第2話 未調理の少女たち

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第2話 未調理の少女たち

(爪、か)  考えるともなしに考えながら、少女は己の手を見下ろしていた。  華奢な指先には美しいつけ爪がきらめいている。半透明な本体は貝を削ってでも作ったのだろうか。  飾り燭台の明かりを受けると、爪は艶めいたピンクから青ざめた紫へと色を変える。 「きれいだね」  傍らからの声に、少女はわずかだけ顔を上げた。  その拍子にもじゃもじゃの金髪が跳ねる。歳の頃はまだ蕾の堅いころ、十二、三であろうか。ぎくしゃくと痩せた体はアンバランスで、膝に未成熟な骨が浮いた足は棒のよう。目元を隠す髪は鳥の巣そのもので、顔の造作はよくわからない。  そんな体にふわふわの白いドレスとまとった彼女は、ゆるりと視線だけを動かして言う。 「なにが」  あまりに素っ気ない返事だった。相手は目をぱちくりさせる。 「なにがって、あなたの爪。きれいだね、って」 「そう」 「自分で手入れしてるの? 何か塗ってるようにも見えないけど……」 「手入れはしてる。時計のネジが巻けないと困るから」  ぼそりと答えた少女に、相手は少し驚いたようだ。 「時計のための、手入れ?」 「他に何かある?」  ふたりの少女はしばし無言で見つめ合った。やがて、赤毛の少女が相好を崩す。 「……あなた、すっごく変わってる。でも、なんかいいな」 「そう」 「ね、あたし、マリオン。あなたは?」  マリオンと名乗った彼女は十五歳くらいだろうか。  金髪の少女と同じふわふわの白いドレスだが、印象は真逆と言っていい。  真っ赤な巻き毛には毒々しいほどに艶があり、薄い脂肪の下には若くしなやかな筋肉が浮き、瞳は生気に満ちた青。まるで生命力の固まりみたいな少女だった。  金髪の少女は長いまつげを伏せて沈黙した後、マリオンを見て唇を開く。 「わたしはレイディ。あなたのほうが変わってると思う。怖くない? もうすぐわたしたち、食べられるのに」 「それは……」  マリオンの声が震えた。  眼球が痙攣し、ふっくらとした唇からすうっと色が消える。彼女が黙ると、周囲の少女たちの息づかいとすすり泣きが妙に大きく聞こえた。  ここにいる少女たちは、レイディとマリオンを入れて全部で五人。  みな白いドレスをまとい、足には鎖つきの枷をはめられ、巨大な檻の中に閉じこめられている。  白い檻は床が正方形で、四方の鉄格子は優美に湾曲しながら頭上の一点へ向かっていく。巨大な球根か花のつぼみめいた檻の形は、装飾的ですらあった。 「怖くないわけ、ないじゃない」  マリオンが喉の奥から声を絞り出したのとほとんど同時に、男の声が響き渡った。 「ご覧ください。芸術的な魚料理の登場です。熱してなお透明を保つ魚のポワレにたっぷりと添えた赤い魚卵は、乙女を汚す血しぶきを表現しております!」  おお! というざわめきと喝采。巨大なホールの奥からガラガラという音が響き、銀色のワゴンを押した男たちが入ってくる。  ここは世界一巨大な陸地、『五神の娘』にある無法の街、百塔街の地下である。  あらゆる呪いと悪徳が集まるとされるこの街の地下に埋まっているのは、地上にあるもの以上に呪われ、穢れたものどもだ。  ここはかつては忌むべき魔界の大物のの礼拝所ででもあったのだろう。だだっ広いホールの床にびっしりと施されたモザイクは半ば剥がされ、岩に直接彫られた異形の像はノミで執拗に顔を削られた跡がある。  陰惨な記憶を抱いたこの場所に、今宵は上等なバターと香草の香りが漂っていた。  ホールには長い食卓が二本。白いテーブルクロスの上には上等な銀器や陶器が所狭しと並び、二十人ほどの紳士淑女がカトラリーを手に興奮気味に話し合う。 「さすがですわ。百塔街でこれだけの料理が味わえるなんて。噂は色々と聞いておりましたけれど、所詮貧民窟かと……」  顔の上半分を仮面で隠した貴婦人が言うと、主人役らしき男が緩やかに立ち上がる。ひときわ長身の彼の顔にも仮面があった。