第五章

5/15
前へ
/122ページ
次へ
 頬に触れる、がさついた夜具の感触。ほこりっぽい空気。冷たい夜の沈黙。  目を開けなくてもわかる。いままで、部屋の中で寝ていたのだ。  セリはうすく目を開けた。傍らに誰かがいる。  横たわった自分の顔を、深刻そうに覗き込んでいる。  よく知っている男だった。  名前を呼びたいのに、声にならない。 「セリ、どうした」  男はささやいて、片手でそっとセリの頬に触れた。  はじめて知る感触だった。過酷な仕事のために皮が分厚く、硬くなっているが、大きくて温かい。  頬に当てられた手を握り締めて、セリは子どものようにしゃくり上げた。 「怖い夢をみたのか」  シザが静かに言った。違和感がセリの胸をはげしく揺さぶった。この男はこんな言い方はしない。 「すまない……本当に……。こうなってしまったのはぼくの責任だ。ぼくが一生きみの面倒をみる」  シザは、自由なほうの手でセリの髪をそっと撫でた。セリの違和感はますます大きくなった。「ぼく」だって? おまえはいつも、誰に対しても気取って「私」と言っていたじゃないか。  しかし、それらの感情や思考を、言葉や動作にあらわすことはできなかった。表面上は泣き続けるだけだ。 「湖で行方不明になった者が、数年後に戻ってくることがあるというのは本当のことだ。きみが言ったとおり、何件も報告されている。だが、それを公にできないのは……戻ってきた者が……ことごとく精神に異常をきたしていたからだ」  シザの苦悩に満ちた声は、セリに向けられてはいない。彼は自分に語って、自分をなぐさめているのだ。  抑えようのない、怒りのような感情が湧き上がった。  ちがう! ちがう! ちがう!  あたしは狂ってなんかいない!  出して! あたしをここから出しなさい!  セリの中のセリが、声なき叫びを上げる。  身体が浮上した。錘を捨て、湖面へ向かうときの感じと同じだ。そして一瞬、横たわる自分と、背を丸めて打ちひしがれているシザの姿が見えた。  それだけで、景色は遠ざかった。
/122ページ

最初のコメントを投稿しよう!

161人が本棚に入れています
本棚に追加