第4話 蝶の誘惑(前編)

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第4話 蝶の誘惑(前編)

 タナトス事件から一週間が経った頃、俺はソファーでロンドンタイムズを見ていた。  あのジェイク・ハドソン記者のおかげで警察のトップ、アグリ警察庁長官が起こした事件が明るみになり、バードランド警部は見事にロンドンの英雄の座を取り戻している。 「それで、君はなんで俺の家にいるんだ」  手元の新聞から顔を上げた俺は、せっせとテーブルに手料理を並べていくグレンを見た。 「非番の日くらい、お前に飯を食わせねえと。どうせひとりのときは、食パン一枚にコーヒーしか口に入れてないんだろ?」  グレンの言葉は図星だったので、俺は言い返せずにぐっと押し黙り、明後日の方向へ視線を投げる。 「……だからなんだ。俺は家政婦を雇った覚えはないぞ」 「俺がやりたくてやってんだよ。相棒には長生きしてほしいだろ。ほら、新聞は置いて飯にしようぜ」  目の前にはスクランブルエッグにベーコン、ソーセージやベイクドビーンズ、トマトにマッシュルームが盛られたイギリスの伝統的な朝食であるイングリッシュ・フル・ブレックファストがある。  思いのほか空腹だったらしく、グレンの料理を前にグーッとお腹が鳴ってしまった。  俺は言われた通りに新聞を畳んで机の端に置き、グレンと食事をとることにした。 「そういやあ、セレア・ランバーの棺の中に入ってたあのアネモネ。ドーズ・ランバーじゃなくて、アドニスが入れたものだって、バードランド警部の聴取で白状したらしい」  フォークでソーセージを刺しながら、グレンは先日の事件について話し出す。 「だろうな。メアリー・ジェーンとアドニスについては、調査を継続したほうがよさそうだ。ここ最近で起こった事件の裏には、なにかもっと……別の大きな思惑が動いている気がしてならない」 「そうだな……って、悪い。食事中にする話じゃなかった。飯がまずくなるよな」  ふいに謝ってきたグレンに、俺は今更だと首を横に振る。 「どんな会話をしていようと、君の食事がおいしいことに変わりはないんだから、気にしなくていい」  思ったことをそのまま伝えたつもりだったのだが、グレンはなぜか目を丸くして固まった。  少しの間のあと、彼の手に握られていたフォークから、ボトリとウインナーが落ち、グレンはハッとしたように瞬きを繰り返す。  「そうか、俺の料理……おいしいと思ってくれてたんだな」  ふっと笑うグレンの嬉しそうな顔を見た瞬間、俺は乙女か!とツッコミを入れたくなるほど胸の奥がきゅっと締めつけられる。  参ったな……最近の俺はどうもグレンに絆されている気がする。  今までは朝食なんて手軽に食べられる食パン一枚、もしくは食べないのが基本だったのに、最近はそれだけだと物足りなさを感じるようになった。他人と生活すること自体が苦手だったはずなのだが、グレンがいないと部屋がやけに静かな気がして落ち着かない。 「そ、そんだけのことで喜ぶなんて……安いな、君は」  恥ずかしさをごまかすようになじれば、グレンは机に頬杖をつき、優しさを滲ませた目を細める。 「ルクリア、気づいてるか? 俺に敬語で話せって言う頻度、少なくなってるんだぜ」 「そういえば……」  グレンはふたりきりのときだと、ほとんど敬語を使わなくなっていた。最近ではそれにすら気づかないほど、グレンのタメ口に慣れている自分がいる。 「ルクリアが俺に触れられることに慣れるたび、砕けた口調を許してくれるたび、君よりもグレンって名前を呼ばれることのほうが多くなるたび、こうやって俺の料理をうまいって言ってくれるたび……。俺はちゃんと、お前の相棒になれてんだなってすげえ嬉しくなんだよ」  清々しい笑顔で、グレンは恥ずかしいセリフをつらつらと述べる。  俺は熱を持つ顔を俯けた。 「やっぱ安いな、君は」 「ははっ、どうとでも言え。俺は本心しか伝えてねえからな」  にこにこして、なんなんだこいつは。  俺だってグレンがそうやって嬉しそうに笑ってたり、俺のために料理を作ってくれたり、世話を焼いてくれるたびに胸があったかくなる。  なのに、素直に同じ気持ちだって言えない俺もなんなんだ。  悶々としながら料理を口に運んでいると、アパートの扉がコンコンと叩かれる。グレンはフォークを置き、席を立とうとした。 「出なくていい」  俺は勝手に来客を出迎えようとしているグレンを引き止める。 「でも、来客みたいだぞ?」 「ああ、そうだな」 「そうだなって……出ないのか?」 「まだ朝の七時だぞ? しかも食事中だ。迷惑な上に、タイミングが悪い。あと、なんか嫌な予感がする。よって、出ない」 「んな、不機嫌そうな顔すんなよ。お前の予感は当たるから怖いけどな、このまま放置するわけにもいかねえし、俺が出てくるから。ルクリアは食べてろ」  苦笑いしながらグレンは俺の頭をぽんっと撫でて、ドアのほうへ歩いていく。俺は来客をグレンに任せて、スープを飲んだ。  なんとなくだが、誰が来たのか予想がついている。先ほど目を通したロンドンタイムズには、怪盗クラウンが新たな招待状を送ったと書かれていた。それに関して、俺に助力を乞うとすれば……招待状を受けた貴族か、もしくは――。 「オーセット、助力を願いたい」  ――警察関係者だからな。  俺はグレンが招き入れたバードランド警部を前に、はあっとため息をついたのだった。 *** 「バードランド警部、君が俺を訪ねてきたのは、資産家のモード・レッティのティアラが怪盗クラウンに狙われていることと関係があるな?」  なぜかバードランド警部も交えて朝食をとることになった俺は、スープをすすりながら、ほとんど断定するように尋ねた。 「俺の用向きは、お見の通しのようだな」  バードランド警部は滅多に動かさない表情を少しだけ緩めると、綺麗な所作でスクランブルエッグを口に運ぶ。 「資産家モード・レッティの所有しているティアラが、クラウンに狙われている。正式にロンドン市警にも被害届が出され、俺たちが動くことになった」 「つまり、ティアラの堅守に手を貸せと?」 「単刀直入に言えば、そうなる。狙われたティアラは、ウルドリッヒ家の婚姻に必ず使われていた貴重なものらしい」 「……ってことは、今回のクラウンの予告状は本物の可能性が高いな」  とはいえ以前、人身売買に関わったドルフ・ラゼーフォン伯爵が怪盗クラウンの犯行を偽装した件もある。決めつけるのは軽率だ。 「なんにせよ、俺には他に調べたいことがある。怪盗クラウンに関しては、警察諸君で頑張って捕まえてくれ」  俺は謎が残されたままのメアリー・ジェーンとアドニスについて調査がしたい。というわけで、怪盗を追いかけている暇などない。  即座に依頼を却下すると、バードランド警部は動揺することなく無言で懐に手を入れた。  ……なんだ?  眉間を寄せると、バードランド警部は懐から取り出したなにかをテーブルの上に載せる。 「――なっ、それは……!」  手で握れるほど小さなサイズをした、ピンク色のテディーベアが俺をつぶらな瞳で見つめている。その愛くるしい顔と色のテディーベアに釘付けになっていると、バードランド警部は無表情のまま口を開く。 「今回の依頼を受けてくれるのなら、謝礼金とともにこれを献上する」  ゴクリと喉を鳴らしながら、俺は決意が揺らぎそうになるのをごまかすように、一応抵抗を見せる。 「そ、それは賄賂(わいろ)だろ」 「では、これでどうだ」  バードランド警部は再び懐に手を突っ込むと、もうひとつ水色のテディベアを取り出した。それをピンク色のテディベアの隣に並べると、バードランド警部は俺の答えをじっと待つように見つめてくる。 「ううっ、瞳が……俺にもらってほしいと、そう訴えかけてくる!」  俺がテディベアに目を奪われていると、グレンがぶっと吹き出す。 「ユウさん、なんでルクリアが可愛いもの好きだって知ってるんです?」 「オーセットのベッドで、休ませてもらったことがあっただろう。そのときに、やたら部屋にテディベアがあるな……と思ってな」  タナトスに襲われたバードランド警部を、ここで匿ったときか……。  こんなことなら、テディベアたちを隠しておくべきだったな。  今さらだが、後悔している俺にバードランド警部は言う。 「俺は人形が好きなのかと思っていたんだが……。食器や枕カバー、シーツに至っても花柄のところを見ると、オーセットは可愛い物好き……」 「──わかった。引き受けるから、それ以上は言わないでくれ。それから、その子たちは俺が引き取ろう」  俺はバードランド警部の献上品であるテディベアたちを両手で引き寄せると、大事に膝の上に載せた。  俺たちのやり取りを見守っていたグレンが「その子たち……」と呟きながら肩を震わせていたので、ひと睨みする。  すると、グレンはごほんっとわざとらしく咳払いをした。  これだから、刑事は嫌なんだ! 人の私生活まで、プロファイリングするな!  してやられた感は拭えないが、報酬としては悪くない。メアリー・ジェーンとアドニスに関しては、並行して調査することにしよう。  テディーベアの頭を指先で撫でながら、俺はふっと小さく笑みをこぼして捜査に協力することを承諾したのだった。 ***  翌日、俺はグレンやバードランド警部とともに資産家のモード・レッティの邸を訪れていた。  絵画や黄金の女神像、一定の間隔で配置されたシャンデリアなど、煌びやかな装飾で飾られた邸内の長い廊下を歩きながら、俺はモードさんのところへ案内してくれている使用人の男性に声をかける。 「その黒髪……あなたは東洋人ですか?」 「え? ああ、はい。生まれは中国になります」 「名前を聞いても?」 「それは……すみません」  顔を俯けて謝る青年に、俺は首を傾げる。  名前を言えない理由でもあるのか?  