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「若様」
コツ、と靴音がした。
聞き覚えのある声だ。
声のした方をジュスティーノはゆっくりと振り向いた。
薄暗い廊下の向こう側。
玄関ホールの方からこちらへ、姿勢の良い歩き姿で近付く長身の男性がいた。
襟締を綺麗に首元で結び、略式の正装を身に付けていた。
長い灰髪を一つに束ねて肩に垂らしている。
イザイア・パガーニだった。
「門扉の所で呼び掛けても誰も来ないので、勝手に入らせて貰ったが」
「パガーニ医師」
「イザイアでいい」
そう言い、イザイアは死んだ下男を眺めた。
「まあ、こんなことだろうと」
イザイアはそう言い、おもむろに口にハンカチを当てた。
「息のある者は」
「先程までそこの下男がいたが……目の前で死んだ」
「では、他にもいる可能性はあるか」
イザイアは周囲を軽く見回した。
「息のある者は、うちで預かっても宜しいが」
「……お願いする」
小声でジュスティーノはそう言った。
「下男や女中なども?」
「診てやってくれ」
仮面と黒いフードマントを身に付けた者達が、数名ほど小走りで廊下を来る。
「息のある者を探して運べ」
イザイアがそう指示する。
ジュスティーノは俯いていた。
使用人に対してあらゆる権利を持っている以上、情けをかける義務もあると信じてきた。
だがたった今見殺しにしたばかりの自分が、診てやってくれなどと言うのは後ろめたい気もする。
「始めに運び込まれた者から広がっていたのか」
イザイアが言う。
「二週間の間に……」
ジュスティーノは呟いた。
「倒れている者に触ったか」
「……触ってはいない。貴殿に散々教わっていたので」
「結構」
イザイアは言った。
コツ、と靴音をさせ踵を返す。
「帰るぞ、若様。今日の所はまたこちらの屋敷に居たらいい」
ショックを受けた状態で、ジュスティーノは俯き立ち尽くしていた。
イザイアは厨房の出入り口で暫くこちらを見ていたが、ややしてからゆっくりと近付いた。
遠くの方で、複数の人間が駆ける音が響いている。
息のある者がいたのだろうか。
「人が死ぬところを見たのは初めてか、若様」
イザイアは言った。
「……酷い咳をしていた」
「咳をしていたのか」
倒れている下男をイザイアはもう一度見た。
「肺ペストに移行したのかもしれんな」
成程、とイザイアは呟く。
「苦しんでいたのに……」
「眠るように死ぬなどという人間は、実際はあまりおりませんからな。大半は目を剥いて酷く踠く」
「助けを求めていた」
ぽそりとジュスティーノは呟いた。
「若様、死ぬ直前などどうせ意識はない。踠いていたのは、ただの身体の反射だ」
「はん……?」
ジュスティーノは顔を上げ、美貌の医師の灰色の瞳を見た。
「震えているな」
イザイアが、ジュスティーノの肩に触れる。
言われてから初めて、ジュスティーノは小刻みに震えているのに気付いた。
「可哀想に。落ち着かれよ」
そう言い、イザイアは宥めるように抱き竦めた。
二週間同じ屋敷内にいたにも関わらず、直接触れるのはこれが初めてだったことに気付く。
人間臭さのない美貌と冷たい色の瞳に反して、身体は随分と温かいのだと思った。
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