第五章

9/15
前へ
/122ページ
次へ
 セリはふたたび、白い空間にいた。さっきの男が、同じ姿勢で座していた。茶道具はない。布絵は、背後の一枚だけ。  この男……貝爺と名乗った男。ハシとラキの父。邑で唯一の潜人。万能の油井櫓を作った天才技師。 「見てきたか」  セリは直立する自分の身体を感じた。戻ってきた。そう、いまはここに。 「あれは……何? ここはあたしの想像の世界で、本当のあたしは気が狂って看護されているのか」 「そうではない。ここは現実で、わしは意思を持った存在だ。お前が見たのはあまたある可能性のうちのひとつだ」 「……未来が見えたということ?」 「まあ、そういうことだ」 「あたしは……あのとおりになるのか」  氷の手で心臓を鷲掴みにされた気がした。もう、潜ることができないのか。それどころか、喋ることも歩くこともままならない。もっと恐ろしいのは、本当は正気を保っているのに狂人として扱われてしまうことだ。 「だから可能性のひとつだと言っただろう。自分の運命は自分でつかみとれ」 「でも……どうすれば」  セリは泣きたい気持ちになった。こんなに心細かったことはいままで一度もなかった。  貝爺は、やおら立ち上がった。 「来い。世界の秘密を教えてやろう」  セリは、再び湖の中にいた。  上も下もわからない。何も見えない。貝爺はどこに行ったのか。  いや、それどころか、自分の体が見えない!  しかし、セリは不思議と落ち着いていた。先ほど見た「可能性」があまりにも衝撃的だったからというのもあるが、何よりセリにとって湖は落ち着く場所なのだ。
/122ページ

最初のコメントを投稿しよう!

161人が本棚に入れています
本棚に追加