイヴニングドレス、メリッサのオペラドレス、メリッサのスペンサーがある。でも、アドナードはこのメリッサシリーズのドレスだけは誰にも売ることがなかったらしい」
俺はこの依頼を受けたときに調べた『メリッサのウエディングドレス』について話す。
「アドナードは当時十歳だった娘を流行り病で亡くし、それから成人していれば身に着けただろうドレスをメリッサの誕生日に必ず作った。だからメリッサシリーズは、『君を愛す』という花言葉があるアネモネが必ずモチーフになっている」
「全てメリッサのために作られたドレスですか……。娘の成長を見たかったっていう親心ですかね」
「そうだな」
親の愛の象徴ともいえるメリッサシリーズのドレスは数百年経った今も綺麗に保存され、その縫製の細やかさから美術品としての価値を持つようになった。
民衆がアドナードの作品を美術品に変えたといってもいい。
「メリッサシリーズのドレスには数に限りがある。だから高値で取引されるが、あれを手に入れたい人間は五万といる。だが、ドルフ伯爵はそこまで熱心なアドナードファンというわけでもなさそうだ」
「確かに、屋敷にはメリッサのウエディングドレスしかなかったですからね。もしくは……他のメリッサシリーズのドレスは貴族に配ったとか」
「言っただろう、数に限りがあると。ドルフ伯爵が懇意にしている貴族全員に配れるほど、メリッサシリーズはない。でも、ショーケースの数の多さからして、メリッサシリーズ以外にもドレスを購入していた可能性がある」
そこでようやく、グレンは俺の意図に考えが至ったらしい。
「今の段階では、ドルフ伯爵は黒に近いグレーってとこですね。クラウンが狙う動機は十分にある。けど、予告状は高確率で偽物(フェイク)。だからクラウンのことはバートランド警部に任せて、俺たちはドルフ伯爵が大量にドレスを集める理由を突き止める。だから美術商にも話を聞きに行くんですね」
「ようやく気づいたか。それに可能性としては低いが、メリッサシリーズに特別な意味があるのなら、他のメリッサシリーズも購入しているはずだ。それをはっきりさせたい」
「ルクリア、いいんですか?」
グレンは車窓に肘を置き、頬杖をついて苦笑いする。
「なにがだ」
「依頼はクラウンからメリッサのウエディングドレスを守ること、でしょう。 ドルフ伯爵の悪事を暴くような真似をして、探偵業に支障が出たりしないんですかね」
「依頼は忘れていない。ただ、違和感をそのままにはできないたちなんだ。自分が関わる案件だからな。依頼主の素性を調べるのも仕事──」
そう言いかけたとき、ドンッと馬車が跳ねた。なにかに突っかかるような衝撃に、俺の身体は前のめりに浮く。
「うわっ」
「ルクリア!」
名前を呼ばれた途端、俺の腰にグレンの腕が回り、力強く引き寄せられた。そのまま厚い胸板に飛び込んでしまった俺は、男に触れられた嫌悪感に身体を強張らせる。
「……っ、ふう……」
止めていた息を吐きだして、気持ちを落ち着けようとした。
そんな俺に気づいたグレンが顔を覗き込んでくる。
「ルクリア、大丈夫か?」
その目に浮かぶのは、確かな気遣いだった。
「だいじょ……ぶ、だ」
「また強がりやがって。もうお前の『大丈夫』は信じないからな。理由はわからねえけど、男が怖いんだろ」
「……! どうし、て……」
完璧に隠せてるとは思わない。けど、出会ってまだ二日目だぞ? そこまで見抜かれるほど、わかりやすい態度はとっていないと思ってたんだが……。この男の勘が鋭いのか?
「お前、気づいてないと思うけど、バードランド警部と話してるときも、ドルフ伯爵と話してるときも、一定の距離をとってんだよ」
「そう、だったのか」
自覚はなかったが、無意識のうちに仕草に出ていたようだ。
「メアリーにも少し緊張しているみたいだったけど、他の女の使用人に対しては警戒してなさそうだったからな。比率からして、男性恐怖症なのかと思ったんだが……合ってるか?」
メアリーに関しては、俺もよくわからない。しいて言うなら、あの甘い香水が苦手なのだと思う。まあ、なんにせよ、もう隠せないだろう。
「……そうだ」
長い長い間のあと、自白した俺は悔しくてグレンから顔を背ける。
とてつもない脱力感に襲われて、俺は目の前の胸に寄りかかった。
瞼を閉じて、恐怖と嫌悪感に耐えていると、柔らかさを帯びたグレンの声が耳に届く。
「原因はなんだよ」
「知り合ったばっかりの君に、言う義理はない」
言えるわけがない、男に襲われただなんて。それを知られれば、あの警察官たちみたいに『男なのに情けない』とか、『本当は乗り気だったんだろう』とか、蔑まれるに違いないのだから。
「そうですか。じゃあ、無理には聞きません。でも……」
ふいにグレンの大きく骨ばった手が俺の後頭部に回る。それから、優しくあやすように髪を梳いてきた。
「俺は、ルクリアを傷つけねえからな」
「なんだよ、急に」
「だーかーら、ひとりで震えてるくらいなら、俺のところに逃げて来いってことだ。これでも刑事だからな、お前が怯えるどんなものからも守り切ってやるよ」
――なんでだ。髪を撫でる手も、聞こえてくる規則正しい心音も、この男なら信じてもいいのかもしれないと、そう俺に思わせてくる。
まあ、だからと言って急に素直になれるわけもなく……。
「ふんっ、俺より五つも年下のくせに生意気だ」
憎まれ口を叩きながらも、俺は赤くなっているだろう頬を隠すように、グレンの胸に顔を埋めた。
すると、くくっと喉の奥でグレンが笑うのがわかった。
