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※ ※ ※
「どうして橋本先生に担当させたんですか!」
辻井が所長室に怒鳴り込む声が聞こえた。
「どうしてって、彼は上手くやったじゃないか。」
所長の鴨居は怪訝そうな声で答えた。堀米事件は第二公判で無罪となり幕を閉じた。マスコミはこの判決を大いに報じ、一部の週刊誌では堀米を弁護した橋本や高木にも批判の対象にしていた。
「裁判には勝ちましたが、橋本先生はこの一件で事務所を辞めました。それは、橋本先生が堀米事件の被害者の女の子の父親だったからですよね。私は、どうして被害者の父親に犯人の弁護なんて酷いことをさせたのかと聞いているんです!」
辻井はまたも怒鳴り散らした。橋本が堀米事件の被害者の肉親だったことは、週刊誌の報道で明らかになっていた。橋本はこの裁判の判決が確定した直後に事務所を辞めて、その後の連絡が途絶えている。
高木は橋本が被害者の肉親だったことを知って、困惑していた。辻井が鴨居に詰め寄っているのは、つまるところ高木と同じ疑問を持ったからだろう。それは何故橋本が堀米事件の弁護を引き受けたのかということだった。その気になればいくら所長命令でも断ることが出来たはずだから、辻井は鴨居所長に八つ当たりをしているに過ぎない。
「それは私も知らなかったのだよ。むしろ橋本くんの方から担当させて欲しいと言って来たんだ。」
鴨居は言った。それを聞いて高木は裁判中の橋本の姿を思い浮かべる。それはいつもと変わらない冷静な橋本だったように思う。しかし、高木には気にかかることがあった。それは裁判の後、代々木公園で橋本が語っていた"叫び"のことだ。高木はもしかしたら橋本の"叫び"を聞いたのではないか。あの時に感じた胃を八つ裂きにするような激しい怒りは、まさに隣に座っていた橋本から発せられたものだったのだとすれば、それに強く影響を受けるのは無理もない。あの落ち着いた雰囲気の橋本の胸の奥に、それほど激しい怒りがあったのだと思うと、高木はただひたすらに恐ろしくなった。何かとても良くないことが起きるような気がした。
「私、橋本先生を探してきます!」
高木はそう言うと事務所を飛び出す。何処に行けば良いかあてなどなかったが、それでも動かずにはいられなかった。高木は無我夢中に橋本から借りたままのボルボを走らせるのだった。
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