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15 保
危なかった。
あの時もう少し匡樹を追い出すのが遅ければ、混乱した自分が何をしでかすかわからなかった。もしかしたらまた衝動に任せて口づけたり、あるいは好きだと打ち明けたりしていたかも知れないと今思うと恐ろしい。だからあのまま別れることができてよかったと、正直ほっとした。
でも百回思い返すうちの、一回にどうしても考えることをやめられない。
あのとき、もし自分の気持ちの全部を打ち明けていたら、と。
匡樹のいない一週間がまた平坦な生活に戻った。
淡々と暮らす日常は以前ならば何不自由なく満足していた。匡樹がいなくなった後では、新しい朝や休日の始まりは聞き取れない外国の映画を字幕なしで観終わったときのように、無感情に過ぎ去ってしまう。
「あれ、珍しい。一色くんが金曜なのに、こんな時間まで残ってる」
はっと時計を見るともう八時前だ。佐上部長は立ち上がって大きく伸びをする。
「え?」
「このところ、華金はさっさと上がっていそいそ出かけてたじゃない。ずっと喜久川くんと金曜日は遊んでたんじゃないの?」
「そう…ですが」
事実なのだが、上司にそんな動向を観察されているとは思っていなかった。保の表情を読み取って佐上部長は笑う。
「だって、金曜に弾んだ足取りで帰るとこって、ずっと一色くん見てきて初めてだったんですもの、そりゃ驚きますよ。一色くんが仲いい友達なんて聞いたことも見かけたことなかったので、微笑ましく眺めてましたよ」
「弾んだ足取り…」
「そう、るんるんって。さて、私は先に帰りますよ。一色くんも、遅くなりすぎないようにしなさい。あ、そういえば喜久川くんに前貰ったロイスの詰め合わせね、駅のデパートに売ってなかったんですよ。どこで買ったか、今度聞いといてください」
「はい。…お疲れ様です」
「お疲れ様」
連絡先を全て消去したから、スマホに匡樹の情報は一切入っていない。もうそんなふうに軽々しく疑問を聞く事はできないんだ、と改めて気づいた。
悲しいとか、苦しいや切ないとは感じなかった。
それよりも、もっと大きな虚無感に飲み込まれ、保はパソコンの光る画面をしばらく呆然と見つめた。
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