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黒塗りの盆に、古びた電球の光が反射する。
その色は、どこまでも柔らかい。濡れたカラスの羽のような、てらてらとした艶やかさではなくて、指先の温度をゆっくり吸収しているような、しっとりとした黒。
縁に視線を滑らせる。波打つ曲線の影から、うっすらと桃色の花弁が覗いた。
...桃色?
橙色の灯りにくすんだ空気と馴染む、桜色だ。
違う、今は春じゃない。ここだけ、季節が止まったまま置き去りにされたとでもいうのだろうか。
細く息を吐き出す。ほんの少し、湿度の上がり始めた室内。着物の裾の下に感じる畳も私たちの体に馴染みつつある。わずかな障子の隙間から、か細い息のような生暖かさが流れ込む。私は額ににじむ汗を拭いたくて仕方がなかった。
丸みを帯びた釜の錆色が、より一層熱気を誘う。
「ちょっと」
「ふぁ?」
我に返ると、膝の近くであの盆が、冷ややかに私を見上げていた。あくまで、涼しい顔のまま、両手を畳に近付ける。
「お先に頂戴いたします」
すっと礼をする。部屋の隅に座る、友人の茶化したような顔が一瞬目に留まったが、見て見ぬふりだ。私は数秒前から室温マイナス五度ほどの生ぬるーい視線を横から感じているのだから。
すくい上げるようにしてお盆を持ち上げる。あぁ手のひらに吸いつくような陶器の質感は、いつ触れても変わらない。きっと、この器の色も、触れた感触も、時がどんなに経とうと今の瞬間をフィルムに収めたかのように、存在し続けるのだろう。
とん、とかすかな音が畳に吸い込まれる。真正面に私と、黒塗りの盆。
「お菓子、頂戴いたします」
顔を畳に近づけ、手のひらを膝の上にそっと戻しながら顔を上げる。
あ。
夕闇に溶ける黒い川に浮かぶような、撫子だった。
花の外側へ向けてだんだんと淡い桃色に染まり、ふっくらと開いた五枚の花弁。花びらの先には細かく線が入れられ、ぎざぎざとした花の形を表現している。ふくらんだ丸っこい姿でありながら、ふっと息を吹きかければ、今にも風にのってどこかへ飛んでいきそうだった。
私が感じた違和感はあながち間違っていなかったらしい。
竹の箸を右手でつまみ、撫子に手を伸ばす。その花がはらはらと崩れてしまわぬように、懐紙に受け止める。まっさらな雪に一輪の花がのせられた。
桜よりも控えめな可憐さでそこに佇む。黒塗りの盆にいたからこそ桃色に気づいたものの、このまま懐紙にのせ続けたら白さに馴染んで溶けていきそうだ。
「...そこの、あなた」
「はいっ」
生ぬるい視線の方向から、ひんやりした声がピシャリ。瞬間的に背筋を伸ばす。手には箸をがっしりと握ったままだ。
「...お隣の方がお待ちですから。お菓子をまわして差し上げて」
「はいいっ」
さっきまでののろのろした動きとはうって変わって、てきぱきと手を動かす。
隣との間に盆を置き、ふうとひと段落。ちらりと横目で、生ぬるい視線をたどる。
厳しく眉をひそめていた先生も、肩をすくめて私から目を離した。
ほっと胸を撫で下ろす。
さぁ、ここからが私ひとり心置きなく過ごせる時間なのだ。
特別な茶席でしか口にすることができない、練り切り。水分を飛ばした白餡に求肥を加えて何度も練り合わせた「練り切り餡」を用いて作るのが練り切りだ。
ただ真っ白な餡に色付けしただけなのに、季節の息吹を吹き込めば、鮮やかな生命力を内に秘め出す。
私はそこに、移ろう世界を見出すのだ。
懐紙を持ち上げ、撫子の姿形がはっきりと見えるように灯りを捉える。こうすることで花弁の細部の陰影、表面の滑らかさまでよく分かる。
本物の撫子はもっとビビットな赤紫をしているものが一般的だろう。でも、今の梅雨から抜け出せていないような、湿っぽい夏にはこんな淡く霞がかった撫子がよく似合う。
背後では、ガラス窓を雨粒がはじいていた。朝よりも雨音が強くなっているように感じる。
どのくらい雨が降っているのかと、首をわずかに動かす。
そこで目に入ったのが、早々と撫子を無惨なほどに真っ二つに切り分け、黒文字をぐさりと突き刺していた隣の友人。あぁぁぁぁ、なんて儚い撫子の命!いずれ消えゆくこの美しさを目に焼き付けようとは思わないのか!