クラウンが盗みに入る家は、必ずといっていいほど悪事に手を染めている。  先入観はよくないが、もうすでにレッティ邸はきな臭くてたまらない。  たとえば、この邸の使用人たち。目の前の彼も含め、廊下の展示台の花瓶に花を生ける女性も、庭園で薔薇の世話をしている男も、全員二十歳くらいで若い。それどころか、白人から黒人までいて国籍もばらばらのようだ。  あとは……全員が白い南国のワンピースのようなものと、スヌードをつけているのも気になる。変わった制服だな、のひと言では済ませられない。使用人たちが着る服にしては動きにくそうだからな。 「使用人は随分とグローバルなんだな」  グレンが訝しむようにキョロキョロと周りを見渡していると、案内してくれた使用人が足を止めた。 「ここです」  そう言って、重厚で大きな扉を押し開く。  すると、中で長いブロンドの髪をした三十代くらいの男が待っていた。 「初めまして。私はこの邸の主、モード・レッティ。君たちが警察の……」  金糸の装飾が施された真っ赤なモーニングコート姿で挨拶をしてきたモードさんは、ふいに言葉を切って俺を食い入るように凝視してくる。  な、なんだ……? まさか、また探偵に見えないだの、子供みたいだの、バカにするつもりか?   きっとそうに違いないと思った俺は、即座に臨戦態勢をとる。まずは先手を打つため、自己紹介をしようとした……のだが、それよりも先にモードさんの腕が伸びてきて、俺の腰を引き寄せた。 「なんと美しいサファイアの瞳……! 肌も乳白色で透き通っているし、腰も華奢で綺麗だ。まさに生きる宝石と言っても、過言ではない!」  興奮した様子で、モードさんは俺の腰や尻をさすってくる。悪寒と吐き気が同時に襲ってきて、思わずうっと声を漏らした。  刑事をふたりも前にして、見上げた度胸だな……などと、心の中では強がってみせるが、やはり男に触られるのは耐えられない。我慢しようとしても勝手に身体が震えてしまう。  くそっ、離せ……!  全身にうまく力が入らず、俺は助けを求めるるようにグレンを見た。  グレンはギリッと奥歯を慣らし、苛立たしげに俺の腕を引っ張る。 「ご挨拶が遅れまして、すんません」  よろけた俺は、どんっと背中からグレンの厚い胸板にぶつかった。  もう少し、優しく助けられないのか!  抗議の視線を向けるも、グレンは俺など眼中になかった。笑みを浮かべてはいるが、モードさんを鋭く射抜くように見据えている。 「俺はグレン・ディール、刑事です。そして、こいつは俺の相棒です」  言い方に、どこか棘があった。俺の腕を掴む手にも力が込められ、痛いくらいなのに少しも嫌じゃない。むしろ安心してしまう自分は、いよいよおかしくなってしまったのかもしれない。  そんなことを考えていると、モードさんの視界から俺を隠すように、目の前にバードランド警部が立つ。 「私はユウ・バードランド、ロンドン市警の警部です。今回の怪盗クラウン対策本部の捜査指揮を取らせていただくことになりました」  邸に向かう途中の、馬車の中で聞いた話だ。怪盗クラウン対策本部はこれまで少しもクラウンの尻尾を掴めず、成果が見られないために凶悪事件がないときは特別にバードランド警部も捜査にあたることになったのだとか。 「そうか、君がこのロンドンの英雄かい。これは、なんとも頼もしい限りだよ。それにしても……」  懲りずにモードさんはバードランド警部の後ろにいる俺を覗き込んで、身体の隅から隅まで舐め回すような視線を送ってくる。  不愉快だ、ステッキで殴ってしまおうか。いや、テディベアのためだ。我慢、我慢……。  不愉快ではあるが、依頼人なので黙っていると、グレンはあからさまに顔をしかめてモードさんを睨む。 「いやらしい目で、俺の相棒を見やがって。うっかり、あいつを撃ち抜きそうだ」 「いや、それはダメだろう。君は刑事なんだぞ」  小声で言い合っていると、モードさんと話していたバードランド警部がため息をついた。 「オーセットは探偵です。くれぐれも、変な気は起こさないでいただきたい。とにもかくにも、まずは怪盗クラウンの話をしましょう」 「わかった、ではティアラのところへ案内しよう。おい、誰か!」  パンパンッとモードさんが手を叩くと、部屋の中に先ほど俺たちをここへ連れてきた中国人の使用人が現れる。 「イー・ミン、ティアラを宝物庫から持ってきておくれ」 「はい、ご主人様」  ぎこちなくお辞儀をしたイー・ミンは一旦部屋を出ると、ガラスケースに入れられたティアラを持ってくる。 「今さらだが、ティアラはほいほい宝物庫から出さないほうがいいんじゃないですかね。どこにクラウンの目があるか、わかりませんし」  鋭い視線を周囲に巡らせつつ、グレンは忠告したのだが、モードさんは呑気にははっと笑っていた。 「まあ、どうせこの手を離れるものだしね」 「どういう意味です?」  グレンの問いに、モードさんは興味なさげにティアラを見る。 「これは数日後に、異国の資産家に売る商品なんだ。それに、君たちが守ってくれるんだろ? なら、なにも問題ないじゃないか」 「本人に危機感なし、か……。どうせ売るから、愛着もねえのか? だったら、いちいち警察を呼ばずにクラウンにやっちまえよな」  振る舞いはガサツだが、根は人のいいグレンがボソボソと文句をこぼしている。  珍しいな。モードさんに対しては当たりが強い気がするんだが、考えすぎか?  「話が進まんな……。それでモードさん、予告状に気づいたのはいつですか」  指先で眉間を揉みながら、バードランド警部は話の軌道を修正した。そんな彼の苦悩には気づいていないモードさんは、呑気に使用人の淹れた紅茶を飲みつつ答える。 「今朝だよ。そこのイー・ミンが扉に挟まってるのに気づいて、私に知らせてきたんだ。こんなに美しいティアラに目をつける怪盗クラウンの美的センスは、素晴らしいね」  ……モードさんは、本気でティアラを守る気があるのか?   それを疑ってしまいそうなほど、モードさんには警戒心が欠けていた。  売るものならなおさら、盗られたらまずいだろ。まったく……グレンの言う通りだな。ティアラにそこまで執着がないのなら、さっさとクラウンにあげてしまえばいい。  呆れて物が言えないでいると、紅茶のおかわりを注ごうとした女性の使用人が腰を屈める。その拍子に、するりと首のスヌードが床に落ちた。 「あ……っ、すみません!」  使用人は慌てたように叫んで、持っていたポットを落とした。パリンッと彼女の足元でそれは割れ、破片が飛び散る。 「──なっ、君、怪我はないか!」  慌てて声をかけるも、彼女は割れたポットなど目もくれず、一心不乱にスヌードを首に巻き直している。  なんだ……?  その異様な光景に眉をひそめたとき、彼女のうなじに赤いやけどのようなものが見えた気がした。 「君、首になにか……」  俺が近づこうとすると、女性は首を押えて、怯えるように後ずさる。 「君は下がっていいよ」  モードさんが穏やかな口調ではあったが、高圧的に言い放った。 「し、失礼します」  慌ただしく部屋を出ていく女性を見送っていると、代わりにイー・ミンが割れたポットの破片を手で片付け始めた。  俺は彼のそばに膝をつき、その手を掴んでやめさせる。 「素手では怪我をする。すまないが、ほうきとちりとりを持ってきてくれ」  壁際に控えていた他の使用人たちにそう頼んだのだが、彼らはいっせいにモードさんの様子を窺う。  いちいち、お伺いを立てなければならないのか。ずいぶんと、ここの使用人たちには自由がないんだな。  モードさんは許可を出すように頷いてから、俺の顔を見て満足そうに笑った。 「優しいんだね、ルクリアくんは。ますます、君が欲しい」 「……ご冗談を。俺はここに、怪盗クラウンを捕らえるために来たんです。先に言っておきますが、それ以外の要求は呑めませんから」  淡々と告げて、俺は使用人が持ってきたほうきとちりとりで破片を片付ける。するとイー・ミンは慌てたように俺から掃除道具を奪った。 「いけません、これは僕が」 「あ、ああ……でも君、今度から素手でガラスは拾ったらダメだ。慌ててなんて、余計に怪我をするからな」 「は、はい……ありがとう、ございます」  ぺこりと頭を下げたイー・ミンは、何度も俺を振り返りながら扉のほうへ歩いていく。そして、密かにふっと口元を綻ばせ、部屋を出て行った。  なんだったんだ、今のは……。 「モードさん、部屋の中を見て歩いても?」  バードランド警部の声で我に返る。 「もちろんですとも」  モードさんがもう一度パンパンッと手を叩けば、紫色の髪にエメラルドの瞳を持つ二十代くらいの青年が現れる。 「邸内をご案内いたします、こちらへ」  折り目正しくお辞儀をした青年は、ドアを開けてこちらを振り返る。ついて来い、ということだろう。 「僕はコローナと申します」  部屋を出た途端、使用人の青年は自ら名乗って俺たちを先導するように歩き出す。そのあとを追うように、赤いベルベットの絨毯が敷かれた廊下を歩いているときだった。ふと、先ほども見かけた薔薇の手入れをする使用人に目を留める。 「……あの肌の黒さ、この国の出身じゃないな。少し、話を聞いてみるか」  異国の人間がこの邸の使用人になった経緯は、無視できない違和感だ。  前を歩くグレンたちにはなにも言わず、俺は使用人のところへ歩いていく。 「君、少しいいか?」  声をかけると、使用人はビクリと肩を震わせて俺を振り返る。その表情は強ばっており、話しかけられるのを恐れているみたいだ。 「名前を聞いても?」 「それはっ、あの……言えません」  イー・ミンのときと同じだ。ここの使用人は名乗ることをしない。それに、先ほどの使用人と同じく彼は首を押さえて周りの様子をしきりに窺っている。誰の目を気にしているのかは、すぐに見当がついた。 「モード・レッティが怖いか」 「ひいっ」  悲鳴をあげて後ずさる彼を、俺はさらに問い詰める。 