「俺からしたら、ルクリアのほうがずっと子供みてえだけどな」
「おい……。敬語どころか、俺への敬いもどこかに忘れてきてるぞ」
グレンの胸から顔を上げずに文句を言えば、頭に乗っている手が、俺の髪をわしゃわしゃと犬にするみたいにかき混ぜる。
「すんません。年上なのに、なんか可愛くて」
「それ、うれしくないって言った。あと、俺は女顔だけどな、恋愛対象は男じゃないからな。愛嬌のある女性が好みだ」
「ぶっ、わかってますって。でも、目が離せねえ、守ってやりてえって思っちまうんだから仕方ないじゃないですか。しいていうなら、ペットに抱く感情と一緒っすかね」
「誰がペットだ、誰が。俺は君の犬になった覚えはないぞ」
言いたい放題言いやがって、恥ずかしいヤツ。
照れ隠しに素っ気なく返すと、俺は自分の忙しない鼓動が伝わってしまわないようにと、こっそり深呼吸を繰り返したのだった。
美術商を訪ねてやってきたのは、ラゼーフォン伯爵邸から馬車で一時間ほどの距離にある駅前のハイドストリート。店がいくつも立ち並んでおり、その突き当りの角に目的地はあった。
「ええ、伯爵はうちの店でメリッサのウエディングドレスを買われましたよ」
刑事と探偵の突然の訪問に困惑しながらも、中年の美術商が話す。
「他のメリッサシリーズのドレスは買われてましたか?」
グレンが疑問をぶつけると、美術商は首を横に振った。
「いいえ。そもそも、うちにあるメリッサシリーズは、あのウエディングドレスしかありませんから……」
それでは、ドルフ伯爵がメリッサシリーズを集めていたのかどうかがわからないな。
他の美術商から買い取った可能性もある。この件に関しては、ドルフ伯爵と関わりのある美術商を片っ端から当たって情報を集めるしかなさそうだ。
「そもそも、メリッサシリーズは美術商ですら手に入れにくいんです。私があのウエディングドレスを手に入れたのも、幸運みたいなものですしね」
「幸運?」
なんとなく引っかかり、聞き返す。
「ええ、突然この店に貴族と名乗る男がやってきましてね。自分のところでは使い道がないから、この店に置いて欲しいと譲ってくださったんですよ。これを幸運と呼ばずして、なんとやらですね」
「その貴族の名前をお聞きしても?」
「いや、それが名乗らなかったのでわからないんですよ」
怪しい、そう思ったのはグレンも同じだったようだ。
「どう思います?」
「まだ断定はできないが、偽物クラウンとなにか関係がありそうだ」
ヒソヒソと俺たちが密談していると、美術商は「そういえば」となにかを思い出したように声を上げる。
「ドルフ伯爵は、あのウエディングドレスを観賞用に購入された感じではなさそうでした」
「使用目的に心当たりはあります?」
グレンの問いに、美術商は頷いた。
「私の弟が仕立て屋をやっていましてね。それを聞いたドルフ伯爵は、他にも弟の店でたくさんドレスを購入されたようで……いや、実際に見て頂いたほうが早いですね」
不自然に言葉を切った美術商は一度店の奥に姿を消すと、大きな包みを抱えて戻ってくる。そこには、数枚のドレスが入っていた。
「今度、伯爵にお渡しする品です。ドルフ伯爵は買ったドレスの肩幅や丈の長さの調整も、うちでご依頼くださったんです。なので、誰かが身につけるのでは、と」
「やっぱり、他にもドレスを買ってやがったか……。メリッサシリーズに、こだわってるわけじゃなさそうだな」
ドレスを見下ろしながら顎をさするグレンに、美術商はおずおずと尋ねる。
「あのう、ドルフ伯爵は……なにか後暗いことでもしているのでしょうか?」
「ああ、いや。不安にさせてすみません。貴族の方々は、なにかと目をつけられやすいんですよ。こちらも守秘義務があるので詳しくは話せないんですが、念のための調査ですから」
訝しむ美術商を宥めるグレンをよそに、俺はドレスを観察していた。
ざっと肩幅が四十五センチ、丈の長さからするに身長が一七五センチほどなければ、裾が地面についてしまうドレスだった。目測ではあるが、英国人の肩幅と身長の平均値をとると……。
「これは十六歳以上、三十歳未満の男用に縫い直されているな」
その結論に至った俺を、グレンが勢いよく振り返った。
「――は? 男用に? ドレスを?」
「君は疑問符以外で言葉を構成できないのか」
「だって男だぞ、男」
「恋愛対象が必ずしも異性とは限らないし、男が女性ものの小物や衣服を好まないとも言い切れないだろ」
グレンはなぜかそこで納得したふうに「ああ」と言い、にやにやとする。
それにピンと来た。グレンは俺の部屋にあったテディベアや花柄のティーカップを思い出しているのだ。
「俺の前にもいますしね、可愛い物好きが」
グレンの視線は、迷わずまっすぐに俺に向けられている。せめてもの仕返しに、「話を戻すが?」と、据わった目で見つめ返してやった。
「ドルフ伯爵の体形に、このドレスは合わない」
「布が足りないですね、明らか」
「自分が着て悦に入るわけではない、ということだ。そうなると、これを自分でない男に着せ、ドルフ伯爵はなにかをしているということになるな」
ドルフ伯爵の邸にあった空のショーケースたちの中身は、おそらく美術商の弟の店で購入したドレスだ。貴族仲間に譲ったと言っていたが、普通、男物のドレスを受け取るだろうか。全員、女装趣味があるとは考えにくい。ならば、ドルフ伯爵同様に自分以外の男に着せるのが目的と考えられる。
では、大を得るにはそれ相応の対価を払わねばならないというドルフ伯爵の言葉の意味は?
