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見えないモノは、時に、恐ろしく。
時に、温かく。
時に、悲しく。
時に、愛おしい。
しかし、見えないモノは私にとって、金のなる木でもある。
見えない人は、見えないモノに恐れを抱く。
それは、仕方が無い事だろう。
見えないからこそ、恐れが生れ。
見えないからこそ、助けが欲しくなる。
私はそんな、心の隙間に芽生える恐怖に値段を付ける。
まだまだ、駆け出しの私に出来るのは、せいぜい飛び込み営業で得られる僅かな報酬だけだが、これからもっと力をつけ、実績を積み、大口の契約を結べるようになるつもりだ。
先祖代々、受け継いだ能力で、私もきっとこの業界に名を馳せる事ができるだろう。
さぁまた、闇が私を導いてくれる。
そこにはどんな、見えないモノが潜んでいるんだい?
お腹が空き過ぎて、きつく巻いたはずの帯が緩くなった気さえする。腹の虫は、もう鳴くことも諦めたようだ。公園のベンチに一人座り、霞でも食べられないかと目を細めた。
春の陽気が注ぐ昼間の公園は、幻想の中にいるのかと錯覚するほどに、眩しくて、平和で、穏やかだ。
子どものはしゃぎ声、母親の笑い声、鳥のさえずり、木々のせせらぎ。
ここは天国なのかもしれない。
そんな風に思っても、腹が満たされるわけもないので、ベンチの背に体を預け、思いっきり天を仰いだ。
あぁ、そろそろ限界だ。
しょうがない、最後の手段。身体を売るか。
人生を諦めたため息も、力が入らず小さく鼻から抜けるだけだ。
天を仰いだまま目をつむると、私の着ている着物の袖に何かが重なった。
あれっ。
目を開けて、左袖を見た。
真新しい男の子の羽織袴。
差し詰め、七五三だな。
私の隣にちょこんと座り、不思議なモノでも見るように、私の顔を見上げている。
今日、私が着ている着物は、藍色の友禅染の訪問着。二人が並ぶと、本当の七五三のようだ。
良家の坊ちゃんか?
目が合って、値踏みするように男の子を見る。
なかなか良い着物を着ているな。
誂えたてのようだ。その証拠に、袴にしつけの糸がまだついている。
「おねぇちゃん。お腹空いてるの?」
さっき、最後の力を振り絞ったような、キュルキュルという音を腹の虫が鳴らしたのを聞いたのか、男の子が私に話しかける。
答えようか少し考えたが、無視したところで、また話しかけられるだろうと思い、短く答えることにした。
「あぁ。この二日、ろくに食べてないんだよ」
「そうなんだ。あっちに、美味しいレストランがあるよ」
指さしたのはここにたどり着く前に通った方向。
確かに、いい匂いを漂わせた店が何軒かあった。
そのせいで、余計に腹が減って、今、正に限界を認めているのだ。
「お金が無くて、お店で食べられないんだ」
私の懐具合は数百円。これでは、飲み物を買って終わりだ。
「じゃぁ、僕の食べ物、分けてあげるよ。付いてきて」
そう言うと、ピョンとベンチを飛び降りて、ついてくるように手招きをした。
だから。もう動けないほどに腹が減ってるんだよ。
私は、背を預けていたベンチから体を剥がして、立ち上がろうとしたが、身体が思うように動かない。しばらく、うな垂れるように息を整えていると。また声を掛けられた。
「おねぇちゃん。どっか痛いの?」
こいつは、ちょっと面倒臭いな。
何とか立ちあがり、男の子を見下ろす。
何て無垢な笑顔なんだ。
私を見上げる顔は、太陽の光に霞んで、余計に眩しく見える。
着物をヒラヒラとなびかせて、私の前を嬉しそうに歩く男と子は、時々何か話しかけるけど、私の頭は他の事を考えているので、相づちも打たずに、後を付いて行くだけ。
公園から5分もかからないうちに、閑静な住宅街にたどり着いた。しかも、どの家も大きな豪邸ばかり。その中でも、一際洒落た造りの家の前に男の子が立ち止まった。
「ここ、僕んち」
「お前、名前は?」
「潤之助」
「年は?」
「五歳」
「分かった。ちょっとお母さんと話してくるから、潤之助はさっきの公園で待っていろ」
「うん、わかった。おねぇちゃんが来るまで、遊んでるね」
そう言うと、元気に駆け出して、公園の方へ戻って行った。
素直ないい子じゃないか。
姿が見えなくなるまで見送ると、一つ咳払いをしてインターホンを押した。
しばらくたっても、応答がない。さらにもう一度。しばらく待って諦めようとした時に応答があった。
「⋯はい」
小さくて、消えそうな声。
「突然の訪問、失礼いたします。私、加々美コーポレーションの瀧沢と申します。潤之助君の着物を仕立てさせていただいた関係のモノですが、お着物の事で、お伺いしたいことがございまして、参りました。お時間よろしいでしょうか?」
営業用の笑顔と声で、インターホンに向かって話す。
「⋯はい」
しばらくすると玄関の扉が開いた。