「うなじに、なにか見られたくないものでも?」 「あ、ああ……っ、なにもないですっ、なにも……」  ぶんぶんと髪を振り乱しながら、声を震わせる青年。その態度は、肯定しているも同然だった。 「怯えなくていい、なんとなく察した。君、もし本当に助けを求めているのなら、この薔薇を俺にくれ」 「え?」 「言葉にするのは恐ろしいだろ。でも、これなら悟られることもない」  主であるモード・レッティに気づかれないように、SOSが出せるサインを与えたつもりだった。彼も光を見たような顔つきで俺を見つめてきたが、他の使用人たちの姿を切なげに見渡して、すぐに視線を逸らす。 「お気遣い……ありがとう、ございます」   諦めの滲んだ声でそう言った青年は、頭を下げて走り去っていく。その背をはがゆい気持ちで見送っていると、「おーい」と呼ばれた。振り返れば、グレンが駆け寄ってくる。 「あまり、この邸内でひとりになるなよ」 「俺は協力するとは言ったが、一緒に捜査するとは言ってないぞ」 「あのなあ。モード・レッティは、お前を狙ってんだぞ。危ねえから、俺とユウさんのそばから離れるなって」 「なっ……俺は男だ! 君にそんな心配をされなくても、自分の身は自分で守る」 「はいはい、わかったわかった。でもな、ルクリアがなんと言おうと、俺はお前を守るからな。嫌がっても、そばに置く」  有言実行とばかりに、グレンは俺の首に腕を回して動きを封じてくる。そんな俺たちのところへバードランド警部とコローナがやってきた。 「ふざけるなら、帰ってもらうが」  バードランド警部の眼鏡がキラリと光るのを見た俺は、慌てて弁解をする。 「俺は調査をしていただけだ! 説教なら、俺を拘束しているこの駄犬だけにしてくれ!」 「駄犬って……酷いですね、相変わらず。それで、ルクリアの単独行動の成果を聞かせてくださいよ」 「話すから、まずは俺を離せ」  グイッとグレンを押し退けて、俺は乱れた服の襟を正した。 「コローナさん、少し外してくれ」  俺は彼が軽く頭を下げて距離をとるのを見届けたあと、改めてバードランド警部とグレンに向き直る。 「この邸の使用人は、おそらく……これだ」  自分の首を絞める仕草をした。  察しのいいバードランド警部は、すぐに納得したように頷いて、指で眼鏡を押し上げる。 「首輪……そうか、奴隷か」 「そうだ。あとは……うなじに焼き印かなにか、彼らがモード・レッティの所有物だという証が刻まれているんだろうな。だから彼らは、首を隠したがる」  それは、非人道的な行為をしたとして、モードさんを捕らえるための決定的な証拠になり得るだろうが……。奴隷たちがそれを認めるかどうかが問題だ。 「彼らは個を証明する名を口にすることすら許されていない。意思を言葉にすることを無意識に恐れる可能性がある。モードさんの報復を恐れて、助けを求めないかもしれない」 「恐怖での支配、洗脳と同じだな……」  グレンは気遣うような視線をコローナさんに送る。それに気づいたコローナさんがにこっと笑ったのを見て、俺は眉間にしわを寄せた。  コローナさんは、ここの使用人たちとは少し雰囲気が違うな。  明確にどこがとは言えないのだが、漠然とした違和感を抱く。その答えを探していたとき、俺の思考を断ち切る声がする。 「ここにいたのか! 探したよ、ルクリアくん」  手を挙げながら、モードさんが駆け寄ってきた。  げっ……出たな、変態モード・レッティ。  真っ先に俺の前にやってきたモードさんに、不快感を隠さず顔をしかめると、グレンが背に庇ってくれる。 「ルクリアになにか用ですか? でしたらまずは、相棒の俺を通していただかないと」 「ああ、グレン刑事だったね。クラウンの調査をするなら、うちに泊まったらどうかと提案しようと思ったのだよ。部屋なら、いくつも余ってるからね」 「悪いが、それは断らせて……」  そう言いかけたグレンに、俺は「待て」と制止をかけて手を引いた。 「ルクリア、どうして止めるんだよ」  俺は苛立った様子のグレンの手をさらに引っ張り、屈ませた。近づいたグレンの耳元で、モードさんに聞こえないように囁く。 「敵のはらわたで調査が出来るなんて、内情を知れるいい機会だ。ここはモードさんの誘いに乗るのが得策だろ」 「だけどな、お前は狙われて……」 「君がそばにいて、守ってくれるんだろ? 相棒」 「当たり前だ」 「なら、なにも恐れることはない。ずっと俺の隣にいて、その手で守り切れ」  信頼を込めて不敵に笑えば、グレンは渋々といった様子でため息をつきながら頷く。 「止めても聞かないんだろ。お前といると、寿命がいくつあっても足りねえ」 「ああ、俺はここに残って情報を集める。モード・レッティに関しては、クラウンの件と並行して調査が必要みたいだからな」  なんとかグレンを丸め込むことに成功した俺は、こうしてレッティ邸に身を置き、表向きはクラウンの調査を、水面下ではモードさんの身辺を探ることになった。 ***  レッティ邸で調査を始めてから二日、ついに予告状の日がやってきた。  俺たちはティアラとともに、異国の資産家との商談が行われるという豪華客船にいた。この豪華客船はモードさんが所有しているもので、連れてきた使用人の中には邸にいたイー・ミンやコローナさんの姿も見受けられる。  俺は外のバルコニーから、船室の様子を窺っていた。  一歩引いた場所で全体を見渡せるほうが、違和感に気づきやすいからな。  ティアラを守るように立つバードランド警部やグレン、商談を進めるモードさんと異国の資産家フェンネさんをそれぞれ観察していると──。 「これをどうぞ」  ふいにレッティ邸の庭師の青年が俺のところへやってきて、ワインを差し出してきた。 「あ……君も来ていたんだな」  グラスを受け取って笑みを向けると、庭師の青年は困ったように眉を下げる。そして、ぎこちなくではあるが、笑みを浮かべてコクリと首を縦に振った。  彼はまだ名前を教えてはくれないのだが、邸で過ごすうちに少しずつ自分の意思を見せてくれるようになっていた。  「ありがとう」 「いえ……」  青年はちらっと船室を振り返る。それから俺に視線を戻し、声を潜めて話しかけてきた。 「あの、オーセット様」 「ルクリアで構わない。俺は君を鎖に繋いでいる主ではないからな」  なにを示唆しているのか、青年にはわかったのうだ。俺に見透かされていることへの恐怖と、わずかな希望がその見開かれた瞳に映り込む。 「必ず君も、それからここにいる他の使用人たちも、解放すると約束する」 「ルクリアさんは、なぜそこまで……」 「君のうなじに刻まれた焼き印のように、俺にも望まずにはめられた首輪と鎖があるんだ。自らの意思に関係なく、命も身体も尊厳すら弄ばれた過去がある」  あの日の記憶が鮮明に蘇るのと同時に、自分の背に刻まれた忌々しいバタフライタトゥーがじくじくと疼く。まるで、まだ傷が塞がらずに化膿しているかのように。 「決して君たちのためだなんて、かっこいい理由じゃない。君たちを見ていると、昔の自分を思い出すから辛いんだ」  言葉を選ばず、ありのままを告げることにした。綺麗事は、慰めにもならないからだ。 「だから、心まで縛ろうとする愚者を許したくはなかった。他の誰でもなく、俺自身のために動いている」 「そう……でしたか」  彼は目を伏せ、黙考している。少しして、面を上げた彼の表情は泣き笑いだった。 「だから私は……あなたを信じたくなってしまったんですね」 「え?」 「あなたからは、嘘や同情が感じられないから……」  グラスを持つ俺の手に、青年の手が重なった。それが小刻みに震えている気がして、俺が口を開きかけたとき──。 「どうか、どうかお救いください。私の大事な家族たちを」  謎の言葉だけを残してお辞儀をすると、彼は足早にバルコニーを去っていく。 「私の家族?」   使用人たちのことをそう思ってるってことか?  首を捻りながら、俺は彼からもらったワインに口をつけようとした。そこで、グラスの底に真っ赤な薔薇の花びらがぷかぷかと浮いているのに気づく。それを見た瞬間、頭の中にある言葉が蘇る。 『怯えなくていい、なんとなく察した。君、もし本当に助けを求めているのなら、この薔薇を俺にくれ』  そうか、これはSOSのサイン。彼は俺に助けを求めたんだ。モードさんの鎖から、解き放ってほしいと。 「だけど、なぜ今なんだ?」  白ワインの水面で揺れている赤い花びらを見ていると、嫌な予感が胸の奥底から突き上げてくる。 「ここの使用人たちは、お互いを家族だと思ってるんですよ」  ワイングラスから顔を上げると、いつの間にかコローナさんが隣に立っていた。 「それくらい、仲がいいという意味か?」 「例え話をしましょう」  俺の質問に答える気があるのかないのか、今の段階では判断できかねるが、とりあえず彼の話に耳を傾ける。 「十年前、箱舟と呼ばれた大きな船が世界中を旅していた。船の主は見目麗しい少年少女をかどわかし、船に乗せて攫うと、まるで後宮のような箱庭に閉じ込めてしまう。毎夜毎夜、主の気分でその身を辱められ、さぞかし辛かっただろうね」  コローナさんが語ったのは誰の過去か、どこの国のおとぎ話か。それはわからないけれど、はっきりしたことはある。 「『箱舟』が指すのは、この豪華客船。『船の主』がモード・レッティで、かどわかされた『見目麗しい少年少女』は、その使用人たち。『後宮のような箱庭』は、レッティ邸のことだな?」  庭師の青年やイー・ミンたちは攫われて、あのレッティ邸に連れてこられたということか。  十年前ということは、使用人たちはおそらく十歳前後のとき。つまりモードさんに攫われた奴隷たちは、ほぼあのレッティ邸で育ったと言ってもいい。 「そうか、あの庭師の青年にとっては、使用人たちはともに育った家族も同然……ん?」  グラスの中の薔薇の花びらを眺めていたら、他に黒い棘のようなものが沈んでいるのに気づいた。  