第五章

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 あたりはほの白い光に満ちていた。光はどこから発せられているかわからず、霧のように散乱して空間をあいまいに照らしていた。床は硬質な白い岩。  セリはそこに立っていた。  いつからそうしていたのか、わからない。身体は濡れていない。  白い空間に、男がぽつねんと座していた。穏やかな笑みを浮かべて、正面をぼんやりと見ている。 「あなたは」  セリの声で、男ははじめてセリの存在に気づいたようだ。ゆっくりとセリのほうに顔を向けてこう言った。 「わしか。わしのことは貝爺と呼びなさい。呼び名がないと不便だろう」 「貝爺……」 「ここは静かだ。長旅で疲れただろう。ゆっくりしていくといい」 「旅なんてしていないし、疲れてもいません」 「ははは、そうか。わしも若いときは疲れを知らなかった。一日中カタライをしてもな」  貝爺は湯釜から柄杓で熱い湯を掬い、茶碗に注いだ。セリはその手つきをどこかで見たことがあったが、思い出せなかった。  セリは貝爺の向かいに座った。貝爺は、いま湯を注いだばかりの茶碗を、何やらまわりくどい作法に従ってセリに勧めた。セリは茶碗を手にとって、はっとした。普通の土器の感触ではない。寒天のような、湿り気を帯びて手に吸い付くような肌触りである。よく見ると、茶碗は子供の頭ほどの大きさがあり、中に入っているのはいま注いだばかりの熱湯ではなく、湖水のようだった。水の中では、乾燥から戻りつつある茶葉が揺れている。いや、茶葉ではない。湖底に生えている豊かな水草そのものだ。  揺れる水草を見ていると、その肉厚の葉のあいだに、何か小さなものが蠢いているような気がした。  もっとよく見ようと目をこらすと、正面の男が何か言った。  はっとして顔を上げた。男がいま言った言葉のこと、水草の間で蠢いていたもののことは、忘れていた。  茶会を進める男の後ろには、巨大な布絵がかかっていた。さっきまではなかったものだ。巨大すぎて上のほうが見えない。見回すと、同じような布絵が、はるか向こうまでたくさん掛かっている。空間の拡がりは無限かとも思われた。
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