ラブ&ヘイト

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第一章 大神様の部屋 俺は、見習い神様。まだ、名はない。見習いだからと言って正式の神様と違う所はない。全く見た目は同じだ。白い布と頭の上には金色のわっか。一目了然で、神様とわかる。 だが、姿、形が、神様だからといって、人間たちに幸せを与えられるわけじゃない。それは、年に一度の、サンタクロースにまかしておけばいい。俺の仕事は、いたずらをすること。それも、椅子の下に画鋲を置いたり、立っている人に指で浣腸したり、ひざの裏に膝を押しあててがくんとさせるようなことではない。 また、思春期の、大人に芽生えだした中学生に、誰誰さんが誰誰さんを好きなんだと噂をまき散らし、面白くはやし立てることでもない。いやに、リアルなことを言っているって。そりゃそうだ。今、言ったことは、全部、これまで俺がしてきたことだからな。確かに、俺はたいしたことはしていない。 今回は、こんな低俗(どうだ、自分で自分を卑下しているぞ。たいした者だ。神様だろうが、神様の見習いだろうが、人間だろうが、犬や猫だろうは、何事に対しても謙虚じゃなきゃいけない)ないたずらじゃない。 今まで、神様の見習いのくせに、神様への修行をしないで遊び呆けてきた(見習いだからこそ遊び呆けられたのだが)この俺に、神様が、過去を悔い改めて、まっとうな神様になるよう、仕事を命じてきた。この、仕事の内容は、四組の人を助けてやること。そして、その四組が、心から、神様、この俺に、感謝するようになること、を求めてきたわけだ。このいきさつはこうだ。 ある日のことだ。ある日はいつだって?神様ってのは、永遠の生き物(?)だから、人間のように、年月日や曜日、時間に対して関心はない。つまり、どうでもいいのだ。今が勝負であり、今が休息の時間である。だから、ある日はある日であって、この日でもあり、その日でもあり、どの日でもある。とりあえず「あいうえお」順で、ある日にしておこう。 俺は、大神様に呼ばれた。神様は、ふわふわ漂っているわけだから、家なんかいらないけれど、大神様になると、ちゃんと自分の部屋を持つようになる。俺はその部屋に呼ばれた。部屋をノックする。 「入れ」  いつ聞いても威厳のある声だ。その声に委縮して、やや丸まった猫背にコンクリートが流し込まれたように背筋が伸びる。もちろん、生コンをかきまわす音はしていない。俺は二つ返事で、「はい」と答える。俺の前には、大神様が特製の椅子に深々と座っている。壁は真っ白、床も真っ白、ついで見上げると、天井も真っ白。真っ白な六面体の部屋に、真っ白な服を着た大神様が座っている。その中に、少し心が灰色に染まっている見習い神様の俺がいる。大神様が発する光があまりにもまぶし過ぎて、全体の姿がわからない。だが、俺も、いつかは、あの椅子に座れるんだろうか。あの大神様のように神々しくなれるのだろうか。淡い期待は、空気のように透明だ。 「よく来たな。見習い」  そう、冒頭でも説明したように、俺にはまだ名前がない。だから、神様たちは、見習いと呼ばれている。俺以外にだって、見習いはたくさんいる。だから、神様たちが「おーい。見習い」と呼べば、一斉に「はい」と答えなければならない。それだけ、見習いには一人としての人格、いや神様各がないわけだ。十把、百把、千把ひとかけらの一つでしかない。黙ったままの俺に対し、大神様はグラスを口にしている。何を飲んでいるのだろうか? 話は変わるが、神様の喰い物って知っているかい?人間のように、牛や豚、鶏、そして、魚などの動物や、キャベツに、ニンジン、レタスに、カボチャなど野菜を食べるわけじゃない。人間の、俺たち神様に対する感謝の気持ちが、栄養素になるわけだ。人間の笑顔が、ほころんだ顔が、握りしめる手が、神様の生きるパワーになるんだ。なんて肯定的、前向きな食い物だ。能力開発セミナーの主催者が聞いたら、必ず、神様を講師として採用するだろう。 でも、一体、誰がそんなことを思いついたんだ。俺なら、反対に、人間の困った顔や、どうすることもできない怒り、失望のあまり泣き崩れた体、そんな人間の姿を見て楽しむ方が、いくらでも元気になれるし、明日からも、いたずらをするために、生きて行こうという気になるはずだが。 まあ、いくらここで、俺が不平不満を言おうとも、ほっといたらすぐにうぬぼれてしまう自分たちの性を戒めるために、人間が神様を創り上げたわけだから、仕方がない。 それにしても、神様は、見習いの俺が言うのも変だけれど、何でこんなに神々しいのだろう。ようやく、この明るい部屋にも目が慣れて、大神様の御尊顔を拝謁していると、つやつやして、光輝いている。並みの人間なら、怖れ多くて、顔をあげられないだろう。この俺だって、同じ神様(まだ見習い中)だけれど、大神様の前では、思わず膝まづいてしまう。以前、お叱りを受けた時には、 「もういいだろう、少しは、反省したか」 と諭されて、大神様の肩をもんだことがある。 「大神様も、大変お疲れですね」 大神様の肩は怒り肩であったため、俺はそれこそ一生懸命揉んだ。俺を叱って、気持が高ぶっていた大神様だったが、俺の骨身を惜しむ献身的な行為に、心を打たれたのか、次第に、落着きを取り戻し、それにつれて、なで肩になっていった。 「ありがとう。お前のお陰で、肩こりもかなり増しになってきたようだ」 「いえいえ、大神様のお役に立てさせていただきまして、私としても、嬉しい限りです」 なんて、お世辞をかます。大神様といっても、所詮、感情の生き物。こちらが、下手に出れば、単純に、考え方を変えてくれる。元がいい人だけに、こちらとしては、御しやすい。それだからこそ、大神様なのだ。 「とは、言うものの、この肩コリだって、元はと言えば、お前が私を怒らせたからだ。肩 も怒って硬直してしまったのだ。最後まで責任をとるのが、当たり前だろう。もっと強く揉まんか」 ギュー。 痛い。両手で頭を押さえる。俺の頭の金色のリングが閉まったのだ。このリングは、不埒な俺に、言っても直らなければ行動あるのみと、大神様が俺の頭に取り付けやがった。いや、取り付けていただいたものだ。 どこかの国の、暴れん坊のサルも同様なリングを付けられていたらしい。どこの集団でも、母体が大きくなればなるほど、枠をはみ出す中途半端な者が出てくる。全世界、全宇宙の共通の事実であり、真実である、となると、俺は、真実一号か、二号か?どうせなら、一番の方が箔がつく。  俺は、しばしの間、空想の世界に遊んでいた。それを、目覚ましてくれたのが神様の声だった。 「さて。見習いよ」 「はい。神様」  滞りなく現実の世界に戻った俺。 「お前も、そろそろ、一人前の神様にならなければならない。わしの側で、一生、小間使いばかりではいかんだろう?」 「はい、わかっています」 と、言いながらも、口の中では舌を出す。 いた、た、た、た。金輪が閉まる。 「お前がそういう態度だから、いつまでたってもアシスタントから一人前になれないんだ」 「すいません」 今度は、心から謝る。大神様の前では、俺の心なんて全て見通せるらしい。 「このままだと、お前がなりたいという、神様じゃなく、悪魔になり下がってしまうぞ」 「そ、そ、それだけは、御勘弁を」 ここは、神様の世界。その反対側に、悪魔の世界がある。世の中、必ず、正義があれば、悪がある。地獄があれば、天国がある。右があれば、左がある。上があれば下がある。ババナがあればリンゴがある。あっ、これは関係ないか。まあ、そんなところだ。 生まれてからこの方、神様の国にいるから、悪魔の国がどんなところかは知らないけれど、伝え聞くところによると、早い話が、島流しならぬ、神様たちの追放の場所らしい。 神様の世界には、誰も近づかない、近づこうとしない井戸があって、そこの鍵は大神様が持っているらしい。神様にふさわしくないと烙印を押された者たちが、その井戸に放り込まれて、悪魔の世界に落っこちてしまうらしい。また、その井戸に落ちる途中で、純白の衣は、真っ黒く汚れてしまうとともに、ぼろぼろに引き裂かれて、もう、二度と空を飛べなくなる。後は、一生、悪魔の世界で這いずり回って生きることになってしまう。 ああ、嫌だ。そんなことになってしまえば大変だ。俺が、これまで築きあげてきた人生が全て台無しになる。これから頑張れば(何に頑張るかはわからないが)大神様とはいかないまでも、中神様、小神様ぐらいにはなれるんじゃないだろうか。人間社会で言えば、中間管理職ってことかな、ここは、俺の人生で一番の踏ん張りどころだ。 「そうだ、ここが、お前の踏ん張りどころだ」 全くもって、嫌になる。大神様は、俺が口から言葉を発しなくても、ただ、俺が思うだけで会話になってしまう。ただし、大神様が何をお考えになっているのかは、こちらにわからない。これじゃあ、会話じゃなくて、俺が、ただ単に、自白を強要されているように思える。個人情報の違法なる取得じゃないのか。 「お前は、何か勘違いをしているな」 そら、来た。 「勘違いといいますと・・・」 「私は、別に、他人の心を読める能力があるわけではない」 「でも、私が思っていること全てが、神様の口から発せられています」 「それは、私が、お前と同じ経験をしてきたから、お前の気持ちが分かるだけで、決して、心を読んでいるわけではない」 「と、言いますと・・・」 「私も、昔、神様界では、落ちこぼれの見習い神様であった。当時の、大神様から、このままだと悪魔になってしまうぞと叱責されて、そこでようやく、これまでの自分の行いを悔い改めて、這い上がったわけだ。お前を見ていると、昔の私にそっくりだ」 へえ、大神様も、昔、俺と同じように、落ちこぼれの見習い神様だったとは初耳だ。あまりに遠すぎた存在だったので、こんなに近づいて、打ち解けた会話をするのは初めてだからな。 「はい、わかりました。今日から、心を入れ替え、見習い神様から、真の神様になるよう、頑張ります」 左胸に付けた黄色と緑色の神様の初心者マークを自信たっぷりに右手のグーで叩く。 「そうだ、その意気込みだ。ただ、その初心者マークを外すためには、試験があるぞ」 「試験ですか?」 最近、物覚えが極端に悪くなっている。それに、勉強もしていない。神様憲法、神様民法、神様商法、どの分野から問題がでるのだろうか。 「なあに、何にも、難しいことはない。神様憲法の前段を答えろとか、神様憲法の第九条の改正について論議しろと言っているわけではない。たった四つの課題をこなすだけだ」 やはり、俺の心は読まれている。落ちこぼれの見習い神様から、大神様にまで出世したのは、この能力のお陰だろうか。 「たった四つですか」 「そうだ、ほんの四つだ。正確には、四組だ。人間界に降りて行って、四組の人間を救えばいいだけだ」 「救うとは、海や川、池で溺れている子どもたちや、大きなビル火災で、逃げ遅れてビルに取り残されているお年寄りや女性たちを救出するということですか?俺、いや、私は、夏祭りの、金魚掬いは得意なんですが」 「別に、お前にスーパーマンやスパイダーマンになれと言っているわけではない。見習い神様のお前にも、取柄がある。その取柄をいかして、人を助ければよい」 俺の取柄?落ちこぼれの、見習いの神様の俺に何が出来ると言うのだ。だが、ここで、何もできませんとは言えない。とりあえず、従順になる。どうせ、俺の心は読まれているのだから。 「はい、わかりました。それで、何をどうすればいいんでしょうか?」 「これだ」 大神様から渡されたのは、一冊のノート。中身をめくるものの、何も書かれてはおらず、白紙だ。つまり、新品だ。近所の神様の文房具屋で売っている普通の天使大学ノートだ。 大学ノート、なんて、懐かしい響きだ。俺がまだ、見習い神様中学生、見習い神様高校生の頃、大学という響きだけで、このノートを使うことで、何か、大人になったような気がしたものだ。 実際、自分が見習い神様大学生になってしまうと、見習い神様の社会人に比べて自分がまだまだ子供だ、幼いと痛感したものだ。 それじゃあ、神様の見習いとして、今の自分は?やっぱり、大神様と比較すると、子供、ガキのような気がする。このままでは、俺は、永遠に、子供なのか?子供であり続けたいのか?成長するって、何? 「大神様、この中学、いや、高校、いや、大学ノートをどうするんでしょうか?」 「これはな、普通のノートじゃない。このノートに二人の名前を書くと、どんなにいがみ合っていても、喧嘩していても、仲が良くなってしまう不思議なノートだ」 「それは、本当ですか?」 「神様が嘘をつくわけはない。通称、ラブ・ノートと呼ばれている」 「ラブ・ノート?」 まさか、まーくんのことが大好き、ゆかりは俺の命だ、なんて、ファッションホテルなどで書かれているような、生の感情が露出された、いかがわしいノートじゃないだろうな。自分がいかがわしいだけに、大神様の言葉もいかがわしく思える。俺は、もう一度、大神様に尋ねた。 「ラブ・ノートですか?」 「そうだ。ラブ・ノート」 そう言えば、確か、神様が堕落した悪魔の子分の死神も、なんとかノートを持っていると聞いたことがあるぞ。そのノートに、何時何分に死ぬと、人間が名前を書かれると、その時間に本当に死ぬらしい。恐るべきデス・ノート。忌まわしきデス・ノート。 その点、神様のノートは幸せだ。書かれた二人が、仲良くなるのだから、こんなに素晴らしいことはない。「仲よきことは、善きことかな」だけど、それは本当に、真実なのか? 「そのノートには、二人の名前を書かなければならないのですか?」 「そうだ、二人の名前が必要だ」 「ひとりだと?」 「片思いになる」 うまい。大神様。座布団十枚。それに、椅子十脚。 「それで、このラブ・ノート(自分で言いながら、少し、照れくさい)を使って何をすればいいんですか?」 「お前も知ってのとおり、この神様の世界から人間の世界を俯瞰すると、ここ数年、あまりにも人間関係が酷くなってきている。親が、まだ、年端もいかない自分の子どもを殺したり、反対に、いい高校、いい大学、いい会社を目指せと、親が子に発破をかけるあまり、子が親を殺したり、認知症になった妻を夫が殺したり、反対に、暴力的な夫に対し、妻やその子どもたちが夫殺しを図ったりと、陰惨極まりない事件があまりにも多発している」 「はい、おっしゃるとおりです」 いくら、のほほんと神様の見習いをしている俺でも、昨今の、人間たちの行動は理解しがたいものがある。眼の前にモグラが穴から飛び出してくると、即座にトンカチで頭を叩くだけの行動パターンだ。 ゲームは敏捷性を競うものだけど、人間関係においても同様に応用・活用しているようだ。相手が馬鹿と言えばこちらもアホとやり返す。こちらが右頬を叩けば、相手は左足の向こうずねを蹴る。思慮することなく、その場の瞬間的な、即物的な感情だけで反応しているとしか思えない。もちろん、百パーセント、他人を理解できる行為なんて、ありえないのだろうけど。 「そこで、このラブ・ノートを使って、良好な人間関係を構築するのだ」 「世界中の人の名をこのノートに記すのですか」 「それでは、単に落書き帳になってしまう。それに、このラブ・ノートだが、私が開発したもので、まだ、試作段階だ。実際に、その効き目があるかどうかは、私にもわからない」 そんな物を、俺に試させる気か。大神様! 「それに、もう一冊、別の目的のノートも作っており、その効果も試験の予定だ。お前が協力してくれれば、ありがたいんだがな。見習いのマークも取れるいいチャンスだと思うが」  大神様が俺にカマを掛けてきた。ここで、大神様に協力しないと、一生、見習いのままで終わりそうだ。 「それでしたら、喜んでやらせていただきます。神様界のため、人間界のため、是非、やらしてください」 俺は、二つ返事で快諾した。躊躇する暇はない。失敗したところで、見習いのままだ。このまま見習いのままよりもずっといい。どうだ、前向きだろう。 それに、一度、人間界ってものを見てみたいという気持ちも起きた。だけど、もう一冊あるという試作品のノートは、一体、誰に使わすのだろうか?他の見習い神様なのか?興味があるところだ。 ふと、俺は思った。ラブ・ノートに、わざわざ、人間の名前を書くよりも、大神様と俺の名前を書けば好いだけじゃないか。そうすれば、ラブ・ノートの力で、大神様と俺はダチとなり、ため口をたたきながら、試験なんも受けずに、大神様の口利きで、見習いからい一挙に正規の神様になれる。ぐっと、胸につけた初心者マークをもう一度握りしめる。 「ただし、このラブ・ノートは、あくまでも人間にしか効き目がないからな。神様同士ででは効果がないんじゃ」 大神様は平然と答えた。やはり、俺の心は読まれている。 「はい、わかりました」 「また、このノートの使い方だが、一ページに二人の名前しか書けない。三角関係や多人数の関係については、まだ、研究中だ。将来的には、民族間や宗教間の争いも、自爆テロなんていう愚かな行為も防ぐことができるはずだ。 それと、まだ、このノートは試作品ということもあり、四ページまでだ。おもてには「ラブ・ノート」と書いているだろう?だから、そこには名前は書けない。白紙の四ページに四組の名前を書き、最悪な関係から脱却させて、良好な関係に築きなさい。最後の裏には「終わり」と書いている。だから、そのページも使えない。おもてや裏を使うと、お前は神様に昇任するどころか、悪魔に落ちてしまうぞ」 大神様の最後の言葉はきつかった。これは、必ず、守らなければならない。 「さあ、わかったのなら、早速、人間界へ行きなさい。やり場のない、自らの感情で苦しむ人たちを、このラブ・ノートで救うのじゃ」 「はい、わかりました」 自分でも言うのもなんだが、返事だけは、神様級だ。だが、疑問が一つ浮かんだ。俺は、早速、大神様に尋ねた。 「このラブ・ノートに名前を書く四組、すなわち、助ける基準は何でしょうか?どういった人たちの名前を、ラブ・ノートに書けばいいんでしょうか?」 大神様は、にっこりと笑うと、 「それを選択するのも、試験のうちのひとつだ。さあ、試験開始だ。期限は、今日中だ。それまでに、四組を助けて、天使界まで帰って来い。人間界では、今は、朝の七時だ。期限は、日が暮れる夜の六時までだ。ほら、人間界の時計を貸してやる。頑張れよ」 大神様は、懐から時計を取りだすと放り投げた。それを両手でキャッチする俺。確かに、時計の針は、長針が十二を指し、短針が七を指している。天使界で住んでいると、時間の感覚なんてない。時計を見る必要もない。 人間は、こんな便利なものを持っているかと感心すると同時に、時間に追い回されて生きているんじゃないのかとも同情さえする。大神様に振り回される今の俺のように。 「何か、言ったか」 「いえ、いえ、何も」 神様の前では、何も考えてはいけない。ひたすら従順にしないと。俺は、その時計を左手首に付けた。 「夜の六時を過ぎても帰って来られない場合は、どうなるんでしょうか?」 「いつまでもお前を待ってやってもいいが、私は時間外勤務となる。大神様の時間外単価はかなり高いぞ。お前にそれが払えるか」 大神様も、所詮サラリーマンか。自分の体を張ってまで、部下の熱い仕事に応えてくれないのか。 「さあ。わかったら、さっさっと行け」 「ははは、はーい」  俺は大神様の顔も見ずに、平伏した。 「ちょっと待て。言い忘れたことがあった。お前が一組ずつ成功する度に、東の空に文字が浮かび上がる。私はそれを見て、お前の仕事の進捗具合がわかるようになっているわけだ。