これは……なにかのメッセージか?  あの庭師の青年は、まだなにか俺に伝えたいことがあるのだろうか。考えすぎなのかもしれないが。 「棘、か……君、神話には詳しいか?」  ここ最近で起きた事件には、タナトスやアネモネ、アドニスなどのギリシャ神話にまつわるものばかりが犯人の通り名やメッセージとして残されてきた。   もしかしたら、今回もそういった神話にヒントがあるかもしれない。ただの勘だが、見過ごせなかった。 「『創世記』では、棘を持つ植物は、アダムとイブの罪に対する罰を意味するらしいですよ」 「罪、罰……」  庭師の青年は、家族を救ってほしいと言った。それは使用人たちをモードさんから解放してほしい、そういう意味だとばかり思っていたが……。  俺はグラスを目線の位置まで持ち上げ、棘をじっと見つめる。  ──棘が意味するのは罰。モード・レッティが犯したのは罪を罰するのは……。 「使用人たちか……!」  庭師の青年が俺に願ったのは、家族同然に育った使用人たちが罪を犯すのを止めてほしかったから。 「だとすれば、モードさんが危険だ」  モードさんは使用人たちに罰せられる。あの庭師の青年の切迫ぶりからするに、おそらくモードさんは命を狙われている。  俺は忠告するべく、船室に視線を向けた。だが、いつの間に商談が終わったのか、室内には異国の資産家のフェンネさんとモードさんの姿がない。 「グレン! モードさんはどこだ!」 「モードさんなら、さっき部屋に戻ったぞ? バードランド警部が付き添ってる」  なら、ひとりではないんだな。バードランド警部がそばにいるのなら、ひとまず安心だ。 「ティアラの引き渡しは、航海最終日の明日になるらしい。ティアラはモードさんのきっての要望で寝室に置くことになった。俺たちは部屋の前で、寝ずの番になりそうだな」 「……グレン、俺たちが警戒するのはクラウンだけじゃなくなりそうだ」 「は? なんだ、どういうことだよ」 「クラウンの騒ぎに乗じて、この船で殺人が起こるぞ」  はっきり言い切れば、グレンが息を呑む。けれどすぐに冷静さを取り戻したのだろう。グレンは刑事の目をする。 「詳しく聞かせてくれ」 「ああ、だが話はバードランド警部と合流してからだ。コローナさん、俺たちはここで失礼させてもらう。あなたももし、報復を望んでいるのなら、思いとどまってほしい」  今はなんの証拠もないので、俺に出来るのは情に訴えることくらいだ。  ひと声かけて踵を返すと、背中に「ご武運を」というコローナさんの声がかかった。  わかってくれた、と判断してもいいのだろうか。  彼らがモードさんを恨む気持ちがわかるだけに、俺は複雑な感情を抱きながら、グレンとモードさんの寝室へ向かう。  船内の廊下を足早に進む途中、ふと疑問が頭を過った。  そういえば……コローナさんはなぜ、あんな話を俺にしたんだ?   彼もモードさんを罰したいと考えているのなら、ヒントを与えるような物言いはしないはず。  だが、棘にまつわる神話やレッティ邸の使用人たちの身の上を話してくれたことといい、俺を真相に導くようにリードしていたみたいだ。  思い返せば、コローナさんは他の使用人たちとは少し毛色が違う。  誰もが名を口にすることを恐れていたというのに、『僕はコローナと申します』と堂々と名乗ったこと。話しかけると大体の使用人たちはビクビクしていたというのに、彼は怯えを少しも見せないこと。  それに、さっきの『ここの使用人たちは、お互いを家族だと思ってるんですよ』の発言もおかしい。  どうして『僕たちは』ではなく、『ここの使用人』と言ったのか? まるで、自分はその枠に当てはまらないとでもいうような他人行儀な言い方だった。 「コローナさんは他の使用人たちとは違って、一ヶ月前にモードさんがどこからか拾ってきたらしいな?」  隣を歩くグレンにそう尋ねれば、肯定するように頷かれる。 「ああ、使用人の中には、コローナさんみたいに最近入ったヤツもいるみたいだな」 「そうか」  あの邸にやってきた時期、意思を持つことを禁じられているあの場所で自分の名を平然と述べたこと、そして彼の名前。違和感がひとつの線となって繋がり、真実がその輪郭を見せ始める。 「もしかして、コローナさんは……」  そう言いかけたとき、「うああああっ」という悲鳴が廊下に響き渡った。俺とグレンは顔を見合わせ、すぐさま駆け出す。  モードさんの部屋が近づいてくると、廊下の先にドアを必死に開けようとしているバードランド警部や使用人たちの姿が見えた。 「ユウさん、なにがあったんです!?」    バードランド警部たちに合流するや否や、グレンが尋ねる。 「つい数十分前、モードさんが寝室で休むと言ってな。俺たちは隣の部屋で待機していたんだが、悲鳴が聞こえて駆けつけたところだ」 「中にいるのは、モードさんだけですか?」  扉をこじ開けようとしている警官たちを横目に、グレンが確認する。 「いや、イー・ミンさんもいるはずだ。世話係として呼ばれていたからな」  イー・ミンさんが世話係として呼ばれた?  それはまずいかもしれない。使用人たちは、モードさんへの報復を企んでいる。イー・ミンもその一員だとしたら、先ほどの悲鳴といい、モードさんは今頃生きていないかもしれない。  俺はそばにいた使用人のひとりの腕を掴んで、問い詰める。 「このような場所で無粋だとは思うが、教えてほしい。世話係というのは、ただの給仕のことではないだろう。中で行われているのは……主の身体を慰めることか?」  もっと配慮して尋ねるべき事柄だという自覚はある。でも、一刻を争う状況だった。もし、イー・ミンさんがモードさんの今夜の相手なら。おそらくモードさんは、イー・ミンさんに殺されているだろうから。  だが、使用人たちからは一向に返事がない。 「なら、別の質問をしよう。きみたちは、なにを企んでいる?」  踏み込んで追求すると、使用人たちは顔を強張らせ、さっきよりも固く唇を引き結ぶ。  答える気はないってことか。だが、その顔を見てはっきりした。彼らもモードさんへの報復に関わっている。 「急いでドアを開けてくれ! もう手遅れかもしれないが……」 「腕力では埒があかんな、離れていろ」  バードランド警部が銃を取り出すと、扉前にいた使用人や警官たちが左右にはけた。それを見届けたバードランド警部は、銃を構えて鍵穴を撃ち抜く。その扉をグレンが蹴破ると、中にいた人物に全員が言葉を失った。 「あーあ、まさかこの僕がはめられるとはね」  そこにいたのはイー・ミンではなく、さっきバルコニーで別れたはずのコローナさんだった。予想外の人物の登場に一同が言葉を失う中、俺は視線を下に落とす。  赤い血の海に、モードさんが沈んでいる。その目や口、鼻に至るまで押し込められているのは蛾だった。 「モード伯爵を殺したのは、お前か?」  グレンはティアラを手に遺体を見下ろしていてコローナさんに向かって、銃を構えた。コローナさんは銃口を向けられているというのに、怯むことなく微笑を口元にたたえて、やれやれと言いたげにため息をつく。 「目で見たものだけを信じるのは、人間の悪いところだよねえ。この殺され方、変だと思わない? まるで、なにかのメッセージみたいだ」  警官に囲まれ、圧倒的に不利な立場にいるというのに、コローナさんからは余裕が消えない。おそらく、逃走する経路を確保しているのだろう。なんたって、彼は――。 「怪盗クラウン、だな」  全員が驚きの眼差しを向けてくるのがわかったが、俺はクラウンから目を離さない。答え合わせとばかりに、コローナさんへ抱いた違和感の数々を上げていく。 「あなたは他の使用人とは違って、モードさんを恐れていなかった。それにコローナはイタリア語で王冠。英語で王冠を指すクラウンと同じだ。君は初めから、俺たちにヒントを与え続けていた。随分と余裕なことだな」  俺の推理を聞いたクラウンは、満足そうに笑って自分の服に手をかけた。そのままバサッと脱ぎ去ると、どういう仕掛けなのだろう。男の服は瞬く間に白いマントとシルクハット、それから燕尾服へと変わる。紫だった髪も鮮やかな金色になっていた。 「さすが名探偵ルクリア・オーセット。君なら見破るって、わかってたよ」  目元を覆い隠す金の仮面越しに、宝石のようなエメラルド瞳が俺を楽しげに見つめている。 「だが、ひとつわからないことがある。つい数分前に別れたコローナさんが、どうやってこの部屋に俺たちより先に入ったのかという点だ」  あのバルコニーから、この部屋までは一本道だ。俺とグレンはモードさんの寝室に向かう途中、誰とも会っていない。ということは、コローナさんはそれ以外の経路を使って、俺たちを追い越したことになる。  物理的に可能な方法は、階段を下りてワンフロア下の廊下を全速力で走り、再びこのフロアに上がって先回りをすること。  だが、俺たちよりあとに出発したコローナさんが遠回りをして、かつモードさんに付き添っていたバードランド警部の目を掻い潜り、中に入るなど至難の業だ。 「距離や警備面からして、コローナさんが俺たちより先にこの部屋に到着するのは不可能に近い。コローナさんが、ふたりいない限りは」  俺がさっき話していたコローナさんと、目の前のコローナさんは別人で協力者。そうでなければ、この状況は成立しない。 「やっぱすごいよ、君は。期待以上だ」  クラウンは頼んでもいないのに拍手をくれる。 「さっきのコローナには、特殊なマスクを被ってもらっててね。顔をそっくりにできるんだよ。今回はもっとゲームみたいに楽しみたかったんだけど、残念だな。とんだ事件に巻き込まれちゃったみたいだ」  ちらりとモードさんの遺体を見たクラウンは、とくに動揺した様子もなくゆっくりと後ずさる。その後ろにあるのは、広大な海に繋がるバルコニーだった。 「ま、目的のものは頂戴したし、僕はこれで失礼するよ」 「殺人の容疑者だ、逃がすな!」  