止まれないふたり

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 蝉の声が夕立のように降り注いでくる。人も車もすべてがけだるそうにゆらめいている。強烈の日差しのせいだ。数年ぶりの帰省だった。  またがっていた自転車を降りて、ハンドルを押しながら国道を歩く。子どもの頃からほとんど変わらない風景だ。少し先にコンビニが見えてきた。塗装がはげて錆が浮き出ているが、入り口の横のベンチもまだあった。懐かしさに胸が高鳴る。高校時代、毎日のように智子と一緒にこのコンビニに寄り道をして帰った。夏ならアイス、それ以外の季節はフランクフルトやスナック菓子を食べながら、ベンチに座っていつまでもとりとめもない話をして過ごした。そして、夕闇が迫りだす頃、自転車に乗って家に帰った。荷台には智子が乗っていた。  コンビニの駐車場を横切って、路地に入る。塗装がはげてでこぼこの路面、静かにひそむ空気。お寺の手前まで伸びる長くゆるやかな坂道はあの頃と何も変わっていなかった。坂道の終点を目で探す。お寺の壁を背景にぽつんと赤く浮かぶものが確かに見える。「止まれ」の標識だ。  智子は、この坂道を自転車で下るのが大好きだった。 「目を閉じていると、地球の中心に引っ張り込まれそうなかんじがする」らしい。ブレーキをかけながらゆっくりと下るぼくに、「もっとスピード出して!」とせっつくのだ。つられたぼくがブレーキをゆるめると、じょじょにスピードがあがってくる。お寺前の道は、いつもひっそりしていて、人も車もあまり通らないので、勢いにのってそのままつっこんでしまいそうになる。すると、「止まれ」の標識が見えてくるあたりで、智子が「止まって!」と叫びながら痛いくらい背中を叩く。あわててブレーキを踏んでつんのめりそうになる。それがお決まりのパターンだった。 「『止まれ』は止まる。常識だよ」  背後から首を突き出してのぞきこむ智子の得意そうな顔は、今でも昨日のことのように思い出すことができる。           *   *   *  智子と知り合ったのは、高校の入学式の日だ。式が終わって、教室に入り、教師の指示に従って何枚もの書類を記入していると、ドアが開いた。何気なく見ると、制服を着た女子だった。 「このクラスみたいなんですけど」  悪びれる様子もなく、彼女は言った。教師は手元の名簿を繰って、 「ああ、谷口・・」 「智子です」  教師は、面倒そうに指さしたのは、ぼくのすぐ後ろの席だった。 「なんで、式に出なかった?」  智子が席につくと同時に、教師が質問した。智子は何も答えなかった。教師はすこしむっとした様子で、 「入学式に遅刻した理由を言いなさい」  相変わらず答えはなかった。窓からは春のおだやかな日差しがさしこんでいるのに、教室内の空気は重く沈んでいた。ぼくは、まるで自分が詰問されているかのようなあせりを感じた。何でもいいから早く答えてくれと思った。 「父が」  教師がまた口を開きかけるのと同時に背中から声がした。 「何だって?」 「父が、倒れまして」  教師の顔色が変わり、教室内の空気が動いた。以下、智子の言い分である。 『朝、家を出ようとした時、父親がとつぜん胸をおさえて苦しみだした。母はもう仕事に出かけていたので、救急車を呼び、智子が病院までつきそった。大事には至らなかったが、しばらく入院して様子をみることになった』  耳を傾けながら、ぼくが意識を奪われたのは、話の内容よりも、彼女の声だった。特に際立った特徴のあるわけでもない、いわゆる女の子の声なのだが、耳にすっとしみこんでくるような心地よさがあるのだ。他人の声にそんな印象をもったのは生まれて初めてだった。声にも相性があるのかもしれない。  事情が事情なため、教師はそれ以上何も言わなかった。教室の空気は元に戻り、書類記入に戻ろうとすると、背中を叩かれた。振り返ると、智子が笑っていた。 「ごめん、ペン貸して」  小動物のような愛らしい笑顔だった。どぎまぎしながらペンを差し出したことを覚えている。
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