それに、仕事が遅ければこうなる」 「い、た、たたたたたたあっ」  俺は頭を押さえた。金のリングが急に閉まった。俺は、動かなければ尻や背中を叩かれる牛や馬のように家畜並みだ。やはり、早く、見習いから脱出しないといけない。 「そうだ、そうだ、その意気だ。その意気込みが萎えないうちに、やってしまえ」 大神様の大声の勢いに吹き飛ばされるかのように、俺は、天使界を後にして、人間界へと落ちていった。その落下途中でも、大神様がおっしゃった、空に浮かぶ文字とは何だろう?と頭をひねり続けた。 第二章 大悪魔の部屋 ここは、いまはやりのLEDではなく、定期的に、だが不連続に点いたり消えたりする蛍光灯が点った場末のバーのような部屋。部屋の壁は黒。床も黒。おまけに天井も黒。六面体全てが黒の部屋。 その部屋の中では、グラスを片手に、何をするわけでもなく、うつろな焦点で、天井を見つめながら、ベッドに寝転がっている老人が一人。その傍らでは、ぞうきんやチリトリ、箒を持って、ちょこまか、ちょこまかと掃除をしている若者が一人いた。 「おい、見習い。もうそんなことはしなくていい。早く、ここに座って、酒でも飲め」 「はい。大悪魔様。でも、このテーブルの上がまだ片付いていません。ここを拭いたら、掃除は終わりです」 「掃除なんて、そんなに一生懸命しなくてもいいぞ。どうせ、しばらくすれば、埃が舞い落ちて来て、再び、汚れるんだ。適当にやっておけ」 「はい。でも、最後まできちんとやらないと気持ちが悪いんです」 「だから、お前はいつまでたっても、出世をしないで、見習い悪魔のままなんだ」 「すいません」 見習い悪魔と呼ばれた若い男は、工事現場の看板に描いてある責任者代理のように頭を下げた。 「まあ、いい。他人に何かを説教するなんて、わしの柄じゃない。お前の好きなようにすればいい」 「はい。ありがとうございます。大悪魔様」 若い男は、引き続き、ちょこまか、ちょこまかと、部屋の掃除を続けていた。ある程度、片付けが終わると、「大悪魔様。お酒のお代わりはどうしましょうか?」とすかさず、声を掛けた。 「おお、よく気がつくな。もう、一杯もらおうか。いやいや、そこがお前の悪いところじゃ。酒なんか、ほっといても、飲みたきゃ飲む。わしに、気なんか使わんでもいいんじゃ」 「はい、すいません。大悪魔様」 「それに、わしに様なんつけなくてもいい。様なんて呼ばれたら、背中がこそばくなってしまうわい。大悪魔で十分じゃ」 「それなら、背中でもお掻きしましょうか、大悪魔?」 「もうええわ」 すると、今まで、ベッドに寝転がっていた大悪魔が急に起き上がった。 「お前も、ここでずっといるから、変な気ばかり使うんじゃ。よし、お前に暇をやる。一度、地上に行って来い」 見習いは、大悪魔の前で、正座をした。師匠の前で、棒立ちだなんて、見習いとして許されないからだ。 「地上ですか?」 「そうじゃ、人間界じゃ」 「人間界に行って、何をすればいいのですか?」 「それを考えるのが、お前の仕事じゃ、お前、正式な悪魔になりたいんだろ?」 「はあ」 「何と、気のない返事じゃ。その気持ちのせいで、お前は相変わらず見習いのままなんじゃ。と、言いながら、わしも、本音では、それでもいいと思っているけどな」 「ありがとうございます」 「礼はいらん。だが、いつまでも、お前を見習いのままにしておくわけにもいかん。お前も、いつかは、わしの後を継いで、大悪魔になるんじゃ」 「はあ」 見習いは、特に、悪魔になりたいなんて思ったことはなかった。このまま、見習いで、大悪魔様の世話をして、一日、一生を送ることができればそれでいいと思っていた。 「その向上心のなさが、いけないんじゃ」 見習いはびくっとした。心の中を読まれている。 「すいません」 「まあ、わしも、お前に説教するほど、偉いわけじゃないけどな。とにかく、人間界に行って、修行してこい。修行と言う名の遊びじゃ。人間どもにいたずらでもしてこい。そして、立派な悪魔になるんじゃ」 「はあ」 「さあ、正坐なんかやめて、立ち上がれ。わしが、これからお前に課題を与える。この課題はクリアすれば、お前は立派な悪魔じゃ」 「はあ」 相変わらず、正坐のままの見習い悪魔。 「地上に行って、人間界に入れ。そして、仲のよさそうな二人、親友の仲を、お前の甘言を弄して引き裂いて来い」 「はあ」 「一組じゃ試練にならんから二組、三組、うーん、四組かな。もう、考えるのがめんどうくさいから、四組でええわ」  大悪魔はそう言うと、再び、面倒くさそうにソファーに寝転がった。 「はあ。でも、どうやって友だちの仲を引き裂くのですか。また、友だちの仲を引き裂くのは、道徳的には、あまりよくないことだと思います」 「何回も言うようじゃが、だから、お前は見習いのままなんじゃ。人間どもの仲を引き裂くんなんて簡単なものじゃ。それに、それくらいできなくてどうする。わしらは悪魔だぞ。神様じゃないんだぞ。それこそ、見習い悪魔の名がすたるぞ。まあ、そんなこともどうでもいいけどな」 見習いは、悪魔に昇任したいなんて思わなかったが、尊敬すべき大悪魔様がどうしても、と言うので、従うことにした。 「ああ、いいものがあったのを思い出した。そこのカウンターの本棚に一番下に、ノートがあるだろう」 見習いは、さっと動いた。この本の塊は、師匠の大事な物だから、片づけはしていなかった。その積み重ねられた書物の中から一冊の黒いノートを取り出した。まだ使っていないので、古びてはいない。いや、新品だ。 「このノートですか?」 「そうだ。わしが、昔、見習いから悪魔になった時に、これで同じ課題をこなしたものじゃ。何しろ、わしは、無口で、うまく言葉をしゃべられないからな。実際は、このノートを使わず、ほっといても、課題はクリアできたけれどな」 「はあ。このノートをどう使うんですか?」 見習いは、ノートを大事そうに胸に抱いた。 「何、簡単じゃ。仲の良い人間の二人に、名前を聞いて、このノートに名前を書けばいいんじゃ。そうすれば、このノートの効果で、友人同士が喧嘩をするわけじゃ」 「はあ。このノートに名前を書けばいいんですね」 「そうじゃ、簡単だろう」 「どんなふうにして、名前を聞けばいいんでしょうか?」 「そんなの簡単じゃ。女性ならば、きれいだと、可愛いだとか、モデルさんですか、女優さんですね、と、おだてあげて、ぜひ、お名前を教えてくださいなんて言って、名前を聞きだせばいい。男性ならば、消費税反対や軍事施設整備反対の署名活動を行っているので、同意していただけるのであれば、せめて、名前だけでもお教えいただけませんか、と頼めば、すぐに名前を聞きだせるはずだ」 「わかりました」 見習いは、ノートをパラパラとめくった。表紙が黒いように、中のページも黒かった。しかもページはたったの四枚しかなかった。 「このノートは、中も黒いですね。これでは、ボールペンで書いても、見えないと思うんですが」 「あはははは。中が黒かったら、白いペンで書けばいいだろう」  なるほど、と見習いは頷いた。それでも、あえて黒いノートとはどういう意味だろうか。悪魔だから、黒一色なのか。それでも、ペンは白を使ってもいいとは、矛盾していないか。 「まあ、そんなに物事は突き詰めなくてもいいぞ。何でも大体でいいんだ。それに、そのノートを使わなくても、まあ、うまくいくはずだけどな」  大悪魔は意味深な笑みを浮かべた。 「はあ」 相変わらず、大悪魔様に自分の拙い考えが読まれていることに少し恥じながら、見習いは、自信なさそうな返事をした。 「まあ、とにかく、やってみろ。うまくいかなかったら、うまくいかなかった時のことだ。そのまま、一生、見習いのままでもいいぞ」  見習いは、大悪魔様の最後の言葉聞いて、少しは安心した。 「駄目でもいいんだ」  その言葉を繰り返し呟きながら、見習いは大悪魔の部屋を出ようとした。すると、大悪魔が声を掛けた。 「ああ、言い忘れたことがあった。仲のよい二人を喧嘩別れさせることに成功すれば、西の空に文字が浮かぶからな。その四文字が揃ったら、お前の仕事は完了だ。その言葉を覚えておいて、わしに報告してくれ」 「その四文字とは、何ですか?」 「それを探してくるのが、お前の試練じゃ。先に答えを教えてはいかんだろう」 「それはそうですね。わかりました」  見習いは素直に頷いた。 「そうじゃ。それに、試練には期限が必要じゃ。まあ、今日一日の期限をやる。それでやってみろ」 「一日ですか?」 「うまくいけば、一時間もかからないだろう。まあ、とにかく、出来ても出来なくても、どうでもいいから、一日立ったら帰ってこい。頑張れよ」 師匠から、励ましのような、慰めのような言葉を受け、見習い悪魔は、黒で満たされた部屋を出ると地上へと向かって行った。 「さてと、もう一冊のノートはどうなっているのかな」  大悪魔は、再び、缶ビールを掴むとソファーに寝転がった。 第三章 神様へのステップⅠ 俺は、頭から被った衣をパラシュートのように開いて、ゆっくりと空を舞いながら、行き交う人々を眺めている。 「さあ、誰から、助けたものかな」 空から地上を見下ろすと、人間同士、関係性を否定するかのように、互いに、無視しながら歩いている。誰も他人を避けながら、誰も他人の存在を否定している。ある意味において、こうした方が、互いを憎み合うこともなく、幸せで良好な関係を保てるのかもしれない。 だけど、一旦、地震や火事、車の衝突事故など、災害が起こった場合、みんな自分ことが精一杯で、例えば、道路にじいさんが倒れて誰かの名を呼んでいても、満員電車に老婆が這いつくばって笑っていても、知らん顔なのだろう。声を掛けることもなく、倒れている人たちを柱や石ころなど障害物のようにして避けて歩くのだ。避けることで、自分だけは難を逃れようとする。 しかし、いつまでも避け続けることはできないだろう。いつかは真正面から向かわざるを得なくなる。その時になって初めて、普段から、関係しあうことを拒否してきた人たちは、自分だけが正しいと主張して、相手を真っ向から否定し、その結果、衝突せざるをえなくなるのではないだろうか。俺は、さわやかな風に吹かれながら、地上のゴミどもを眺めている。 「誰か、いい人いないかな。誰か、いい人いないかな。誰か、いい人いないかな。誰か、いい人いないかな」 俺は、思わずリズムや音符をつけて、四回くちずさんだ。だが、本当はそんな余裕はない。大神様からの課題を今日中に片づけないと、それこそ悪魔に堕とされる。まさか、悪魔の世界でも、大悪魔、中悪魔、小悪魔がいて、その見習い悪魔もいるのだろうか。 多分、どんな組織でも、縦関係や階級制度はあるから、きっと、悪魔の世界に行っても、新人の俺は、神様の世界と同様に、また、見習から始めなければならないのだろう。 トイレから始まり、風呂、玄関前など、新人はいつも掃除から始まる。トイレの神様じゃなくトイレの悪魔か。社長が率先してトイレ掃除をすることで、大会社になったところもあるらしい。だけど、また、一から初心者をやり直すのは、勘弁して欲しい。 でも、待てよ。大神様の命令に応えられずに、悪魔の世界に落ちても、悪魔の見習いとして使い物にならなかったら、どうなるのだろうか?ひっくり返って、神様の世界に戻れるんじゃないだろうか。それなら、安心して、今回のテストを受けられる。 もし、四組の人間を幸せにできなくて、神様の世界を追放されても、悪魔の世界で、例えば、人を不幸に導く、アンハッピーノートか何かがあって、その試験に合格できずに、「お前なんか、神様の世界に帰ってしまえ」なんて、都合のいい展開にならないだろうか。 だけど、それなら、これまでにも、悪魔の世界から神様の世界に戻ってきた奴がいるはずだが、そんな話を聞いたことはない。やはり、神様の世界で通用しない奴は、悪魔の世界に落ちるのだろうか。 だけど、そんな心配ばかりをしていても始まらない。兎に角、今、俺は、神様の世界の崖っぷちに突っ立っている。下を覗けば、悪魔の世界だ。ここで、自分の力の限りを発揮して、一世一代の大仕事に取り組まなければならない。と、まあ、いつものとおり、掛け声だけは大きいけれど。 さあて、獲物はどこかな。あれ、あの駅前に佇んでいる女性はどうだろうか?駅から出て来た人にフリーペーパーを配っているが、誰も受け取ろうとしない。両腕には、山抱え程の冊子と、足下にもビニールのひもでくくられた束が数個。通勤や通学客はほとんどいない。このままでは、一日、立ちんぼうかな、よし、近づいてみよう。 「あーあ、ほんと、やんなっちゃう。まだ、こんなに配らないといけない」 洋子は、重くのしかかる無料の求人情報誌をうらめしそうに見つめる。名前はフリーなのに配るのにはノルマがあるため、自分にとっては全然自由にはならない。朝の六時半から配り出したが、人の一番多いピークの八時から八時半はとうの昔に過ぎている。 配り始めの頃、東の空を見ると、太陽は赤く、日の出がこんなに素晴らしいものかとかと思ったが、今は黄色く光り、まぶしいだけで、体中の力を奪っていく。もう少し時間が経過すると、太陽は頭上に登り、そこから強烈な光が照射され、ますます生気が失われていく。 さっさと仕事をやり終えないといけない。でも、残った仕事は、この手に抱えた求人情報誌と足下の大束の情報誌。これだけあるのでは、昼までに配り切るのは無理だ。夕方の五時以降の帰宅途中のサラリーマンやOLを再び狙うしかない。 待てよ。今日は、午後からも別の情報誌を配る仕事だ。街中の喫茶や居酒屋、美容室をPRした冊子だ。そのバイトもこの求人情報誌で見つけたものだ。私にとっては役に立つ求人情報誌でも、他の人にとっては必要ないらしい。あーあー。ほんと、嫌になっちゃう。 同じアルバイト仲間の純子を見た。純子は自分と相対して、向こう側に立っている。足下にはもう情報誌の束はない。右手に持っている数枚だけだ。純子がさっと動いた。正面玄関から出てきたおばあさん三人組の胸に押しつけるように渡すと、こちらを振り返り、手を振った。もう終わったから、一旦事務所に返るとの合図だ。余裕の笑顔だ。 悔しい。今日もまた、先を越された。こちらも、求人誌を抱えたまま、形式的に手を振り返す。あんなおばあさんに求人情報誌を渡しても、全く、意味がないだろうと思いながらも、押しの強い純子に憧れたりもする。 とにかく、早く、この求人誌を配り終わらないと、今日の一日の日程全てが狂ってしまう。目の前に、大きな影が見えた。お客さんだ! 「どうぞ」 洋子は、求人誌を差し出す。冊子は洋子の手から離れずに、また、影も立ち尽くしたままだ。ふと、顔を上げる。そこには、白い衣装をゆったりとはおった一人の男?女?がいた。どこかで見たことがあるような、ないような出で立ちだ。 「あなた、誰?同業者?」 こんなかっこうをすれば、目立って、道行く人は面白がって、求人情報誌を受け取ってくれるかもしれない。と、いうことは、アルバイト先から派遣され、状況を見に来た調査員?監督員? 「まだ、こんなにたくさん残っていますけど、必ず、配り終えます。もう直ぐしたら、次の便の電車がきます。降りて来たお客さん全員に渡せば、配り終えます。完了です」 洋子は、慌てながらも、必死で、言い訳をする。今は、お客さんが一番少ない空白の時間。降りてくる客なんて、わずかだと知っている。一人当たり、十部、いや二十部、はてまた三十部程度を渡さなければ、この数をはけることはできない。まさか、虫めがねを使って、燃やしてしまうわけにもいかない。 いや、待てよ、目の前の風変りなお客さんは、ひょっとしたらマジシャンかも。まさか、今の、この私の状況を助けてくれる神様なのか? 「か、神様、私を助けて」  洋子は、藁ではないけど神様の白い服を掴もうとした。  誰が、神様だって。残念だけど、俺は神様じゃない。見習い神様だ。だが、普通の人が見れば、神様も見習いも、見分けはつかないだろう。ここで、神様と見習いの区別を説明したところでどうなるわけでもない。返って、初心者マークを着けた状態が長引くだけだ。笑って、笑って。 「私は、神様じゃありません。見習い、いや、通りがかりの一般人です」 そう答えたものの、本音は神様と言いたいところだ。それにしても、神様という言葉は何ていい響きだろう。早く、神様になりたい。 ほらほら、いるんだよ。世の中には、こんな変な奴が。つい、困って、見知らぬ人に助けを求めたけれど、まさか、自分から神様とは言わないけれど、神様のかっこうをして、他人から神様とあがめられたい奴がいるんだ。こんな奴に長居されたら、本当にバイトが時間までに終わらない。適当にあしらおう。 洋子は、触らぬ神に祟りなし、とばかりに 「あらっ、ごめんなさい。あたし、神様とばかり思っていました。今、忙しいので失礼します」と、目の前の白い服をカーテンのようにするりとはらい除けると 「週刊アルバイト情報誌はいかがですか」と、大声を上げて、駅前を歩く人たちに渡そうとした。だけど、駅前を歩く人たちも、同様に、洋子の側をするりとすり抜けて行く。赤い制服姿の洋子と白い服の見習い天使。紅白のお目出たい二人だけに、目立ち過ぎた変な二人組と思われているのか、誰も相手にしてくれない。 「もう、やんなっちゃうな。神様だか、見習いだか、通りがかりの一般人だかわからないけれど、あたしの邪魔をしないでくれる」 彼女が、俺の方に振り向いて、口をとがらしながら、言い放った。おっと、相手を助けるつもりが、相手を怒らせているぞ。 「いやいや、邪魔するなんて、そんなつもりはありませんよ。反対に、困っているあなたを手助けしたいんですよ」 俺は、顔の前で否定するように手を振って、笑顔で応えた。 「とにかく、今のあなたの望みは、手に持っているその冊子を配り終えればいいんですよね?」 「そうよ、時間がないの。あなた手伝ってくれるの?一人よりも二人の方がいいわ。それに、そのコスチューム、ユルキャラっぽくて、いいかも。「神様が、あなたを魅惑の仕事にお誘いします」っていう、キャッチフレーズは、どうかしら」  誰が、ユルキャラだ。どこかの地方自治体の町おこしの事業じゃあるまいし、この見習い天使様を何だと思っているのか、と、ここで怒っちゃいけない。折角の、見習い天使が、見習い悪魔に落ちこぼれてしまう。これまでのトイレ掃除や生ごみ当番などの努力が水の泡になってしまう。ここは、我慢、我慢。 その時、さっき、この女性と向かい合って冊子を配っていた女性が近づいてきた。 「洋子。まだやっているの。あたし、事務所に報告したから、もう帰るわよ、バイバイ」 洋子と同じ赤い法被を羽織っている。 「あら、この人、何?変な衣装を着ているわね。あっ、そうか、自分の仕事が終わらないから、応援を頼んだんだ。でも、こんなキャラじゃ、よけいにお客さんが引いてしまうんじゃないの。洋子は、相変わらず、バイトも、友達選びも、服も、センスが悪いんだから。もし、よかったら、配るのを手伝ってあげようか」 「純子。この人は関係ないわ。あたしに勝手に近づいてきただけよ。それに、今日は、たまたま、ハケ具合が悪いだけ。少し、早いからって、威張んないでね。お疲れ様。さっさと、帰ったら。あなたも忙しいんでしょう?あっ、求人情報誌いかがですか」 洋子は、二人を残し、目の前を通り過ぎる人に渡そうとするが、受け取ってもらえない。 「おお、怖っ。そんな顔つきや声で、誰が受けとるかしら。あなたも、あまり洋子に関わらない方がいいよ。じゃあね、バイバイ」 「誰が、あんたなんかに手伝ってもらうもんか。それより、そこの神様さん、あたしに用がないのなら、さっさとどこかに行ってよ」 おお、怖っ。