バードランド警部とグレンがクラウンに向かって駆け出したとき、ぶわっと部屋に硝煙が立ち込める。  その場にいた者たちが「火事だ!」と慌てる中、クラウンはバルコニーの柵を飛び越えてしまった。  慌てて柵の下を覗き込むも、その姿は忽然と消えている。俺は一緒にバルコニーに出ていたグレンやバードランド警部とともに室内を振り返った。 「すごい煙だな、中が見えねえ。換気しようにも窓はこのバルコニーくらいしかないからな。時間が経たないと、まともな現場検証もできなさそうだ」  柵にもたれかかったグレンは、腕組みをしながら、厳しい表情で愚痴をこぼす。  しかし、俺の頭の中はモードさんの目や口、鼻に押し込まれた蛾のことでいっぱいだった。  背中のバタフライタトゥーが疼く。胸騒ぎが止まらず、俺は自分の身体を抱きしめた。  これは、ただの殺人じゃない。ただ、あの男――ジャスパーが関わっているとも言い切れない。模倣犯の可能性も否めないのだ。  モードさんを殺した人間。普通に考えれば、使用人たち、もしくはクラウンが怪しい。だが、やはりあの蛾が引っかかる。  自分の推理が犯人の動きに追いついていない。これではまた、犠牲者が出てしまう。モードさんがあのように惨い殺され方をされた理由を突き止めなければ。 「オーセット、モードさんを殺害したのはクラウンだと思うか?」  思考の海に沈んでいた俺は、バードランド警部の問いに我に返る。いつの間にか俯いていた顔を上げると、ふたりの視線が俺に集まっていた。 「容疑者には変わりないが、俺はクラウンじゃないと思う。ティアラを狙ってこの部屋に入り、遺体と鉢合わせただけだろう」  クラウンの犯行の関与を否定すれば、グレンが首を傾げながら片眉を持ち上げる。 「そう言い切れる根拠はなんだ? ティアラを狙ったときに運悪くモードさんに見つかって、殺したかもしれないだろ」 「運悪く見つかって殺したのなら、口や鼻に蛾を詰める必要はないだろ。逃走する時間も減るしな。それにクラウンは、これまで美術品を盗む際に人を殺したことは一度もない」  それからクラウンは、盗みをゲームだと言った。大事なものを奪われた貴族の悔しがる顔を見て、楽しみそうなタイプじゃないか。それなのに殺してしまっては、貴族の反応は見られなくなる。そんなの彼らしくない。  そう分析していると、バードランド警部も「同感だ」と賛同する。 「あの殺し方は、モードさんに対する深い怨恨があるからこそ成せる所業だ。もしくは、殺人になにかしらの使命感を見出している者。たとえば、売春婦だけを狙ったジャック・ザ・リッパーのような犯人だな。その点を鑑みると、クラウンは犯人像からかけ離れている」 「ああ、他に犯人はいる。しかも、まだこの船に乗ってるだろうな」  嫌な汗をかきながら、笑みを浮かべつつそう言えば、空気が張り詰めるのを肌に感じた。  そうこうしているうちに煙が晴れて、俺たちは室内に足を踏み入れる。  遺体は出口とは正反対にある窓際の執務机の前にあり、その横にはクローゼットがあった。 「ん? 少し開いているな」  クローゼットの扉がほんの少し開いていたので、中を確認する。そこにはモードさんの衣服があるのだが、不自然に端に寄っていた。  まるで、誰かが隠れていたみたいだ。もう少し調べてみる必要があるな。  他にも手掛かりがないかとその場に腰を落とそうとしたとき、「これは……!」とグレンが声を上げる。何事だと振り向いて、彼の視線を辿るように遺体のそばにある床を見ると――。 「【Ugly moth(醜い蛾)】……」  俺が口にした単語、それはグレンの相棒マック・コフィンを殺した犯人――ジャスパーが残した血文字と同じだった。 ***  モード・レッティの死から数時間後、俺たちは船内にいた人間を広間に集めた。  この船に乗り込んだ人間は全員容疑者になるため、警察官十名に見張らせ、ひとりひとり別室に呼び聴取を行う。 「イー・ミンさん、あなたは世話係としてモードさんの部屋に入ったはずだが、遺体が発見されたときにはいませんでしたね。いつ、外へ出たんです?」  机に肘をついて前のめりになったバードランド警部は、組んだ両手の甲に顎を載せてイー・ミンさんの目をまっすぐに見据える。  俺やグレンの視線を受けたイー・ミンさんは椅子に座った状態で俯いており、視線を彷徨わせているところを見ると、すっかり恐縮しきっているのがわかった。 「イー・ミンさんは見たまま、したことをそのまま話せばいいですから」  そこへグレンが、柔らかい声音でフォローを入れる。これは優しさでもなんでもない。取り調べの手法だ。  バードランド警部の圧力を受けていた彼は、グレンの気遣うようなひと言に肩の力を抜く。その気の緩みこそが、人間の癖や本質を見せる格好の隙になる。 「モード様が何者かに襲われたとき、私は怖くてとっさにクローゼットに隠れたんです。それからしばらくして、オーセット様方が飛び込んでこられて、「火事だ」という声に驚いて煙が充満した部屋を出ました」  クローゼットに人がいた形跡があったのは、イー・ミンさんが身を隠していたからだったのか。  とはいえ、とっさに隠れたのならクローゼットの服を端に寄せる余裕はないはず。物音が鳴れば、犯人に居場所がバレる危険があるからな。  それから、隣の部屋に警官がいたというのに、なぜ部屋を飛び出さなかったのか。同じ部屋に犯人がいる状態でクローゼットに隠れたりしたら、すぐに見つかってしまうだろうに。  けれど犯人は、モードさんだけを殺してイー・ミンは見逃した。これは犯人に繋がる大きな手がかりだ。 「モードさんを襲った人間の声は聞きましたか? 他に目撃したこともあれば、話してください」  バードランド警部の追及に、イー・ミンさんの瞳が揺れる。 「それが……怖くて耳を塞いでいたので、声は聞いていません。犯人の姿も、すぐにクローゼットに隠れてしまったので……」 「姿も見ていない、ということですね。話を聞かせていただき、ありがとうございます」  バードランド警部のひと言で聴取が終わると、イー・ミンさんが部屋を出ていく。室内には俺とグレン、バードランド警部の三人だけが残され、沈黙が続いていた。 「モード・レッティの遺体はジャスパー、あの強姦殺人鬼の犯行に似ている」  静かに言葉を発したバードランド警部は、気遣いを滲ませた目でグレンを見ている。  グレンにとっては相棒を奪った敵だ。そして、バードランド警部も部下を失った者として、なにか思うことがあるのかもしれない。 「つまり、この船にはジャスパーが乗ってるかもしれねえってことか」  グレンの声は震えていた。手のひらが白くなるほど拳を強く握り、怒りに耐えている。  しっかりしろ!と言ってやりたいが……。  あんなヤツに負けてたまるものかと、この心まで穢されてたまるものかと、強気でいたのに。実際にあの男がこの船にいると想像しただけで、身体の震えが止まらない。  俺はまだ、ジャスパーを恐れているのか?  弱いままの自分を認めたくなくて、俺はあえて冷静な態度を崩さずにグレンの背をバシッと叩いて喝を入れてやる。 「しっかりしないか、これはチャンスなんだぞ。君の相棒を死に追いやった相手をここで潰せるかもしれない」 「マックさん……そうだな、過去を思い出して悲観してる場合じゃねえ。俺にはやるべきことがある」  少しだけ瞳に闘志を取り戻したグレンに、俺は頷いて見せる。 「仮にこれがジャスパーの犯行だったとして、あいつがUgly moth(醜い蛾)と示すときは、自分なりの美学を壊されたときだ」  自分の気に入った男に蝶のタトゥーを施す。ジャスパーにとっては神聖な儀式であるその行為を、マック・コフィンのときのように邪魔されたとかな。  俺の輪郭のぼやけた推測は、バードランド警部の言葉でさらに形づけられる。 「ジャスパーは目をつけた好みの男に、蝶のタトゥーを刻むという。それほど強い執着心と支配欲を持つ男が、自分の気に入った男を傷つけられたとすれば?」  強い執着心と、支配欲……。  俺は無意識のうちに自分の腕をぎゅっと抱きしめる。そんな俺を見て、グレンが「ルクリア……?」と声をかけてきたが、聞こえないふりをした。  まだ、話せるほど過去を克服しきれていない。俺はこっそり深呼吸をすると、平気なふりを装って淡々と見解を述べる。 「ジャスパーのお眼鏡に叶った人間が船の中にいて、その蝶がモードさんに傷つけられそうになったと考えれば、殺害の動機として成立する。ジャスパーが同乗している可能性がますます高まったな」 「そうだな。ただ、クラウンが犯行に関わっていないとも言い切れない。ジャスパーと両方の線で捜査する」  バードランド警部が捜査の方向性を固め、グレンが「了解です」と答えたとき、慌ただしくドアをノックされた。 「なんだ、入れ」  バードランド警部が入室を許可すると、勢いよくドアが開く。 「報告です! 広間にいた警察官九名、資産家のフェンネさんが連れてきたボディーガード五名が急に苦しみだし、死亡しました!」 「――なっ、んだと!」  グレンが声をあげながら戸口に向かって駆けていくが、ふと足を止めて指示を仰ぐようにバードランド警部を振り返る。  すぐにでも飛び出していきたそうなグレンの気持ちを感じ取ったバードランド警部は、静かに頷いて自身も席を立った。 「詳しい話は現場に向かいながら聞く。ともかく、広間に急ぐぞ」 ***  広間に飛び込むと、資産家のフェンネさんとレッティ邸の使用人以外の人間は床に倒れていた。吐血したのだろう、口端から血がこぼれている。血が気管に入り、呼吸ができなかったのか、全員の喉には爪で掻き毟ったような創傷があった。 「吐血は胃の中、もしくは呼吸器の出血によって起こる。これは……毒による殺害か」  遺体の検分をしながら、俺は顎をさする。 「被害者は警察官九名と資産家のフェンネさんが連れてきたボディーガード五名。