そこまで考えて、絡み合っていた思考の糸が一気に解けた。
「……そういうことだったのか」
ふっと笑って、俺は美術商の男にお辞儀をする。
「ご協力、感謝します。それでは、これで失礼いたします」
「あ、おいっ。勝手に自己完結しないでくださいよ!」
「いいから、ついてこい。詳しくは帰りの馬車の中で話す」
いよいよ、ドレスを泥棒から守るという依頼とはかけ離れてきた。
だが、俺はやはり違和感を無視できないらしい。依頼人を追い詰めることになったとしても、真実を白日のもとに晒してみせよう。
グレンの服の裾を引っ張って外へ連れていくと、馬車の前で待機していた御者が頭を下げながら尋ねてくる。
「行き先はラゼーフォン邸で、よろしいでしょうか?」
「いいや、急ぎマルター街の高台にあるビストロ邸へ向かってください」
「承知いたしました」
御者に向かってひとつ頷き、俺は馬車に乗り込む。行き同様に向かい合わせに座ると、グレンがうずうずしながら俺を見てきたので種明かしを始めた。
「ドルフ伯爵は男色の貴族たちに、男を売ってたんだよ。ドレスは商品として恥ずかしくないよう、男たちを着飾るための衣装ってところだな」
「人身売買ですか……。今までスコットランドヤードにマークされてなかったのが不思議ですね。身寄りのない人間……スラム街のそこそこ顔立ちのいい男たちを拐かして、商品にしていたのかもしれないな。あそこでは、人がひとりいなくなろうと、誰も気にとめないですからね」
「ああ。それから、ドレスの行方だが、恐らく貴族仲間に贈ったんじゃなく、どこか別の場所で保管してるんだろう。たとえば、人身売買が行われるオークション会場とかな」
さほど驚いた様子もなく、グレンは「その線が濃いですね」と俺の推理を受けとめる。それで確信した。
「君はメアリーにこの依頼の話を聞いたときから、ラゼーフォン家にあまりいい印象を持っていなかったな。初めから、裏でよからぬことをしているんじゃないかと疑っていた。それはなぜだ?」
そう問いかければ、グレンは「んー」とうなりながら、考え事をしているときの癖なのか、頭をガシガシと掻いた。
「わかるんですよね、なんとなく。犯罪者の臭いってやつが」
「君は動物か」
刑事の直観というやつなのだろうか。グレンは俺が推理を経て辿り着いた真実をいち早く察知していた。
でも、勘というのはあながち馬鹿にできない。グレンの刑事としての経験があるからこそ、これまで直面した事件の系統にあてはまるか否かを瞬時に判断し、極めて怪しい人間を見抜くことができるのだろうから。
思った以上に、この男は優秀なのかもしれない。
「それにしても、残る謎は偽装された予告状ですよ。あれは誰がなんのために送ったんですかね」
グレンの言った通り、そこは俺も引っかかっていた。
あの予告状は九十九パーセントの確立でクラウンのものではない。だからといって、ドルフ伯爵の自作自演の説も薄い。人身売買に関わっている人間が、わざわざ警察と探偵の注目を集めるような真似をするか? 自分が怪しまれる確率を高めるだけだ。伯爵は動揺がすぐ顔に出るし、そのような危険を冒せるような図太さのある男ではないだろう。
「断言はできませんが、あの予告状が偽物(フェイク)だってことはドルフ伯爵も承知の上だと思うんですよねー」
グレンの言葉で思い出すのは、バードランド警部がクラウンの調査を担当すると言ったときのことだ。凄腕の警部にドレスを守ってもらえるというのに、ドルフ伯爵はどこか乗り気じゃなかった。むしろ、バートランド警部に守ってもらいたくなさそうに見えたのだ。あれは予告状が偽物であることがバレてしまうことへの恐怖だと仮定して。自作自演ではないが、予告状が偽物だとわかっている。この矛盾に一貫性をもたせるとすると……。
「ドルフ伯爵の裏に犯罪に関与した第三者が存在する、というのは考えられないか? 必ずしも目的が同じとは限らないが、なんらかの利害の一致があって、ドルフ伯爵は危険ではあるけど、予告状の偽装をせざるおえなかった」
それはおそらく、メリッサのウエディングドレスを美術商に譲った貴族と関係があるのではないか。
憶測で象られた可能性のひとつではあるが、ドルフ伯爵の意思とは関係のないところで、予告状の件は動いているのかもしれない。
その憶測をさらに紐解こうとしたとき、グレンが「なんにせよ」と俺の思考を遮る。
「ドルフ伯爵を問い詰めれば、わかることですね。それで……今、俺たちが向かってるビストロ邸って?」
そう言えば、説明してなかったな。
どこから話そうかと思いながら窓の外を見ると、いつの間にか馬車が傾斜を上っていることに気づいた。その頂にあるのは、広大な青薔薇の庭園とホワイトベージュの外壁をした洋館だ。
「貴族の知り合いの邸だ。みんなからは愛称のクーと呼ばれていて、俺もビストロってファミリーネーム以外、本名は知らない」
「本名を知らないって……それ知り合いって言うんですか」
「まあ、誰しも知られたくないことのひとつやふたつ、あるだろ」
俺がジャスパーにされた人生最大といってもいい汚点を隠しているように。
ふとした瞬間に鮮明に蘇る過去を無理やり振り払うと、グレンの眼差しが意味深なものに変わる。
「ふうん、ルクリアもか?」
「……詮索されるのは嫌いだ」
「それは、すんませんでした」
……こいつ、またなにか勘づいているのか?