確かに、あの女性が言うように、洋子の鬼瓦のような顔では、人は避けることがあっても、近づいてくることはないだろう。それよりも、自分の仕事を完了させることの方が先だ。折角、目の前にいる獲物だ。この洋子とあのアルバイト仲間をラブラブ関係にさせよう。善は急げ、だ。 俺は、白い上っ張りから、ノートを取り出した。 大神様がおっしゃったように、ただ単に、このノートに名前を書くだけで、あんなに仲の悪い二人が、本当に、仲良くなるのかな。まあ、何でも、やってみよう! 「あの、洋子さんとおっしゃるんですか?」 「何、まだ、あんた、いたの?それに、洋子だなんて、馴れ馴れしく呼ばないでよ」 鬼の次は、悪魔の顔だ。お祓い、お祓い!心の中で白いタオルを降参とばかりに振った。 「実は、私は見習い神様なのです。この地上に降りてきて、人間のあなたと、初めてお知り合いになれたのだから、是非、名前をフルネームで教えていただきたいんです」 「うるさいわね。変な宗教や痩身グッズの申込用紙じゃないでしょうね。でも、名前を言ったら、この場から、いなくなってくれる?それだったら、教えてあげてもいいわよ」 「もちろんです。是非、お願いします」 見習いかもしれないが、神様の端くれの俺が、何故、こんな、小娘に頭を下げなくてはならないんだ。と、今は頭に浮かんでいる輪っかを頭を掴んで、投げつけたくなったけれど、ここは、我慢、我慢。ひたすら我慢。 「じゃあ、教えてあげる。「田中洋子」よ。「自然に恵まれ、稲穂が実る田んぼ」の「田」に、「世界の中心は私のためにある」の「中」。それに、「世界一大きな海の太平洋」の「洋」に、「未来は明るい子ども」の「子」。続けて、「田中洋子」。わかった!」 すごい。自分に対して全面肯定している。 「ありがとうございます。さらに、もうひとつお願いします。あの、さっきの彼女は純子さんって、言っていましたよね。彼女のフルネームも教えて欲しいんです」 「なんで、あたしがあんな奴の名前をあんたに教えないといけないのよ」  さっきまでの自己肯定で、笑顔を取り戻したはずの洋子の顔が再び険しくなった。 「そこをなんとか」 神様のわっかが見えるぐらいに頭を下げた。輪かっかからは怒りの湯気が立ち昇っているはずだ。今、頭の上にやかんを置けば、チベット地方で鏡を使ってお湯を沸かしているように、短時間でお湯が沸くはずだ。 「じゃあ、言ってあげる。「山本純子」。「人でなしの山族」の「山」に、「本当のことを決して言わない嘘つきの「本」に、「不純でいっぱい」の「純」、それに、「不幸でおおわれた子ども」の「子」。「山本純子」よ。わかった、もう、二度と言わないわよ。ペッ」  そう言い終えると、田中洋子は唾を地面に吐き捨てた。 感心するほどに、他人の全面否定だ。俺は頭の髪の毛から一本毛を抜くと、二人の名前をノートに書きつけた。果たして、大神様の言う通りに、何らかの効果が現われるのか。 一分経過。何の兆候もない。田中洋子は、相変わらず不機嫌そうな顔で、求人情報雑誌を手に持ったままだ。二分経過。ただ、時計の針が動いただけだ。状況は変わらない。こうして、時間だけが、人生だけが過ぎていくのか。五分経過。やはり三分前と同じだ。その場が時間とともに凍りついたようだ。ただ、黙ったまま突っ立っているのは辛い。 「あんた、まだ、ここにいるの?紙様だか、トイレットペーパーだか、知らないけれど、いいかげんに、あっちへ行ってよ。あんたがいると、お客さんが気味悪がって、こちらにこないじゃないの。しっしっ」 洋子は、手に持っていた冊子で、俺を犬のように追い払おうとした。もう、昼前なのに、状況は、以前として、最悪。大神様に、一杯喰わされたかもしれない。こうなりゃ、洋子が言うように、石油不足でも、新型ウイルスの蔓延でもないけれど、トイレットペーパーやティッシュを何箱も買ってやろうか。支払は、大神様の、神様印のクレジットカードだ。このカードならば、支払の上限額はないはずだ。俺をだました罪だ。文句はないだろう。 俺は、あきらめて、洋子の側を立ち去ろうとした。照りつける太陽の洋子の影を踏みつけながら。哀しいかな、見習い神様のプライドを守るため、これが俺のささやかな抵抗、逆襲なのだ。その時、バタバタッ、バタバタッと音がだんだんと大きくなって近づいて来た。ドップラー効果なのか?俺の前方、洋子の後方から、あの不純印の純子が走って戻ってきたのだった。 「洋子、どう?まだ、仕事終わらないの?」 先ほどの、嫌味たっぷりの言いかたではない。本当に、相手を心配したような声だ。 それに対して、洋子は、 「うん、まだ、これだけあるの。でも、大丈夫。なんとか、ひとりで配ってみせるわ」 こちらも、笑顔で応えている。俺にもその笑顔の皺の一部でもくれよと思いながら、状況が一変したと感じた。やはり、ラブ・ノートの効果はあるのか。よし。このまま様子を見てみよう。俺は、ただ、黙って二人を見つめた。 「そんなこと言わないで。私も、手伝ってあげるよ」 「そんな、純子に悪いわ。もともと、あたしが愚図だから、こうなっちゃったんだもの。責任はあたしにあるの」 「そんなことはないわ。一緒に、駅前で配っているのだから、どちらとも同じに時間帯に終わらないとおかしいわ。少し、あたしが強引なだけなのよ。洋子は少しも愚図じゃないわ」 「ありがとう、純子」 「お礼はいいから、さあ、貸して。さっさと配り終えましょう。一人よりも二人の方が早く終わるわ」 純子は、そう言うと、洋子の足下にまだ積み重なっているフリーペーパーの束を体で抱えると、駅の構内にの方に走って行った。 「待って、純子。私も行くわ」 先ほどまでの関係が嘘だったかのように、二人は、仲むつまじく、手と手をとり合うように、乗客が降りてきた改札口の前で、求人情報誌を配っている。洋子も純子も互いに笑顔だ。ものの五分も立たないうちに、二人は、俺のところに戻ってきた。さっきの五分に比べて、あっという間に時間が過ぎた。同じ五分なのにこうも違うのか。 「やっと終わったね」 「ありがとう、純子。お陰で、全部配りきれたわ。午後からの、アルバイトに間に合うわ。もし、よかったら、お昼を一緒にしない。お礼に驕るわ」 「いいのよ、気にしないで。お互いさまよ。今度、あたしが、もたもたして、配りきれなかったら、手伝ってね」 「いいともー」 「ホント、もう十二時ね」 二人は顔と顔を寄せ合うほど密着してここから立ち去って行く。取り残されたのは俺。 「あっ、神様さん」 洋子がベンチに置いた水筒を思い出したかのように振り返った。 「なんだかしらないけれど、ありがとう」 「この人、誰?」 「あたしもよく知らないけれど、神様だって」 「へえー、神様って、本当に、いたんだ。映画や小説、絵画の中だけかと思った」 「そう、神様なの」  俺は、「見習いだと」付け加えようとしたが、相手が神様だと思い込んでいるのをあえて否定しなかった。「神様」、なんていい響きだ。 「その神様が、どうしたの?何か、あったの?」 「そうじゃなくて、神様が来てくれたおかげで、純子とも仲良くなれたし、情報誌は昼前に配り終えられたのよ。まさに一神様二得よ」 「そう。洋子が、お礼を言うのなら、あたしもお礼を言うわ。神様さん、ありがとう!」 二人は、仲良く腕組みをして、俺の元を去っていった。 うまくいった。やはり、ラブ・ノートの力なのか。だけど、まだラブ・ノートを信用しきれない。もう一度、二人の名前を書いたページをめくった。 「田中洋子」と「山本純子」の名前が記されたままだ。消えてはいない。上手くいったようだ。課題をクリアすると、空に何か字が浮かぶと大神様が言っていたのを思い出した。 確か、東の空だな。今、俺は太陽を見ている。東は、俺の左方向だ。体の向きを変える。屋根型の山が見える。山なんて、三角形だと思っていたが、この山は頂上が平べったい。頂点がない。いいように言えば、この街も人間も、誰が上でも下でもなく、今の洋子と純子と同じように、同等の関係を象徴しているのかもしれない。こんなことを考えるのは俺も天使への階段を一歩登っているのかもしれない。やがて、俺は大神様と肩を並べられるぞ。 痛っ。 頭上に浮いていたはずの金のわっかが俺の頭を締め付けた。調子に乗り過ぎた俺に対する大神様の戒めだ。 平らな山の上を見る。何も浮かんでいない。大神様のいたずらか。左の方に頭を動かす。海の方だ。何か浮かんでいる。雲?ジェット雲で書いたのか字が見える。そこには、「L」の字が浮かび上がっていた。 「L」?何の綴りだろう。残り三文字だ。とりあえず、ひと組目は成功のようだ。残り三組。じっとしていても、獲物は見つからない。俺は、白い衣を羽ばたかせながら、空に舞い上がった。 駅前広場には、いくつかの石の椅子が置いてあり、荷物を持って、パンフレットを眺めている観光客や時間つぶしの背広姿の営業マン、日向ぼっこの年寄りたちが座っている。お互いの間に、なんら争いはない。動きもない。後ろにハンカチでも落としてやらなければ、永遠に座ったままでいるのではないか。 彼らは、ここで、日がな一日、のんびりとした一日を過ごすのだろうか。だが、椅子と椅子との間の微妙に離れた距離はなんだろう。互いに関係性を遮断することで、自分を守ろうとしているのだろうか。 第四章 悪魔へのファーストステージ 「さあ、誰から声を掛けようか」 見習い悪魔は、広がった黒い上っ張りの皺を伸ばした。見習いが現れたのは、JR駅前の円形の広場だった。そこは、電車やバス、タクシーのターミナルで、多くの人たちが行き交っていた。空から、見習いが降り立ったのにも関わらず、誰も、不思議に思わないのか、気付こうともしない。見習いが、こんなに数多くの人間を生で見るのは初めてだった。 普段は、師匠の世話で一日が過ぎ、たまに、師匠とともに、悪魔たちの会合やパーティに参加し、地の底から、鏡張りの天井から、人間たちの愚かな行動を見ては、それを酒の肴にして、楽しい一夜を過ごすのだった。 地の底から見ていた人間と、間近で見る人間は、少し感じが異なっていた。パーティの余興として、人間の馬鹿げたやりとりを、遠目で見ることはあったものの、今は、すぐ触れるぐらいの距離にいる。そのため、初めて人間を見たたような気がした。やっぱり、本物は違う。 人間たちが、全く環境の違う世界に住む、白クマやライオン、キリン、ゾウ、イルカ、ヘビ、トラ、カンガルーなどを無理やり一箇所に集め、もの珍しそうに眺める習慣を持つ変な趣味を、なるほど、これもいいな、と今となっては頷けた。 自分たち、悪魔ならば、世界中どこにでも、瞬時に行けるので、わざわざ莫大な経費をかけて、動物園なんて作らない。だけど、人間たちは、世界中の動物たちを集めるため、それぞれの動物たちが住んでいた環境にできるように似せるように、人間が住んでいるのは寒い地域なのに、動物たちが住む建物の中は亜熱帯にしたり、また、同様に、温かい地域なのに、氷を浮かべたりするような施設を作っている。人間の努力、営み、野望、欲望にはほとほと感心した。 だが、いつまでも、口を開けたまま阿呆面をして、行き交う人間たちを眺めているわけにはいかない。見習いは、本音としては、特段、今の状況から大悪魔への階段を登りたいとは思わないけれど、大悪魔様の命令だから仕方がないと思っている。 わざわざ、仲が良い二人の間を切り裂くなんて、大悪魔様も人、いや、悪魔が悪い。だからこそ、自分たちは悪魔なのだろうと納得する。でも、大悪魔様は、適当にやれともおっしゃっていたから、その命令にも従おう。おっと、これがヘイト・ノートか。 見習いは黒い表紙のノートを手にする。もちろん、中身も黒い。黒一色だ。 本当に、このノートに名前を書いただけで、仲の良い二人が喧嘩別れするんだろうか。少し、試してみたいがする。それに、大悪魔様の言うとおり、四組の人間の仲を引き裂いたら、空にどんな文字が浮かぶのだろうか。期待をしている訳ではないけれど、見てみたい気もする。とにかく、早速、獲物を探さないと。おっ、あの二人はどうだ。 見習い悪魔が見つけたのは、駅前で、フリーペーパーを配る二人だった。見習いは決めた。あの、二人にしよう。同じ、赤色の帽子と赤い服を着て、いかにも、仲よし仲間という感じだ。それに、二人で、連携・協力して、冊子を渡している。中には、受け取らない人もいるけれど、お互いに励まし合っている。うーん。青春だ。うーん。微笑ましい。それでも、二人には、悪いけれど、これも運命だと思ってあきらめてくれ。 見習いは二人の側に近付いた。 洋子は思う。今日の午後も調子がいい。予想以上に、ハケがいい。だって、純子と二人で、共同戦線を張っているからだ。今まで、というより、ほんのさっき、午前中の後半まで、互いに単独行動で、競争のように、敵のように冊子を配っていたけれど、今は協力態勢を組んでいる。 お客さんに、「フリーペーパーいかがですか」と、いくら大きな声で叫んでみても、なかなか受けっとってもらえない。「どうぞ」と声を掛け、無理やり体の前に突き出しても、無視するか、突然の冊子の出現に驚き、本当は欲しいと思っていても、足は急いで職場に向かおうとしているため、手を出した時には、体は既に冊子から遠くに通り過ぎている。わざわざ後戻りをすることはない。 あたしがフリーペーパーを配るように、みんな、自分のことで忙しいのだ。そう言う時こそ、ペアの力だ。 お客さんが歩いてくる二メートル前で、純子が「こんにちは」と言って冊子を渡す。欲しい人は手を出す。必要だけど、耳に栓をして音楽を聴いたり、会社や学校までの道のりを、ひたすら修行僧のようにうつむいて歩く人には通じない。 でも、そんな中でも、あたしたちの黄色い声を聞いて、心の内から外に出てきた人は、少しは関心を持ってくれて、手を伸ばしてくれる。そんなチャンスを待つ。だけど、折角、興味を持ってくれても、多人数の川の流れにとどまることができずに、冊子を受け取らず、まあいいや、いつでも手に入ると思い、そのまま流れてしまう。 その思った数秒後に、あたしがその人の前に冊子を差し出す。欲しかった冊子が、声とともに再び眼の前に現れる。彼女(彼)は、心の中で、ラッキーと思いながらも、声には出さずに、私を一瞥し、今度こそ、この幸せを、このチャンスを逃すものか、とさっと手を出し、冊子を握りしめるのだった。また、そんなに冊子を欲しくなくても、声を聞いて、つい、条件反射的に出したお客さんの手に、あたしたちは二回のチャンスを与えることができるのだ。 そう、私たちは、赤い服を着た、真夏のツインサンタクロースギャルなんだ。パチパチ。自画自賛。二人で、一人。昔から仲のよかった、相棒、友人、姉妹、家族なんだ。 あれ?純子とこんなに親しくなったのは、いつからだろうか?ずっと、前。いや、二、三日前?いいや、ほんのさっきのように思える。 それまで、親しく口なんかきいたこともなかったし、どちらかと言えば、ライバルだったはずだ。純子が一冊配るたびに、私の配る客が一人減る。早く終わらないといけないのに、時間がまた伸びてしまう。あえて言えば、純子は憎むべき敵だったのだ。 でも、時代錯誤の白い服を着た自称神様、いや神様の見習い(わたしの眼には、ピエロか、ちんどん屋にしか見えなかった)が、やってきて、急に、仲よくなったんだ。気持ちの変化かな。女心は全天候の空だもの。いつだって、どこだって変わっちゃう。 「もしもし」 「はい、どうぞ」 「あっ、ありがとうございます。ありがたくいただきます」  洋子の眼の前には、黒いシーツのような衣服をまとった男が立っていた。どこかで見たことがある服だ。そうだ、さっきまで考えていた、あの見習い神様と同じ服の形をしている。しかし、色は黒。だけど、見習い神様と顔は同じように思える。でも、よく考えたら、人間って、相手の顔を見ても、次の瞬間には忘れてしまうものなのだ。まあ、あの見習いの神様の仲間かなんかだろう。 「忙しそうですね」 「ええ、これだけ配らないといけないんです」 洋子は、手に持っている冊子と、観光案内板の下にまだ積み重ねられているフリーペーパーの山を指差した。 「あっ、ごめんなさい」 洋子は、眼の前を通り過ぎていくおばさんに冊子を渡そうとするが、見向きもされない。 「無料なのに、もらって貰えないんですね」 「ええ、荷物になるからとか、フリーペーパーを持ったままだとかっこうが悪いとか、の理由で断られるんですよ。以前、記念号を出した時には、手提げ袋付きで渡したら、結構、持って帰ってくれましたけど。もちろん、中身の冊子が欲しいわけでなく、手提げ袋が欲しかったんでしょうけど」 「お客さんは現金なんですね」 「ええ、そうですね。もちろん、あたしも逆の立場なら、そうなります」 苦笑いをする洋子。人間不思議なもので、ただでもらえるとなると、過剰なるエネルギーを平気で使う。 以前、この街の市役所の近くにある中央公園で長い行列ができていた。みんな、何で並んでいるんだろうかと思い、行列の一番前に見に行ったら、無料で、パンジーの苗を一個渡していた。お店で買えば、たかが百円未満の商品。それなのに、みんな、一時間以上も待っていた。 そこまで待って花の苗を貰っても、どうせ、家に帰ったら、庭に植えた後、最初は水やりをするけれど、翌日以降は、そこに花を植えたことなんか忘れてしまい、そのうちに花は枯れてしまい、枯れたら枯れたで、あら、枯れちゃた、の一言で終わる。あたしの人生をもてあそばないでよ、とドスの利いた声で、裾も露わに片膝ついて、パンジーが怒りそうである。 彼らや、彼女ら、特に、高齢者の彼女らが多いけれど、ただで貰うことで得をしたという感情で飽和状態になってしまい、パンジーの世話なんて二の次なんだろう。得の感情を満たすためだけに、彼ら、彼女らは、毎週末に、イベント会場を東へ西へ、南へ北へと彷徨っているのだ。 と言いながら、洋子自身も、機会あるごと、懸賞やクイズに応募している。その賞品が欲しいこともあるけれど、それよりも、自分のためにタイムマシンに乗って未来から使者がやってくるようで、それが楽しみなのである。 未来の期限付きの懸賞。それに向けて、せっせとはがきを送り、インターネットをクリックする。発送後の未来で、何らかの不思議な力(単に確率の問題であり、偶然なのであろうけれど)が働き、未来から賞品と言う名のメッセージが届く。未来との会話。この楽しみのために、洋子は、今も、懸賞やクイズに応募し続けている。 彼女がそんなことを考えているのを知ってか知らないでか、見習い悪魔は、彼女の後ろにいるもう一人の女性に気がつく。 「彼女は誰?」 洋子は答える。 「同僚の山本純子。ホント、名前のとおり、純粋な子なの。午前中、あたしが冊子を配り終えていない時に、自分の時間を削ってまで、手伝ってくれたんです」 見習いは、純子と呼ばれた彼女を見た。にっこりと笑い、会釈をする純子。えくぼが両頬に二つ。全ての不幸も、えくぼの休憩地に佇んで、不幸の衣から幸福の衣に着替えそうである。 この二人の仲を裂くことなんかできやしないし、もし、仮に、そんなことができても、そうすべきなのか、見習いは気が乗らなかった。他人が不幸になることで、自分が昇進(見習いから正規の悪魔になるということ)するまでしなくてもいいんじゃないかと。一生、見習いのままのだらだらしていた方が、悪魔らしくていいんじゃないだろうか。悪魔の昇進なんて、やはり可笑しいんじゃないか。そう思った時、頭の上に浮いていたはずの、黒いわっかが見習いの頭にすっぽりと入るや否や、ぐうーと音を立てて小さくなった。 「いたたたたたたた」 頭を抱えたまま、その場にうずくまる見習い。 「大丈夫ですか?」 