「おーかわいちょうに、よちよち、本当はお前のことも私が愛でてやりたいのだよぉ」...周囲に誰もいなかったなら、隣の練り切りに声をかけてしまっていたかもしれない。
とにかく、今は私の目の前でじっと待っているこの子を。
心の中で、練り切りに向けて深く一礼。個人的には菓子に対する敬意を表すべきだと思うのだが、日本の伝統に私なんぞが手を加えることではない。むしろ、あの先生に不審な目で見られるだけだ。ほら、今も私の怪しげな思考回路まで見抜いている。たぶん。
黒文字を軽くつまみ、撫子の花弁の上にかざす。この花本来の姿はもう見られない、そう思うからこそ愛おしさが募る。少し指に力を込め、黒文字を練り切りに押し当てた。
すとんと懐紙に当たる感触とともに、ほろりと桃色の欠片がこぼれ落ちる。練り切りの中に紫色が覗いた。撫子の色によく馴染む、これまた淡い、紫のこしあんである。
花びら一枚にあたる部分を切り分け、口元へ運ぶ。
舌に触れた欠片はしっとりと水分を含む。日向に置かれた雪のように、微かな甘さが溶けてゆく。練り切りはどこまでも柔らかく、舌の重みだけで崩れ去った。
瞼の奥で撫子の花が舞う。日差しと濡れた木々のかぐわしい匂いに誘われ、青空と紅色の境界線をひたすらに追いかける。露がころころと花から滑り落ち、私の足元で弾けた。
その瞬間、フラッシュがたかれたような錯覚に陥る。眩しい色彩と影が交互に繰り返される。
何かの故障?ちょっと待て、まだ私は花畑に辿り着いていない!
焦る私には構わず、激しく視界の色は変わる。私の脳内映写機の故障に違いないこれは!
おおおお、待ってくれ、私はこの花畑の世界を少しも味わえていないのだ!待ってくれぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!
ガサッ。右手に伝わる、空虚な感覚。何も感じられない、そこに何も存在していないように。
何も、「ない」...?
かっと目を開き、手元を見つめる。
ああ!何もない!
露を湛えていた、淡い桃色の、しっとりと体に馴染むような、その撫子はどこにもない!ただ真っ白な懐紙に、勢いよく突き刺した黒文字のせいでついた折れ目が存在するだけだった。周囲から見た私は物憂げな表情を浮かべ、懐紙を膝の前に置いていたのだろう。気付いた時には手を着物の上にのせ、その名の通り手持ち無沙汰になっていたのである。
和菓子に景色を見出すために、私の脳は映写機を搭載してくれている。なんともサービス充実の機能だ。しかし、その映写機の原動力が和菓子そのものであるのが、効率の悪いところである。その世界に入り込むには舌でその甘さを感じなくてはならない。口の中の感覚が消えれば、さらにもうひとかけらを含む。そしてついには、これが最後だということに気付く間もなく———私がその時いるのは現実ではないのだから、仕方ない———欠片を口に放り込み、溶けると同時に映写機は燃料不足で停止。まだ夢うつつの私は黒文字で菓子の断片を探るものの、願いむなしく全ては胃の中に消えているという現実を受け入れざるをえない。お茶席の度に繰り返しては後悔するのが関の山である。
ため息をひとつ。
脳裏には撫子が焼き付いて離れない。いや、離したくないだけだ。微かに残る記憶をたどるのも、いつも通りの考え。
そして、気付いた頃には茶碗が目の前に差し出されているのである。
無意識のうちに、唇に触れる茶碗の厚み。流れ込む渋味と鼻に一瞬抜けるお茶の香り。舌に残る餡のねっとりとした甘さを洗い流し、喉を滑り落ちる。
茶碗の底に溜まる泡が消え、唇から離れる感触。真正面を見つめる。
柄杓から滴る湯と、雨垂れのリズムが重なる。ゆるゆると落ち着き始める湿度。
気だるくかすんでいた茶室の空気が、くっきりと蘇ったように私には映った。
両手を畳につける。
膝の隣で忘れ去られた、しわくちゃの懐紙が目に留まる。
一体ここには、何があった?そこに何かが存在していたという手掛かりは?私がさっきまで握りしめていた、記憶の風船は何色だった?
正直なところ、それが何であろうと、存在していようといなかろうと、どうだっていい。
どうせ、思い出せるはずもなく、ただ満たされたという幸福感がそこにあるだけ。
確かな存在が分からなくても、その不完全さに幸せを感じられる方なのだ、私は。
「ありがとうございました」
深々と頭を下げる。
いつも同じように、日常は過ぎる。
それでいいのだ。いつか思い出される日が来るのならそれで。
あの時の花の名前も、一度流された脳内映写機の映像も、舌に残る甘さも、私は思い出せないのだから。
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