心の中すら見透かそうとするグレンの瞳から俺はスッと目を逸らすと、根掘り葉掘り聞かれる前に話を変えることにする。
「とにかく、ドルフ伯爵のドレスを着る商品――被害男性たちが売られるだろう闇オークション、もしくは個人取引の現場を突き止めたい。そのためには、貴族が集まる夜会に参加する必要がある」
「ああ、夜会は貴族たちの情報交換の場ですからね。運がよければ、取引の現場に潜入することもできる。それで、貴族のツテを頼ろうとしてるわけですか」
不自然に話題を変えたというのに、グレンが追及してくることはなかった。
俺が詮索されたくないと言ったから、律儀に守っているのかもしれない。
情けないことにほっとしていると、馬車は正門を抜けて、ビストロ邸に到着した。
「やあ、ルクリア!」
大げさに両手を広げて、にっこり笑いながら近づいてくる金髪碧眼の青年。彼こそ、このビストロ家の当主であり、伯爵――通称クーだ。
「クー、相変わらず元気そうだ」
無駄に明るいクーに苦笑いしつつ、俺は隣でポカンと立ちつくしているグレンの紹介をする。
「こちらはスコットランドヤードの刑事、グレン・ディール。俺の依頼に、訳あって同行してる」
「ども、グレンです。つーか、ビストロ伯爵って若いんだな」
グレンが驚くのもわかる。クーは現在二十三歳で、爵位を継いだのはわずか十八歳のとき。両親は亡くなり、兄弟もいないため、この邸にいるのはクーと執事のアーロン、そして使用人の数名のみだ。
「立ち話もなんでしょうから、客間へご案内いたします」
いつ来てもパリッとした執事服に身を包んでいるアーロンが俺たちに一礼してから、そう促してくれる。
アーロンはクーよりふたつ年上なのだが、落ち着き払った雰囲気が年齢以上に大人びてみえる。右側だけアシンメトリーに長い紫の髪と口元のホクロが、どこか妖艶さを醸し出していた。
お辞儀ひとつとっても美しい。そう感じさせる所作につい見惚れていると、クーがいいアイディアを思いついたとばかりに両手をパンッと叩いて笑顔を見せる。
「そうだ! せっかくだから、夕食でもとりながらルーくんの話を聞くのはどうかな」
「ルーくん?」
なんとなく、つっこまれる気はしていたけれど、グレンがクーの単語を拾って聞き返す。それにクーは、おせっかいにも人差し指を立てて説明する。
「ルクリアのことだよ。僕はクーだから、ルクリアはルーくんかなって。ほら、音が可愛いでしょ?」
「まあ、そうですね」
納得した様子で、グレンが俺を振り向く。それも、餌を前にした犬のように期待した目をして。
「じゃあ、俺もルーって……」
「君は呼ぶな」
「なんでですか」
「君はひとつ許すと、最終的に俺を敬うことまで忘れそうだからな。今だって、ときどき敬語を忘れてるだろ」
俺とグレンがくだらない会話に花を咲かせている間に、クーが「ふたりの食事も準備しておいてね」と、夕食の手配を執事のアーロンに頼んでいた。
「かしこまりました。それでは皆様、食堂のほうへご案内いたします」
こうして俺たちは食堂に向かうと、夕食を囲みながら今回の事件についてざっくり説明した。
「つまりルーくんたちは情報を得るために貴族の夜会に参加したいってことだね。それなら夜会用の衣装を準備させるよ。アーロン、急ぎ仕立て屋をここへお願い」
ナイフで分厚いステーキ肉をカットしながら、クーは壁際に控えていたアーロンに指示を出す。
「かしこまりました」
一旦部屋を出ていくアーロンを見送ることなく、クーは向かいの席に座る俺たちに、さながら秘密の作戦会議でもするかのように声を潜めて話し出した。
「実はね、ドルフ伯爵が主催のシークレットパーティーがあるらしいんだよね」
それを聞いたグレンの顔は、苦虫を噛み潰したようになる。
「うわ、名前からして怪しいな」
「でしょ? 参加条件は商品を連れてくること。詳しくなにとは言ってなかったけど、ルーくんたちの話からするに、これって攫われた男の人たちのことだよね? しかも、シークレットパーティーは夜会の会場とは別室で行われてるみたい」
「なるほど、表向きは普通の夜会を装って、裏では人身売買。俺たちはそのカモフラージュに、まんまと騙されてたってわけだ」
今まで犯罪者を野放しにしていたことが悔しかったのか、グレンの表情が曇る。それに気づいた俺は、はあっとため息をついた。
「起こってしまったことは覆せないし、失ってしまったものは取り戻せない。だから、悔いる時間があるなら真実に辿り着くために走れ」
頼りない相棒(仮)に活を入れてからナフキンで口元を拭っていると、視線を感じて横を向く。するとグレンは食事の手を止めて、俺を凝視していた。
「そういう男らしいところ、惚れ惚れしますよ」
「この料理、酒でも入ってたのか」
でなきゃ、素面で男の俺に対して惚れ惚れなんて言うはずがないからな。
行儀は悪いが、フォークに刺した肉の匂いを嗅いでいると、素直な青年であるクーは不思議そうに首を傾げる。
「お肉を柔らかくするのにワインを使ってたと思うけど、火を入れた時点でアルコールは飛んでるはずだよ」
「素直に褒めただけなのに酔っ払い呼ばわりですか。俺の扱い、ひどすぎやしませんかね」
「ルーくんは照れ屋なんだよ。僕が爵位を継いだばかりの頃、街中でアーロンとはぐれちゃったことがあってね。そのときルーくんと出会って、一緒に探してくれたんだけど、お礼を言おうとしたらルーくんなんて言ったと思う?」
行儀悪くテーブルに頬杖をついたクーが楽しげにグレンを見る。クーのこいうところが貴族らしくなくて、とっつきやすさを感じさせるのだろう。
そんなことを考えて自然と表情を緩めていると、視線を感じた。隣を見れば、グレンが俺を探るように見つめている。
居心地が悪いったらない。耐え切れなくなった俺は、ふいっと顔を背けた。
「な、なんだよ」
「いいや、なんも?」
にやりと笑われて、なぜか顔に熱が集まる。そんな俺を目に焼きつけるように、じっと観察してくるグレンをキッと睨んだ。
「じろじろ見るなよ、不愉快だ。観覧料をとるぞ」
「すみませんって。でも、今ので答えがわかりましたわ。照れて、『礼をされるようなことはしてない』とか言ったんじゃないか?」
その答えに、クーは「ご名答!」と拍手をした。
「でも、お礼もさせてくれないなんて悲しくて。そんな僕の気持ちが顔に出てたんだろうね。ルーくんは『そういうの苦手なんだ』って赤い顔で付け加えたんだ」
「ははっ、ルクリアとは出会ったばっかりなんですけどね。なんとなく想像できますよ」
「でしょ? それはそうと、グレン。僕に対して敬語は必要ないよ。堅苦しくて肩が凝っちゃう」
わざとらしく自分の肩を揉む仕草をしてみせたクーに、グレンも肩の力を抜くのがわかった。
「いやー、助かる。話しにくくて敵わないからな。お言葉に甘えるよ」
すっかり打ち解けたふたりを眺めていると、なんだか腹が立ってくる。
俺のほうがクーともグレンとも先に知り合ったっていうのに、どうして俺を介さず、ふたりが仲良くなっているのかが意味不明だ。
いや、これは別に羨ましいとかではなく、ただ……ただ、そうだ。年長者である俺をそっちのけで、盛り上がるのはいかがなものかと……。
悶々と考え込んでいると、グレンの腕が伸びてくる。その手が触れる寸前、俺は条件反射で身体を強張らせた。
「な、なんだ」
「あー……、なんだってこともないんですけどね」
触れるか触れまいか、彷徨うようにグレンの手が宙を泳ぐ。やがてその瞳に決意が浮かぶと、躊躇いがちに俺の頭の上に乗った。
「この流れで目の前の名探偵さんにも、敬語縛りを解禁してもらえねえかなって思ってるんですけど」
いつもの俺なら、グレンの申し出を即座に却下するところだ。だが、今はそれどころじゃない問題に直面していた。
おかしい。俺、男に触られてるのに気持ち悪くない……?