彼らだけではない、晩餐会の客たちの顔には、みな仮面がある。ここは素顔をさらせない場所。暗黒の晩餐会場なのだ。  主人役は上等な夜会服の胸に手を当て、軽やかに笑い出した。 「ははははは! 無理もありますまい。ですが、百塔街が無法の街だからこそ、そして、バラーシュ家の晩餐だからこそ、味わえる珍味があります」  バラーシュ。  その名が辺りに響き渡ると、晩餐会場は、しん……と静まりかえる。客たちはナイフとフォークを動かすのを忘れ、空気までもがびりっと張り詰めたように思える。  そんな周囲を悠々と眺め渡し、主人役の男は粘っこい声で堂々と語り始めた。 「伝説のバラーシュ家。それはご存じの通り、栄光と恐怖と共に刻まれた名前です。長らく紛争の絶えなかった北方三国のさらに北。大陸の極北一帯に絶対不可侵なる広大な領地を持ち、厳しい自然環境にも負けず優れた文化、芸術を開花させてその地を栄えさせた名君主。  彼らは自分たちを『一族』と呼び、壮絶なる美貌と博識、そして見た目にそぐわぬ怪力で絶対的な支配を敷いた。彼らには秘密がありました」  男が言葉を切る。皆が彼を見ている。呼吸の音すらしない。  カチ、コチ、カチ、コチ。  どこかで時計だけが鳴っている。 「彼らは獣の、そして、ひとの血を吸って永遠を生きる魔界の住人、吸血鬼だった」  主人役の男は囁き、仮面の奥でにんまりと目を細めた。  吸血鬼、という単語を聞いた檻の中の少女たちに震えが走り、隅の方からすすり泣きが聞こえる。それだけの恐怖をまとった単語だった。 「真実を知ったひとびとは、人間の尊厳にかけて吸血鬼を滅ぼしました。もはや『一族』の支配は過去のもの。しかし――不思議に思われませんか? 不老不死である吸血鬼が、ほんとうにひとの手などで滅ぼされたのか?  ……答えは、否。否です! 吸血鬼の体はバラバラになりながら世界各地に残されている。そして、それを食べた者は吸血鬼の万能の力を手に入れ、新たなる吸血鬼となるのです!!」  演説が進むにつれて、会場は異様な興奮に包まれ始めた。仮面の下の目が権力欲でぎらぎらと輝き、綺麗に口紅を塗った唇が食欲でうごめく。  この会場の中で、この熱気に浮かされていないのは金髪の少女、レイディだけだったかもしれない。  彼女は骨張った膝を抱えて檻の真ん中に座り、地下礼拝堂の屋根を見ていた。  傍らで、マリオンはぶるりと体を震わせる。  レイディが、ちら、と視線をやると、彼女は、強く、強く唇を噛んでいた。 「本当に、吸血鬼を食べられるのか。吸血鬼だぞ」  客が問いを漏らすと、すかさず主人役のねっとりとした声が飛んだ。 「それは? 実際に彼らを喰い、彼らの力を手に入れて『バラーシュ』を名乗るわたしへの質問ですかな?」 「いや……申し訳ない。品のないことを申しましたな」  客はマリオンと同じように、ぶるりと震えて曖昧な笑みを浮かべる。  主人役の男は彼の様子を見つめ、にいっと大きく笑う。その口の端からは、真っ白な犬歯がのぞいていた。それを目撃した客たちが、おお、とざわめく。  主人役の男は満足げに小さく首を振り、堂々と片手を挙げた。 「寿命をお持ちの方はせわしなくて困る。まずは魚料理です。皆様の皿の魚は東方にて『食すと不老不死となる』と伝えられたニンギョのもの。六門教はじめ、この世のすべての宗教から異形認定されたものにございます」 「なんと……! かつて珍重されたといクジャクの舌も、ニンギョの前にはゴミ同然ではないか!」  会場は再びわあっと熱気に包まれ、ぎらつく視線が皿に突き刺さった。もはや遠慮も見栄もなくナイフとフォークが魚料理に襲いかかり、バラバラにしていく。こぼれる赤い魚卵が白い皿を汚し、ころり転がって白いテーブルクロスにシミを作った。  主人役の男はそれを楽しそうに眺めて言う。 「次の肉料理は、吸血鬼らしく乙女のレア・ステーキと参りましょう! 甘い血を存分に味わうのです!」
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