洋子が心配そうに、同じように座り込んで、肩に手を置いてくれた。純子も同様だ。 「だだ、だいじょうぶです」 痛みが少し治まったので、立ち上がる見習い。地底から大悪魔様が監視しているのだ。やはり、命令は、いやでも従わなければならない。見習いは、座りこんだまま、ポケットからノートを取り出すと、ずきずき痛む頭を押さえながら、黒いページに白いインクのボールペンで、さっき聞いた二人の名前を書いた。 「私のことはさておき、もうすぐ配り終えそうですね」 「ええ、純子と二人でやれば、午後の部の仕事もじきに終わると思います。その後、二人とも居酒屋のバイトがあるんです」 見習いは思った。やはり、この二人の仲を裂くのはやめよう。こんなに一生懸命頑張っているじゃないか。もっと他の人にするべきだ。何も、悪魔に昇任するのに期限があるわけじゃない。大悪魔様が空から眺めているのはわかっているけれど、すっぺらこっぺらと言い訳を繰り返そう。大悪魔様を騙すのも、修行のうちだ。その方が、悪魔らしくていい。見習いは、そう決意すると、ノートに書いた二人の名前を消そうとした。 その瞬間。強風が吹いた。ここJR駅前は、港を再開発した場所である。フェリーの汽笛が聞こえる。海はすぐ側だ。そのため、北からの風は強い。また、近くには、三十階建と十二階建のオフィスビルが二棟建っている。風は、ビルの間を通り、より強さを増し、駅前のバスやタクシーを待つ人、電車から降りてきた人、オフィスビルのビジネスマンたちを吹き襲う。 「きゃっ」「きゃっ」 洋子と純子が悲鳴を挙げた。身をよじって、顔をそむける。そむけた方向に、フリーペーパーが、ページをめくりながら飛んで行く。 「あっ、お金が、じゃなくて、アルバイトが」 すぐ側で、純子の声もした。一冊、二冊、十冊、数十冊と、情報誌は自由を得たかのように、駅の広場に散乱した。その後を追う純子と洋子。 冊子は、一ページ目がめくれ、そのページが風に煽られ、二ページ目がめくられ、更に地面を滑っていく。また、風車の羽根のように、海に浮かぶヨットのように地面を滑り、広場の中に自分の居場所を確保した。中には、港の海水を引き込んだ池の近くまで吹き飛ばされている。 海水の中に落ちてしまえば、商品価値はゼロだ。お客様には渡せない。純子と洋子、それに、何かの縁かも知れないと、見習いも冊子を拾う。集めて元の場所に戻しても、再び、強風により吹き飛ばされる。この繰り返しだ。それなら、いっそのこと、台風並みの強風が吹いて、全ての冊子を空に舞いあげ、道行く人たちに配って欲しいぐらいだ。そうすれば、バイトは一度に終わってしまえるのに。純子と洋子は回収しながら呟く。 やっとのことで、冊子を集め終えた三人。 「純子、これ、あなたの分でしょ」 洋子は、自分が集めた冊子の一部を純子に渡す。 「ありがとう」 礼を言って受け取る純子。確かに、純子の分は元の数に戻っている。洋子は、自分の分を見た。かなりの数が減っている。誰かが持って行ったわけじゃない。まだ、回収できていないのだ。純子の後ろの地下駐輪場への階段の入り口にまで、冊子が飛んでいる。それは、純子に近い。 「ちょっと、純子。あたしは、あんたの分まで拾ってあげたのに、あなたはあたしの分は知らん顔なの」 「そんなことないけど・・・」 「そんなことあるじゃない」 頭に血が上る洋子。最初は、下手に出ていた純子も、 「いちいちうるさいわね。自分のことぐらい、自分でしなさいよ」と言い返す。 「何、その言い方」 洋子からは髪が立たんばかりに頭から湯気がでる。この様子を見ていた見習い。 「まあ、まあ、まあ」と仲裁にはいろうとしたが、 「何が、ママよ。あたし、あんたの母親じゃないわ」 「そうよ、あんたなんか関係ないんだから、さっさとどこかへ行ってよ」 二人から強い口調で責められ、たじたじとなり、後ろに下がる見習い。こうして、さっきまで、仲睦まじかった洋子と純子は、元の黙阿弥、佐渡に配流となった世阿弥のように、昔の関係に戻ってしまった。二人の間には、日本海ほどではないけれど、瀬戸内海の桃太郎に出てくる鬼の伝説で有名な、女木島、男木島のように離れてしまったのだ。(これは、女木島と男木島の住民の仲が悪いという意味ではない) 「私は何もしていないのに」 見習いは少し肩を上げて、代わりに首を引っ込め、空に向けて手の平を広げた。俺は知らない、どうすることもできない、のポーズだ。洋子と純子の二人は、そそくさと荷物を片付けると、まだ、冊子を全部配り終えていないのに、広場から立ち去った。もちろん、二人とも反対方向に。純子はJRの駅の構内に、洋子は私鉄の駅の方向に。一人残された見習い。胸に抱えていた残りの情報誌を近くの人に手渡した。それで、ようやく自由の身となった。 「これでよかったのかなあ」 と思うと、急に、空が黒くなった。日差しの一部が隠れた。生温かい風は吹かない。ここは広場。墓場じゃない。それに、悪魔と幽霊はなじまない。そう思いながら西の空を見上げた。見習いが地上に現れた時には、雲ひとつない青空だったが、今は違う。黒いバックの空に、何か文字のような白い塊が浮かんでいる。 「なんだ、あれは」 眼をこらす見習い。 「あれ?あれは、アルファベットのHか。なんで、Hなんだろ。若い女性たちと会話をしたけれど、やましい気持ちは持っていなかったはずだ。そりゃあ、周囲から見たら、私が、彼女たちを口説いているように見えたかもしれないけどな。でも、相手からは、セクハラだなんて、言われなかったはずだ。それでもHなのかな?」 見習いはいろいろ考えた。でも、答えは見つからなかった。 「きっと、次の課題をクリアすれば答えがわかるだろう。ここで考えていても仕方がない」 もちろん、自分の力で課題をクリアしたなんて思っていない。確かに、このノートに二人の名前を書いけれど、たまたま強風が吹いて来て、冊子が飛んで、自分が人を助けるために回収したら、二人の仲が悪くなっただけだ。あくまでも謙遜する見習い。 「風が吹いたら見習い悪魔が儲かる、そんな諺ってあったかなあ。まあ、いいか。偶然も実力のうちだ」 そう思い直し、見習いは次のターゲットを探そうとした。 第五章 神様へのステップⅡ 駅前には、この街の自慢のタワーが誇らしげに建っている。いわゆるシンボルタワーだ。オフィスに、レストラン街、コーヒーショップ、グッズショップ、千五百人規模の大ホールや三百人規模の小ホール、同時通訳の設備が整った国際会議場など、人が集まれるハード面は整備されている。ただし、人と人との触れ合いはない。みんな、他人をすり抜けて生きているようだ。 最高階は三十階。レストランの中に展望室がある。見習い神様の俺は、服の裾をゆらす。それだけで舞い上がる。エレベーターや非常階段なんて使わない。地上百五十メートルの屋外から非常扉をこじあけ、中に入る。そこでは、この街を訪れた観光客や仕事に疲れたサラリーマンたちが、高所から街並みをぼんやりと見つめている。 俺も、他の人間と同様に、展望室からさっきまでいた広場や道路、オフィス街を見下ろした。展望場所を変える。北側だ。ここからは海が広がり、港では、対岸の島や他都市を結ぶ定期航路のフェリーなどが、頻繁に出入りしている。その南側には、かつてお城があった城址公園がある。海に近いことから、堀には海水を引き込んでおり、鯛やチヌなど、海の魚が泳いでいるらしい。先ほど、駅前の観光案内所の前で拾ったパンフレットに目を通す。 ふーん。納得するような、しないような頷き。目をもう一度凝らす。 「おっ、早速、カモじゃなく、目当ての人間がいたぞ」 俺から見えたのは、公園の堀に何か投げている男性だ。距離が遠いため、はっきりとわからないが、初老の男性のように見える。 「何をしているんだろう。餌やっているのかな。あの堀は海水だから、パンフレットの通り、コイじゃなくて、鯛に餌をやっているのだろう。鯛に餌をやるなんて珍しい。仕事よりも、そっちが気になる。今晩のおかずになるかな。早速、近づいてみよう」  俺は、独りごとを言い終えると、再び、空中に飛び出し、服をたなびかせて、公園の餌やりおっさんの元に向かう。突風が吹いた。右側の服が大きく開いた。バランスが崩れる。海に近いことや、こうした高い建物のせいで、風が強くなるのだ。俺は、体を大きく傾むけたまま、公園に向って急降下で落ちて行った。 「回って、回って、目が回る。愛よりも、酔い止めが欲しい」 俺は、風に流される竹トンボのようにふらつきながらも、何とか公園の池の付近に降り立った。目の前では、おっさんが一人、堀に向かってパンくずのようなものを投げ続けている。俺は、おじさんの横に並んだ。 「何の魚に、餌をやっているんですか?」 疑問形で聞く。尋ねられた方は、振り向くことなく、ただ、ひたすら、餌をやり続けている。かなりの間があいて、返事がきた。 「鯛だよ、鯛」 「鯛ですか?」 「何だ、あんた、鯛も知らないのか?」 「いや、鯛なら知っていますけど、お城のお堀には、普通、鯉でしょう。ここの鯛は、鯉が進化したんですかねえ。きっと、池底の石臼を回し過ぎたんじゃないですか」 俺は、少し、場の雰囲気を和ませようとジョークを交えながら、池の中を覗き込む。赤い魚が泳いでいる。確かに、鯛の形をしている。 しかし、食品スーパーでは、一匹まるごとの姿ではなく、刺身となって、舟形のトレイに入れられているから、お祝い事でもない限り、全体像を見ることはまれだ。魚ってのは、最初から捌かれたままの刺身の状態で泳いでいるんじゃないかと、馬鹿げたことを考えてしまう。 「何を言っているんだい。鯉がいくら鯛に恋い焦がれても、鯛になんかんるもんか。へたに海水に飛び込めば、浸透圧の影響で、体中から水分が逃げ出し、痛い(い鯛)目に遭うだけだ」 「うまい、座布団一枚」 俺は思わず叫んだ。人間の機嫌をとるのも大変だ。 「ありがとうよ。だけど、ここは、公園だ。座布団をもらっても、地面に置いて座るわけにはいかないから、また、今度にしよう」 ジョークが通じるのか、通じないのかわからないおっさんだ。 「それじゃあ、どうして、鯛が堀で泳いでいるんですか?」 知っていて、あえて聞く。聞いて、相手に喋らせる。これが会話を一分間続けるコツだ。人間関係を築く常とう手段だ。 「ここの堀は、海水なんだ。ほら、あそこに門があるだろう。あの門から海水がはいってくるわけだ。その先は、海につながっている。ここのお城は、誰が名付けたか知らないけれど、日本三大水城として有名なんだぞ。だけど、他の二大水城がどこにあるのか、俺は知らない。それに、正確には、水城じゃなく海城だけどな」 自分の事のように胸を張るおっさん。 「ほら、見てみろ。堀の中の鯛を!餌を放り投げると、水面に浮かんだ餌めがけて、水の中から、空中に飛び出さんばかりに、口をつき出し、がつがつと喰いついてくる。生命感が溢れているよ。喰うことがこいつらの命なんだ。見ているだけで、こちらも元気になる。そう、思わないかい。あんた」 おじさんの言葉に頷く。言う通りだ。餌がばら撒かれている辺りを、鯛が、何十匹も、行ったり来たりと泳ぎ回っている。物音しない静かな掘だが、おっさんの餌やり場だけが、賑わっている。商店街で言えば、行列のできる繁盛店と、シャッターを下ろした店ぐらいの違いだ。 鯛は、食べると言うことに、これだけ、一生懸命になっているのか。生き物にとっては、まず、食うことが何よりも先決なのだろう。でも、今、餌を食べている、この鯛の仲間も、おっさんの仲間の人間たちに食われているわけだ。食べている側がやがて食べられる側となり、ガツガツという音が、肉体を通して、鯛から人間へと伝達されていくのだろうか。だけど、人間の笑顔という、実体のないかすみのような物を食っている見習い神様の俺には、あまりピンとこない。 「ほら、すごいだろう。こいつら」 おっさんは、手に持っている食パンをちぎって、池の中に放り投げた。水面にパンが落ち、波紋が広がった。その中心部に、鯛たちの、口、口、口。カタカナのロ、ロ、ロじゃないぞ。漢字の口、口、口だ。その勢いに驚く俺の口が、ロ、ロ、ロだ。 「なんだか、こいつらを見ていると、生きていることが素晴らしいと思えてくるよ。わしなんか、今、六十五歳。定年退職の後、同じ会社で、何年間か働こうとした。だけど、かつての俺が命令や指示していた部下が、上司となり、今度は、そいつの命令や指示に従わなければならなくなった。退職しても、変なプライドだけは退職できなくて、その会社は辞めてしまったよ。もちろん、かつての部下も俺がやめて、ほっとしたんじゃないかな。 そうして、今は、こうして、この公園の観光ボランティアガイドとして、やりがいを持って、県外や市外のお客さんを案内している。そして、こいつら鯛に餌をやり、生きる糧を与えることで、反対に、こいつらからは生きる元気をもらっている。持ちつ持たれつ、の関係とは、こういうことかな」 おっさんの口から、しんみりとした言葉が出た。 「それで、あんたは一体誰だい?」 ようやく、俺の顔を見た。口がぽかんと開いている。今、食パンを渡せば、そのまま食ってしまいそうな口だ。物真似ならぬ、口真似。鯛の元気さが、おっさんの口に以心伝心しているようだ。飼い鯛に飼い主が似たわけだ。 「見かけない顔だな。ボランティアガイドの新入りかい?それとも、刑事か探偵か。ひょっとしたら、殺人犯か?」 おじさんの顔がひきつる。 「まさか、テレビの見過ぎですよ。心配しないで、そんなんじゃないですよ」 「じゃあ、なんなんだ」 「俺は、神様の見習いですよ」 「神様?」 「「そう、正式には、まだ、神様じゃなくて、神様の見習いですけど」 「それじゃあ、俺と一緒だ」 「俺と一緒?」 「そう、一緒だ。俺は、今は年金暮らしだ。わずかな収入で生活している。遊ぶ金もないから、毎日、ここにやってきている。人呼んで、「貧乏神様」と呼ばれている」 それも言うなら、貧乏神だろう。勝手に、神様と貧乏神を一緒にしないでくれ。それでも、ここで相手を怒らしたら、次のステップに進めなくなる。我慢、我慢。人間も、神様も、この世に生きとし生けるものは、全て我慢が大切なんだ。 「その貧乏神の神様が、ここで何をしているんですか?」 「お前も、神様のくせして、馬鹿な質問をするな。神様っちゅうものは、何もしないから神様なんだ。神様が、あくせくして、一分一秒を争うような仕事をしてみろ。それこそ、悪魔になってしまう。わしは、嫌だね。折角、手に入れた自由を手放したくない」 再び胸を張るおっさん。 誰が神様だ。何が自由だ。お前なんか、鯛に喰われて死んじまえと思いながらも、先ほどの、「がまん」の三文字が瞳に浮かび上がる。上から読んだら「がまん」、下から読んだら「んまが」、なんだかマンガの親戚みたいだ。 そうか、わかったぞ。神様にしろ、人間にしろ、我慢すること自体が、無意味で、お笑いであるマンガの世界なのだ。もちろん、マンガだって様々な分野がある。一般的に言えば、現実から逃避した世界のことのように思えるが、実際はそうじゃない。少し、大げさに表現しているものの、現実に根ざしている。現実に依拠している。この俺様だって、神様の見習いなんて、まさしく、マンガ以外の何物でもない。 「それで、その神様の見習い、つまり、わしの遠い親戚が、一体全体、何の用だ、おっ、わかったぞ、そうか、そう言うことだったのか。それならそうと、早く言ってくれればよかったのに」 自称貧乏神は、一人で、悦に入って、喜んでいる。俺には、全く、思い当たる節がない。こう言うときは、相手をそっとしておくか、なんでもいいから、うなずきマンになるしかない。一秒間に、何回、顎を首の下、喉仏の下につけるかを競争しなくちゃいけない。 おっと、イエローカードがでたぞ。神様の分際で、仏様の名前を出すなんて、許されないだって。そう言う、閉鎖的な考えだからこそ、信者が増えなくて、団体の財政が困窮してくるわけだ。人類は皆兄弟ならば、人類が生み出した、神様、仏様だって、親戚みたいなものだ。仲良くやろうぜ、人生なんて。 話がかなり脱線したけれど、とにかく、俺は、この貧乏神を助けてやらなければならない。神様の見習いを卒業して、神様になるための第二関門なのだから。俺は、満面に笑みを浮かべながら、貧乏神にやさしく語りかける。 「何か、困っていることがあれば、何でもおっしゃってください」 俺は、ラブ・ノートの対象者を間違えたと思いながらも、つい、おせいじをかます。これが、神様の見習いたるゆえんだ。困っている人(?)を見つけると、つい助けたくなる。もちろん、神様になるための、第二ステップのためだが。それでも、このおっさんと話をしていると、遠い道のりか、迷路を歩いているのか、道草を食い過ぎて動けなくなるのか、そのうちのどれかになるように思える。どれにしたってろくなものじゃない。 「そうじゃなあ?」 おっさんは、頬に手をやり、考えだした。困っていることを考える人。そんなの、彫刻や絵画などのモデルにはならないだろう? その時、団体の客がやってきた。添乗員が一人とお客さんは四十人ばかりだ。よくある観光バスツアーの一行だ。 「すいません。観光ガイドの方はいらっしゃいませんか?」 添乗員が俺たちに話かけてきた。 「わしが、観光ボランティアガイドだ」 「以前、電話でお願いしたように、この公園の観光案内をお願いしたいのですが」 観光ガイドのおっさんは、何故か固まって、微動だにしない。まさに思考停止状態だ。鯛の餌のパンの耳でもやれば、口からでも動き出すか。 「そんなの聞いていないぞ」 おっさんは、ようやく氷が溶けたかのように、怒った口調で言い放った。 「そうですか、確か、吉田さんという方にお願いしたのですが・・・」  添乗員が遠慮がちに尋ねた。 「吉田?吉田なら、今日は、まだ、来てないよ」 「本当ですか?吉田さんから、今日の観光ガイドについて、お話を聞いていませんか?」 「聞いていない」 おっさんはそっけない返事をする。俺はその態度が少し気になった。 「それじゃあ、代わりにと言うことではありませんが、観光ガイドをお願いできませんか?」 「今、急に、そんなこと言われても困る。わしにだって、他に仕事があるんだ。吉田に頼んだのならば、吉田に連絡すればいいじゃないか」 おっさんの言う仕事とは、何の仕事か?鯛の餌やりか。それとも、俺との知的な会話か? 「それは、そうですね」 添乗員は、これ以上、おっさんと話をしても埒があかないと思ったのか、ポケットから携帯電話を取り出すと、俺たちに背を向けてしゃべり始めた。 「もしもーし。もしもーし。吉田さん、吉田さん!」 添乗員が困っているにも関わらず、冷たい態度のおっさん。さっき、観光ガイドはやりがいがあると言っていたのに、この急変した態度はどうしたんだ。絶対に何かあるぞ。いくら感の鈍い、神様にまだ遠い、見習いの身の俺でも、そんなことぐらいはわかる。 くんくん、くんくん、匂うぞ、臭うぞ。憎しみの感情が、俺の目にも見えるし、耳にも聞こえる。舌にも苦みとして感じるし、皮膚の体毛が逆立っている。俺の五感全てに迫って来ている。今こそ、ラブ・ノートの出番だ。 「もしもーし。もしもーし、吉田さん聞こえますか?」 添乗員の声が、池に波紋を呼び起こすぐらい大きくなっている。それを上回る観光客の「ここの観光案内はどうなっているんだ。早くしろ、時間がないぞ」と騒がしい声。 「もしもーし。もしもーし。いえ、すいません。もうしばらくお待ちください」と、客に謝りながらも、耳には携帯電話を離さない添乗員。 「吉田さん。吉田さん。聞こえますか?」 「はいはい。聞こえますよ」 「よかった。ようやくつながった。