自分の変化に戸惑いながらも早くグレンに返事をしなければと、いつも通り強がる。
「し、しない。永久にな」
「はは、予想通りの反応ですね」
自覚するほど横暴な俺の主張に、グレンは怒ることなく苦笑いしていた。
そんなグレンに胸の奥がむず痒くなるような奇妙な感覚を覚えていると、食堂の扉が静かに開く。
「お食事中失礼いたします」
食堂に戻ってきたアーロンがクーの隣に立ち、少しだけ腰を屈めてなにかを耳打ちする。それに満足げに頷いたクーはナフキンで口元を拭って席を立ち、にこっと無邪気に笑った。
「仕立て屋が到着したらしいから、そろそろ始めよっか」
クーの手引きでとある貴族の夜会に参加することになった俺とグレンは、燕尾服にシルクハット姿で会場に足を踏み入れる。
「一見は普通の夜会だな」
顔色ひとつ変えることなく周囲の状況を観察しながらそう言ったのは、バードランド警部だ。
いつもの眼鏡をモノクルに変え、緑がかった黒髪をオールバックにしている。
なぜバードランド警部がここにいるかというと、グレンが潜入捜査は必ず警官が二名体制であることが条件だと言い出して聞かなかったからだ。そのため、潜入の前にバードランド警部のいるラゼーフォン家に寄り、ここまで来た。
俺ひとりならすぐにでも潜入できたものを……。わかってはいたことだが、規則に縛られた警官を相棒に持つと、いろいろ面倒だ。
「それにしても……」
バードランド警部の切れ長の目が真っ白な燕尾服に身を包んだクーに向く。その眼光は無罪の人間すらやましいことをしてしまったんじゃないかと怯えさせる鋭さだが、クーはももろともせずコテンッと首を傾げた。
「なんだい、ユウ」
「…………」
にこにこしながら自分を呼び捨てにしたクーに、バートランド警部はぎょっとしている。だが、それも数秒のこと。気を取り直すように咳払いをして、すぐさま無表情に戻る。
「伯爵がどういう経緯で、この夜会に参加する資格を得たのか、お聞かせ願おう」
「僕の事情聴取? えっとー、貴族が集まる舞踏会……いや、晩餐会だったかな? どこでかは忘れたけど、貴族からシークレットパーティのことを聞いてね。ほら、お酒が入ると人ってペラペラ喋っちゃうものだからね。情報を喋らせるのは簡単だよ。その貴族のツテを借りて、今回は参加出来たってわけさ」
可愛らしい顔でさりげなく恐ろしいことを口走るクーに、バードランド警部の表情は心無しか引き攣っているように見えた。
「あまり、危険なことに飛び込んでいかないように」
「え、心配してくれてるの? ユウってば優しいんだね!」
「……俺は警察だからな。市民を守るのは当然の責務だ」
「わーっ、仕事熱心なんだね。僕、尊敬しちゃうな~」
無邪気なクーに、バードランド警部は絶句している。それを横目に、ワインレットの燕尾服に身を包んだグレンが耳元で囁いてくる。
「あんな得体の知れないものと遭遇した、みたいなバードランド警部の顔、初めて見ましたよ。いや、むしろあのバートランド警部に物怖じせず話しかけるあたりが只者じゃない」
「俺もあんな感じで、クーのペースに巻き込まれたからな。クーは素直に人を褒めるし、思ったことを言葉にできる勇気のある人間だ。どんな心の壁も知らないうちに壊されてるんだよ」
人は弱い生き物だから、自分より優れた人間を気に食わないと思う。だから、『すごい』の三文字すらプライドが邪魔して言えない。
でも、クーは違う。間違っていることは間違っていると言える。それも彼の美点だ。人によく思われたいという欲よりも、大事な人のことを思って、嫌われるかもしれない言葉をぶつけられる。それは並大抵の覚悟では足りない、勇気のあることだ。
それだけのことで大げさだと思われるかもしれないが、彼のように素直であること、気持ちを言葉することというのは存外難しいのだ。
「欲しいものを欲しい、怖いものを怖いと言えない人間からすると、彼は眩しく見える。言えない気持ちを先回りして汲んでくれるクーといるのは、居心地がいいんだ。そういう点では君も似ている」
「俺がクーにですか?」
「ああ、そうだ」
俺はステッキをぎゅっと握り、シルクハットのつばを下げると、顔をできるだけ隠す。
「君は俺の様子がおかしいとき、すぐに声をかけてくれたり、頭を撫でてくれたり、その……してくれた……だろ」
シルクハットに視界を制限されているせいで、グレンの顔は見えない。でも、グレンが喉の奥でクッと笑ったのはわかった。
俺は熱を持った顔を少しだけ上げて、グレンの表情を確認する。
「俺に触れられるの、まだ怖がってたみたいなんで遠慮してたんですけど……。もう少し、強引にいってもよさそうですね」
グレンはどこかうれしそうに目を細め、シルクハット越しに俺の頭を撫でる。それから、腰を屈めて顔を覗き込んできた。
「クーに負けないように、俺も頑張りますから。いつか、俺といるほうが安心するって言わせてやりますよ、相棒」
「……っ、強引なのは、どうかと思うぞ。それに相棒(仮)な」
