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第1話 夢のような食卓
爪について覚えていることは、案外少ない。
むしろ、失うまではろくに意識したことすらなかったのだ。
「シモンさま。もう召し上がらないのですか」
耳に心地よい声がして、シモン・バラーシュは緩やかに銀色のまつげを上げた。本当は顔を上げたかったが、今は動かなかった。首も、手も、足も、動かなかった。
少し腫れた舌で、シモンは囁く。
「夢をみていた」
「夢」
もの柔らかに繰り返したのは黒髪の従者だ。黒地に黒の刺繍を施したお仕着せをまとってシモンの傍らに控えている。
彼は長い指をポケットに入れ、美しい懐中時計を取りだした。
「シモンさまが朝食のお席についてから、十六分と七秒。夢をみるには充分なお時間でしょうか」
さして大きくもない彼の声が、がらんとした大食堂に響き渡る。
おそろしく天井の高い『一族』の大食堂は人間なら百人、象でも二十頭は収容できそうな広さだったが、今いるのはシモンと従者のふたりだけだ。
彼らの眼前には長い長い食卓が置かれ、夢のような朝食が用意されている。
エメラルド色の豆のポタージュは銀器が曇るほどにきりりと冷たく、生クリームたっぷりのオムレツははち切れんばかりに豊満。むせかえるバターのにおいをまとったペイストリーはやまほど盛られ、小鳥肉のミンチと青カビチーズとブランデー漬けの白ブドウを混ぜて固めたテリーヌは異国のモザイクタイルのよう。パイには甘酸っぱい真っ赤なゼリーが載り、さらにチョコレートで固めたイチジク、砂糖漬けのスミレ、輪切りのレモンを沈めた炭酸水と、香ばしさの奥に桃の香りを秘めた珈琲まである。
夢だ。夢。何もかもが、夢のようだ。
かち、こち、かち。
機械式時計の音を聞きながら、シモンはゆったりと語る。
「狩りに出る夢だった。わたしは貧しい狩人で、このうえなく腹が減っている。家には同様に空腹な妻と子供がいるが、毎日獲物が捕れるかどうかはわからない。わたしは山の神に祈りながら獣と同じ呼吸をし、祈りながら虫の卵入りの水を飲み、草を摘み、祈りながら殺す。己と、家族の空腹を満たすために」
「シモンさまの狩猟着姿はさぞかしお美しいでしょう。お望みでしたら狩猟のまねごとができるよう、伯爵におうかがいをたてますか? 銃の整備は楽しいものです。シモンさまの器用さと機械の知識があれば、あっというまに――」
「エリアス」
従者の穏やかなバリトンを、シモンは淡々と遮った。
エリアスと呼ばれた従者はとっさに黙り、眼鏡のレンズごしにシモンに視線を注ぐ。象牙色の肌、存在感はあるが形よい鼻、村の娘たちならひとにらみで虜にしてしまいそうな甘いマスクに載っているのは、緑色の瞳だった。
深い森の奥で木漏れ日を反射する湖の色。
柔らかくて、あまい。
エリアスは囁く。
「はい」
「夢だ」
「はい」
「わたしは空腹ではないし、家族を持つこともないし、山野を駆けることもない」
「……はい」
「手袋を取ってくれ。形だけでも、朝食に手をつけておかねばならん」
「かしこまりました、シモンさま」
恭しく一礼し、エリアスは長身の背をまるめてシモンの手にそっと触れる。彼の触れ方はいつでも優しく品がい。うすい布手袋がはがれると、敏感な肌が大気を感じてわずかに震えた。
エリアスの瞳がゆうらりと揺れる。まるで、湖にさざ波がたったかのよう。
「シモンさま。爪を、どうなさいました」
「ああ」
シモンは生返事をして自分の手を見下ろし、すっかり爪のない指先を見つめた。
そういえば、さっき父親に爪も剥がれたのだった。
全身の痛みはすでに遠く、快とも不快ともつかない疼痛と化して意識の端っこを噛んでいる。本日の父の仕打ちは、いつもに増して念入りだった。
おかげで全面に刺繍を施した優雅なローブの下は包帯だらけ、顔も半分包帯で覆われており、消毒薬のにおいで料理のにおいもわからない。
シモンは己の傷ついた指先を眺め、唇をゆがめて低く笑った。
「期日までに父上の時計を仕上げられなかった罰だ。いずれ自分のものとする体だというのに、無茶をなさる。……まあ、とうに目もガラス製なのだ、今さらか」
「左様でございましたか」
「ああ。お前に怒りが向かなかったのは幸いであった。……しかし、この手ではお前の作った時計のねじを巻けぬ。今のわたしは、主失格だな?」
シモンが皮肉げに言ってエリアスを見上げると、彼はシモンを見つめ返した。
少し、ぶしつけな視線だった。
「――エリアス?」
怪訝に思って、シモンが問う。
見上げたエリアスの目は、急に深みを増したように見えた。深く、底知れぬ古い湖。
その奥で何かが燃えていた。
猛烈に。苛烈に。
緑の炎だ。焼き尽くす、高温の炎だ。
瞳に炎を宿したまま、エリアスは不意に崩れた笑みを見せた。
彼は囁く。
「……なぁ、シモン。俺は、あんたの父親を殺すよ」
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