出会い

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出会い

いつもとなんら変わらないほどよく晴れた日。 暑くもなく、寒くもなく、心地の良い日和。 地元を離れ、一人暮らしを始めてもうすぐ4年。近所付き合いもうまくできず、どうしようもない大人になってしまった僕はいつも通りの日常をただ繰り返していた。 平凡で、頭ひとつ抜けたものもない僕は両親に決められた進路を辿り、医療の道へ進んでいた。 「ただいま」 真っ暗な部屋にポツリと声が響く。 誰が待っているわけでもないのに、数年前までここで一緒に暮らしていた元彼女との暮らしで身についた癖が抜けないまま、無意識に言葉を落とした。今でも、どこかでおかえりと返す声が聞こえてくるような気がしている。 電気をつけると、少し散らかった部屋と家を出る前に畳んだ洗濯物が目に入った。生活感が垣間見える、実に男の一人暮らしらしい風景だ。 リビングテーブルに腰掛け、参考書を開く。勉強は得意ではない。だが、馬鹿にならない学費を払う両親への労いと、手短に独り立ちしたい反比例な感情で僕は必死に勉学に取り組んでいた。 アルバイトは講義の時間への融通が効くように自由シフトのコンビニを選んだ。特にやりたい仕事もない。それならフレックスに動けて尚且つ程よいお金が手に入れば、それで十分だ。大学へ行き、バイトをして家に帰る。本当に退屈な日常に嫌気が差していた春の芽吹きのそんなある日、突然出会いは訪れた。 その日もなんら変わらないいつもの流れに沿って過ごし、自宅へ戻りながら小さくため息をつきながら玄関へ歩いていると、隣の部屋の前にたたずむ人影があった。 こんな時間に部屋の前で佇むなんて、鍵でもなくしたのかと心配にもなったが疲労感で人を気にかける気力も残っておらず、自宅の玄関に鍵を刺した時におかしい点に気付く。 ーなんで、この人ずぶ濡れなんだ…? 確かに今日は雨だった。だが彼女の手には綺麗に畳まれた傘が握られている。わざわざ雨に濡れて帰ったのだろうか。なんの理由があってそんな真似をしたのだろう。 「うっ…」 考え事をしている間に、彼女はその場に座り込んで泣き始めてしまった。このまま無視をすれば僕はただの酷い傍観者だ。いつまでも近所付き合いもろくにできないままでいいのか、俺。 「これ、使ってください」 一度部屋に入り、バスタオルを持って彼女の元へ戻った。あまりにも見放すには目にあまりすぎたという、僕なりの精一杯の一握りの優しさだ。 一呼吸おいて、彼女はこちらを見た。 蛍光灯と月の明かりに照らされた瞳は相変わらず潤んでいて、赤く腫れていた。 「…ありがとうございます」 そう言ってタオルを受け取り、2人の間に沈黙が流れた。 もし仮に鍵をなくしているのであれば、このまま風邪をひいてしまうのではないかと、お節介な感情が沸き始めた頃には時すでに遅しで心の声が口に出ていた。 「あの、このままじゃ風邪を引いてしまうのでうちで温まっていきませんか。…変な意味じゃなく。」 再び沈黙が流れた後、彼女はスッと立ち上がり少しふらつきながらポケットから鍵を取り出し、軽く僕に会釈をして部屋に入っていった。 4年間もここに住んでいたのに、初めて出会った彼女との出会いはあまりにも不可解で、謎で、僕の心を激しく揺さぶった。退屈だった日々に突然の出来事で完全に狂った波長が、なかなか僕を眠りに導かず、耐えきれず久しぶりに晩酌をしたが、少しも味を感じられなかった。 翌日、いつものように帰宅すると玄関のドアノブに丁寧にかけられた紙袋があった。中には昨日渡したタオルが入っている。自分で洗濯するよりも遥かにフカフカに仕上がっていて、甘い柔軟剤の香りがした。コロンや芳香剤よりも、洗剤や柔軟剤に拘っていた元彼女が頭によぎる。まだ、僕は忘れられていないのか。はたまた、隣の彼女に重ねてしまっているだけなのか。あまりにも失礼すぎて申し訳ない気持ちになった。 表札もなければ、名前も知らない彼女と会うのはいつも夜7時から9時の間だった。コンビニの袋を抱えて、どこか晴れない表情を浮かべながらとぼとぼと歩く。僕に気付くと、軽く会釈をし、部屋に入っていく。特に交わす会話もない。年齢はあまり断言すると失礼だが年上なのはわかる。気づけば、どんどん興味を惹かれて彼女のことで頭がいっぱいになっていた。久しぶりの浮ついた感情に、なんだか自分が許せなかった。 理由としては、かつての元彼女・麻里とは死別という過去がある。まだ一人前ではない僕には、何もできずただただ悔しい思いをした。いつも通りに玄関で挨拶を交わし、帰る時間の連絡が来た後、麻里は事故死した。なんの罪もない命が犠牲になった、連続殺人事件の被害者の1人になってしまったのだ。もう2年は経っただろうか、未だに僕は自分の掌の中で熱が失われていくあの感覚を忘れられずにいる。最後まで僕の名を呼んで、涙したあの表情を。いつまでも悲しみに浸る姿をきっと麻里はよく思わないことはわかっていても、愛する人の死は思った以上にこたえるものがあった。 それからというもの、恋愛という概念は僕の中から消えていた。愛する人を失う痛み、取り残される孤独感、そして溢れる不甲斐なさに押し殺されそうな思いがずっと体の中で巡っては、僕を苦しめていた。 そして、僕自身の感情を久しぶりに揺さぶった存在に正直戸惑っていた。名前も知らない、会話も一度しか交わしたことない相手に抱いている感情は一体何なのか。もはやあれも会話に含めていいのかもわからない、全てが謎なままなのに。 洗面台の鏡に映る顔を見る。酷く疲れた、退屈そうな表情だ。いつから僕は心から笑っていないんだろう。いつしか、嬉しい感情を解放することにも抵抗を覚えていた。 そういえば、と思いつき返されたばかりのタオルを手に取る。やはり甘い柔軟剤の香りに包まれたそれは、優しく自分の顔を救い上げてくれるような、そんな感覚を感じる。もう、我慢しなくていいんだよ、と勝手に解釈した途端に、無意識に僕は泣いていた。無感情だと自負していた僕にも、ちゃんと心があったんだ、と。随分勝手な話だが、少しだけ救われた気がした。 それからというもの、来る日も来る日も彼女とは会話を交わさない日々が続いた。人を寄せ付けないオーラというか、話しかけてはいけないような空気を放つのを感じ、僕はただの隣人として振る舞っていた。彼女のテリトリーに踏み込むには力が及ばず、ふつふつと湧き出る感情はもはやあふれ出しそうなくらいだった。ここは男らしく、自分から行くべきなのか。いや、そうじゃない気もする。ひとまず今日は休もう。僕は洗面台の電気を消した。
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