第五章

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「これが湖だ」  ふいに貝爺の声が聞こえた。  セリは興ざめした。何をあたりまえのことを言っているんだ。 「わしらは生活に必要なものすべてを湖に依存している。貝を食べ、テングサから繊維をとりだして衣服をつくり、湖底から湧き出る油から燃料やベークライトを生成し……湖水はそのままで、ほぼ完璧な栄養源たり得る。都合が良すぎるとは思わないか?」  これもあたりまえだ。セリは憮然として答えた。 「わからない……いま言ったことの、どこがおかしいのか」 「水神とは何だと思う?」貝爺は質問を変えた。 「人間が心の拠り所にするために作り出した、架空の存在だ」 「では、稚児とは?」 「湖に棲む生き物だ」 「なぜ人間に似ている?」  セリは苛立った。 「わからない! そんなこと、どうだっていいでしょう」 「ところがそうでもないのだ」  突然、目の前に巨大な物体が出現した。  セリは息をのんだ。 「これは、わしがお宮の下の洞窟の奥で見つけた、水神の死蝋だ」  うずくまった格好で細部はよくわからないが、たしかに人間のような手足と、セリの永久煙管にそっくりな頭を持っていた。 「わしは死蝋を少し削りとり、燃やしてみた。すると油を燃やしたときと同じにおいがした。油は――わしが堀り、邑に絶え間なく供給できるよう守ってきた油は、水神の死骸だった。わしは……水神が生物として存在していたこと、水神の死骸によって我々が生かされていることに衝撃を受けた。そして、潜人のあいだに伝わるうわさを思い出した」 「湖に還った者が戻ってくることがある。しかし彼らは水神の秘密を知ってしまったために、正気を失ってしまっている。……モドリのうわさか」 「そうだ。その秘密こそ、これなのではないか……わしはそれを確かめたくなった。だから、湖に還ることにした」貝爺の声が、急に暗くなった。「わしには自信があった……正気でモドってこられる自信がな。だがわしが還っているあいだに……妻が湖に身を投げた。そのことを知ってわしは心が乱れ、再構成に失敗した」 「再構成?」 「気づいていなかったのか? おまえもわしも、いまは湖の水に溶けているのだ」  セリは急に息苦しさを感じた。 「これが、還るということだ。そして、自らの意思で身体を再構成するのがモドリだ。これこれ、心を乱すでない。周りへの影響を考えろ……」
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