なんの意図があって、彼らを殺した?」  モードさんを殺して、犯人の目的は達成されたんじゃないのか?   となると、自分が犯人だと悟られないように、無差別に大量殺人を起こした。  疑いの目を他に向けるため、と考えるのが普通なんだろうけれど、普通すぎるから引っかかる。  シリアルキラーに、凡人の常識は当てはまらない。想像もつかないようなことをしでかすのが奇人だ。  もっと、ジャスパーの考えに同調しろ。  犯罪者の立場になって、もう一度事件を振り返ろうとしたとき、グレンに呼ばれる。 「ルクリア、こっちに来てくれ」  壁を凝視している彼の隣に立つと、そこには──。 【浄化の四十日、四十夜から逃れた招かれざる者よ。資格なき者には、これより血の断罪を。それを成したとき、空には虹がかかるだろう】  これは……また神話の類か。メッセージがいちいち回りくどいな。  残されていた血文字を見て、俺はため息をつきそうになる。  グレンも同じ気持ちだったのか、自分の頭をガシガシと掻いていた。 「意味不明なメッセージ、残すなよ」 「なるほど、これを俺に解読させるために呼んだってわけか。君、仮にも刑事だろ。考えることを放棄するのはどうなんだ?」 「ほら、俺は筋肉担当なんで」 「……都合のいい逃げ道だな」  人任せな相棒恨めしく思いながら、俺はあの庭師の青年の姿を探す。  彼は俺のグラスに棘を入れた。あのメッセージの伝え方は、『創世記』の神話を知っていたからこそできたことだ。 「君、捜査に協力してくれるか」  あえて『捜査』を強調したのは、庭師の青年が、俺たちに協力しても使用人の仲間たちに非難されないようにするためだ。警察からの命令であれば、断れなくても仕方ない。そう周知させ、彼の身の安全を守る目的がある。 「教えてくれ。『浄化の四十日四十夜』、そして『虹』は『創世記』に出てくる単語か? 」  俺の問いに、庭師の青年は仲間の顔色を窺いつつも、躊躇いがちに口を開く。 「は、はい、そうです。ノアの方舟の物語はご存知ですか?」 「なんとなくは。巨大な船にノアの一家と動物たちが乗り込むと、大洪水が起きて地上の全てが水にのまれ、箱舟に乗れた者しか生き残らなかったっていう話だったか?」 「はい。『浄化の四十日四十夜』は、人を滅ぼした大洪水のことです。そしてノアは水が引くと、家族や動物たちとともに方舟を出ます。そして、着地したアラトトの山に祭壇を築き、献げ物を神に捧げた。神はこれに対して、ノアとその息子たちを祝福し、彼らとのちの子孫たち、そして地上の全ての生物を絶滅させてしまうような大洪水は、決して起こさないことを契約した。その契約の証として、空に『 虹』をかけたんです」  方舟への乗船資格を持つ、選ばれた者──この船でいうノアやその動物たちは誰のことを言うのか。話している途中だというのに考え込んでいると、庭師の青年の視線を感じてはっとする。 「すまない、ぼーっとして。君、『創世記』に詳しいんだな」 「私のいた国では、聖書を子供の頃から読みますから」  故郷のことを思い出しているのか、庭師の青年は遠い目をする。  寂しそうにしている彼を見て、なんとしても自由にしてやりたいと心が奮い立った。 「そうか、ありがとう。それが聞けただけで充分だ。それから……すまない」  ──きみの家族が罪を犯すのを止められなくて。  モードさんが亡くなったこと、広間で警官やボディーガードが殺されたこと。ジャスパーひとりで行われた犯行ではないだろう。使用人たちも手伝った可能性がある。  申し訳ない気持ちで、庭師の青年の目を見つめていると。彼それを感じ取ってか、彼は瞳を潤ませていた。  俺は青年の表情を脳裏に焼きつけ、グレンの元へ戻る。  ──もう絶対に、罪を重ねさせたりはしない。 「もうわかったのか?」  驚いているグレンに頷いて、俺は壁の血文字を指差した。 「これは『創世記』の真似事だ。この豪華客船を方舟になぞらえている。なにを基準に選んでいるのかはわからないが、乗客のうち、犯人が方舟に乗る資格がないと判断した者は、血文字にもあった『招かれざる者』『資格なき者』として『血の断罪』を受ける。要約すると、殺すってことだな。残念ながら毒殺された警官とボディーガードは、乗船資格がなかったらしい」 「なんだよ、それ。犯人は神を気取ってるわけか」  グレンは吐き捨てるように言って、苛立ちを露わにする。 「『空に虹がかかる』イコール、『もう洪水は起こさない』。つまり、方舟に乗る資格がない人間を皆殺しにすれば、犯人の目的が達成されるという意味だ」  これは殺人予告だ。血の断罪を受ける人間と、命を選定できると勘違いしている神の正体を突きとめる必要がある。 「この血文字はいつからあったのか、わかる者はいるか?」  グレンはその場で青い顔をしている資産家のフェンネさんと、使用人たちを振り返った。 「この部屋は、みなさんが別室にいるときに一度暗転したんです。次に明かりがついたときには、そこの壁に血文字があって、私のボディーガードたちも……」  広間のソファーに腰かけていたフェンネさんが、身体を震わせながら教えてくれる。  部屋が暗転している間に、警官やボディーガードたちは亡くなったわけか。  そして、被害者たちと同じ空間にいたのに、フェンネさんと使用人たちは生き残った。  ──まるで、大洪水から逃れたノアとその動物たちのように。    なんにせよ、彼らは犯人に生かされた。その共通点、生死を分けたものはなんだ?  モードさんの死を皮切りに起きた、この殺人は誰のために起きているのか。それを見定めるため、俺は生存者たちを静かに観察する。  まずはフェンネさんだ。歳は三十代くらいで、長い銀色の髪が特徴的な男。  彼は度々、モードさんの商品を買うため、レッティ邸に出入りしていたと聞く。  広間の中を歩き回りながら、生存者たちの動向に目を光らせていると、ふとテーブルにある飲みかけのワイングラスに目を留めた。  モードさんが亡くなって、事情聴取を受けているときに、呑気にワインを飲んでいたのか?  グラスはフェンネさんの前にあるものも含めて十五個、被害者は十四名。グラスの数と被害者の人数を比べれば、毒はこのワインに入っていたと考えていい。  ただ、おかしいのは警官やボディーガードが仕事中にワインを飲んだことだ。 「このワインは、いつ、誰が配ったものだ?」  使用人たちに向かって尋ねると、フェンネさんがずっと手を挙げた。 「これは、私の指示で使用人たちが用意したんです。警察の皆さんも、私のボディーガードたちも疲れている様子でしたので、一緒に飲まないかと誘いました」  フェンネさんは自身が飲んでいたのだろうワイングラスを手に、そう説明してくれる。 「そうですか……」  ありえないな。民間のボディーガードならまだしも、警官は勤務中に飲酒はしない。貴族に勧められようと、絶対にだ。  グレンやバードランド警部も俺と同じく、フェンネさんの発言に疑念を抱いたのだろう。  なにも言わずに、視線を交わしていた。俺たちの中で、フェンネさんは重要参考人になったのだ。  フェンネさんは警官やボディーガードたちを気遣って、一緒に飲まないかと誘った。そう言っていたな。  でも、モードさんが連れてきた使用人たちには、ワインを振る舞わなかった。それはグラスの数を見れば、わかることだ。 「フェンネさん、ワインは使用人たちには振る舞わなかったんですね」 「探偵さん、まさか私を疑ってるんですか? 私は使用人たちにも声をかけましたよ。でも、仕事があるからと断られてしまって……」 「警官やボディーガードたちも、同じように断ったはずです。どうやって彼らにワインを飲ませたんです?」  ゆっくり周りを固めるようにして問い詰めながら、俺はフェンネさんのグラスを注視した。底に花びらのようなものが沈んでいる。  あれは、庭師の彼が俺にメッセージを伝えたときと同じ……。  そこでようやく、俺の中に散らばっていた真実のピースが繋がり始める。  もし、モードさんがジャスパーに殺されたのだとしたら。それはジャスパーの美学を反したからだ。具体的にいえば、ジャスパーの蝶に手をつけたとか。  そして、モードさんが手をつけるとすれば、レッティ邸の使用人。ということは、ジャスパーの蝶は使用人の中にいる。  同時に、故郷から攫われ、慰み者にされた使用人たちもモードさんへの憎しみを募らせていた。  ジャスパーと使用人たちには、モードさんを殺害する動機があった。ここで、殺人の共謀が成立したとしたら?  ──ジャスパーは、使用人たちと協力してモードさんを殺した。  使用人たちをどう言いくるめたのか、おそらく自分に従えばモードさんから解放してやるとでも言ったのだろう。  続いて、今回の『創世記』にちなんだ殺人。タイミングからして、ジャスパーと使用人たちが絡んでいると見ていいだろう。  生存者はフェンネさんと使用人たちだけだった。俺たちも生き残ってはいるが、それはたまたま別室にいたからだ。これから、『血の断罪』を受ける可能性が高い。  これらを顧みると、生存者の使用人たちがノアとその動物たち。つまり神──ジャスパーに選ばれた者。そして、毒入りワインを被害者たちに勧めたフィンネさんは……十中八九、ジャスパーだ。 「どうやって彼らにワインを飲ませたのか、という質問ですが……」  気味悪いほどにこやかなフィンネさんに、反吐が出そうになる。 「その質問には、もう答えなくて構わない」  ワインを飲ませた経緯よりも、無視出来ない事実がある。  ジャスパーに選ばれたということは、ここにいる使用人たちは全員……蝶だ。  恐ろしい考えに行きついて、俺は冷や汗をかきながらフェンネさんの元を離れる。  こんなにも、あいつの被害者がいたのか……っ。  方舟とはよく言ったものだな。これはジャスパーが集めた娼婦の乗る船だ。自由などとは、程遠い。  