ヘルメスが彼を醸すのは

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「どうだねオルリック君、ご満足していただけたかな?」  受話器に向かってオルリックは、概ね快適だが、ただシャワーの出が悪い、と静かに答えた。 「そうかね。それは良くないな。ポルスカ国でも一番と評判のブリストル・パデレフスキ・ホテルも実態はそんなものなのかね。しかし料理と酒は最高だろう? あ、君は酒を飲まないのだったか……うんうん、そうだろうとも。野戦病院帰りの身からすれば美味さも格別なはずだ……」  なおも一方的に話し続ける電話の向こうの声は、いつもと同じく奇妙に弾んでいた。  この「女」はいつもそうだ。オルリックはぼんやりと思った。どこか尊大で、芝居がかった口調でいつも話す。何が面白いのか、それとも単に酒でも飲んでいるのか、いつ聞いてもその声には喜色が滲み出ている。 「それにしても前線では大活躍だったじゃないか。なんだっけ、共産主義者の秘密兵器を……そうそう、魔力戦車だったな。魔力戦車を三両も立て続けに破壊したじゃないか。小さい頃はチビで泣き虫だったオルリック君が、今や立派な祖国の英雄だ。私としても誇らしい限りだ。素晴らしい酒壺だよ、まったく君は」  オルリックは溜息を吐きつつ答えた。アンタが指し示したとおりに動いただけだ、俺の実力ではない。それにアンタはあの時「絶対に大丈夫だ」と確約したのに、結局俺は負傷して半月も野戦病院にいなければならなくなった。  やることにどこか隙があるな、「神」と自称する割には。  彼なりに精一杯の嫌味を込めて言ったつもりだったが、電話の向こうの存在にはまったく堪えてないようだった。 「それでも君は戦果を挙げて、表彰状と勲章をもらったじゃないか。新聞記者共も群がり寄ったじゃないか。ラジオで放送もされたし、看護婦からチヤホヤされたじゃないか。『オルリック将軍は兵卒の苦労を知っている人だ』と称賛されたじゃないか。何より君はちゃんと生きていて、今は一流ホテルで美味い食事と快適な睡眠を楽しみ、そして私と元気に通話している。いったい、神でなければ誰が君にここまでしてやれると思う? 『自称』ではなく、正真正銘の『神』でなければ?」  受話器を首と肩で挟みつつ、タバコに火をつけたオルリックは、軽く一服した後に言った。  なあアンタ。仮に、もし本当にアンタが神であるならば、どうしてただの男である俺に対してそこまでしてくれるんだ。アンタのおかげで、俺は今やポルスカの英雄だ。あの時から始まって今に至るまで、学問もなければ魔力もなく、おまけに信仰心もない、一切の取柄がないこの俺に対してなぜ……  電話の主は答えた。 「君が願い、私が叶える。それが私の使命だからだよ。暇つぶし半分の使命さ。あとはそう、私と同じ名前を持っているからかな。メルクルィとは、やはり良い名前じゃないか。まあこれからもよろしく頼むよ、私の大切な酒壺よ。たっぷりと酒を醸しておくれ。ところで……」  その後も長電話は30分も続いた。終わった時、時刻は18時半を回っていた。おそらく外は真っ暗になっているに違いない。灯火管制のために厚い木の板で塞がれた窓を一瞥した後、オルリックは食堂へ行くために椅子から立ち上がり、部屋を出ることにした。  ドアを開けた時、包帯で巻かれた脇腹が痛んだ。どうせなら、さっきの電話でこの痛みを除いてくれるように頼むべきだったかもしれない。本当にあの女が神ならば、それも容易いことだろう。  こんな時、そっと寄り添ってくれる人がいれば。少しばかりよろめきつつ、彼は廊下を歩いて行った。
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