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濡れ衣
アイスピックを握ったバーテンダーの鳥飼が、カウンターの中で黙々と丸氷を作っている。
昔からそうなのだが、鳥飼はこちらから話しかければ、とても愛想よく応対してくれる。話もうまく、話題も豊富だ。一方で、こちらがぼーっと物思いに耽っていたいと思っているような時は、いつまでも静かに放っておいてくれる。客の心理状態を掴むのが実にうまい。私がこの店を気に入っているのも、彼のそんな絶妙な客あしらいのおかげで、とても居心地が良いからだ。
今夜も静かな時間が流れ、鳥飼が三個目の丸氷を作り終えた時。
私の背後の入口ドアがばたんと大きな音をたてて開いた。
「いらっしゃいませ、今川様」
鳥飼がドアの方に笑顔を向ける。
一方、その名前を聞いた瞬間、私の顔は一気に渋面を作った。静かに楽しんでいた一人の時間がこれで台無しだ。
「よっ!鳥飼ちゃん」
妙になれなれしい声をあげながら、今川が私の隣の止まり木に無遠慮に腰を下ろした。だが、こちらの方を見向きもしない。勿論、私の方も顔もあげない。お互いに存在しないかのごとく振舞っている。
同じ会社に勤めていながら、若い時からどうしてもこいつとは馬が合わなかった。とにかくこいつのすること為すことが妙に私の神経を苛立たせるのだ。多分、相手の方も私のそんな気持ちに気が付いているのだろう。お互いに殆ど口をきかないし、偶に業務で同席しなければならない時は、お互い最初から喧嘩腰になってしまう。偶に先輩や同僚から「まあ、もう少し大人になれよ」みたいな忠告を受ける事もあったが、無理なものは仕方がない。周囲もとっくにあきらめている。
「何になさいますか?」
「うーん、そうねえ。今日はちょっと嬉しいことが有ったから、いいお酒いっちゃおうかなあ……」
思わせぶりなことを言いながら、鳥飼の顔を嬉しそうに見る。いつもながらわざとらしい野郎だ。
「へえ、何かいいことがあったんですか?」
鳥飼が愛想よく応える。
「うん、実はねえ。今日部長から呼ばれてさあ」
「はあ」
「来月部長は役員に昇格するんだけどねえ……」
「はい」
「その後任にねえ……」
「ええ」
思わせぶりに少しずつ言葉を切りながらゆっくり喋ってやがる。いかにもうざったい。
「この僕がねえ」
「おっ?」
「内定したんだってさあ」
今川があからさまに相好を崩しながら最後の言葉を吐いた。馬鹿じゃないか。自慢話ならさらっとすればいいのに。本当に子供じみた奴だと思う。
「すごいじゃないですか。いよいよ今川部長になられるんですね。それはどうもおめでとうございます」
こんな奴にも鳥飼は愛想よく接する。見てるこちらが申し訳ないくらいだ。
「お祝いにお店から一杯サービスさせて頂きます」
「本当?じゃ、遠慮なく」
礼も言わずに、だらだらと今川が自慢話を垂れ流し始めた。不愉快なこと極まりないが、すぐに帰るのもなんだか追い出されたみたいで癪だから、席を立つ踏ん切りがつかない。
「今川様のおかげで、御社の方を色々ご紹介頂きましたからね。ご贔屓にして下さってる方も何人かいらっしゃいます。そう言えば、平田さんって、お元気ですか。最近お見かけしないんですが」
「え?平田?ああ、彼ねえ。ああ、そう。まあ、彼の最近の動静は良く知らないからなあ。病気なのかな。まあ、元気ならいいんだけどねえ」
つくづくわざとらしい奴だと思う。他人事みたいな顔してすっとぼけていやがる。別に奴との会話には入りたくもなかったのだが、嫌味がわりに言ってやった。
「もう、とっくに死んでるさ」
途端に今川が顔色を変えて、私の方に険しい顔を向けた。その後、周囲に他に誰もいないか確かめるように、神経質にまわりを見回す。その妙にわざとらしい仕草に、鳥飼が声をかけた。
「どうかしましたか?」
「うん、いや……」
何やら考え込んだあと、気分を落ち着けようとするように、水割りを一口飲んだ今川が思い切り声を低めて話し始めた。
「まだ公けにはなっていないから、ここだけの話にしてほしいんだけどね。実は彼が担当していたアカウントで、何年も前から、その……用途のよくわからない支出が散見されていてね。要は横領の疑いがあるんだよ。それも累計で何千万と言う額でね」
「えっ?」
流石に鳥飼が驚いた顔をしている。
「本人に悟られないように慎重に社内調査が進められるうちに、色々と証拠が挙がってきて、疑いがかなり濃厚になってきたところだった。そしていよいよ本人を問い詰めようとしていた矢先、突然彼が失踪してしまったんだよ」
「失踪ですか……」
「うん。どうやって会社の動きを察知したのか。ひょっとして誰かがリークしたのか、そこら辺も謎なんだけれどね。とにかく現時点で彼が会社に出てこなくなり、自宅のマンションにも戻っていないのは確かなので、まずは失踪ということになっている。ただ、これは社内でも一部の人間しか知らないんだが、実は彼の机から書置きみたいなものが発見されているんだ。"ご迷惑をおかけして申し訳ありません“云々の簡単な内容なんだけどね。どうも横領の事実までは認めているように読めるんだが、彼がどこかに逃亡するつもりなのか、あるいはひょっとして死ぬつもりなのか、文章が短か過ぎてはっきりとはわからない。いずれにせよ、不祥事なのは間違いないわけだから、上の連中もこの状況をどうしたものか、頭を抱えているわけだ」
「あの平田さんがですか……とっても真面目そうな方でしたよね」
「ああ。本当に人は見かけによらないってやつだね。それにしても、金に困ってたんなら、なんで同じ部で同期の俺にひとこと相談してくれなかったのか……本当に残念でならないよ」
横で聞いている私は怒りに震えている。とんでもない大嘘だ。
会社の金を横領していたのは今川自身なのだ。
そして奴はその罪を他人に、それも自分の手で殺した人間に擦り付けようとしているのだ。さらには鳥飼という第三者にまでそのような風評を広め始めている。
もう我慢の限界だった。私は奴の耳の側で、思い切り怒鳴ってやった。
「俺を殺して埋めたのはお前じゃないか!!」
今川が口を全開にして大きな悲鳴をあげた。
[了]
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