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松嶋は前日、仕事が終わり家に帰ってからも、N島美嘉似の儚げな美しさと、その彼女の奇妙な行動について、あれこれ思いを巡らせていた。そのかいあってか、薫さんがサインを書く一瞬の間ではあるが、咄嗟にこのような論理を組み立てることができたのであった。
薫さんがサインした力強い“及川”という文字を満足そうに──ことの真相が分かったというような得意な顔を浮かべながら見ていると、宅配業者はとある台詞を聞いて茫然としてしまった。開いた口が塞がらないとは正にこのことである。
それは薫さんがいった、
「昨日はお手数おかけしてすみませんでした。ありがとうございます」
という言葉に対してであった。いや、正確には言葉ではない。彼女いや、彼がいった声にである。
及川薫。薫という名前を見ると、女性の姿を思い浮かべる人が大半であろう。しかし、何も女性だけではなく、男性にも薫という字は利用される。
及川薫は“男”だったのだ。“彼が”逞しい声で感謝の言葉を宅配業者に述べているとき、彼の背後から女性が近づいてきた。そして彼女は
「はい、あなた、これ。」
といい、手に持ったボールペンを薫さんに渡そうとしたが、薫さんはそれを払いよけ、
「みゆき、サインはもう済んだんだ。宅配のお兄さんがボールペンを貸してくれたからね」
といい、みゆきさんが松嶋の存在を認めると薫さんと同様に、謝罪の言葉を並べていた。
当の宅配のお兄さんはというと、謝罪の言葉に対してとんでもない、と言葉を精一杯取り繕ってはいたが、“夫婦”のやりとりに驚きを隠すことはできずに、相手が誠意を込めて腰を曲げるものだから、つられてぺこぺことおじぎをした。
夫婦による共同作業による謎、薫さんは女性、美嘉さんはみゆきさんだったことが判明した及川宅。
玄関ドアを閉め、マンションから出ると、再びトラックに乗り込んだ。松嶋はロックな音楽を社内に流し、イントロが聞こえ始めたタイミングで、
「松嶋の馬鹿野郎―! 何勘違いしてんだよー! 何? 推理と妄想は紙一重? お前のは妄想だよー!」
と叫ぶと、Aメロをがむしゃらに歌い始めながらいつもよりアクセルを深く踏んだ。
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