地球最後の日

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 田中が祈祷室から外に出る。その姿を信者たちが見つめる。教会の外には誰もいない。教会の中に皆集まっているようだ。残り時間が5分を切ったのだからもう外で田中の逃亡を見張る必要がないのだろう。後は最後の瞬間を見届けるだけなのだから。  人が大勢いるのに皆押し黙っている。妙なものだ。まるで田中が一人で部屋の中にいる時よりも静かにさえ思われるその静けさがこれから起こる出来事への妙な期待感のようなものを信者たちが感じているのを田中に見て取れた。それは神ペテテロパスに対するものではないことはあきらかだ。神を信じる場所である教会で誰も神を信じないというのは妙なことだが。  田中の表情には迷いのようなものが浮かぶ。そこには普段の自信たっぷりな姿など微塵も無い。信者たちには田中が予言が外れた後にどうすべきかを考えているようにしか見えないだろう。しかし田中は別のことを考えていたのだ。 「少し考えさせてくれ」  祈祷室のドアを出ようとする田中の背中を悪魔がポンと叩く。まるで友人が励ましているかのようなやさしい感触を背中に受けて田中は一瞬うれしい気持ちになった。でもすぐにその感情は引っ込んだ。悪魔が人間を励ますはずなどない。彼らは人間を陥れることしか考えていないはずなのだから。 さっき聞いた悪魔の話を田中がさきほどから何度も反芻している。  この世は田中の予言通りに滅亡を迎える。それは神ペテテロパスによるものだ。そこまでは田中の予言通りだ。しかし神ペテテロパスなど存在しない。存在しないものがどうやって世界を破滅させるのかと問う田中に対して神ペテテロパスになってこの地球を滅ぼすのは田中自身だと悪魔は言った。  人間である自分が神になる? そんなことが出来るのか? もしそんなことが可能だとしたらあの悪魔は神を作り出す力を持っていることになる。悪魔の力とはそんなにも大きなものだったのか?  田中が信者たち一人一人の顔を見回す。かつては教祖である田中を慕っていた彼らの顔には、田中に対する好意がまったく感じられない。それは田中が嘘をついたのだから仕方がないことだ。  でも、もしかしたら謝れば彼らも許してくれるかも知れない。以前は田中が話しかけると彼らはうれしそうな顔をしていたじゃないか。そして田中が販売していた法外な値段の商品を喜んで買っていたではないか。頭を地面にこすりつけて必死に謝れば彼らも命までは取ろうとはしないはずだ。  そうだ。神を信じるような人間は元々人を傷つけるような人間ではないはずだ。たぶん罵声を浴びせ、土下座をしている田中の頭にツバを吐きかけ、頭をホコリまみれの汚れた道路を歩いてきたその靴底で踏みつけるだけできっと許してくれるに違いない。  もしかしたら殴る蹴るの暴行を彼らは田中に加えるかもしれない。それでも腕の一本や二本を折るくらいで許してくれるはず。あんな悪魔と契約をして世界を破滅させるなんてバカな誘いに乗ってはいけない。  信者たちは怒っているのだ。ただその怒りのはけ口を求めているだけにすぎないのだ。だから田中は教祖として彼らの怒りを受け止めようと決意した。   田中が信者たちの足元を見る。  よし。ハイヒールを履いている人間はいない。それなら頭を踏まれても大丈夫だ。もしも体重が百kgを超えるような女性信者に全体重をかけて尖った靴底で頭を踏まれたならば田中の頭蓋骨に穴があくかもしれない。しかしその危険はないようだ。  田中が信者たちの間をかき分けて教会の中央に進もうとした時に目の前にいた老婆にぶつかってしまった。 「すみませ――」   ゴトッ!! と音をさせて老婆のローブの中から何かが床に落ちた。 「お婆さん。果物ナイフが落ちましたよ」  近くにいた信者がまるで何事もなかったかのような顔をして老婆に拾った物を返す。そしてそれを老婆がその年には似合わない俊敏な動きでそれをまた懐の中にしまう。  見間違いだろうか?  田中がまばたきをする。いや見間違えるはずがない。  その鈍い音を発した物体の名前はマチェーテと呼ばれる刃物であった。刃渡り数十センチを超えるそれは、かつての冒険者が密林を切り開くのにつかっていたものだ。間違っても果物ナイフなどではない。そもそもこの教会には果物なんか置いていないじゃないか。  田中の心臓が今までに無いほど早く脈打っている。目の前で起こった出来事が信じられずに呆然と立ち尽くす田中は自分の足が震えていることに気がついた。まるで悪霊に身体を乗っ取られたかのように身体が震えだした。全身を今まで感じたことがないほどの恐怖が支配する。  田中が反射的にもときた道を戻ろうとする。  自分は何を考えていたのだろう。こんなインチキ宗教を信じるような人間たちがまともなはずがない。謝罪など受け入れてくれるはずがないじゃないか。信者たちは家族からも見放されるような人間たちの集まりなのだから。  悪魔だ。あの悪魔の所の戻って契約をするしかない。助かるためにはそれしか方法がないのだ。  田中の腕を誰かが掴む。 「どこにいかれるのですか?」 「――かっ、かみに祈っ、りに」  あまりに焦りすぎたために舌がうまく回らない。しかしそんなことを気にしている場合ではない。今すぐ悪魔のいる部屋に戻らなければ。 「もう時間ですよ。さあ行きましょう」  他の信者たちも田中の身体を掴んで教会の中央に引きずって行こうとする。それはフランス革命の時に怒り狂った民衆たちに処刑台の上に引きずられていくルイ16世のようでもあった。 「――はっ、はなっ」  駄目だ。もう助からない。どうしてすぐに悪魔と契約しなかったのか。自分の愚かさに今更ながら呆れてしまう。せっかく助かる機会があったのにそれを棒に振るなんて――。  その時田中はあることに気がついた。それは信者の一人の胸からぶら下がっているあのTのネックレスの鎖が見えた時に田中はいつもとは違うということに気がついたのだ。いつも身につけているはずのあれが自分の首にかかっていないことに気がついたのだ。  田中が大きく息を吐く。そうだ。落ち着け。ここで失敗したらお終いだ。だから慎重に心を落ち着けて行動するのだ。 「待ちなさい」  田中の口から発せられたその言葉はいつも信者たちに話をしている時のように威厳があり、落ち着いたいつもの声だった。  田中の言葉を聞いてそれに従う。今まで何百回となく繰り返されたきた行動が信者たちの動きを止めた。まるでパブロフの犬のように条件反射してしまったのだ。 「今から祈祷室に戻ります。あの部屋に大切な首飾りを忘れてきてしまったので」
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