第四章

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 老婆とはいえ、渾身の力をこめた打撃は、シザの潜刀を持つ腕の力を一瞬緩ませた。その機を逃さず、邑長の息子はシザの束縛を振り切って、一直線にラキへ向かった。  わけのわからない叫び声をあげて、息子はラキを斜めに抱え、乱暴に湖へ放り投げた。  息子の叫びが途切れたあとの奇妙な静けさの中で、人々は見た。 遠い湖面から、天に向かって突き立ったものを。  それが、途方もなく大きな両手だと理解するのに、ありえないほど長い時間がかかったように感じた。青黒くぬめり輝く指の一本だけで、油井櫓ほどもあろうか。膜状の水掻きから暗緑色の水がねっとりとしたたり落ち、それぞれの指は、何かを捜し求めるように宙で蠢いている。  そして――  やめてくれ、とシザは胸の内で呟いた。  両手の間にぬっとあらわれた、先の割れた三角形の頭。  鈍い銀色に輝く表面。  何も見ていない――うすら寒い丸い目。  水神だ。生きている、本物の。  大粒の雨が降り出した。  続いて風が吹き出し、たちまち目も開けていられないほどの暴風雨となった。  冷たい雨に打たれ、最初に正気を取り戻したのはレンだった。怒りの雄叫びをあげながら駆け出し、放心状態の邑長の息子に体当たりを喰らわせ、もろともに崖下へ落ちていった。  それを追って、シザも飛び込んだ。 (セリ、頼む)  シザは、すぐ下にいるはずの彼女の顔を思い浮かべた。彼女が待っているとわかっていなければ、とても怪物のいる湖へなど飛び込むことはできなかった。  滝のような雨がたたきつける湖には、荒波がたち始めていた。  少し離れたところで、セリはラキの両手の縛めを解き、浮き袋を着せて水の上に寝かせていた。ラキは顔面蒼白で全身を震わせていたが、一応落ち着いているようだ。  問題はレンのほうだった。  ラキと同じく、潜ることに対して根源的な恐怖を抱く大多数の人間のひとりである邑長の息子にしがみつき、頭を沈めようとしている。もちろん相手は無抵抗だ。
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