それよりも、約束の案内の件はどうなっているんですか?あなたはいないし、別のガイドの人は、つっけんどんだし、お客さんは怒りだすし、早く、なんとかしてくださいよ」 「はい、はい。わかりました」 「わかりましたじゃないですよ。吉田さん。あなたは今、どこにいるのですか?」 「どこにって。あなたの後ろにいますよ」 慌てて振り向く添乗員。後ろにはにこにこ笑っているおっさんが立っていた。 「吉田さん。そこにいるのだったら、早く。声を掛けてくれたらよさそうなものじゃないですか。笑っている場合じゃないですよ。それよりも、至急、観光ガイドをお願いしますよ。予定よりも、五分も遅れてしまいました。お客さんは怒りだしたし、ホントに、お願いしますよ」 「金返せ。金返せ」 バスツアーの一団が、声を合わせて、合唱しはじめた。添乗員は、合掌して、吉田さんに頭を垂れる。その様子を見ていたおっさんは、鼻先で、ふふふふふんと笑う。振り返った吉田さんの顔には、幸せの印はなく、鬼の形相だ。 まさしく、この二人こそ、ラブ・ノートのお客さんだ。俺が二人をラブ・ノートまで案内してやる。俺は踵を返した。吉田さんは、 「いやーすいません。大変お待たせしました。私は、こう見えても、実は堀の鯛でして、服を着替えるのに少し時間がかかってしまいました。皆さん、どうも、ごめんたい」 どっと笑う観光客。唾を吐くおっさん。冷たい視線を飛ばす吉田さん。二人の間には、見えないパンチが、フック、ボディ、顔面、フック、ボディ、顔面と常時、飛び交っている。俺のラブ・ノートの表紙には、その影が映し出されている。 吉田さんは、ツアーの先頭に立って、観光客を引き連れて、どこかに行ってしまった。添乗員は、冷汗をかきながらもツアーの最後尾に付く。後に残ったのは、自称ガイドのおっさんと、見習神様である俺の二人だけ。おっさんは、何事もなかったかのように、再び、堀の鯛にエサをやり始めた。俺はおっさんに向って、話を掛けた。 「吉田さんとは、何かあるんですか?」 おっさんは、俺の声を聞いたのか、聞き取れなかったのか、知らない素振りで、反応が全くない。これは間違いない。無視と言う名のリアクション。俺の獲物だ。 「すいません。御主人さんは、佐藤さんですよね」 俺は、はったりの名前をあげた。日本人の多い名字を十ぐらい上げれば、どれか当たるだろうと思ったからだ。まずは、ナンバーワンから繰り出してみた、 おっさんは、「さとう」という音には何の関心も示さず、相変わらず、鯛にえさやりを続けている。時には、腹が減ったのか、腹が立ったのか、餌の食パンの耳を口の中に放り込んでは、吹き出している。おっさんの唾液でやや固まったパンは、池の中に落ち、鯛がほおばる。おっさんと鯛の間接キッス。だけど、俺との間には風が吹きすさぶ。それなら、次の作戦はこうだ。 「鈴木さん、高橋さん、田中さん、渡辺さん、伊藤さん、山本さん、中村さん、小林さん、加藤さん」 どうだ、これだけ続ければ、どれかは当たるも八卦、当たらなくても九人分の姓を言ったぞ。俺の声に驚いてか、公園に来ていた入場者が振り向いた。そして、はい、はい、はい、はい、はいと十人以上が返事をしてくれた。さすが、日本人ベストテンの姓だ。 先ほど、駅前の観光案内所のインターネットで、「日本人のうち、人数の多い姓ベストテン」を調べていてよかった。どこまで信用できるかが不安だったが、これで実証できたぞ。何でも、受け売りの知識ではなく、実際に使ってみることが大事だ。うーん。俺にしては、いいことを思いついたぞ。将来、俺に仕える見習い神様ができたら、訓示を垂れてやる。そのためにも、メモっとかないと。ラブ・ノートの端にでも書いておこう。 だが、肝心の餌やりのおっさんは、俺の方に振り向いてくれない。確か十一番目は、吉田だから、違うはずだ。それなら、十二番目の、「山田さん」と耳のそばまで近づいて、大声を発した。これなら、姓が間違っていても、いやでも返事をするだろう。 「はい、はい。やかましいわ」 一体、どっちだ。正解か、はずれか? 「山田さんですね」 「そうだよ」 とりあえず、安堵。人と話すにしても、何らかの取っ掛かりが必要だ。さっきは、池の鯛で話をつないだ。今、この不機嫌なおっさんには同じ手は通用しない。今度は、山田という言葉で、おっさんの心の扉を開かなければならない。開け、山田。 「それで、山田さん、どうして、吉田さんと仲が悪いんですか?」 俺はいきなり、問題の核心をついた。さあ、相手はどうでるか? 「・・・、別に」 「そうですか。それなら、いいんですけど」 と、一旦、素知らぬ振りをして、もう一度、尋ねる。 「でも、仲は良くないみたいですね」 「・・・。生意気なんだよ、あいつ」 とうとう出た。おっさんの本音が。 「ここの観光ボランティアには、俺より後から入ってきたくせに、全部仕切りやがる」 「はい」 「それだけじゃない。一番気に食わないのは、俺よりも、姓の数が多いということだ」 「はあ?」 「はあ?じゃないだろう。あんたも、さっき、日本で多い数の姓を順番に連呼しただろう。十番目までの姓は許せるが、吉田は十一番目で、山田は十二番目。俺よりも一番先というのがもっとも気に食わない。だから、吉田っていう姓は、山田の敵なんだ」 なんだ。おっさんは、俺が、日本人で多い姓の順番で呼び掛けていたのを知っていたのか。 「そこをなんとかなりませんかねえ」 俺は、ラブ・ノートの標的をこの二人に最終決定した。本当のところは、再び、他の人を探すのが面倒くさいだけだったのだが。 「ならぬものはならぬ。なるものもならぬ」 吉田さんは、そう言うと、引き続き、掘りの鯛に向って、何かに当たるかのように餌を投げ始めた。こんなときだけ、強情になるんだから。ホント、人間って、困るものだ。特に、この年代のおっさんたちは扱いにくくていけない。おっと、それなら、この扱いにくい性格を利用してやろう。 「それじゃあ、少しでも、山田さんの気持ちを和らげるために、このノートに、吉田さんの名前を書いてみましょうか?」 「なんでなんだよ。吉田の、よ、も思い浮かべたくないのに、なんで、吉田の名前を書かないといけないんだよ。ふん、俺の今の気持は、五十音でいえば、四十六音しかないんだよ。吉田義夫。何が、義理人情に、偉丈夫の夫だ。俺の辞書から、やゆよの「よ」と、さしすせその「し」と、たちつてとの「だ」と、あいうえおの「お」の文字が消えているね。できれば、この言葉を使わずに、一生暮らしたいものだ」 ここまで徹底的に嫌うとはたいしたものだ。いや、いや、感心している場合じゃない。相手の名前がわかったぞ。次に、この吉田嫌いの山田の名前だ。ラブ・ノートの二ページ目の相合傘の下に、二人の名前を書き込めば、二人は仲好く、手をつなぎほどの親友となる、はずだ。それは、さっきのフリーペーパーを配るバイトの女の子で証明済みだ。 「それじゃあ、山田さん。山田さんのフルネームを教えてもらいませんか?」 「なんだ、なんだ。なんで、俺のフルネームを、見知らぬお前なんかに教えないといけないんだ。俺の名前は個人情報だ。知らない奴に教えるわけにはいかない」 「でも、吉田さんの名前は、教えてくれたじゃないですか」 「他人の名前は、個人情報じゃない。単なる記号だ。言葉が不規則かつ不器用に並らんでいるだけだ」 それは屁理屈だと思いながらも、相手に見えるように、少し頷いてやった。 「でも、山田さんとは、こうして何十分間も話しているじゃないですか。もう、見知らぬ仲じゃないですよ」 「それもそうだな。それじゃあ、記念に教えてやろう。聞いたら、幸せになるかもしれんな」 何が記念か、何が幸せかわからないが、うまくいきそうだ。こういう人間は、高い、高いお山に登らせるに限る。あおげ、あおげ。登れ、登れ。初登頂記念だ。 「ありがとうございます。是非、拝聴つかまりたいです」 頭を垂れ、地面に向かって満面の笑み。そして、舌を出す。あっかんべーだ。目の前の相手には見えないはずだ。 「俺の名は、山田義夫だ」 「はあ?」 俺は、もう一度聞き直した。 「すいません。もう一度、お願いできませんか?」 「山田義夫だ。何回も、自分の名前を言わせるな。名前なんてものは、自分が言うんじゃなくて、人から呼ばれるものなんだ。それぐらい奥ゆかしさがあったほうがいいんだ。選挙カーみたいに、何をするかなんての公約を示さずに、ただ、ただ、立候補者である自分の名前しか声高に叫ばないなんて、みっともなくていけない。おらっちは、そんな生き方は望まない」 なんだ、急に、おらっちと言い出して。そうか。姓が違っていても、名前が同じだから、よけいに反発を感じるんのか。でも、さっき、よ、し、お という言葉は、おっさんの辞書にはないと言っていたぞ。それは、自分で、自分を否定しているのかな。それとも、自分の辞書にはないから、人から呼ばれることを待っているのかな。どちらにせよ。名前は教えてもらった。後は、ラブ・ノートに、二人の名前を書き記すだけだ。 「や、ま、だ、よ、し、お さんですね、よしおは漢字で書くとどうなりますか?」 「義理人情に厚い、義と、困っている弱者を助ける偉丈夫の夫だ」  さっきの吉田義夫の義夫の説明とえらい違いだ。もう一度、おっさんの名前を呼ぶ。 「山田義夫さん!」 「はい」 山田さんは、直立不動で、両手を体の真横に添えて、大きな声で返事をした。 「不思議なもんだな。小学校や中学校の時、名前を呼ばれたら、大きな声で返事をしなさい、と先生から指導を受けて以来、頭にしみついているのか。口が、喉が、勝手に反応して、この年齢になっても、つい、大きな声をあげてしまう。あはははは」 山田さんは、頭を掻きながら照れて笑った。本当は、いい人なんだ。俺は、ラブ・ノートの二ページ目を開いた。一ページ目には、先ほどの、田中洋子と山本純子の名前がある。その隣のページに、会い合い傘の絵を描く。その絵の中に、二人の名前を書く。「山田義夫」と「吉田義夫」だ。そう言えば、二人とも、漢字で書くと、山と吉の一字違いだ。この一字違いだけど、二人の間には、越すに越されぬ大きな山や大きな狂がある。一人、変に感じ入ってしまった。そんなことより、さっさと、名前を書かないと。 俺は、会い合い傘の右側に「山田義夫」、左側に「吉田義夫」の名前を書いた。果たして、その効果は? 俺が吉田さんの姿とノートを交互に見る。吉田さんは、相変わらず鯛に餌をやり続けている。化学反応は、まだ起こっていない。そこに、さっきの観光客を引き連れた吉田さんが、ひとりで帰ってきた。案内が終了したのだった。 「あーあ、疲れた」 言葉とは裏腹に、吉田さんの顔は満ち足りた喜びでいっぱいだ。吉田さんの声を聞いて、山田さんが立ち上がった。そして、吉田さんに近づいた。二人の間に緊張が走る、と俺には思われた。だが、山田さんから発せられた言葉は、 「お疲れ、吉田さん。しゃべりすぎて、喉が渇いたんじゃない。さあ、お茶でもどうぞ」  山田さんは、いつからか隠し持っていたお茶のペットボトルを懐から出した。冷めないようにお腹で温めていたわけだ。さすが、元サラリーマン。気がきく。 「あ、ありがとう。山田さん」 戸惑いながらも、礼を言う吉田さん。やった、ラブ・ノートの効果だ。なんか、今回も、うまくいきそうだ。さすが、大神様だ。俺は、二人の様子をじっと観察する。 「そうそう、さっきのグループの人に、お菓子をもらったので、山田さんも一緒にどうですか。休憩タイムにしましょう」  吉田さんは、上着のポケットから袋を取り出すと、山田さんに差し出す。 「そうですね。次の観光ガイドの案内には、まだ時間がありますから、休憩でもしますか」 しらじらしいのか、うまくいっているのか、俺にはよくはわからないが、二人がコミュニケーションをとっているのは事実だ。 「この方は?」 吉田さんが俺の方を向いて、山田さんに尋ねた。 「観光客の方で、お掘りの鯛や公園の歴史について、説明をしていたんですよ」 「そうですか。あなたはよかったですね。山田さんは、ここのボランティアガイドの大ベテランですよ。私も、いろんなことを教えてもらっています。まさに、私の師匠、ボランティアの鏡ですよ。そんな人に説明してもらうなんて、光栄ですね」 これほどいけしゃあしゃあと相手を誉めると、他人の俺でも、背中がむず痒くなってくる。思わず、五十肩で、届かない肩甲骨に手を伸ばす。これに対し、山田さんは、 「いあや、いたずらに年を重ねてきただけですよ。それに比べて、吉田さんは、まだ、観光ガイドになって日がたっていないにも関らず、よく勉強されていますよ。それこそ、私の方が教えてもらいたいくらいですよ」 ついさっきまでの、言動と百八十度異なっている。これが本心なのか、それともラブ・ノートの力による、うわべだけのお世辞なのか。真意を測りかねるものの、人間同士が笑顔を絶やさず、話しかけている様子を眺めるのは、気持ちがいいものだ。 やはり、俺は神様の気質なんだ。いやいや、そんなことにかまっているわけにはいかない。俺には、神様になるという、野望があるのだ。こんなところでとどまっているわけにはいかない。だけど、人間の笑顔が俺たち神様の栄養源だ。ずっと眺めていたい。うーん、一体、どちらを選ぶべきか。 俺が俺の頭の中で、ああでもない、こうでもない、と悩んでいる間にも、山田さんと吉田さんは、すっかり意気投合したのか、肩を組んで仲良く歩き出した。 「こんど、一杯、飲みに行きませんか」 「そりゃ、いいですね。是非、つきあいますよ」 ただ一人残された俺。東の空を見る。「L」という文字は、くっきりと浮かんでいる。その横に、今、生まれたばかりの雲、「O」の文字が浮かんでいた。ミッションは成功だ。だけど、簡単すぎるくらいに二人が仲良くなったぞ、と訝りながらも、残りの二文字を目指す。山田さんと吉田さんが、喧嘩別れをしないうちに、「L」や「O」の文字が消えないうちに、俺は次のターゲットを探すことにした。 第六章 堕神様へのセカンドステージ 新たなターゲットを見つけるため、空に浮かんだ見習い悪魔。仲がいい二人の関係を、無理やり(さっきは、何もしていないが)引き裂くのは、いかがなものかと内心思いながらも、そんなことではいつまでたっても見習いのままだぞ、というもう一人の自分の声がする。この葛藤を鎮めたい、整理したい気持ちとなる。 「おっ。あんなところに石垣があるぞ。城跡か」 そこは、珍しい水城。濠には海水が引き込まれ、鯉じゃなく、鯛やヒラメなど海の魚が泳いでいる。残念なことに、乙姫様は舞っていない。再び、残念なことに、真ん中に聳え立つはずの天守閣がない。それでも、城の周りにある櫓がかつての城の雰囲気を醸し出している。 「あああ。ここは落ち着くなあ」 思わず、声を上げる見習い。濠を見る。 「おっ、鯛が見える。これがホントの見える鯛、見で鯛、めでたいだ」 見習いは、子どものように、濠の柵に捕まって身を乗り出しながら、一人でジョークを言い、一人で受ける。 「お客さん、ご案内しましょうか」 振り返る見習い。 「お客さん。ここは初めてですか」 「ええ、初めてです」 相手は、黒いマントのような服を被った見習いの頭から足元までを見下ろして、 「私もあなたのような人を会ったのは初めてです。いや、さっき、会ったような気もしますね」と声を掛ける。 「もし、時間があるのでしたら、この公園を案内しますよ。もちろん、お金なんていりません。無料です。ボランティアなんです」 相手の顔をまじまじと見る見習い。確かに、観光ボランティアガイドと書いた身分証明書を首からぶら下げている。すぐ側にはテントが立てられ、もう一人のガイドが座っている。 「私は、吉田義夫です。向こうに座っているのが、山田義夫さんです。どちらか一方がご案内しますよ。もし、よかったら、二人でご案内してもいいですよ。一回で二人の説明、まるでグリコのキャラメルと同じで、美味しい瞬間が味わえますよ。私たち、これをグリコ案内と呼んでいるんです。もちろん、あなたのためだけの特別バージョン、おまけですよ。ねえ、山田義夫さん」 「ええ、もちろんですよ」  吉田と名乗る男が振り返るとテントの中の山田という男が頷いた。 会話を聞く限りでは、仲のよさそうな二人。あえて、仲の良い者同士を、喧嘩別れさせなくてもいいだろう。もっと、普通の関係の二人を探そう、と思った見習い悪魔。 「ええ、ありがとうございます。でも、あまり時間がありませんので、わざわざ案内していただかなくても結構です」 見習いとしては、嫌味なく、丁重に断ったつもりだったが、そこで、 「遠慮することないですよ。私に、是非、案内させてください」 と、しゃしゃり出てきたのは、山田と呼ばれた人物。 「吉田さんの言い方が悪かったのかも知れませんね。私たちは、観光ボランティア。無料でご案内しますよ。わずかの時間でも結構ですよ。短い時間でも、短い距離でも、どこかの悪徳タクシーのように、案内拒否なんか絶対しませんから」 吉田さんと見習いの間に体を入れてくる。 「はあ。ありがとうございます」 少し強引だが、その強引さに、見習いも案内を受けてもいいかなと思った瞬間。 「山田さん。お客さんが案内はいらないと言っているんだから、無理強いしてはいけませんよ」 助け船を出す吉田さん。これを聞いた見習いは、やっぱり、案内してもらうのはやめようかな。いやいや、この主体性のなさ、自分がないというか、強いものに巻かれたり、強い風に吹き飛ばされたりすることが、自分が見習いから正式の悪魔に昇任できない理由かな、と顎に右手をやり、考え始めた。 これを見て、 「吉田さん。あんたが変なことを言うから、お客さんが悩み始めたじゃないか。お客さんの気持ちを少しでも汲んで、楽しい気持ちにさせるのが、俺たち、いや私たちの仕事じゃないのかね」 「何を言う。いや、おっしゃるのか、山田さん。あんた、いや、あなたのその強引さが、お客様の気持ちを萎えさせているんだよ」 「そんなことはないぞ、吉田。お前は、前から気に食わなかったんだ」 「こちらこそ、あんたに食われるほど、間抜けじゃないぞ。山田」 「よくも、言ったな。吉田」 「ああ、何度でも言ってやる。お前は、すかたんだ。山田」 「お前こそ、お前のかあちゃはでべそだ。吉田」 「ふざけるな。山田」 頬づえをつく見習い悪魔の側で、口喧嘩を始める観光ボランティアの二人。見習いは、何の気なしに、首からぶら下がる証明書を見ながら、手帳に二人の名前、「吉田義夫」、「山田義夫」の名前を書いた。 「へえ、山と吉以外は、同じ名前なんだ」 感心している見習いの側で、口喧嘩からシャドウでの殴り合いに切り替えた二人。 見習いは、思わず、 「二人とも、山と吉以外は、同じ名前なんですね」 と、感心したように声を掛けた。すると、二人から同時に怒声が発せられた。 「うるさい。人が一番気にしていることを言いやがって」 「ホントだ。ホントだ」 当事者間の地域の争いから、三者間の大戦にまで変化しようとしていた。二対一では、いくら、見習い悪魔でも、歩が悪い。三十六計、逃げるが勝ちとばかりに、マントのような服を羽ばたかして、空へと飛び上がった。 「こら。逃げるな」 「まだ、決着はついていないぞ」 それでも、地面から罵声が追い掛けてくる。 「じゃあねえ。二人仲良く」 思ってもいないことを口にした後、叫び続けている二人から目を西の空に転じた見習い。そこには、アルファベットで「A」の字が浮かんでいる。その横には「H」の字も、まだ消えずに浮かんでいた。これで「HA」だ。 「ハか?まさか、ハハじゃないよな。それだと、お笑いだ。空に字が浮かんだのは、ステージがクリアされた証明だろうが、さっきも、今も、何もしていないぞ。