俺の照れ隠しなどお見通しなのだろう。グレンに「はいはい」と軽く流される。
「まだ相棒(仮)ですけど、いつか本採用にしてもらえるように努力します。簡単にはいかないだろうけどな、そのほうが攻略のし甲斐があるってもんです」
「人をゲームのラスボスみたいに言うな」
「ははっ、例えがうまいですね。まあ、クーのことを話してたときみたいに、優しい顔で俺のことを語ってくれる日が来るまで根気強く歩み寄りますよ」
俺の口の悪さにも動じず、ニカッと笑うグレンに調子が狂う。
「勝手にしてくれ」
今度は両手でシルクハットのつばを引っ張って顔を隠す。グレンには「ははっ」と笑われた。俺は恥ずかしさをごまかすように、一歩前に出る。
「そろそろ、こちらも動くぞ」
打ち合わせは馬車の中で済んでいる。皆は表情を引き締め、俺のひと言に静かに頷いた。
作戦としてはこうだ。俺は商品として、グレンは売り手の貴族として、この建物内のどこかで行われているシークレットパーティーに潜入する。
クーとバードランド警部には、俺とグレンの合図で摘発に乗り込んできてもらう手筈になっている。
表向きの夜会には、ドルフ伯爵の姿はない。一足先にシークレットパーティーに参加しているのだろう。
「行くぞ、グレン」
俺はグレンとともにバードランド警部たちと別れて、会場内を歩く。
「演技とはいえ、相棒を売るなんて嫌な役だな」
「本当に売られるわけじゃないだろ。だから、罪悪感なんて抱く必要……」
そう言いかけたとき、あきらかに夜会慣れしていない年若い青年の姿を発見した。
今、俺たちがいるのは、カモフラージュ用の会場だ。木を隠すなら森の中、招待客を隠れ蓑にするため、商品である男たちにも燕尾服を着せているはず。
それに本来、パーティーは女性とペアになり参加するものだ。実際、ここにいる参加者たちは女性を同伴している。
だが、あの青年はひとりで壁際に立っている。さりげなく周囲に視線を巡らせれば、ちらほらと挨拶回りに見せかけて、別の組の男性と合流しているのが窺えた。
それを裏付けるように、同伴の女性と別れた貴族の男が青年に近づく。腹にたっぷりぶら下げた贅肉を揺らしながら、青年の前で足を止めると、その両肩を掴んで強く引き寄せた。
──あれは九割方、シークレットパーティーの参加者だな。
「グレン、行けるな?」
「いつでも」
俺たちは短く言葉を交わし、貴族と青年に接触する。
「これはこれは、可憐な方を同伴させていますね。羨ましい」
グレンはあたかも高い身分であるかのような口調で声をかけた。貴族の男はビクリと肩を震わせ、警戒するようにグレンを見る。
「見ない顔ですね。失礼ですが、名前を伺っても?」
「これは、ご挨拶が遅れて申し訳ない。私はダッドロー・ハウゼン。伯爵家の生まれなんですがね、お恥ずかしいことに夜会は苦手でして。滅多に顔は出さないんですよ」
ダッドロー・ハウゼンは偽名だ。もちろん、そんな伯爵も存在しない。貴族たちは一日に数えきれないほどの人間と挨拶をするので、その顔と名前を全て暗記できている者は少ない。ゆえに俺たちの嘘は、早々にはバレる心配はないないだろう。
「どうりで存じないわけだ。それで……なぜ今日は、その苦手な夜会に参加されているのですか?」
「こちらで大変興味深い催し物があると耳にしましてね」
「……ほう、そうでしたか」
肯定はしなかった。でも、否定もしていない。この男は十中八九――黒だ。
それを同じように察知したグレンも畳みかけるように相手を誘導していく。
「うちのは、とっておきなんですよ」
グレンは俺の腰をグイッと引き寄せる。それから、その大きく骨ばった指を俺の頬に這わせ、顎を掬うように持ち上げた。
「このサファイアのような瞳に、きめの細かい色白の肌。一度くらい手をつけておけばよかったと思ったくらいです」
お、おい……なにが『演技とはいえ、相棒を売るなんて嫌な役だな』だよ。ノリノリじゃないか。
数分前の発言を反省させたい気持ちをぐっと堪える。
俺はグレンの迫真の演技に引きつりそうになる顔に、これから売られる商品として、悲愴を貼り付けた。
そして、されるがままグレンの腕の中でじっとする。
「そちらの宝石も高値で売れるといいですね」
にっこりとするグレンに完全に信用しきったのか、貴族の男は下卑た笑みを露わにした。
「本当に上物だ。今夜は、私がその宝石を買うとしよう」
その返答は予想していなかったのか、グレンは黙り込む。不思議に思って顔を上げると、グレンは俺を抱く腕に力を込めた。
「あの野郎、ここで縄にかけとくか?」
微笑を張り付けたまま、貴族には聞こえないように耳打ちしてくるグレンを俺は肘で軽く小突く。
「それじゃあ、作戦が水の泡だろ」
「はいはい、そう言うと思ってましたよ。けど、覚えててください。相棒には指一本でも触れさせねえから」
「……っ、当たり前だ。そうしてくれないと、困る」
恥ずかしいやつだ。よく平然とそんなことを言えるな……って、俺が過剰に反応しすぎなのか?
