ヘルメスが彼を醸すのは

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 メルクルィ・オルリックは22年ほど前、ちょうど世紀が改まった頃にこの世に生まれたらしい。「らしい」というのは、彼が生まれた正確な年月日が分からないからだ。  彼は捨て子だった。雪がちらつく寒空の下、ヴィエルコポルスカ県の外れにある孤児院の前に、小さなパン籠に入れられて彼は放置されていた。院長に拾われたのが11月25日で、水星の日だったことからそれにちなんでメルクルィと名付けられた。姓のオルリックは孤児院の創始者からとられた。  凍死せずに拾われたということにすべての幸運を使い果たしてしまったのか、孤児院でのオルリックの生活は悲惨そのものだった。肌が青白く、線が細くて、紫色の唇をした彼は、その外見に違わず生命力が乏しくて、しょっちゅう病気になった。おまけに気が弱くて要領も悪く、他の孤児たちにいつも虐められていて、食事では毎度のようにパンをふんだくられていた。  孤児院の院長は邪悪な人間ではなかったが、あまり善良な人間でもなかった。国からの補助金目当てというだけで孤児院を経営していたわけではないが、しかし孤児たちに充分な教育や躾を与えようとすることもなかった。そんなわけで、オルリックは何も物事を知らないまま大きくなった。  15歳の時に孤児院を半ば追い出される形で後にした彼は、日雇い労働者として糊口を凌ぎつつその日その日を過ごした。愛することも愛されることもない毎日。孤独そのものだったが、彼はその孤独感すらも言葉に表すことができないのだった。  転機となったのは、戦争だった。オルリックが16歳の時にエウロパ世界は未曽有の大戦争に突入した。軍隊に入れば空腹や寒さに悩まされることはない。功績を挙げれば昇進だってするし、除隊後は年金も支給される。そんな売り文句にころっと騙された彼はすぐさま入営し、ポルスカ人の一兵士として、ポルスカ人の支配者であるルーシ人たちの指揮下で戦うことになった。  何も知らないオルリックにとって戦争は刺激的だったが、それ以上に生命の危険に満ちていた。貧弱だった体格は初年兵教育の段階で幾分か改善され、それなりに要領というものも学んでいたから、彼は孤児院の時のように仲間たちから虐められるということはなかったが、より大きな問題だったのは敵の存在だった。  敵のニェミェツ人たちは強かった。機関銃と砲兵、魔術兵と火力魔法で武装した敵軍は、ジャガイモでも潰すかのようにルーシ軍とポルスカ人の部隊を手酷く痛めつけた。オルリックの初陣は、彼の所属する中隊のほぼ半数が戦死するという無惨なものとなった。  オルリックは今でもあの時のことを覚えている。中隊長が号笛を吹き、拳銃を振りかざし、「神のために!」と叫ぶ。直後に一斉に塹壕を飛び出し、銃剣をきらめかせて突撃を始める兵士たち。数分も経たずして敵陣から降り注ぐ猛射。バリウム塩が燃焼する緑色の光のシャワー、火力魔法の蒼い火球の大群。彼の隣を走っていた仲間は銃弾を受けて物も言わずばったりと倒れ、前方を走っている下士官は火球の直撃を受けて瞬時に灰になった。  何も感じず、何も考えず、オルリックは遮二無二前進を続けた。やっと巡ってきた幸運か、彼は傷一つ負わなかった。しかし部隊の突撃は完全に破砕されていた。はじめに誰かが退却だと叫んだ。彼もまた退却した。戦場には仲間の半数が死体として残された。  これとまったく同じような戦いが、その後も延々と続いた。オルリックは何度も敵陣に向かって突撃し、退却し、敵軍の突撃を阻止し、白兵戦をくぐり抜け、連日連夜行われる敵の激しい砲撃をやり過ごした。  戦いを経験するにつれて、オルリックは無数の「神」という言葉を聞いた。信心深いポルスカ人たちは戦場においても、「神のために!」とか「おお神よ、お助け下さい」とか「神よ、俺を家に連れて帰ってくれ」などと口々に叫び、喚いていたが、オルリックは神が兵士たちの願いを聞き届けたところを一度も見たことがなかった。  彼が特に仲良くしていた仲間の一人に、「何事も神様の御心のままに、だ」という言葉が口癖の男がいた。男は年配で、故郷に妻と五人の子どもがいた。「神様にお任せすれば、きっと生きて故郷に帰れるさ。それでまた家族を抱いてやれるさ」 男はいつも朗らかな笑顔を浮かべてそう言っていた。  男はある時の突撃の後、行方不明になった。砲弾か魔法の直撃を浴びて飛び散ったのだろうと言われていたが、数日後、敵の陣地を奪取してから男の死の真相が明らかになった。  男は縛り上げられて、全身を切り刻まれていた。死に顔は苦痛と恐怖と絶望で醜く歪んでいた。将校でもない、ただの一兵卒である男がこのように惨たらしく殺されたのは、なんでもない、単に敵が退屈しのぎとうっぷん晴らしをしたかったからだ。 「これが神様の御心のままに、の結果なのか」 一人の戦友が泣きながら呟いた。「そんな神なら、出会ったらすぐに殺してやる」 オルリックは隣で、その呟きを茫然と聞いていた。  そんなこともあって、オルリックは次第に神を信じなくなった。塹壕内での礼拝の時も居眠りをするようになったし、それまで読めもしないのに後生大事に持っていた聖書も捨ててしまった。それどころか、神に祈る仲間を嘲笑うようになったし、新兵が震えながら聖句を口にしているのを見るや、思いっきり殴りつけるまでになった。  神などこの世に存在しない。信じられるものは何もない。ただ運があるだけ。  別段、その考えはオルリックに特有のものというわけではなかった。戦場を支配していたのは塹壕と鉄条網と機関銃と砲兵だけではなく、無神論的価値観もそうだった。オルリックはやや熱心だったというだけだ。
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