まだ若い、潤之助の母親が出迎えてくれた。
痩せてはいるが、さっき見た潤之助と顔立ちが似ている。特に目元がそっくりだ。
「お忙しいところ、申し訳ございません。私、加々美コーポレーションの瀧沢と申します」
玄関先で丁寧にお辞儀をして名刺を渡す。もちろん私の仕事のモノだ。
「あの、ご用件とは?」
玄関先に迎え入れたのは良いが、戸惑いを見せる母親。
それもそうだろう。
声や着ている物は一応、大人だが。化粧をしても24歳には到底見えないほどの童顔。背も厚底の草履を履いてようやく153㎝に届くかどうか。そんな若い、いや、幼い容姿の女が、一流着物メーカーの名刺を差し出しているのだ。納得するには少々時間がかかるだろう。
ここで助けになるのが、今着ている着物だ。それなりの知識がある人が見れば、間違いなく一流品であることが分かる。
この母親も、若いながらに、見る目はあるようだ。
「はい。その前に、ご仏壇にお参りさせて頂いてもよろしいでしょうか?」
容姿とは反対の落ち着いた声と、落ち着いた態度で、目を伏せながら神妙な面持ちで伺う。
「はい。ありがとうございます」
母親に案内されて、和室にある真新しい仏壇の前に座る。
線香を一本、蝋燭で火を点けると、自前の数珠で手を合わす。真新しい位牌と遺影をしっかりと見る。仏壇に供えられた果物やお菓子は、溢れんばかりだ。
それを見たら、また、腹の虫が力を振り絞って鳴いた。
キュルルルルル~。
慌てて帯を抑えて、母親を見る。
しっかり聞こえたようで、目が合うと、お互い自然と笑い合った。
「すみません。お昼を食べ損ねまして。失礼いたしました」
「いえいえ。よろしかったら、お茶とお菓子をお持ちしますね。お待ちください」
そう言うと、奥へと下がった。
せっかく、大人の振る舞いをしているのに、台無しだ。恨めしい気持ちで仏壇の食べ物を睨んだ。
そして、愛らしい笑顔を向けている遺影に小さく呟いた。
「ちゃんと供養してくれているのに、どうして?」
その答えは、きっとすぐに分かる。
「お持たせしました。お若い方のお口にも合うといいんですが」
そう言って、お茶と分厚く切った羊羹を出してくれた。
香り高い玉露は、飲むまでも無く、高級な代物だと分かる。恐らく羊羹はかの有名な熊屋の「夜の桜」であろう。
私は遠慮なく頂戴することにする。
「ありがとうございます。いただきます」
一口お茶をすすり、香りが鼻から抜けるのを味わうと、しっかりとした固さの一片に楊枝を入れる。一口大に切ると、口の中へ。これも、しっかりとした甘さが一嚙みしただけで口いっぱいに広がる。
あぁ。命が長らえた。
胃に流れるまでも無く、口の中から体中に栄養が行き渡るのを感じる。
私は思わず目を閉じ、身体から喜びの声を聞く。
私が一口一口、噛みしめて頂いている間、母親は遺影をずっと眺めていた。その横顔は、魂がここには無いと言っているような、空虚なモノだった。
きっと、この2か月はずっとこんな調子なんだろうと、容易に想像できた。
出されたモノを綺麗に頂くと、私は訪問の表向きの理由を母親に話し出した。
「実は、潤之助君に仕立てられたお着物が、大変よくお似合いで、可愛らしいと現場の者から聞いたもので、ぜひ来年のカレンダーのモデルになって頂こうかと思いまして、伺った次第です。しかし、ここに着く直前に潤之助君の事を知りまして、差し出がましいですが、お参りさせて頂きました」
「そうですか。わざわざありがとうございます。潤之助の着物は、もう手元には無いんです。出来上がったばかりのその着物が嬉しくて、せがまれるま試しに着せてみたところ、しつけの糸もそのままなのに、買ってくれた祖母に見せると家を飛び出してしまった時に、事故で…」
言葉を詰まらせて涙を流す姿は、潤之助の事故がまだ過去に出来ない事を教えている。
「お気持ち、お察しいたします。
ところで最近、何かお困りのことはありませんか?」
「いえ?」
私の急な質問に要領を得ない表情で母親が答える。
「そうですか。私、少し霊感がありまして、こちらに伺った時に、少し違和感を感じたものですから。でも、何も無ければ、お気になさらないでください」
神妙な面持ちで、少し含みのある言葉を選ぶ。
「潤之助が居るのですか?」
希望のような、戸惑いのような。喜びのような、悲しみのような。母親の表情は複雑だった。
「いえ。潤之助君ではありませんね。
悲しみが深いと、闇を呼び寄せてしまう事があります。どうぞ、お気をつけください。
お茶菓子まで頂きまして、ありがとうございました。
私は、これで失礼します。
どうか、お体をご自愛下さいませ。お邪魔いたします」
まだ、疑問の残る顔をした母親をそのままにして、お暇した。
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