何もしなくても、二人の関係を喧嘩別れさせることができるのが、大悪魔様の悪魔たるゆえんなのか」 再び、空に浮かんだまま頬杖をつく見習い。その眼下では、 「見ろ。お前が余計なことを言うから、客が逃げたじゃないか。吉田」 「心配をしないでも、お前の顔を見たときから、客は逃げているよ。山田」 「何だ、その言い草は。吉田」 「何度でも言ってやる。あんたのその不機嫌そうな顔が客を逃がすんだ。山田」 地上でのささやかないさかいを後にして、次の獲物を探そうと見習い悪魔は空を飛んだ。 第七章 天使へのステップⅢ 俺は、背中の羽をはばたかせながら、公園の一番高い所に上がった。この公園は、昔、天守閣があったが、火事で焼けてしまったそうだ。今は、再建に向けて、様々な調査や資金集めが行われているらしい。もちろん、この話は、観光ガイドからの受け売りだが。 昔、天守閣が建っていたところはお堂が建立されていたが、天守閣の再建の調査や、崩れ出した石垣の修復のために、お堂は取り壊されて、今は、なにもない。十メートル四方の空き地となっている。 俺は、そこに舞い降りると、世は満足じゃ、の気持で、下界を見た。誰か、困っている人はいないか、仲たがいをしている人はいないかを探す。本当は、俺が一番、困っているのだ。本当は天使になりたくて、俺はこうしているわけじゃない。大神様が怖くて、頭の上のわっかが頭を締め付けて痛いから、やっているだけだ。今更、神様になって、わっかが、金メッキから、本物の金メダルになったところで、嬉しいわけじゃない。 だけど、やっぱり、なれるものなら、神様になってみたい気もする。誰でも、新たな位置に立つことで、大物になることができるのだ。役職が、職責が、その人をつくるのだ。これまで数々の多大なる業績を成し遂げた人は全てそうだ。うーん、アンビバレンツ。 そう思いながら、公園を一望すると、保育所の園児たちが、桜の馬場と言われる広場に集まっていた。名前のとおり、桜の木が広場の周囲に植えられている。花は既に散り、新緑の葉が、子どもの成長に負けまいと背伸びをしている。 今日は、遠足か?仲良くさせるのは、別に、大人だけでなく、子供でもいいだろう。あんまり遠くに行くのは面倒だから、この際、近場ですまそう。それに、子どもの方が、喧嘩をしやすいし、仲好くもなりやすい。安易な方法だが、このノートの力をいろんな人の試してみることも大切だろう、と自分で勝手に納得した。 早速、広場に舞い降りた。子どもたちは、先生からいくつかの注意点をうけると、仲のいい子同士が二人から三人のグループになって、芝生に座り、弁当を食べ始めている。俺は、松の木の下の日陰に座っている二人の女の子に目をつけた。 「こんにちは」 俺は、最大限の笑みを浮かべ、できるだけやさしく話しかけた。二人は、お互いの顔を見合ったまま、顔を下に向けた。恥ずかしいのか。俺は、もう一度、犬の頭を撫でるような声で、または、猫のあごの下を撫でるような声で、 「こんにちは」と、声を掛けた。だけど返事がない。もう一度、試してみる。 「こんにちは」 女の子たちは、食べていたお弁当を持ったまま、急に立ち上がると、俺の前から立ち去った。そう、逃げたのだ。向こうの方で、しゃべっている声が聞こえてきた。 「だーれ、あのひと」 「知らない」 「知らない人と話なんかできないよね」 「ねーえ」 こまっしゃくれたガキども、いや、お子様たちだ。東の空を見上げる。まだ、LとOの文字はくっきりと見える。その横をジェット機が横切った。一瞬、OがQに変わる。 「何しやがんだあ、俺の大事なOに。この腐れジェットが」 我を忘れて大声を上げてしまった。向こうの方で女の子たちがこちらを見て笑っている。知らない人とは話をできないけれど、知らない人は笑えるのか。 気分を害した俺は、再び、空に舞い上がった。やはり、別の場所で探そう。立て続けにうまくいったものだから、つい調子に乗って、近場で何とかしようとした俺が、あかさたな、じゃなく、浅薄だった。苦労は、もうひとつ重ねてこそ、十労になる。なんのこっちゃ。 だけど、空から見る景色はすばらしい。目の前の青い海。近くには島々が見える。行き交うフェリーや連絡船。一幅の絵画だ。いあや。一服するどころか、つい、腰を落ち着けて、お茶を十杯も飲み過ぎ、満腹になりそうだ。 港には海浜公園が広がり、ベンチや東屋が設置されている。そこにいるのは、誰だ。そう、次の獲物を見つけたぞ。ベンチに横たわるホームレス、君たちだ。君と言っても、潮風に吹きさらして、赤茶けた顔は七十歳過ぎに見える。不幸を全てしょいこんで、あちこちのゴミ箱に空き缶を投げ込んでいる彼らに愛の手を。俺は、直滑降で向かった。 「やあ。こんにちは」 東屋には、ベンチに横たわっている男と、反対側に寝そべっている男が二人いた。あきらかに、仲がよさそうには見えない。これはチャンスだ。再度、あいさつの声を掛ける。 「こんちには」 わざと言葉の順番を間違えて、笑いを取ろうとしたが、相手からのリアクションはない。やはり、この二人も、知らない人とは話せないのか。教育の力はすごい。半世紀近くたっても、脳に刻み込まれているのか、小学校の時の教えを忠実に、着実に、見事に、頑なに、どうでもいいぐらいに、守ろうとしている。恐れ入りの、神様の衣だ。なんのこっちゃ。 俺に近い方の男が薄眼を開けた。よっぽど眠いのか、それとも、体はやせこけているのに瞼だけが肥満なのか。 「やあ」 おっ、返事をしたぞ。生きている。生きている。生きていることはいいことだ。 「何か、喰わしてくれ」 男が返事した。 「俺にも、くれ」 もう一人の反対側に寝そべっている男も続いた。俺は、ポケットをまさぐった。あるのは、鯛の餌。鯛の餌と言っても、食パンの耳だ。何かに役に立つんじゃないかと、さっきの公園で落ちていたのを拾っていたのだった。 「どうぞ」 俺は、ベンチで寝傍っている男と、東屋の柱にもたれかかっつている男に一つずつ手渡した。 「あ、ありがとう」 「ご、ごぜえますだ」 いまどき、こんな返事する奴はいない。いつの時代の言葉なのか。それに答え方も、二人で一人だ。と言うことは、実は、二人は仲がいいのか。俺が妄想している間に、二人は鯉の餌のパンの耳を食べつくした。 「もう」 「ないのか」 まだ、力のない声だが、先ほどよりは、言葉がはっきりと聞こえる。俺は、今度は、左のポケットをまさぐった。ポケットを探せば何かが出てくる。種も仕掛けもある当り前のポケットだ。おおおっ、あっつた。飴玉がちょうど二個。先ほど駅前にいたときに、パンフレットの中に入っていたものだ。それを二人に手渡した。 「あ、ありがとう」 「ご、ごぜえますだ」 二人は、飴玉を口に投げ込んだ。急に元気になった。糖分の力はすごい。目に見えて、効果を発揮する。人間は、意思じゃなくて、食い物のエネルギーで生きている存在なんだとあらためて実感する。そして、俺たち神様は、幸せを掴みたいという人間の意志のエネルギーで存在している。 二人は寝転がったままから、ゆっくりと体を起こすとベンチに腰を掛けた。寝てばかりにいると余計に疲れる、と、病院で入院している患者から聞いたことがある。人間は適度に動かないとダメな動物なんだ。俺たち神様も、人間たちの幸せのために、こうして適度に動き回っているのだ。 「ふあわああ。よかった」 「ふあわああ。生き延びた」 だけど、二人は一緒に座ることなく、背中合わせで、反対側を向いている。一方が海を見て、もう一方が市街地のビルを見ている。やはり、そうだ。俺の直観は当たった。二人は、仲が悪い。間違いない。俺の獲物だ。そう、確信した。 「二人は、友だちですか?」 あえて尋ねた。だが、返事はない。眼も、耳も、口も、鼻も閉ざしたままだ。俺は、更に確信を深めた。こいつらを何とか仲良くさせてやる。何だか、意地になった。別に、神様になれなくてもいい。この腑抜けた奴らを俺の意のままに動かしてやる。 「まだ、お腹は空いていますか?」 「はい」「はい」 自分の都合のいい時だけ、返事が重なる。俺は、ポケットをもう一度、まさぐった。何もない。あるのは、先ほどのパンの耳のかけらぐらいだ。これじゃあ、戦力にならない。 「ちょっと待っていてください。すぐに、何か、美味しい物を持ってきますから」 「お願えします」「お願えします」 低音と高音のハーモニーだ。絶対にいける。Vはもらったぞ。勝利のビクトリーだ。神様になるのは、もうすぐだ。俺は、秘かに右手の指でVサインをする。 あれっ。さっき、俺は、神様になるなんてどうでもいいと言ったけれど、実際に、眼の前の宝物に手が届く距離に近づくと、やはり、賞状やメダルが欲しいものなのだ。所詮、俺もただの見習いかと思ったけれど、いや、欲望こそ、向上心こそ、生きる価値を見出すものなんだと、胸を張った。ただし、胸を張る前に、財布のひもを緩めないといけない。 俺は、近くのコンビニに飛び込んだ。コンビニはレジが二つあった、従業員は二人。一人はレジの前に立ち、もう一人は棚のお菓子を並べ替え、それが終わると、冷蔵庫の中のペットボトルを詰め替えしている。よく見る光景だ。 俺は弁当コーナーに進んだ。棚には、梅、シャケ、コンブなどのおにぎりや、ハム、卵、チーズなどのサンドイッチ、また、とんかつ定食、やきそば定食、日替わり弁当などの喰い物が豊富に並べられている。 うーん、目移りする。だが、問題は値段だ。金がない。神様の見習いでは、まともな給料が入らない。大神様からもらうお金は、お小遣い程度だ。徒弟制度は厳しい。ふくらみのない財布を取り出した。人間のお金にして、千円余り。あのホームレスたちに弁当を買う余裕はない。 だが、なんでも先行投資が必要だ。眼先の金をけちって、鯛をつる予定が、めだかじゃ話にならない。へたをすれば、神父じゃなくて、ぼうずだ。俺は、すぐ近くに見えるシンボルタワーから飛び降りるつもりで、(俺が飛び降りても白い衣があるから、命には別条はない。この点、安全性は確認している。抜け目がないと言ってくれ。もちろん、人間の願望から生まれた神様が死ぬことは、改宗しない限りは絶対にない)金を出すことにした。 俺が買うことにしたのは四百円のシャケ弁当だ。ごはんと梅干、シャケにわずかばかりの千じゃなく、一万ぐらいに細く切り刻まれたキャベツに、あまりの小ささで、申し訳なさそうに、赤い顔と青い顔を見せているミニトマト。おおおお、きんぴらごぼうが付いているぞ。しけた弁当だが、あのホームレスたちにとっては、きっと豪華な食事だろう。二つで八百円。残金は二百円。俺にとっては厳しい。 だけど、神様はもうすぐ手に届く場所にある。このチャンスを逃すわけにはいかない。未来には、豊かな生活が待っているはずだ。俺は、意を決し、レジの前に立った。大学生風の男が弁当を預かった。 「ありがとうございます。このお弁当は温めましょうか?」 「そのままでいいです」 今日、何十回目かの挨拶にも関わらず、元気のいい返事。俺はこの若者に好感を持った。 「八百円になります」 若者がピッと光線をあてると、ガシャンとレジが開いた。若者は弁当をレジ袋に入れようとした。その時、何げなくシールに眼をやった。若者の顔は笑顔から一秒も立たないうちに怒りの顔に変わった。よほど気に障ることがあったようだ。 「少しお待ちください」 そう言うなり、若者はシャケ弁当を持って、商品棚を整理している同僚(多分、同じ年齢ぐらいだろう)に、足早に近づいた。そして、眉をしかめ、マシンガンのように唇を動かしながら、同僚の男を怒鳴りつけている。何があったんだろ?俺は、少し気になったが、早く俺の獲物の所へ行きたい一心で、心は上の空だ。早くしないと、あの二人はどこか別々の場所に行ってしまうだろう。握り締め続けたせいか、俺のあせりの汗のせいか、千円札がぺこりとお辞儀をした。だが、レジ係りの男は、棚を整理している男に向って、怒鳴り続けている。 俺は少し気になった。二人の会話を聞いてみたいと思った。ひょっとしたら、俺の新たな獲物なのかもしれない。伸びろ耳。神様の体は自由自在に動く。何にでもなる器官なのだ。例えば、ダンボの耳ように大きくなって、空を飛ぶこともできるし、キリンの首のように長く伸びて、人の話の輪の中に入ることもできる。どうだ、便利だろう。俺は、誰に自慢しているんだ。早速、取り合えず、聞き耳だけを伸ばした。 「お前、一体、何度、言ったらわかるんだ」 「何のこと?」 「この弁当を見ろ。賞味期限まで、後一時間しかないじゃいか。オーナーに何度も言われただろう?弁当は新鮮さが一番だって。このまま売ったんじゃ、この店の信用が失われるだろう。商品を片付けるか、値段を訂正して下げるかどちらかだ」 「いいじゃん。賞味期限を見ない客が馬鹿なんだから」 「馬鹿はお前だ。だから、いつまでたっても、オーナーから信用がなく、レジに立てないんだ」 「割引シールを貼らなかったぐらいで、そこまで言うか」 「俺は、オーナーからこの店を任されているんだ。俺の言う通りしないんだったら、この店をやめてもらうぞ」 「ああ、わかりました。店長どの」 「なんだ、その言い草は。オーナーには、俺から報告しておくからな」 会話が終わった。俺は、聞き耳を急いで引っ込めた。あまりにも勢いよく引っ込めたので、耳がぼよよん、ぼよよんと何回もトランポリン状態となった。こんな姿を人間に見られたら、俺が神様だと見破られてしまう。慌てて、両耳を押さえた。まさに、叫ばないムンクの姿だ。 レジ係りの若者が意気揚々と戻って来た。もう一人の商品係の若者は、何もなかったかのように、ただし、レジの方にはそっぽを向いて、新しい商品を奥側に、古い商品を手前側に移すなど、入れ替えをしている。 「大変、お待たせしました。あれ、お客様、どうかしたんですか?耳が痛いんですか?」 さすが、賞味期限の時間をチェックする男だ。俺の様子が変なことに気がついたらしい。俺はすぐさま返答する。こういう時は、早めがいい。 「いやあ。あまりにもお腹がすき過ぎて、耳からエネルギーが漏れるのを防いでいるんですよ」 我ながら洒落た答えだ。 「そうですか。それで、同じお弁当を二つも買うんですね。大変お待たせしてすいません。お客様。実は、このお弁当は賞味期限まで後一時間です。本来ならば、割引きにするか、商品を取り除くかのどちらかです。私どもの商品整理担当者のチェックミスです。大変ご迷惑をおかけしました。もし、よろしければ、他のお弁当に変えていただくか、もしくは、このお弁当でよろしければ、一個に付き五十円の値引きをいたします」 何と、親切な店員だ。確かに、弁当に張られたシールを見ると、賞味期限まで後一時間だ。それを確認しなかったのは、こちらのせいだ。もちろん、自分が食べる弁当ならば、事細かくチェックをしたに違いない。だけど、他人にくれてやる弁当だ。早く買わなければ、と気がせいたため、賞味期限なんか気にしていなかったし、目もくれていなかった。 俺は店員の親切に感謝した。他の弁当に変える気はない。少しでも値段の安い弁当がいいのに決まっている。お金は自腹で切るにも関わらず、弁当は他腹に入るのだから。 「この弁当でいいですよ」 「ありがとうございます。大変、ご迷惑をおかけしました。それでは、値段を訂正させていただいて、合計で七百円になります」 笑顔がこぼれている店員。マニュアル通りの顔だろうが、見ている者としては、好意感はあっても嫌悪感はない。俺は、一人では立っていられない、湿度百パーセントに近いふにゃふにゃの千円札を出した。 「千円をお預かりします。お釣りは、三百円です。お確かめください」 完璧だ。何も言うことはない。だが、完璧すぎるがゆえに、俺は気になった。レジの男と棚に商品を詰め替えしている男とは、明らかに不仲に見える。つまり、俺にとってチャンスなのだ。レジの男の名札を見た。「岡」だ。姓だけでは、ラブ・ノートに記載しても効果はないと聞いている。 日本人ベストテンの姓には入っていないものの、日本全国の「岡」さんだけで、何千人、何万人、ひょっとしたら、何十万人もいるだろう。いくら大神様の力でも、何十万もの人にまで、力を及ばすことは難しいのだろう。やはり、ここはフルネームが欲しい。俺は、相手に疑問を抱かれないように尋ねた。 「岡さん。今回は、親切な対応ありがとうございます。私の方からも、オーナーに礼を言いたいので、岡さんの下の名前も教えてもらえませんか」 どうだ、これなら、不審がられずに済むはずだ。 「そんな。大げさな。私としては、ごく当たり前のことをしただけですよ。でも、お客様がどうしてもと言うのなら、申し上げます。いかなる台風や嵐にも毅然として直立している木が立っている岡の「岡」で、真実とは何か、常に自問自答しながら、生きている誠の心を持った「誠」です。そうです。「岡誠」です」 お前は、講釈たれか。最初から、自分の名前を言いたかっただけじゃないのか。とりあえず、レジの兄ちゃんの名前は聞いた。後は、棚卸をしているアンちゃんのフルネームだ。 「それじゃあ、岡誠さん。あえて、フルネームで呼ばせていただきますが、あの商品係の方の名前は、誰ですか?」 「ああ、あいつですか。語るに足りない名前ですよ。お客様がどうしてもと言うならば、言いますけど。でも、今日のことは、オーナーには内緒にしてあげてください。あいつも可哀そうな奴なんです」 余裕のよっちゃん、の誠ちゃんだ。改めて、真実一路の「岡誠」を見つめる。 「では、申し上げます。山賊がうようよしている「山」に、本当のことなんかこれぽっちも言わない「本」に、生まれてから親孝行なんてしたことがなく、親を泣かすような不孝ばかりを続けてきた「孝」、合わせてもばらばらになってしまいそうな「山本孝」です。ホント、名は体を表すとは、このことですね」 さっきのフリーペーパーの女たちも、同じようなことを言っていたけれど、よくもまあ、これだけ他人の悪口が言えるものだと感心する。こんなコンビがいるコンビニなんか、二度と来るもんか。俺は腹の中では毒づきながらも、その毒が顔にまで回らないうちに、レジ係りの男に礼を言った。 「ありがとうございます。彼は、「山本孝」さん、ですね」 「ええ、そうです。山賊がうようよしている「山」に、本当のことなんか・・・」 同じフレーズは二度と聞きたくない。ホームレスも腹をすかして待っていることだろう。それこそ、腹をすかし過ぎて、東屋からレスになってしまう。だから、早々に仕事を終えてしまわないといけない。俺はポケットからノートを取り出すと、「岡誠」と「山本孝」の名前を書いた。 「本当に、いいんですよ。僕のことはオーナーに話さなくても。でも、失礼があったことは、どんどんと申し出てください。それが、このお店のお客様に対するサービスの向上につながるんですから」 新撰組の第一隊長のような顔をして、岡誠が立っている。その傍らにいる野良犬のような山本孝を余裕の表情で見下している。俺は、二人の顔を交互に眺めた。俺にとっては、二人ともに鴨とネギにしか見えない。どちらが鴨であろうが、ネギであろうが、どちらでもいいことだ。天使への道が更に一段階進むチャンスなのだ。 さあ、二人の名前を書いたぞ。ラブ・ノートの化学変化は起こるのか?もう一度、二人の姿を見た。岡の方は、もう俺の存在なんか忘れたかのように、次から次へと訪れる客に向かって、仮面笑いを続けている。山本の方は、パン棚の一番下で、かごに古い商品を入れ、新しい商品を置いている。状況は何ら変わらない。この二人は、あまりにも仲が悪過ぎて、ラブ・ノートの効果も期待できないのか。俺は残念に思いながらも、眼の前の獲物から、次の、ベンチに座っているはずの獲物の方に関心を移した。 