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岸から顔を出して、下の湖面をのぞいた。思わぬ近さで目が合った。垂直の岸壁に刻まれた石段を登ってくる子どもがいたのである。あどけなさは残るが、自分で判断して行動できる年ごろの少年だ。
「うわあっ!」
少年は大げさとも思えるほどの叫びをあげ、一歩後じさった。だが、彼が立っているのは、足をそろえて立つのがやっとの細い石段である。たちまち足を踏みはずして落下した。
彼が両手いっぱいに抱えていた色とりどりのテングサが、宙に散らばった。
セリは素早く地面に伏せて手を伸ばした。だが、崖の途中のくぼみにかろうじてしがみついている少年の手には届かない。
真下の湖面までは約十尋。少年の背丈と、手をかけているくぼみまでの距離を差し引けば八尋ほどだ。少なくとも、落ちて死ぬ高さではない。
馬まで戻れば、荷物の中に綱がある。だが、少年の指はわずかなくぼみにかかっているだけである。いつまでもつか。セリは努めて冷静に呼びかけた。
「今、綱をとりに行く。すぐに戻るが、耐えられなければ崖を蹴ってできるだけ後ろへ跳べ。あたしが飛び込んで助ける。あたしは潜人だ」
後ろへ飛べと言ったのは、真下へ落ちると、水面下の浅いところにある岩に当たって怪我をする恐れがあるからだ。セリは全速力で馬まで駆けていき、綱をとった。
大多数の人間は、湖の水に浸かると恐慌に陥る。腰か胸ぐらいまでなら大丈夫だが、頭まで潜ってしまうことには本能的な恐怖を覚える。セリのように湖の仕事を生業とする潜人になれるのは、生まれつきの素質を持った、ほんの一握りの人間だけなのだ。
戻ってくると、少年はすでに湖に落ちていた。
セリは一呼吸で着物を脱いで潜着姿になり、飛び込みの体勢をとろうとして、ふと動きを止めた。
湖上で両手足をばたばたさせてもがく少年に、泳いで近づく人影がある。潜人か? だが、答えを出すより早くセリの両足は岸を蹴っていた。
セリの飛び込みは正確無比だった。飛び込みの衝撃が溺れる者に影響を及ぼさず、かつ速やかに近づいて救助できると狙い定めた位置に、鋭い刃物のように入水する。
湖面へ顔を出して少年を見ると、傍らにぴったりと寄り添う者がある。さっきまでは誰もいなかったはずだ。
その人は少年の身体の下に入り、正しい救助の姿勢をとって、手近な岸へ向かった。
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