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二人を乗せた車は住宅地を抜けて、律の家に近い病院へ向かった。
「お袋、律が来て喜んでたぞ?」
「優しいお母さんだね。僕を産んだ人の事、何故だかよく覚えていないんだ。料理とかしてたのかな…今の家なんか、冷めたご飯を食べているし…あ、でもまだ食べられないよりましか」
前に見た、律の部屋の小さな落書きを思い出す。『お母さん』『家に帰りたい』『お母さん大好き』と書かれた字。どんな想いで書いたのか。胸が締め付けられそうだ。
「律…前に俺が云った言葉を覚えているか?」
「…え?」
竹塚は車を左に寄せて停車する。
「俺の所に来ないかって話し」
―――それって、一緒に暮らそうかって事だよな?
「……覚えてるよ」
「律、考えてみてくれないか?」
「……そ、れは」
胸の鼓動が高鳴る。すると、不意に鞄の中の携帯が鳴った。二人は見詰め合い、だが観念して律は眼を逸らせると、鞄から携帯を取り出した。父親の名前が出ている。珍しい事もあるものだと、律は携帯に出た。
「…もしもし、はい。……え?」
律が顔を上げて竹塚を見る。竹塚が眼を細めた。
「浩一さんが、眼を覚ましたって」
竹塚も驚愕して双眸を見開いた。
夜の病院を小走りで急ぎ、病室に駆け込んだ律は息を呑み込んだ。そこには直子も駆け付けてベッドの横に置いた椅子に座っていたのだ。
居ても不思議ではないのだが、直子に睨まれて律は唇を噛み締める。和也が竹塚に気付くと、律に気付かれないように唇の前で人差し指を立てた。
浩一がジッと律を見詰めると、無言のまま眼を閉じる。
「少し前に目覚めて、記憶がまだ曖昧のようだ。明日もう少し検査をすることになった」
和也の説明に律は頷く。
「良かったね、律君。毎日お見舞いに来て、話し掛けてたから」
「え? ……うん」
律が気恥ずかしげに俯く。
「私はもう帰るわね。浩一。早く歩けるようになりましょうね? 母さんまた明日来るから」
直子は立ち上がって浩一の手を握ると、ドアの所に立ち尽くす律を睨みながら、横を擦れ違っていく。
「お母さんに挨拶だけしてくる」
律に云うと、竹塚は直子の後を追った。律はベッドに歩み寄り、浩一の青白い顔を見下ろす。傍で看護師がバイタルチェックをしていた。
「律が毎日浩一の手脚のマッサージをしてくれていたらしいから、回復も早いだろう」
「……そうだと良いな。浩一さん、良かったね。また大学に行けるように頑張ろうね」
浩一は双眸を開いて、律をまた見詰めていた。
「姉さん、良かったじゃないか、浩一が目覚めて」
警備員に会釈して、竹塚は直子の横を歩く。
「早いところ浩一には動けるようになって貰わないと。これでひとまず、あの女狐の子供にこの病院を奪われる心配が無くなったわ」
「……姉さんもう少し云いようが」
直子は脚を止めて竹塚を睨んだ。
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