「ありがとうございました」 と一言、いかなる台風や嵐にも毅然として直立している木が立っている、エトセトラの岡 誠に礼を言うと、袋に入った一個五十円引きの弁当が二個入ったレジ袋を指にひっかけて、店のドアを押した。 急がないと、あの二人が、ホームレスどころか、東屋レスになっているかもしれない。店から見える青空。ビルと歩道橋とホテルに囲まれた、三角形の空だ。その一部に、白い雲が見えた。方角は東。何かしらの文字のようだ。まさか。俺は、道路沿い窓ガラスからコンビニの中を覗いた。さっきまで、しゃべることのなかったあの二人、岡と山本、地形的によく似ている二人が、同じレジの中に入って、客の商品を袋に入れる係とお金を清算する係に役割分担し、仲良く談笑しながら仕事をしているではないか。 やったあ。俺は、ビルの陰から急いで、港の公園に向かった。あそこなら、何にも邪魔されずに目いっぱい空を見上げることができる。急げ、急げ。振り向いたら、空に、俺の期待する「V」の字が出ているはずだ。だけど、どうせならば、完璧な形で空を仰ぎたい。 おかずがとまどいながら右往左往している弁当を片手にダッシュをかます。もういいだろう。昔、子供の頃、お正月に近所の空き地で凧揚げをした。その時、父親に凧を持ってもらい、俺は後ろを振り向かずに、糸を持って走った。後ろは気にせずに、とにかく思い切り走った。たるんでいた糸が引っ張られる。それまで、何の緊張感もなかった糸にある抵抗を感じた。人生で感じた初めての抵抗だった。それでも、俺は走り続けた。 「それ」 父の声がした。その声を聞いて、俺は更にスピードを上げて走った。まだ、振り返らない。後ろを振り向かなくても、糸が上に引っ張られているのがわかった。凧が上がっているのだ。大げさに言えば、人生で、初めて自分が成し遂げた業績なのだ。 「もう、いいだろう」 父の声が、再び、聞こえた。それでも、俺は。スピードは落としながらも、走ることはやめなかった。走りながら。左肩越しに空を振り返った。見えた。俺の凧だ。俺の凧が空高く舞い上がっている。ようやく、俺は走ることを止めた。立ち止って、大空に正々堂々と浮かんでいる凧を見つめた。その下には、父が、神様の父が、笑って立っていた。 いかん、いかん。何の感傷に浸っているんだ。俺は、つまるところ、空に浮かぶ「V」の字を見る気持が、子供の頃の凧上げの時の感動と同じだということを説明したいだけなのだ。誰に?俺に。それだけ、俺は、自分を誉めてやりたいわけだ。見た。確認した。はっきりとこの二つの眼で。「V」の字だ。 信じられないのならば、ひとつの眼を閉じればいい。右目を閉じる。左目で見えるのも、「V」の字だ。左目を閉じる。一瞬、眼の前が真っ暗だ。「V」の字が消えた。だけど、俺は慌てない。幽かだけど、頭の中に「V」の字の残像がある。消えないうちに、右目を開けた。やはり、空には「V」の字が見えた。安心して、左目を開けた。両方の眼で、「V」の字が確認できた。 片目だけで見た時よりも、奥行きのある「V」の字だ。俺は空に向かって指をさし出した。「V」の字だ。空に浮かぶ「V」の字と俺の指の「V」の字。二つ合わせて、ダブルV。VとVを並べれば、Wだ。Wの奇跡。Wの真実。俺は、空高く浮かんだ雲への新たな見方の発見に有頂天になり、二人のホームレスのことは忘れ去っていた。 第八章 悪魔へのサードステージ 見習い悪魔は思う。幸運なんて、探すんじゃなくて、ほっといても向こうからやってくるものなんだろう。空からの眺めは最高だった。地上の人間たちのいざこざに関わるよりも、こうして雲のように、空に漂っている方がよい。 お城の中の公園では、黄色い帽子を着た子どもたちがはしゃいでいる様子が見えた。遠足か。でも前面に、あの子供たちだって、私が行こうが行くまいが、仲の良いのは一瞬で、直ぐに、自我を全面に出して、自己主張を繰り出して、喧嘩別れをするか、そのうちに、十年もたてば、お互いに互いの存在を忘れてしまうのだ。 それなら、私の存在価値は何なのか?ほっておいても、喧嘩別れする人間どもに、悪魔がわざわざ近づくこともないじゃないか。空からでも、椅子の上からでも、高みの見物をしていれば、自然に、そう自然に、どんなに仲のよい同士でも、離れ離れになるのだ。 ある意味では、私が何もしない方が、上手くいくのかも知れない。そうすれば、私は、見習いから、正式な悪魔になれる。果報は寝て待て、か?じゃあ、果報って何? 気持ちを切り替えた見習い悪魔は、空を飛んで、お城からの近くの海浜公園に移動した。公園には、休憩所であるいくつかの東屋が建っていた。大悪魔様の命令はほっておいて、あそこで昼寝をしようかと思い、側まで近づいた。 港では、フェリーを始め、旅客船などが、入れ替わり立ち替わり発着している。その光景を眺めているだけでも、時間がつぶれる。船は、眼の前に漂う島や対岸の陸地へと向かう。乗っている人たちは急いでいるのだろうが、この風景は止まっているかのように、見習いには見える。それよりも、喉が渇いた。東屋に行く前に、お茶でも買うか。見習いは、すぐそばのコンビニの前に降り立った。ざざざざざ。広がった服の裾を畳む。ドアを押した。 「いらっしゃいませ」 ハモった声。店員二人がこちらを見た。満面の笑顔だ。続いて出た言葉は、 「バットマンだ」 声がした方を見た見習い。見習いは、その掛け声に合わせて、余裕しゃくしゃくで、手を広げ、親指を突き出した。だけど、内心では、 「誰がバットマンだ。俺の方がもっとかっこいいはずだ」と思った。だけど、持ち前の気のよさから、つい、相手にあわせてしまう見習い悪魔。これだから、いつまでも見習いのままなんだ、と気を落とす。そんなことはどうでもいい。喉が渇いているんだ。見習いは。店内を物色した。 「何をお探しですか?」 バットマン風の客に気を魅かれたのか、店員が寄って来た。うっとおしいなあと思いながらも、つい、返事をする見習い。 「お茶が欲しいんだけど・・・」 「それなら、これはどうです。このコンビニ独自の新製品で、値段も安くなっていますよ」 バットマン、いや、見習い悪魔は、店員がショーケースから取り出したペットボトルを見た。キャップには、バットマンのフィギュアがついている。ちょうど、バットマンが羽根をたたみ、新製品のお茶を飲んでいる姿だ。芸が細かい。バットマンのお茶なんて聞いたことがないけれど、この細かい細工には感心した。手を伸ばし、この商品を購入しようと決めたときだ。 「ちょっと、それ、失礼じゃないか、山本君」の声がした。見習いと山本と呼ばれた店員は、バットマン茶を手に持ったまま、レジの方を振り向いた。声の先には、もう一人の店員が立っていた。 「いくら、お客さんがバットマン風だからと言って、好きかどうかもわからないし、それにとてもじゃないけれどバットマンのかっこうが似会っていないお客さんに、バットマン茶をすすめるなんて」 体が、顔が、お茶を持つ手が固まる二人。お前の方がよっぽど失礼じゃないのか。私だって、バットマンなんか好きじゃない。好きでもないバットマンなのに、勝手にバットマンのファンだと決めつけられて、しかも、この姿が似会っていないだと。私は悪魔だ。いや、見習い悪魔だ。勝手にバットマンじゃない。ラララララララララじゃない。大悪魔様ならまだしも、人間ごときに自分を評価されたくない。この時ばかりは、普段の神様の気持ちじゃなくて、悪魔の気持ちに切り替わって、怒りの気持ちを顔に出した。その様子を見てか、山本と呼ばれた店員は、 「岡さん。それは、お客様に対してかえって失礼ですよ。似会っていようがいまいが、服を選ぶのはお客さんの自由ですよ」 一瞬、肯きかけた見習いだが、山本の言い方では、自分の格好が似会っていないことになる。そっちの方が失礼だ。お前たち、人間に何がわかると、更に、悪魔の心に火がついて、憤慨した。 「いや。違うぞ、山本。お前の言い方の方が失礼だ」 そうだ、そうだ、もっと言え(見習いの心の中) 「いや。岡、お前の方が失礼だ」 そうだ、そうだ、もっともっと言え(見習いの心の中) 「何が失礼だ。上司に向かって何を言うか、山本」 「何が上司だ、岡。オーナーに媚びて、店長になったぐらいで。店長なら、俺でもできるし、もっと上手くやる」 「何が上手くやるだ、山本。やったこともないくせに。お前なんか、もうクビだ、さっさと荷物まとめて、この店から出ていけ」 「ああ、こんな店なんか、いつでもやめてやる、岡。だが、お前になんかやめさせられてたまるか。オーナーに直接話をして、お前こそやめさせてやる」 「ふざけるな、山本」 最初は、高みの見物だった見習いだが、二人の口論がヒートアップするに伴い、何とかなだめようと、声を掛ける。 「あのう?」 だが、頭に血が上って、噴火活動を繰り返している二人には、その声は聞こえない。もう一度、声を掛けた。 「あのう?」 突然、振り向く二人。 「うるさいって、言ってんだろう」 「そうだ、元々、あんたが似合ってもいないくせに、バットマンみたいな服装をするからもめているんだ」 「そうだ。そうだ」 怒りの矛先が見習いに向けられた。悪魔ではなく、鬼の形相の二人。見習いは、相手の勢いに負けて、思わず謝ってしまう。 「すいません」 何で、私があいつらに謝らなければならないんだ、と愚痴を言いながらも、今更ながら、手帳を広げて、二人の名前を書こうとする見習い。なんだっけ。最近、物忘れが酷いなあ。特に、やり場のない怒りで、頭の中が沸騰しているだけに、必要な記憶が浮かび上がってこない。その時、手助けの声が飛んだ。 「だから、お前は、山賊がうようよしている「山」に、本当のことなんかこれっぽっちも言わない「本」、そして、生まれてから親孝行なんてしたことがなく、親を泣かすような不孝ばかりを繰り返してきた「孝」、合わせてもばらばらになってしまいそうな「山本孝」なんだ。ホント、名は体を表すとは、まさにこのことだ」 「お前こそ、ちょっとした風でもすぐに強い方になびく木が立っている「岡」で、自分のことしか考えずに、いつも他人を踏み台にしてやろうという性根の腐った心を持った「誠意のない誠」の「岡誠」のくせしやがって」 「何を。よくも言ったな」 「お前こそ、だ」 「そうか、そうか、「山本孝」に、「岡誠」だった。ありがたい。ありがたい」 見習いは、先ほどは、二人に対して言いようのない怒りを感じたが、反対に、今は感謝の念を持ちながら、手帳に二人の名前を書き記した。これ以上この場所にいたら、自分も無意味な争いに巻き込まれて、巻き沿いを喰ったら大変だと、コンビニからそそくさと出た。 「あっ、しまった。お茶を買うのを忘れていた」 今さら、コンビニには戻れない。仕方がないので、店の外側の自販機に向かう。お金を入れ、ガチャポンの音とともに、ペットボトルが落ちた。膝をかがめ、手を伸ばす。手に取ったペットボトルを持ち上げた瞬間、ビルとビルの隙間から空が見えた。西の方角だ。何かしらのアルファベットの切れ端が見える。 「ついに出たか。三文字目」 見習いは、空の全貌が見える場所まで移動した。 「目指すは、あそこの東屋だ」 大きく上がった野球のフライの白球を追う少年のように、アルファベットがはっきりと見える所まで、顔を後ろに向けて走る。走る。走る。後ろ向きで走る。 「見えた」 その文字は「T」。三文字続ければ、「HAT」。 「ハット?」 とその意味を考える暇もなく、はっと口から驚きの声が出た。見習いの足は、道路の縁石にひっかかり、背中から地面に向って叩きつけられた。手に持っていたペットボトルも同じように地面にぶつかり、見習いの手から離れると、ペットボトルコロリン、すっとんとん、と、どこかに転がっていった。 「私のお茶が・・・」 第九章 神様へのラストステップ 誰かが、俺の足を引っ張る。そう、あのホームレスだ。まだ、いたんだ。だけど、チャンス到来でもある。今、空には、「L、O、V」の三文字が浮かんでいる。残りは、多分、Eだろう。これが揃えば、俺は見習いから卒業できる。晴れて、神様だ。ようやく、初心者マークを外すことができるのだ。 正神様になれば、お小遣いではなく、ちゃんとした給料が毎月出て、年に二回はボーナスがもらえるはずだ。年金だって掛けてもらえる。ひょっとしたら、見習いの弟子だって俺の下にわんさかやって来るかもしれないぞ。これがほんとのEチャンスだ。俺は、笑顔満点で足下を見つめた。 「遅くなって、ごめん。コンビニが込んでいたもんだから・・・」 「あんた、空ばっかり見つめていたよ」 「そうだ、そうだ」  もう一人のホームレスも相槌を打つ。見られていたのか。まだ、まだ、俺も若い、未熟者だ。それに、仲が悪いと思っていた二人だが、以外に、仲が良いみたいだ。二人は、餌を待つペットの犬や猫のように椅子に座って待っている。俺は、空に浮かぶ「E」が欲しくて、二人の前に立つ。コンビニで買った弁当を手渡した。 「ありがとう」「ごぜえますだ」 二人は、礼もそこそこに、弁当の蓋を開けると、がっついて食べ始めた。 「なあ、相棒。この弁当の蓋についている飯粒が美味しいんだよな」 「そう、そう。そうだよ、相棒。まずは、この飯粒をひとつ、ふたつと、はさみにくい割りばしで掴んで、口の中に入れる。少し、おかずの汁のついた味が、また、たまらなく美味しいんだ」 「なんだ、お前。割りばしを使うのか?俺はこの箸を使うぞ」 男が胸ポケットから、既に割られた箸を取り出した。 「おっ、エコ活動家。でも、それも割りばしだろう?」 「割りばしじゃない。既に、割られた箸だ。今、弁当についている箸は、非常用のために保管しておくんだ。だから、以前、使った箸を使うんだ」 「大丈夫か。汚いんじゃないのか」 「大丈夫、中丈夫、小丈夫。醤油やソースおかずの汁を、まずは舌を使って、唾液で洗浄した後、水道水で洗い流し、太陽光線に当てて、殺菌消毒するわけだ。これなら、衛生上問題はない。もちろん、これを永久的に使うわけじゃない。非常用の箸が二本在庫になれば、自然に帰してやるんだ」 「自然に帰す?」 「ああ、土に埋めてやるんだ。土の中のバクテリアが、この箸を分解して、元の土に戻るわけだ。ひょっとしたら、この箸から芽が出て、葉が開き、幹が伸び、枝を広げ、花が咲き、割りばしの実をならすかもしれないぞ。そうなると、今までみたいに、割りばし一本、お願いしますなんて、頼まなくてもよくなる。その割りばしの実を取ればいいわけだ」 「割りばしの木か。そりやあいい。早速、食事が終わったら、この箸を植えてみよう」 「なんだか、生きる目標が湧いてきたぞ」 二人は、たわいもない冗談で盛り上がっている。くだらない話だが、二人の心が通じているのは確かだ。これでは、俺の出る幕がない。折角、大金の七百円をはたいて弁当を買ってきたのに、成果がないのか。仲違していた二人は、このノートを使うことなく、弁当だけで友人になってしまった。あと、一歩のところで、「E」を逃してしまったのか。早くに弁当を渡し過ぎたのか。無念だ。だが、いつまでも残念がっていても仕方がない。この二人がだめならば次の獲物を探さないといけない。時間はない。ぐずぐすとしてはいられない。 俺は、他の獲物を探しに、別の場所に移動した。目指すは、あの港の堤防の先端にある赤灯台だ。ガラスで作られた珍しい灯台で、夜になると、赤く幻想的に点滅するらしい。そこには、暇を持て余した釣り客がいる。きっと、釣り場を巡って、争いがあるだろう。あいつが釣れて、なんで、俺が釣れないんだ、とか。俺が釣れるのは、腕がいいからだ、とか。くそっ、あいつの邪魔をしてやれ、とか。なんだ、こいつ、釣れないのは自分の技術のなさなのに、人のせいにするのか、とかだ。人間同士がいさかいをしている様子を想像するだけでも、ワクワクしてくる。俺の釣り場は、あの灯台だ。赤灯台よ、お前が俺の神様の道標だ。 だが、待てよ。俺は、神様だ。いや、神様の見習いだ。人の幸せを願うべきではないのか。これじゃあ、人が不幸になるのを待っているみたいだぞ。いや、人の不幸があるからこそ、俺たち神様の活躍の場があるんだ。不幸があるからこそ、人は幸せを求めて、神様を生み出し、その神様にすがるわけだ。そうなると、俺たち神様は、人間にとって必要悪なのか、それとも必用善なのか。納得がいくような、いかないような。まあ、いいか。 俺は、さっきまでは赤の他人のふりをしていたのに、弁当にありついた瞬間に、数十年来から知己であるかのようにふるまっているホームレスたちに別れを告げようとした。 だけど、ふと、気になって、ノートを開いた。ノートには、「岡誠」と「山本孝」を書いたページの次に、見知らぬ名前が記載されていた。誰だ、俺のノートに勝手にいたずら書きをしたのは。それもいつ?疑問が浮かぶ。その名前とは、「安藤修一と「玉岡武」という名前であった。誰だ、こいつらは。まさか。俺は、試しに、その名前を呼んでみた。 「安藤修一くん」 返事がない。もう一度、呼んだ。 「安藤修一くん」 「はい」 返事をしたのは、仲良く弁当を食べているホームレスの一人だった。やっぱり、そうだ。 「でも、名前を呼ぶのは、食事をすませてからにしてくれないかな」 「わるい、わるい」 だが、俺は続けて名前を呼んだ。 「玉岡武くん」 安藤と呼ばれた男の横の男が、口をもぐもぐさせながら、箸を持った右手だけを挙げた。眼や鼻や口や体は、眼の前の弁当に集中している。やはり、この二人だ。この字は、俺の筆跡ではない。そして、二人の名前の字も、筆跡が違う。別々の人間の字だ。俺の知らない間に、俺のノートに勝手に自分の名前を書いたんだ。いつだ?そうだ。「V」の字を確認するために、空を見上げていた時だ。 俺は、事実関係を確認しようと、二人を見た。食事をしている安藤と玉岡は仲良く、同じペースで弁当を食べている。食足りて、友の楽しさを知る、だ。再び、空を見上げた。最初に空に浮かんだ「L」の字がかなり薄くなってきている。もう少しで、消えそうだ。時間がない。急がないと、また、最初からのやり直しだ。それは御免こうむりたい。 長年からの友人のようなふるまいをしている、短期的な友人の二人は、米粒ひとつはもちろんのこと、千切りよりも細かな万切りキャベツを一本も残さずに、平らげてしまった。さすがに、舌を使っての弁当箱の掃除だけは、俺がいるせいか憚られるようだった。もう、食事を盗られるかと思って、餌を与えた飼い主にさえ、ウーウーとうなり声を発する犬の様子はなかった。俺は、おもむろに、声を掛けた。 「この字は、安藤さんと玉岡さんが書いたんだよね?」 俺は、できるだけ優しく尋ねた。お腹が満たされた二人は、ぽこっとでた腹を突き出し、もっと大きくなれと、さすっている。何が生まれるんだ、お前たちに。 「ああ、そうだよ。ノートとペンが芝生に落っこちていたんで、拾ったんだ。多分、あんたのだと思って、預かってやったんだ」 安藤が答えた。 「それは、ありがとう。だけど、この名前は何だい?」 「ああ、それは、俺の名前だ。玉岡と言うのは、こいつの名前だよ」 玉岡は、楊枝が十本ぐらい入るような歯の隙間を、楊枝一本で掃除していた手を緩め、手を上げた。 「いやあ、あんたには悪いと思っていたけど、つい、ノートを開いてしまったんだ。そうしたら、他のページに名前が書いてあったので、サイン帳か何かと思って、白紙のページに名前を書いたんだ。何しろ、ホームレスになって、自分の名前なんか、十数何年来、書いたことがなかったからなあ。 何か、こう、急に、自分の名前が書きたくなって、それで、サインしてみると、気持の上で、すっきりしてね。自分が生きているという実感が湧いてきたんだよ。