サーカスが嫌いな男

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 翌朝、男がやってきたとき、クマは言った。 「僕、やっぱり帰れない」 「なぜ?」  と、男は目を眇めてクマの眼を覗き込み、言った。  クマは黙っていた。  クマは誰も殺したくなかった。  しかし男のほうがしつこかった。その眼に負けて、クマはとうとう、木霊との会話を男に話してしまった。 「三日だけ待ってくれ」  事情を聴くと男はそう言って、彼の家へ戻った。  男は帰るとすぐに、なじみの銀行の頭取と、息子の学校の校長を呼んで、”もしものときのために”息子の後見人になってくれるように頼んだ。  唐突な申し出に、二人はずいぶん(いぶか)しみはした。  しかし、彼らも結局は男に負けて、黙って書類に判を押した。  二人と男は、長い間、親しい付き合いだった。  息子は男のたった一人の家族であり、男にとって唯一、この世で大切な存在だ。  しかしいつかは息子も独り立ちせねばならない時が来る。だから、その時が少し早まっただけなのだと、男は自分に言った。  二人の友人は、まちがいなく息子をまっとうな人間に育ててくれるだろう。  本当に?  彼は自問した。  むろん、そうに決まっている。  自分のような野蛮な人間がいつまでも息子の面倒を見るよりも、もっと教養豊かな人々に、早く息子を預けるべきなのだ。  本当に? 本当に?  「野蛮」という言葉が胸をよぎるとき、いつでも思い出す光景がある。  それは自分たちが命を賭けて撃ち合いをするときに、決闘場の外の観客席から、目をギラギラさせて興奮して叫ぶ、あの教養ある人々の熱狂だ。  ちがう。  男は自分に言った。  友人たちは、そんな連中とは違っているはずだ。  長い付き合いの中で、俺はそう知っているはずだ、と。  それで少し、男は安心した。  すると次には、息子がサーカスでクマを見ていたときの、天真爛漫ともいえる、あの熱中した眼差しが、男の記憶の中で、過去の野蛮な熱狂と交錯した。  ちがう。ちがう。  全然別のものだ。  いや。そうかもしれない。  ――だが、それならいっそう、息子をあんな連中と同じにしないためには、できるだけ早くに、信頼できる友人たちに、彼を教育してもらうほうがいいのだ。  そうだ。そうに決まっている。きっと。  自分にそう言い聞かせながら、男は再びクマのいるテントに向かった。
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