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事情を知らない平川とクラスメイト達から心配され、居たたまれない気分で過ごした律とは反対に、すっきりとした顔で教壇に立つ竹塚に云いようのない理不尽さを覚えていた。その放課後。
「堀井が手伝ってくれて助かったよ。さすが中等部で生徒会長やっていただけあるな。几帳面だし」
滝本が配るだけのプリントと、採点する答案用紙とを分けた物を見てホッとしている。
「褒めても何も出ませんからね。どうせならご飯奢るぐらい考えて下さい」
「それは勿論」
滝本が苦笑する。律が腕時計を見ると、ソファーに置いていた鞄を手にお辞儀をした。
「では帰りますので失礼します」
その声に、背中を向けて答案用紙に採点をしていた竹塚が振り返る。
「送っていくから待ってろ」
「…は?」
滝本も壁掛け時計を見る。時間は十九時を回っていている。
「そうして貰え堀井。今日はありがとうな。マジで今度奢るから」
「……ひとりで平気だし」
「馬鹿を云うな。何か遇ったらどうする。竹塚先生に送って貰え」
―――うわぁマジかよ、勘弁。
朝のことを思い出して唸る。竹塚は椅子の背に掛けた背広を羽織ると、「行くぞ」と律の頭を撫でた。
「別に良いのに。どうせこのまま病院行くのにさ」
「見舞いだろう? 俺も付き合うから」
律は竹塚の背中を見詰めながら、仕方なく着いていった。
律はジッと竹塚の広い背中を見詰める。あの背中に腕を回して抱かれていた自分が蘇る。
いつからだろう。神様は意地悪だ。なんで、竹塚を想うと胸がざわざわするんだろう。と、律は自分の胸に手を当てる。
「靴持って来い」
ピクッとして律は下駄箱へ急ぐと、上履きを脱いで下駄箱に放り込み、靴を手に竹塚の許に駆けた。
「見舞いの前に飯でも食うか?」
「え?」
「なんだ? 奢れって催促してただろう?」
「そ、そうだけど…」
肩を並べて歩き出した竹塚の顔を、律はまともに見られなかった。頬が熱い。
―――もう、何なんだよ。僕の心臓煩いっ!
ドクンドクンと耳許で高鳴る音に、律は狼狽えた。
『これってさ、恋だと思わねぇ?』
中等部の頃、初恋に騒ぐ平川が真っ赤な顔で律に云った台詞だ。当時、年上の英語教師に恋をして、結局その教師は寿退社したのだが。当時律は冷めた眼で見ていた。恋だ愛だと騒いでも、律には空しい感情にしか見えない。愛人だった母親。長男の事故で跡継ぎが不安になった父親が、律を金で母親から買い取り、養子にした男。それを認めない本妻。
何処に律を愛する感情が在るのだろう。金を手に、律を手放した母親の里沙は最後まで、律を抱き締めてはくれなかった。里沙は大金を手に、何処かへ行ってしまったと直子が云っていた。以来、会ってはいない。
―――愛なんて信じない。
「律?」
竹塚の声に横を歩く男の顔を見上げた。
「どうした、具合でも悪いのか?」
「別に…」
頬に触れた大きな手。律は同世代より顔が小作りらしく、よく顔が小さいと云われる。だからこうして、大きな手で片頬を包まれると、くすぐったい気分になるのだ。
―――ドキドキする。
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