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渋谷は風景は真昼間にも関わらず、赤く燃えて映る。橋本は渋谷マークシティの入り口に立っていた。雑踏の音が耳を突き刺すように聞こえる。堀米事件が起きた時と比べると、渋谷の街は変わっていた。東急百貨店は高層ビルに生まれ変わり、近代的な風景が広がっている。きっとかつての渋谷の姿は、そのうち人々の記憶から消えていくのだろう。そこにあった飲み屋も、そこにあった広告看板も、そしてそこで起こった事件のことも。
堀米事件の三人の名もなき被害者の一人は、橋本の実の娘だった。橋本真琴。それが彼女の名前だ。真琴はこの渋谷でふいに命を奪われてしまった。まるで風に吹かれた木の葉が落ちるかのように、偶然によってその将来が断たれてしまう。娘を殺した堀米は、被害者の名前を憶えてはいなかった。それはそうだろう。誰でも良かったのだから。橋本はそのことがどうしても許せなかった。真琴は誰でも良い誰かなどではない。橋本にとっては唯一無二の娘である。
堀米が裁判にかけられ、一審で死刑判決が出たとき、橋本はそれではダメだと思った。犯人が死ぬだけでは橋本は納得出来なかった。娘は二度死んだのだ。一度目は堀米に刺された時。そして二度目は、堀米が誰でも良かったと供述した時。
それなら堀米も二度死ぬべきだ。
「橋本先生、お待たせしました。」
堀米が橋本に声をかける。堀米は橋本が被害者の実父だということを知りもしない。その日は被害者に花を手向けたいという堀米に担当弁護士として付き添うことになっていた。
「さあ、行こうか。」
橋本はそう言って、事件の起こったスクランブル交差点に向かった。
「先生には大変ご迷惑をおかけしました。最後まで付き合って頂いて本当にありがとうございます。亡くなった被害者の方にも一生をかけて償っていくつもりです...。」
雑踏の音で堀米の言葉は途中から聞こえなくなって、そして次第に鼓膜の奥を叫び声が突き刺した。橋本は手で耳を塞いでしまいたい衝動に駆られるが、コートの奥に握ったナイフを強く握って堪える。
信号が青になって、そしてまた風景が歪んだ。
橋本は車列の中に、自分ののボルボを見つけた。車を降りた高木が顔を真っ赤にして走り寄ってくるのが見えた。しかし橋本は止めることは出来なかった。
握りしめたナイフを堀米の胸に突き刺す。堀米は訳が分からないというようにして口をパクパクさせたが、穴の空いた肺は声帯を震わせるだけの空気を送り出すことが出来なかった。何故自分が死ななければならないのか、堀米にはその理由を知る由もないだろう。
叫びは不条理に死んだ者の怒りだ。
了
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