他意はないとわかっていても、俺は妙に言葉の意味を勘ぐってしまう。
これでは、俺がグレンのことを意識しているみたいじゃないか。相手は男だぞ? ないない、ありえない。
自分に言い聞かせていると、貴族が懐中時計を確認してから、グレンににたりと下品な笑みを向けた。
「そろそろシークレットパーティーの時間ですよ、行きましょう」
「ああ、もうそんな時間ですか。では、参りましょう」
コロッと貴族のふりをするグレンとともに、今いるパーティー会場を出る。廊下の途中にあるドアの前にやって来ると、強面の男がふたり立っていた。鋭い眼差しに見送られながら、俺たちは中へ通される。入り口の壁にかかっていた手燭台の明かりだけを頼りに、真っ暗な階段を下りていき、地下の廊下を進んだ。やがて、突き当たりのところで使用人らしき男に止められる。
「商品は右側の化粧室へ、参加者様は左の会場へお進み下さい」
一瞬、グレンの心配するような視線が飛んでくる。俺は『大丈夫だ』と目で合図を送り、使用人の指示に従った。
化粧室に入ると、何着ものドレスが用意されていた。
ドルフ伯爵が大量のドレスを買っていたのは、貴族たちが連れてきた商品に着せるためだったのか。
他の商品たちはすでにシークレットパーティに向かったのか、ここにいるは使用人とおぼしき女たちと、俺とあの青年だけだった。
俺たちは待ち構えていた使用人たちに『ドレス』 を着せられていく。
地下のある会場だけでなく、使用人やドレスまで用意するとは、手の込んだことだな。
俺たちは全ての準備を終えると、会場へ続く廊下を歩かされた。
隣にいる商品の青年は、ガタガタと震えている。
俺は前を歩く使用人の目を盗み、その背に手を添えた。青年はぱっと顔を上げ、俺を泣き出しそうな目で見つめてくる。口パクで「大丈夫だ」 と言うと、青年は驚きに目を見張っていた。
どうも、ジャスパーにいいように扱われた自分が、この青年に重なる。
どんな生まれであろうと、人権や意思を踏みにじられていい者などいない。それをここにいる愚か者どもに思い知らせてやる。
俺は安心させるように青年に笑いかけ、前を向く。 気を引き締めて会場へ足を踏み入れれば、そこに広がっていた光景に吐き気を覚えた。
「これ、は……」
ライトアップされたステージで裸にされた男たちが辱められている。それを目の当たりにした俺は、思わずよろけた。
「……っ、大丈夫ですか?」
とっさに俺を抱き留めたのは、グレンだ。すぐに自分の足で立とうとしたのだが、身体の震えが止まらず、力が入らない。脳裏に浮かぶのは、ジャスパーに犯された、あの悪夢のような日の記憶。何年たっても消えない傷に怯えていると、グレンが俺の額の汗を手で拭ってくれた。
「悪い……な。取り乱したりして」
「こういうとき、支えるのが相棒の特権なんで」
「仮だけどな」
苦い笑みを浮かべ、深呼吸をする。なんとか気を静めようとするが、一度引いた血の気はなかなか戻らない。そんな俺に追い打ちをかけるように、会場にドルフ伯爵の声が響き渡る。
「これから媚薬を配ります。それを使って商品の淫らな姿を披露するもよし、舞台の拷問器具を使うもよし。与えられた一分間で、商品のプレゼンテーションをしていただきます」
そんなアナウンスとともに仮面をつけた黒服の男たちが現れ、錠剤のようなものを配り始めた。
「オークション形式で買い手を見つける、いつもの流れでよろしいですかな」
狂気じみた歓声があがる中、俺はグレンの服の袖を引っ張って小声で告げる。
「俺に買い手がついた時点で、こいつら全員を現行犯で捕まえる。だから、最初のプレゼンテーションは、君が立候補するんだ」
「おいおい、自分を犠牲にする気か? 嫌いな男どもの前で惨めな姿さらすとか、お前からしたら死にたいくらいの屈辱なんだろ?」
グレンの敬語が取れたのは、それだけ真剣に俺に言葉をぶつけている証拠だ。たった二回しか会っていないというのに、彼の人となりがわかるのは、俺のプロファイルどうこうというより、グレンのまっすぐさのせいだ。
「なら、他の商品として連れてこられた男たちを囮に使えっていうのか? 被害者が出てから腐れ貴族どもを捕まえるんじゃ遅すぎる。ふりでいい、それっぽく見せて言質をとれ」
「その被害者の中に、ルクリアは入ってないんだな。でも俺は、お前も含めて市民を守る刑事だ。賛成できない、他の方法を探すべきだ」
「考える時間なんてないことは、君もわかってるだろ。迷っている間に被害者が出るぞ」
俺のようなトラウマに苦しむ人間を生み出してはいけない。何度も穢され、傷つけられた過去に怯える恐怖を身をもって知っているからこそ、なんとしてでも食い止めなくては。
「俺は誰かの私利私欲に犠牲になる人間を生み出さないために探偵になった。だから、この身を使ってでも犯人には罰を、犠牲者には救いをもたらす」
「ルクリア……」
「それに、俺は市民じゃなく、君の相棒なんだろ? 背中を預け、隣を歩ける繋がりでないのなら、俺にとって相棒は枷にしかならない」
圧倒されるように黙まり込んだグレンだったが、ふっと観念した様子で表情を緩める。
「……お前、本当にかっこいいな。わかったよ、俺はお前の相棒だもんな。最大限、協力する」
そう言って、そばを歩いていたふたりの黒服の男を呼び止める。
「すまないが、君たちの仮面を借りてもいいかな。これからのプレゼンを盛り上げるために必要でね」
