第五章

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 それには、浮上しなければ。こんな光も届かない、無間地獄のようなところを漂っているわけにはいかない。  上へ。  光を。  空気を。  声を。  風を。  星々を。  音楽を。  あたたかさを。  ざっ、と水が割れた。   鰓が閉じ、肺に空気が流れ込む。  セリは、あれほど念願だった叫び声を夜の湖面に迸らせる自分の姿を、どこか遠くで見聞きしているような気がした。  自分の身体が波間に浮かんだり、夜の空気を呼吸したり、満天の星を見上げていたりするのはわかる。だが、音も、景色も、感触も、分厚い寒天を通して耳や目や皮膚に伝わってくるようなのだ。セリの本体は、身体の奥深いところに、小さくなって閉じ込められているようだった。  波にまかせて漂っていると、やがて岸が近づいてきた。  岸は平らに整備され、湖面から容易に上がれるように石段が刻んである。  セリは苦労して身体を操り、石段を這いずって昇った。その間、あちこちに身体をぶつけ、皮膚が破れて血が滲み出したようだったが、気にしていられなかった。  やっとのことで上まで到達し、立ち上がろうとしたが、足がぐらついてどうにもならない。すぐに倒れてしまった。倒れるとき、手首の骨が折れたような気がしたが、おぼろげな感覚では定かではなかった。  仕方ないので、そのまま倒れていた。  地面が冷たい、らしい。  ぎゃっと叫ぶ声。走り去る足音。  少しして、こんどは数人の足音と声。  よかった、手助けを、と言おうと思って、セリは声のほうを見上げた。途端にまた悲鳴が上がり、生きてるぞ!と叫ぶ声がして、場があわただしくなった。  身体にすっぽりと敷布をかけられ、手首を掴まれたり、目を広げられたり、口の中を覗かれたりした。  耳元で、怒鳴り声がした。名前は、年齢は、住所は。  セリはそれらの質問に答えようとして、口を開いて喉から空気を押し出した。しかし、出てくるのは、意味不明のうめき声だけだった。  セリは担架に乗せられ、運ばれた。
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