ガクガクと震える膝を叱咤して、俺はなんとかグレンの隣に並んだ。 「ルクリア、大丈夫か?」  ふらついた俺をとっさにグレンが支えてくれる。とても返事ができる状況じゃなかったが、俺は無言で首を縦に振った。 「全然、大丈夫じゃねえだろ。なにがあった?」 「……俺がやつの注意を引く。その間に、バードランド警部に伝言を頼む」  それだけで、グレンはただ事ではないと感じ取ったのだろう。俺を信頼してか、説明を求めることなく耳を寄せてくる。 「広間前方の出口から、まずは甲板に出る。その甲板から、救助用のボートでこの船を脱出するぞ。ここは、ジャスパーの腹の中だ」 「――っ、了解」  一瞬、息を詰まらせたグレンは、すぐに冷静さを取り戻し、バードランド警部の元へ伝令に走った。  俺はこちらの動きを怪しまれないよう、静かに前に出る。 「……イー・ミン、君に聞きたいことがある」 「な、んでしょうか」 「君には羽があるか?」 「……なんのことでしょうか」 「では、質問を変える。背中を見せてくれ」  その背にはバタフライタトゥーがある。そう確信を込めて要求すれば、イー・ミンは俯いて自分の腕を抱きしめる。  その反応だけで、確認せずとも羽を持っていることはわかった。 「じゃあ、君だ」  俺はイー・ミンの隣にいた、あの庭師の青年に視線を移す。彼は俺と目が合った途端、ビクリと肩を震わせた。 「君の背にも、羽はあるか?」  庭師の青年は、唇を噛みながら俯いてしまう。それでも俺は、さらに踏み込んだ質問を投げかける。 「ワイングラスの薔薇、あれはメッセージを伝える手段だな?」  ──薔薇の棘を介して、俺に罪を犯そうとしている家族を救ってくれと言ったように。 「その薔薇がフェンネさんのグラスの中にあるのはなぜだ?」 「……それ、は……」 「このグラスは安全だと、そうフィンネさんに知らせるためか?」  震える庭師の青年をイー・ミンが抱き寄せる。家族の絆がそれほどまでに強いのだと察した俺は、胸が締めつけられる思いだった。  彼らの絆につけ込んだジャスパーは、やはり許せない。使用人たちを絶対に、この方舟という名の牢獄から解き放つ!  そのためには、罪をきちんと償わせる必要がある。だから俺は、ひとつひとつ罪を洗い出すことに決めた。 「一度目の殺人、モード・レッティを殺害したのはイー・ミン……君だな。怖くてとっさにクローゼットに隠れたと言っていたが、クローゼットは部屋の入り口とは真逆の位置にある。事件に巻き込まれたとき、人間は無意識のうちに危険から遠ざかろうとして出口に向かって走るものだが、君はそうしなかった。それはなぜだ?」 「それはっ、先ほども話したはずです。怖くて、とっさに隠れようと……」  焦った様子で弁明するイー・ミンさんに、俺は胸が痛みつつも追求をやめない。 「そう、だから事が済むまで息を潜めていようと思った」 「そうです」 「でも君は、その絶体絶命の状況下で、自分が入るためのスペースを作るかのように、クローゼットの服を端に寄せた。恐怖を感じていたにしては、わざわざ物音を立てるなんて随分と大胆な行動をとる」  揚げ足を取るようにイー・ミンさんを追い詰めていくと、表情からは完全に余裕が消えた。  俺は真相を手繰り寄せるために、畳みかける。 「君はジャスパーに命令されて、動いていたんじゃないか? モードさんを殺したあと、硝煙が炊かれるまでの間、あのクローゼットで身を潜めているよう言われた。違うか?」  イー・ミンは口を閉ざしていた。強く庭師の青年を抱きしめているだけで、目も合わない。  自白するつもりはない、か……。  ならばと、俺は庭師の青年を見る。 「二度目の殺人、血の断罪を行ったのは……君だな。君は家族である使用人たちの代わりに、その罪を全て背負って、警官やボディーガードを毒殺した。ある人を除いてな」  俺は迷わずフェンネさんを睨みつける。  そう、この男こそ、一連の時間の首謀者。俺やグレンがずっと探し続けてきた過去の傷そのものだ。 「ジャスパー、君が彼らの絆につけ込み、犯罪に加担させたな。その罪は、自身の手を汚すより重いぞ」  強い言葉を浴びせると、ジャスパーは一度目を閉じる。それからたっぷり時間をかけて、再びゆっくりと瞼を持ち上げると──ジャスパーはふふっと笑みを浮かべた。 「姿は様変わりしているのに、よく気づいたね」  優雅な動きで席を立ち、ジャスパーは俺に向かって歩いて来ようとする。身体は勝手に強張り、ひゅうっと喉が鳴った。 「……っ、くそ……」  なんで、なんで動けない? 俺はこいつを自分の手で捕まえると決めた。その覚悟はずっと俺の中にあったはずなのに、震えて手も足も出ない。  幼い頃の悪夢のような記憶が走馬灯のように頭をよぎる。  それでも、この男の前では自分の弱さを晒したくなかった。  俺は凛然とジャスパーに対峙する。 「君は資産家を名乗ってレッティ邸に行くたび、『自分について来れば、モードさんから解放する』とでも言って使用人たちを洗脳したんだろう。長い間囚われ、冷静な判断などできない彼らにバタフライタトゥーという首輪をはめた。そして、その意思を操り、人を殺させた。操り人形のようにな」 「ふふっ、君ならいずれ、私に辿り着くと思っていたよ。君は事件を解決するたびに、私ならどんな手法で、どんな動機で罪を犯すかと考えていただろう?」 「当たり前だ、それが探偵の仕事なんだから」  なにが言いたいんだ。  訝しむ俺とは対照的に、なぜかジャスパーは楽しげだ。それがまた、不愉快極まりない。 「……まだ、仕事の範囲内だけどね。君はいずれ、私の思考を理解していく。そのうちに、私とひとつになっていくよ。そのときこそ、君が成虫になった証」  『成虫』の言葉に、俺の頭の中には『いつか、成虫になった君を迎えに行く』というジャスパーの声が響き渡る。 「意味がわからないな。俺は君を理解などしない。あくまで君のイカレた思考を探っているだけだ」 「でも、私の選んだ蝶たちは例外なく、私の考えを理解して行動を起こしてくれたよ。ここにいる私の蝶たちが、その証明だ」  ジャスパーは自分後ろに並んでいる使用人たちを手で差し示した。 「さっき、君はどうやって毒入りワインを警官たちに飲ませたのかと言ったね。君の考えている通り、仕事中だからと断られたよ。けど、私が使用人たちに銃を向けて、『私の酒が飲めないのか。ならば、暇潰しにここにいる使用人たちの頭でも撃ち抜こう』と言えば、どうだろう」 「……最低だな。お前は警官たちを脅して、ワインを強制的に飲まざるおえない状況を作ったのか」 「そうだよ。私の蝶たちは、実にいい働きをしてくれた。なのに……君はつれないね。特別な羽を贈ったというのに、いささか成長速度が遅い。けれど、手のかかる子ほど可愛いというからね」  特別な羽……? 意味がわからない上に気色悪い。どんな状況になったとしても、俺はこいつに従うことはない。  確かな敵意を込めてジャスパーを睨みつけていると、ふいに大きな背中に視界を遮られる。 「ルクリアがてめえの所有物みたいな言い方、やめろ」  グレンに威嚇するように睨まれても、ジャスパーは変わらず微笑を口元にたたえたままだ。 「君……私は今、最愛のルクリアと話をしているんだ。邪魔をしないでくれないか?」 「断る。俺はもう──お前にも、誰にも、相棒を奪わせたりはしねえって決めてんだよ」  グレン……。  その言葉が胸に染み渡って、俺の中の恐怖を溶かしていく。固まっていた手足が動くようになると、俺はグレンの隣に並んだ。 「勝手に浸るなよ。俺だって、お前を置いていくつもりはない」 「ああ、絶対にふたりで帰るぞ」  グレンは強気に口端を上げ、銃を構えた。俺を背に庇いながら、広間の出口へとじりじり後退していく。 「逃がさないよ、ルクリア。さあ、私の蝶たち。あの刑事たちを殺して、この箱舟で自由の旅に出よう」  ジャスパーがスッと手を挙げると、レッティ邸の使用人たちが広間の棚から斧やナイフ、銃を取り出し、いっせいに襲いかかってきた。 「グレン、オーセット、走れ!」  バードランド警部の号令とともに、俺たちは出口に向かって走る。広間を出る間際、ジャスパーを振り返ると、俺を見つめたまま微笑んでいた。  その視線が身体に絡みつくようで、足が重くなるのを感じていると――。 「ルクリア、じっとしてろよ?」  そんな声が聞こえたのと同時に、俺はグレンの肩に担がれていた。 「な、なにするんだ! 俺は荷物かっ」 「じゃあ、お姫様抱っこにでも変えましょうか?」 「お前、ふざけてる場合か!?」  この状況で軽口を叩くグレンの頭を、俺は小突く。グレンは「いてっ」と言いながらも、笑っていた。 「いいから、まだ怖いんだろ」 「でも……俺を抱えてたら、追いつかれるぞ」 「俺の足の速さと体力、なめんなよ?」  にやっとしたグレンは、甲板に続く階段を飛び越える勢いで昇っていく。その後ろを走るバードランド警部はというと、呆れていた。 「もっと緊張感を持たないか。甲板に出たら、ボートを下すまでの時間稼ぎが必要になるんだぞ。喋っている暇があるなら足を動かせ」 「わかってますって、とにかく甲板に出ましょう」  グレンは余裕を崩さずにそう答えると、人ひとり抱えているというのにぐんぐんとスピードを上げていく。 「フェンネ様は救世主だ!」 「救世主様の敵を殺せ!」  ジャスパーを妄信する声に追われながら、俺はグレンに抱えられたまま甲板に上がる。そのとき、ビューンッという音とともに、俺たちのすぐ真横を銃弾がすり抜けていった。  振り返ると、銃を構えているイー・ミンの姿がある。 「グレン、俺を下ろせ! そのままじゃ銃を構えられないだろ」 「ああ、わかった。でも、俺の背から出るなよ」  グレンが俺を庇うように立ち、銃をイー・ミンに向けた。その間に、バードランド警部がボートを下す準備にとりかかる。  俺はその時間を稼ぐため、イー・ミンに話しかけた。 