黒服の男たちは戸惑うように顔を見合わせたが、自分たちがつけていた仮面を外してグレンに手渡した。
入手できたのは、目元だけが隠れる仮面。俺は男たちがいなくなるのを見計らって、グレンの手からそれを奪う。
「俺たちの顔はドルフ伯爵に割れてるからな」
「これだけじゃ心もとないですけどね。ないよりマシでしょう」
「ああ、せいぜいお守り程度に思っておく」
俺は仮面を装着し、ステージを睨み据える。
「これでドルフ伯爵を罠にかける準備は整った」
「行けますか?」
確認するように、グレンが視線を寄越してきた。
「誰に聞いてる、当然だ」
俺は恐怖を胸の奥にしまい込み、強気に頷いてみせる。それを見届けたグレンは、すっと長い手を上げた。
「トップバッターは、この私からでよろしいでしょうか?」
グレンの申し出に、ドルフ伯爵は満足そうに口角を上げ、恭しく手でステージを指し示す。
俺はグレンとステージに上がった。グレンは後ろから抱きしめるような格好で、俺の肩からドレスをゆっくりとずり下ろしていく。
「なんて綺麗な肌だ」
参加者たちからは熱いため息がこぼれ、全身に鳥肌が立った。
「……大丈夫だ。お前を犠牲にはしねえよ」
グレンの優しい声音に少しだけ気持ちが軽くなる。大きく骨ばった手が今度はドレスの裾をたくし上げ、太ももを撫でてきたが、不思議と恐怖感はなかった。
シークレットパーティーに参加している貴族たちは『一億!』『いや、こっちは三億だ!』と次々に値段を口にする。
「さあ、いくら出しますか! いや、むしろ私も買いたいくらいだ」
ドルフ伯爵が鼻息荒く観客たちに声をかける。そうして自分に値がつけられていくのを眺めながら、俺はその時を見計らう。
やがて買い手がついたらしく、ドルフ伯爵が「静粛に!」と高らかに叫んだ。皆の視線がドルフ伯爵に集まれば、金の積まれた台が運ばれてくる。
「買い手は三億出した、この私で決まりです!」
「よりにもよって、お前が買うのかよ」
呆れ交じりに突っ込んだグレンは、すっと立ち上がると、俺を振り返って強気な笑みを向けてくる。
「あとは任せといてくださいよ、相棒」
だから、(仮)だって言ってるだろう。
心の中で悪態をつきつつも、貴族たちの舐めるような視線に吐き気がして、言い返す気力がわかない。ひどい倦怠感の中、ドルフ伯爵の元へ歩き出すグレンの背中を俺は頼もしく思いながら見送っていた。
「それでは、これが売買契約書です」
犯罪の決定的な証拠である契約書を刑事であるグレンに差し出す、マヌケなドルフ伯爵。俺は我慢できず、口端を上げる。
――その時が来たな。
契約書が完全にグレンの手に渡った瞬間――俺は声を張りあげた。
「バードランド警部!」
合図を待っていたバートランド警部が、スコットランドヤードの警察を引き連れ、雪崩込むように会場に乗り込んでくる。
「スコットランドヤード所属のユウ・バードランドだ。お前たちを人身売買の現行犯として、逮捕する!」
警察手帳を見せながら、グレンとともに一斉摘発を行うバードランド警部。その背中から、ひょっこりと顔を出したクーが俺を見た途端に血相を変えた。
「ルーくんっ」
こちらに駆けてきたクーは、俺の乱れたドレスを見て心配そうに眉尻を下げる。それからすぐに、俺の服を整えてくれた。
「すまない、クー。あとは自分で……」
クーの手を外させようとしたのだが、思ったよりも強い力でびくともしなかった。俺が目を丸くしていると、クーは涙で瞳を潤ませながら頬を膨らませる。
「こんなときくらい、僕に甘えてよ。僕はね、大事な友達のためになにかしたいんだ。それさえ、ルーくんは許してくれないの?」
「あ……いや、心遣いを無下にして悪かった。でも、脱がされたのは肩だけだから、大丈夫だ」
胸がじんと温まるのを感じながら、俺は立ち上がる。だが、下肢に力が入らず、よろけてしまった。そんな俺の身体を、後ろから伸びてきた腕が支える。
「え……」
振り向くと、グレンが優しい眼差しで俺を見下ろしていた。
「アパートまで送りますから」
「別に……平気だ」
「そんな青い顔しておいて、平気なわけないでしょうが。バードランド警部には許可をもらったんで、俺がこのまま家まで運びます」
そんなグレンの話を聞いていたクーが「なら、外に待たせてある馬車に乗っていくといいよ」と言ってくれたので、俺たちは甘えることにした。
グレンが俺に肩を貸しながら、会場の外に向かって歩き出す。
「今から言うことは、決してルクリアを軽んじてるわけじゃないんで、そこんとこ忘れんでくださいね」
「なんだ、藪から棒に……」
「やっぱり俺は、自分を犠牲にするみたいな策には反対だ。できれば、今日みたいにルクリアを囮にすることはしたくねぇ。……まあ、あのときは他にいい作戦もなかったんだけどな。口ばっかで、悪い」
はっきりものを言うくせに、最終的には自虐的になるグレンに、俺はため息をつく。
重い腕をなんとか伸ばして、その辛気臭い顔の肉を軽くつねってやった。
「あれは……俺がやれと命令したんだ。君が責任を感じる必要は……ない」
そう口にしながら、俺は増していく疲労感に耐えられなくて瞼を閉じる。
「でも俺は、もう相棒を失いたくはねえんだ」
強い眠気に襲われながら耳に届いたのは、不安に揺れるグレンの呟きだった。
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