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第一章
湖はおだやかにその身を横たえていた。
豊かな緑の水は、故郷の都につながっている。湖はいつも世界の中心で、人間はその周りに貼りついているだけ。その点だけは、賑やかな都も、こんな辺境も変わらない。
セリは斜面に足を投げ出して、遠く離れた都の、森のように油井櫓が立ち並ぶ入り江を思い出していた。
頭の上で束ねた髪が夕方の風になびき、黄色い落日が彼女の滑らかな顔を照らす。
すぐ傍らでは、旅をともにしてきた愛馬が、ゆったりと草を食んでいる。その後ろには、邑と邑をつなぐ街道がある。さらにその後ろは、地面がゆるやかにせり上がり、やがて山になる。
都から離れるにつれ、湖面から切り立った崖はなだらかな斜面になり、山の高さも低くなっていった。今、セリの背後の山肌は数日前とは打って変わっておだやかな表情を見せ、稜線の上の空はだいぶ広くなっていた。
この先に邑がある。旅をしてきて、その程度の勘ははたらくようになっていた。
これまで、いくつの邑を通ってきただろうか。それらの邑でセリは、たったひとりの肉親を探していた。
いなくなった弟を探している、と告げると、たいていの者は黙って身を引いた。
都でも邑でも、誰かがいなくなったといえば、湖で行方不明になったことを指す。そのことを「湖に還る」という。人間が湖に還るのは水神様の意志である。そして、人間は水神様に逆らうことはできない。磯で貝やテングサを拾い、湖底から油を汲み上げ、どんなに湖に依存していても、湖は永久に人間のものにはならない。水神様は湖を創造り、今も沖に身を潜め、気まぐれに人間をさらう。きっと世界が終わるまで。
セリは永久煙管をゆったりと吸い、熟れた太陽に向けて薄い煙を吐いた。夕凪の前の最後の風が煙を顔に押し戻し、セリは目を瞑ってそれを避け、ひとりで笑った。
立ち上がってあたりを見回した。今夜はここに天幕を張って野宿をし、明日、邑を訪問しようと考えたのだ。
ちょうど左手のほうに、平らな場所があった。だが、少し平らすぎる。自然の地形ではない。
邑の漁場かもしれないと考えて、セリはその場所へぶらぶらと歩いて行った。
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