そうしたら、この玉岡が俺の方をうらやましそうに見ていたので、どうだ、お前もサインしてみないかって聞いたら、俺もやってみると言ったから、ノートを渡してやったんだよ」 玉岡が歯と歯の隙間から息をスーハー、スーハーしながら、俺の方を向いている。と、同時に、十数年来磨いてない歯の口臭も、俺の方に向ってきた。俺は顔をそむけた。 「安ちゃんが、何か書いていたから、俺も急に何か書きたくなって、つい、サインしたのさ。悪かったかな?」 安ちゃんか!先ほどまでは、口もきかず、視線も合すことがなかった二人なのに、今は、「ちゃん」付けで呼び合う仲になっている。やはり、このノートの力はすごい。俺が書かなくても、当事者同士、誰が書いてもいいんだ、ということが分かった。これを販売するためには、取り扱い説明書を作る必要があるな。大神様に報告しよう。俺は左手で鼻をつまみながら、右手を振った。 「いやいや、いいんだよ。安ちゃんや玉ちゃんの言うとおり、これはサイン帳だ。サイン帳だから、できるだけ多くの人の名前があった方がいいんだよ。こちらからも礼を言うよ」 「それほどでもないよなー。玉ちゃん」 「そうだよ。安ちゃん」 中年のおっさん同士が見つめ合い、手に手を取り合う姿を目の前で見るのは気持ちがいいものではない。いや、単刀直入に言おう。気持ちが悪い。 「だけど、そのノートにサインしたせいで、急に、自分の名前をあちこちに書きたくなってしまったんだ。だから、ほら」 安ちゃん、いや、俺までもが、この中年コンビと仲良くなる必要はない。安藤が指差した先の東屋の柱、天井、椅子には、「安藤修一」と「玉岡武」の名前が、修学旅行生が観光地でいたずら書きをしたように、至る所に書きなぐられていた。だけど、幸運にも、マジックやボールペンで書かれたものではない。地面の土で書かれている。掃除のおじさんたちが、水を掛けて、ぞうきんがけでもすればきれいに落ちるだろう。 「なんか、自分の名前を書くと、妙に落ち着くんだよな。玉ちゃん」 「そうそう、安ちゃん。自分が生きているって気がするし、大げさに言えば、生きてきた証拠を未来に残せるような気がするよ」 「いいこと言うなあ。玉ちゃん」 「名前を書こうと言いだしたのは、安ちゃんの方だよ。これも、安ちゃんのおかげだよ」 「いやいや、玉ちゃんが俺の考えに同意してくれたから、この事業が広がったんだ。いつの世も、変革者は孤独だから。その孤独を、同時代に置いて、分かちあえる理解者がいることが大事なんだ。俺は、今、最高の気分だよ。玉ちゃん」 「よし、安ちゃん。これから俺たち、名前書きプロジェクトを推進して、ひきこもりや孤独に埋没している人びとを救おうじゃないか」 「いいこと言うね、玉ちゃん。俺たちにも生きがいができたぞ。どこかの学習センターでやっている英会話やヨガなどの、単なる暇つぶし、時間つぶしの生きがいじゃなく、自らの存在価値を賭けた生きる使命なんだ」 さっきまで、のんべんだらりと、ぐうたらな生活をしていたおっさん同士が、急に、眼から大きな星マークを四方八方に飛ばしながら、熱く語り合っている。あんたら二人の夢を壊す気はないけれど、街中にいたずら書きするのはやめてくれ。 おっと、俺は、このおっさんたちの奇妙な行動に眼を奪われていて、肝心なことを忘れていた。俺の使命だ。俺が名前を書かなくても、このラブ・ノートの効力はあるんだ。と、言うことは。俺は、空を見上げた。空には、俺のプロジェクトの集大成が完結しているはずだ。 太陽が昇る東の空には、太字から細字になった「L」、真ん中の口が閉じられている「O」、二本指が引っかき傷になりつつある「V」、そして、できたてほやほやの、はっきりとした「E」の字が浮かび上がっていた。続けて読めば、「LOVE」。ついに、俺はやりとげたんだ。ようやく、見習い神様を脱出できる。明るい未来が待っている。愛だ。愛こそ力だ。愛こそ、人と人との間をつなぐものなのだ。 「空に、何かあるのかい?」 俺が感極まって、空を見上げていたものだから、安ちゃんが尋ねてきた。 「おっ。何か、文字のような雲だなあ」 玉ちゃんも呟いた。 「英語だよ」 「L、O、V、E、ラブか」 「へえ。自然もたまには、洒落たことするもんだねえ」 安ちゃんと玉ちゃんの迷コンビが東の空を見上げる。俺も、もう一度確認するかのように、空を見上げた。背中からの夕日が俺たち三人の影を伸ばした。まるで、青春ドラマのエンディングだ。さあ、俺も、おうち、天に帰ろう。 ノートをポケットにしまい、服の裾をひらひらさせた。足が地面から離れた。その時、「L」の字が消え、「O」の字も消え、「V」の字も消えた。残っている字はは「E」だけだ。それも薄くなりつつある。消えるのは、時間の問題のようだ。俺は、慌てた。これじゃ、元の木あみだ。俺のやったことが全て水の泡だ。原因を探さないと。俺は、もう一度、最初の振り出しの駅前に戻ろうと、飛び立った。 第十章 悪魔へのファイナルステージ 「おっ、ちょうどいい」 そのペットボトルを拾ったのは、東屋のホームレス。いや、正確には、壁はなくても、天井と屋根がある東屋に住んでいる(もちろん、施設管理者(いやに固い表現だ)の許可は得ていない)から、壁レスの男なのだ) 「さっき、弁当を食べてばかりだから、ちょうどお茶が飲みたかったんだ。さっきの仮装行列の男は、弁当を差し入れしてくれたのはありがたかったけれど、お茶までは準備してくれていなかったからなあ。そのあたり、盲腸じゃなく、もうちょっと、気がきけばいいんだけど。爪楊枝は用意してくれていても、詰は甘いんだよ。 あれじゃあ、いつまでたっても、芸能界どころか、下町のスターにもなれやしないさ。せいぜい頑張っても、俺たちホームレス相手に弁当配って、芸を見てもらうのが関の山だろう。まあ、最後は、空を飛んでいくマジックショーを見せてくれたけどな。なあ、相棒」 男は蓋を開けると、ぐび、ぐびと二口、お茶を喉に流し込んだ。 「あっ、私のお茶が」 見習い悪魔は、倒れたまま手を伸ばすが、空を掴むのみ。ただ、黙って、男、それも、ホームレスの男が、自分のお茶を飲むのを見守るだけだ。今さら、ペットボトルのお茶を返してもらったとしても、あんな男と間接キッスになるのは避けたい。飲むなら、全部飲んでしまえ、と心の中で捨て台詞を吐こうと思う間もなく、男はペットボトル半分程度飲み干すと、隣に座っているもう一人の男に手渡した。 「あっ、まさか」 先ほどは、あんなお茶なんかくれてやると思いながらも、返してもらえるんじゃないかと、かすかな、淡い期待を胸に抱いていたが、その気持ちも泡が割れるように消えてしまった。まさか、二人に全部飲まれるなんて。 見習いの口の中は、転んだとき入り込んだ土の味がする。その味覚を消し去るため、あのお茶が必要だったのに。もう一度、今度は、左手を伸ばす見習い。やはり、空しく、虚脱感を掴むのみであった。悲劇のヒーローのように、地面に倒れ込む見習い。その先には、東屋のベンチで、昼食後のお茶を楽しむホームレス(壁レス)の二人がいた。 「あーあ、美味しかった」 雲がゆっくりと流れる。 「安ちゃんよ。ほら、見ろ。俺たちの気持ちを映してか、空に「HAT」と浮かんでいるよ。本当に、ほっとするな」 「ああ、玉ちゃん、確かに、食後の一杯は、気持ちを和やかにさせるなあ。生きていて良かったと思うよ。ただ、玉ちゃんよ。空に浮かんでいる字は「ほっと」じゃなくて、「はっと」じゃなか?満ち足りた時に、自然の美を感じる、「はっと」した瞬間があるということを教えてくれているんだ。ほら、あのバラ園。普段は気がつかないけれど、ちゃんと蕾がある。五月になれば、花が一杯に咲き誇るだろう」 「確かにな。安ちゃん。「はっと」した瞬間に、新たなことに気がつくことはある。だけど、あの空の「HAT」は、そうじゃない。誰か知らないけれど、親切な奴が俺たちに弁当やお茶を買ってくれるという、「ほっと」、つまり、温かい気持ちが誰にでもあるんだということを示しているんだ」 「そりゃ違うな、玉ちゃん。「HAT」では、「ほっと」と呼ばない。やっぱり、「はっと」だ。だけど、玉ちゃんの言うように、優しい気持ちが込められていることは事実だ。昔、俺が小さい頃、シャンプーが苦手で、何日も髪を洗わない日があった。シャンプーをして髪を洗い流す時、お湯が目に沁みこむことが嫌だったんだ。目をつぶっていればいいんだって?その時は、目だけでなく、耳は両手で塞ぐし、口は閉ざし、鼻は呼吸を止めてしまう。まだ、ガキの俺にとって、わずか数秒でも、息を止めることができなかったんだ。 「はい、流しますよ」と言う、ママ、そう恥ずかしい話だが、坊っちゃんの俺は母親のことをママと呼んでいた。今じゃ、ママはクソババアで、坊っちゃんは犬のクソの横で寝るホームレスだ。小さい頃に髪を洗われるとともに、栄えある未来も一緒に流れてしまったようだ。  そんなことはどうでもいい。シャンプーの話だ。つまり、数秒でも息を止められない話だ。俺はつい息をしてしまう。すると、鼻や口から、俺の髪を洗った水が洪水のように流れてきて、俺の口の中だけじゃなく、肺までもが溺れてしまい、俺はそのまま気を失うわけだ。そんな様子を見ていた、俺の親父は、その頃は、パパだ。今は、クソジジイだ。そして、俺は、何度も自分の人生を恨み、クソッと捨て台詞を吐くホームレスだ。 そのクソジジイのパパが、普段は何も言わないけれど、ある日、突然、玄関先で、「たけしくん」と呼んでくれた。俺は、「はーい」と声を出し、仕事から帰って来たパパを迎えにいく。「はーい、たけしくん」になった俺は、玄関の扉の鍵を開ける。ドアが開いた。眼の前に突き出されたスーパーの袋。俺の視線は、袋を掴んだ手から、一の腕、二の腕、三の肩、四の首、そして、最後には、五の顔のパパを見た。笑っている。何だろう?お菓子かな?「ほら、シャンプーハットだ。これで、シャンプーが大好きになるぞ」 俺は、気恥ずかしいような、嬉しいような複雑な気持ちだった。普段、あまり会話のなかったパパだけど、俺のことを気にかけていてくれたんだ。「さあ、早速、使ってみるか」そう言うと、パパは浴室に向かった。俺は、すでにパジャマ姿。お風呂にはもう入っている。だけど、パパの誘いだ。断るわけにはいかない。「わかった」と言うなり、後に続く。 体を流し、湯船に入る。パパと一緒だと、湯船からお湯が溢れる。「ほう、お前も大きくなったなあ。赤ちゃんの頃、お前をお風呂に入れていたけど、お湯が溢れることはなかったのになあ。と、感慨深そうなパパ。そんな小さな時のことなんか、覚えていない俺。 二度目の入浴なので、俺はさっと湯船から上がり、シャンプーの準備をする。スーパーの袋から商品を取り出し、そのまま頭に被った。「おお、なかなか似会っているぞ」パパの絶賛の声。今から思えば、シャンプーハットが似会う人なんて、別に、かっこいいわけじゃない。でも、パパからの一言が、俺の目じゃなくて、俺の心に染みた。俺の存在が認められわけだ。 そう言えば、心に染みたことなんて、あのシャンプーハット事件以来、俺の人生の中でなかったように思う。そのハットが、今、俺の真上の空に浮かんでいるわけだ。こんな偶然な出来事はない。その思い出深い、俺の人生にとって、もっとも大切なハットをホットと呼ぶなんて、いくら親友の安ちゃんでも許せない」 「話が長すぎるんだよ、玉ちゃん。あんたの長台詞で、折角のホットした食事の後の一服が、ハット壊れちまうじゃないか。つまり、ハットということだ」 「ちょっと待て、安藤。いくら親友でも、それは言いすぎじゃないか」 「誰が親友だ、玉岡。今さっき、名前を覚えたぐらいで、親友面するな」 「ああ、俺も、だれがお前のことなんか親友とは思っていないよ。さっさと、この東屋から出ていけ。安藤」 「それは、こっちのセリフだ。ここは、みんなの公園だ。出て行きたければ、自分で出ていけ。玉岡」 「ふん」「ふん」 先程まで、仲良くお弁当を食べ、転がって来たお茶のペットボトルを回し飲みした安藤と玉岡だが、今では、お互いが顔を見合さないように別々の場所に移動した。安藤は、公園が見え、そのずっと先に、島と島をつなぐ橋が見え、その橋の袂に夕日が沈む西側に、玉岡はフェリーなどが出入りする港が見え、赤い太陽が昇る東側のベンチに座った。この様子を芝生に寝っ転がったまま見ていた見習いは、今だと思い、そのままの姿勢で、ポケットから手帳を取り出すと、二人が共に呼んでいた名前を記した。 「安藤と玉岡という名か。下の名前はわからないけれど、まあ、姓だけでもいいか。私は何もしていないけれど、私の買ったペットボトルの効果で喧嘩になったのだから、私が仲違いさせたのと同じことだろう」 そう、見習いは勝手に解釈した。 「これで、任務完了かな」 見習いは、ようやく芝生から立ち上がると、膝や肘、胸に付いた草を払い除け、広げた手帳を持ったまま、空を見上げた。西空には、あの「HAT」の文字が浮かんでいる。まだかな、まだかなと、その文字の横を見つめる見習い。やがて、一機のセスナが飛んできて、横に「E」という飛行機雲の文字を描いた。 「やった、これで、私も見習悪魔を卒業だ。あんまり気は進まなかったけれど、何事も達成すれば、それなりに嬉しいもんだ」 と喜びながらも、何でセスナ機が飛んでいるんだ?あの文字は、セスナ機が書いた文字なのか?この手帳の力じゃないのか?じっと手帳を見る見習い。突然、耳に大悪魔様の声が聞こえた。 「何をびっくりしているんだ」 「あっ、大悪魔様。どちらに」 空を見上げたり、地面に目を遣ったり、周囲を見回す見習い。だけど、大悪魔の姿は見つからない。 「どこを見ても、わしの姿は見えやせんぞ」 「じゃあ、どこに」 「お前の心の中に」 思わず胸を抑える見習い。 「ははははは。相変わらず、素直さが抜けんようじゃなあ。そんなことでは、いつまでたっても見習いのままじゃぞ」 「はい、すいません。でも、このたびの試験なのですが、この手帳に名前を書いたら、仲のよい二人の仲を裂くことができる力があるなんて、本当ですか?」 「ははははは。まだわからんのか、見習い。手帳にそんな力があるわけないだろう。それは、部屋の隅に落ちていた手帳だ」 その頃、街では、人類が生まれて以来の、繁栄や戦争など、愛と憎しみを描いたポリウッドの大作「LOVE&HATE」の映画試写会の宣伝カーが街中を駆け巡っていた。 「本日、午後七時から、サンポート大ホールにて、世紀の名作「LOVE&HATE」の試写会が開催されます、先着二千名様限定です。皆様、是非、お越しください」 それに合わせて、セスナ機が「LOVE&HATE」の煙の文字を空に描くPRをしていた。会場時間まで、三時間前の午後四時にも関わらず、ホリウッドの大作であること、無料であること、暇を持て余していること、映画の内容が明らかにされていないこと、その他、エトセトラ、などなど、で、ホール前から三階までのエスカレーターには、一里の長城ほど続く行列ができていた。 その行列には、あの駅前のフリーペーパー配っていた女性二人、玉藻公園で公園のボランティアガイドの二人、勤務を変わってもらったのか、勤務が終了したのか、コンビニの従業員の二人、そして、東屋の壁レスの二人の姿も見られた。 第十一章 大神様&大悪魔様  ここは、大神様の部屋。 「大神様。折角、「LOVE」の四文字が東の空にかかったのですが。消えてしまいました。残念です。でも、とりあえず、四文字が揃ったのですから、私は神様に昇格するんですよねか?」 無理やり自信あるように振る舞うものの、やっぱり自身がない見習い神様。おそるおそる尋ねた。 「見習いよ。お前は、このノートの力を信じるか?」 「はい。仲良くなった二人の名前を四組書いたら、東の空に、「LOVE」の四文字が浮かびましたから」 「ははははは。お前も素直な奴じゃな。このノートにそんな力はない」 「でも、確かに、空には四文字が浮かびましたけれど・・・・」 「それは、セスナ機から出されたスモークじゃ。下界で、なんかイベントをやるという噂を小耳にはさんだから、お前を試してみただけじゃ」 「はあ、そうですか・・・」 階段を四段まで登ったの、急に梯子を外されたかのように肩を落とす見習い。 「でも、四組を仲良くさせたのは、事実です」 胸を張る見習い。 「だが、直ぐに、喧嘩別れして、元の黙阿弥じゃ」 「はあ、そうですか」 「とにかく、お前には、まだ修行が必要じゃ。その白い服を脱げ」 「ええ、これを脱いだら、神様の世界にいられなくなります」 「そうじゃ。お前は、一度、悪魔の見習いとなれ。そこで、修行を積んで、再び、ここに戻ってこい。大悪魔には、わしの方から話をしておく」 「そ、そんな。悪魔だなんて・・・」 「わしに背くようだったら、神様の世界どころか、悪魔の世界にもいられなくなるぞ。人間界に突き落とされたいのか」 「そ、そ、それだけはご勘弁を」 見習い神様は、白いカーテンのような服を脱ぐと、名残惜しそうに、ゆっくりと畳んだ。 「さあ、行け。見習い。お前が入って来たドアと反対方向のドアを出たら、悪魔の世界じゃ。頑張って、修行の成果を上げて、見事、戻ってくるんじゃぞ。ああ、そうじゃ。悪魔の見習いの服は、後で、届けるからな」 神様への昇格どころか、悪魔の世界行きを告げられた見習い。首から足の爪先までが肩が落ちたぐらいにしょげかえり、「は、はくしょん。寒い、寒い」と呟きながら、大神様の指示した悪魔の世界への入口のドアに入っていった。 「さあ、わしも着替えないといけないな」  大神様も、見習いと同じように、白い大きな服を脱ぐと椅子の下にしまった。そして、今度は、別の服を取りだして被った。 「よし、準備OKじゃ」  その時、先ほど見習い神様が出て行ったドアからノックの音がした。 「入れ」 「はい、大悪魔様」  そこには、見習いの悪魔。 「よくぞ、わしの課題をこなしたな。誉めてやる、見習い」 「いえいえ、大悪魔様。私は何もしていません。人間たちが勝手に仲違しただけです。私は、それで後からノートに名前を書いただけです。もちろん、ノートにそんな力があるとは思いませんでしたけど」 「まあ、それはいい。とにかく、お前は、目標を達成したわけじゃ。それで、見習いから卒業するけれど、やはり、一人前の悪魔になるには、更に、別の修行が必要じゃ」 「別の修行とは?」 「これじゃ」  大悪魔が差し出したのは、先ほど神様の見習いが脱いだ白い服だった。 「これは、神様の服じゃありませんか?」 「そうじゃ。だが、すぐには、神様にはなれんぞ。まずは、見習いじゃ。さあ、これを着て、神様の世界で修業じゃ。大神様には、わしから話をしておく」  悪魔の見習いは、自分が着ていた黒い服を脱ぐと、名残惜しそうに畳んで、その場に置いた。そして、白い服に着替えた。 「大悪魔。大変お世話になりました。修業を積み、また、お目にかかりたいと存じます」 「いやいや、直ぐに会えるわい」 「はっ?」 「いや、お前なら、神様の見習いも直ぐに卒業できるということだ」 「はい。ありがとうございます。それでは、神様の世界で頑張ってきます」  見習い悪魔は、見習い神様として、入って来た方向と反対の神様の世界の入口のドアに入っていった。悪魔の世界の入口からは、「はっ、はっ、はくしょん」と、悪魔の見習いの声が聞こえてきた。 「さあ、これで無事完了じゃ。あいつも、いつまでも、あのままじゃ、可哀そうだな」  大悪魔は、見習い悪魔が脱いだ黒い服を手に取った。
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