「君たちは自分のためにではなく、同じ境遇の家族を守るためにここまで必死になっているんだな」 「……そうです。僕たちは、あの牢獄みたいな邸から解放されたかった。本当の家族から引き離され、毎日代わる代わるモード様の夜の相手をさせられて……死にたくて死にたくてたまらなかった! そんなとき、あの方が現れたんです」  どこか、熱に浮かされたように語るイー・ミン。"あの方"が誰なのか言わずとも、ジャスパーであることはすぐに察しがついた。 「あの方は僕に赤い蝶の羽根をくださった。それから、僕の家族を自由にしてくれると約束してくれたんです!」  イー・ミンは妄信的にジャスパーを信じて、叫んでいる。  もっと早く、彼らに出会えていれば。そんなこと悔やんでも仕方ないというのに、考えてしまうのは、きっと──。  もしかしたら、俺も彼らと同じようにジャスパーの操り人形になっていたかもしれないと、自らを重ねて見てしまうからかもしれない。  やるせなさを感じつつ、俺はグレンの銃に手を載せて下げさせた。 「ルクリア……?」 「すまない、イー・ミンとちゃんと話をさせてくれ」  それだけ伝えると、グレンは銃をホルスターにしまいはしなかったものの、構えることはせずに俺を見守ってくれていた。  俺は礼を込めて笑みを返し、イー・ミンの銃口の前に立つ。グレンは焦ったように、俺に手を伸ばしかけた。  だが、最終的には俺の意思を尊重してくれたらしく、すっと腕を下ろす。 「イー・ミン、ジャスパーについて行くことは、本当に自由に繋がっているのか?」  そう問いかければ、イー・ミンは俺の言葉の意味を測りかねるのか、眉を寄せた。 「自由に決まってる。あの場所を出て、この船で旅をするんだから」 「じゃあ、君たちの今度の檻はこの船か」 「え……」  動揺するようにイー・ミンの視線が揺れる。 「わからないか? 君たちはバタフライタトゥーという首輪をつけられただけでなく、今度はこの船に捕らわれるんだ。檻がレッティ邸から船に移っただけだ」 「違う……」  かぶりを振るイー・ミンに、俺は少し感情的に否定する。 「違わない! 海の上に出てしまえば、絶対に外へ逃げられない。レッティ邸よりも確実な檻の中に、君たちは捕らわれるんだぞ!」  ジャスパーは地上から離れ、逃げ場のない海の上で自分の蝶を飼うつもりなのだろう。あいつは、この箱舟を虫カゴとしか思っていない。 「ち、違う……あの方はっ、俺たちを自由にしてくれるんだ……!」  イー・ミンが絶叫すると同時に、引き金が引かれる。グレンが駆け寄ろうとしたのがわかったが、きっと間に合わない。俺は死を覚悟して目を閉じようとした、そのとき――。  視界に飛び散る、赤。俺は状況を理解できないまま、瞬きも忘れてその光景に見入る。  なんで……。 「な、なんで……」  イー・ミンの動揺した声と、俺の心の声が重なった。  そこには俺を庇うように両手を広げて立つ、庭師の青年の姿があったからだ。彼は俺を振り返って、怪我がないことを確認したのか、安堵の笑みを浮かべる。その身体がやけにスローモーションに傾き、気づいたときにはドサッと地面に仰向けに倒れていた。 「き、君……!」  俺は彼のそばに駆け寄ると、その身体を抱き起こす。 「ルクリア、さん……。早く、逃げて……げほっ、げほっ」  咳き込むと同時に、その口から血が吹き出した。 「喋るな! 血を誤嚥したりしたら、息ができなくなるぞ!」  そう静止をしたのにも関わらず、庭師の青年は俺の腕を痛いくらいに掴んで、息も絶え絶えに必死に言葉を紡ぐ。 「他の使用人たち、は……今頃……違う場所を探して……いるはず、です」 「もしかして、俺たちを逃がすために嘘の情報を流したのか? 使用人たちの目を、他の場所へ向けるために」  だから、あんなに追っ手の使用人がいたというのに、ここに来たのがイー・ミンただひとりだけだったのだ。 「君は初めから、俺に教えてくれていたな。あのワイン、救ってほしかったのはモードさんやジャスパーに囚われた家族のことだったんだろう?」  話を続けながら、俺は撃たれて血が滲み出る彼の胸を手で押さえる。  頭ではわかっている。彼はきっと助からない。不幸にも、イー・ミンの銃弾は彼の心臓を撃ち抜いていたから。 「どう、したら……いいのか、わからなかった……んです。家族の気持ちを優先するべきだったのか、止めるべき……だったのか。でも、罪を犯したら、本当に……後戻りできなくなる」  だから彼は家族を裏切ってでも、俺に真実を暴いてほしかった。それがわかった瞬間、たまらず彼の冷たくなっていく手を強く握る。 「ああ、君は間違っていない。それより、すまない。俺は、君の願いを叶えられなかった。でも、これ以上の罪は犯させない」 「あり、がと……お願い、します」 「ああ、任せてくれ。最後に……っ、君の名前を聞かせてくれないか?」  泣いている場合じゃないのに、勝手に涙が込み上げてくる。震える声を隠すこともできずにそう尋ねると、彼はふわっと花が咲くように笑った。 「セージ……です。花言葉は、家族、愛……。もう会えない家族から……もらった名前……だから。その名に恥じぬようにって、そう思って……」 「ああ、だからこんなにも家族思いなのか。君のためにある名前だな、セージ。約束は必ず守る、だから安心してくれ」 「は、い……俺の名前、呼んでくれて……」  そこまで言いかけたセージは、すっと目を閉じた。そのまま力なく、ぐったりと眠りについてしまった彼を甲板に横たえる。  叶うなら、もっと別の形で出会って、これから何度でもその名を呼んでやりたかった。  俺は悔しさに唇を噛みながら、立ち上がる。その瞬間、セージの遺体を眺めて「俺のせいじゃない」と繰り返し呟いていたイー・ミンが銃を向けてきた。 「俺のせいじゃない!」 「──時間切れだ」  グレンはそう言って俺を小脇に抱えると、下がりかけていた救命ボートに飛び乗る。間一髪のところで、グレンの頭上を銃弾がすり抜けていった。  着地の拍子にグレンの上に乗っかっていた俺が安堵の息をついたのもつかの間、甲板からイー・ミンが銃を構えてこちらに狙いを定める。  無意識に盾になろうとしたとき、俺の背中に回っているグレンの腕に力がこもった。 「仕方ねえ」  バードランド警部は船を下しているから動けない。  グレンは悔しげにぎりっと奥歯を噛み鳴らし、俺の肩口から腕を前に出すとイー・ミンに向かって発砲する。その銃弾は足に当たったのか、その場に蹲るイー・ミンが見えた。 「……すまない」  守るべき市民を撃つことに抵抗があったんだろう。撃たれたのはグレンなんじゃないかと錯覚するほど、苦しげな顔をしている。 「君があそこで撃たなければ、俺がやられていた。助けられたな」  グレンの銃を握る手に、俺は自分の手を重ねる。 「ジャスパーは自分の蝶を特別に思っている。だから、死なせることはまずない。必ず、手当てされるはずだ」 「そう……だよな、気を遣わせた。ありがとな、ルクリア」  ようやく笑みを浮かべたグレンは、銃をホルスターに戻す。  やがて、船は無事に海面に到着し、グレンはバードランド警部を振り返った。 「ここからどうします? 豪華客船から離れるにしても時間がかかる。その間に追いつかれるか、銃で狙撃されるかのどっちかですよ」 「それについては問題ない。広間での殺人が起きたとき、伝令に来た警察官がいただろう。俺たちが広間についた時点で、彼に援軍を呼ぶよう頼んでおいた」  遠くを見たバードランド警部の視線の先には、なん艘もの警察の自動艇。豪華客船を囲むように近づいてくる。  バードランド警部の用意周到さには、命拾いしたな。  それにしても、俺たちのところへ伝令に走ってきた警察官は運がいい。手洗いに行っていて、ワインを飲まずに済んだのだから。  そんな幸運が重なって、俺たちは生き延びた。  俺は無事を噛み締めながら、豪華客船に警察が乗り込んでいくのをボートの上から眺める。  命は助かったとはいえ、多くの被害者を出した。悔やんでも悔やみきれない。  不甲斐なさにため息をついたとき、グレンが舌打ちをした。 「これでジャスパーも捕まる。けど……悔しいな。あいつをこの手で牢屋にぶち込んでやりたかった」 「……ああ、同感だ」  目を伏せて、俺は拳を握りしめる。俺の二十年間にも及ぶ復讐劇は、こんなにあっさり終わりを告げたのだ。これから、憎しみ以外のなにを糧にして探偵を続ければいい。  ジャスパーが逮捕されても、背中のバタフライタトゥーは消えないし、傷も癒えない。俺の中では、なにひとつ終わらない。 「ルクリア」  名前を呼ばれ、知らず知らずのうちに握りしめていた俺の拳に大きな手が重ねられる。  顔を上げると、グレンのまっすぐな眼差しが俺に向けられていた。 「ルクリア、ジャスパーとなにがあったんだ?」 「……っ、それは……」  憎くてたまらない相手に穢された。その事実は、グレンを失望させるのではないか。軽蔑されるかもしれない。そう思ったら口にする勇気がなくなり、俺はグレンから逃れるように視線を落とす。  すると、グレンは俺の両肩に手を置いて顔を覗き込んできた。 「あいつは、お前を自分の所有物みたいに話してた。最愛のルクリアとか、お前を逃がさないとか、明らかに執着してただろ。あと、特別な羽を贈ったって……」  グレンは気づいている。俺の背にも羽が――バタフライタトゥーがあることを。  俺は捲し立てるように質問してくるグレンの胸を、グイッと押しのける。そのまま距離をとると、自分の身体を抱きしめながら顔を背けた。 「知られたくないんだ。グレン、お前には……特に」  そう告げたときのグレンの顔は見ていない。きっと傷ついた表情をしているに違いないから、直視することができなかった。
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