3人が本棚に入れています
本棚に追加
...あぁ、今日も、か。
ぼやけた視界の向こうにあるのは、本当は何色の空なのだろう。
瞼に柔らかい日差しを感じながら、窓の外を眺める。
頬を髪が掠めてゆく。雲のない空なのに、私が思い描く青色は見えない。
どこからともなく、笑い声が弾けてビー玉みたいにころころ転がっていった。どこへ消えたのかも分からない。
そこにいる人の表情はみんな違って、みんな違う色を持っているはずなのに。
私の目には、くすんだ白黒の色しか見えない。
空の色も、揺れる木々も、黒板に残されたチョークの字も。私の瞳のカメラはひと昔前に戻ったように、色を映してくれない。
手元を見ても、お弁当箱に色のないおかずが物憂げに詰められただけ。なぜここに並んでいるのか、おかず自身も理解していないように、よそよそしい。
喉につかえた溜息は行き場をなくしてしまう。
もう、この世界には慣れたはずだ。
この窓から空を眺めて、それもいつも同じ灰色の空で。何も見たくない、そう心の中で必死に叫びながら、それでも視線を空に避難させる自分が哀れに思えてきて。
空自身は空虚なまま、私の頭上に存在し続ける。それがせめてもの拠り所だって思い込みたいだ。
「祐希」
シャツの袖を少し引っ張られた。
「な、何?」
「何って...またぼんやりしてるから」
きれいな眉をひそめて、数秒で瞳が潤み始めそうな顔をして、史帆が私を見つめる。
「無理、しなくてもいいんだよ」
息と一緒に消えそうな声。史帆の憤りレベルが最高潮に達している、たぶん。
「大丈夫だって!無理って、そんな何にもないから!」
これ以上史帆の顔を歪ませたくない。それだけで意識しなくても頬が緩んだ。
彼女にちょっとだけ笑ってみせて、でもそこから私は手持ち無沙汰になる。
どうせ何を食べたって味がよく分からないんだし、美味しいのか不味いのかだって感じたくても感じられない。そんな状態が続いていたら、いつの間にかどんなに空腹でも箸を手に取る気がなくなってしまった。
今だって胃が縮むくらいお腹が空いてるのに。右手が硬直してしまう。
無理矢理力を入れてようやく箸を持つ。史帆の視線がちくちくと針になって刺さる。
どれが何だか分からないまま、適当につまんだものを口に運ぶ。舌に柔らかい感触が残った。
ああ、なんか、甘辛い感じがする。それくらい。
人間って、五感全部で味わっているんだなって。これについて研究したらイグノーベル賞くらい取れるんじゃない?なんて考えていた間はまだよかった。
もう慣れたはずなのに、それなのに、怖い。
何かが私を追ってきている。意識がふっと緩んだ瞬間に私に向かって牙をむく「何か」が。
私を追ってきているのか、それとも、私が探し求めているからなのか?
「祐希」
「ん、ん?」
「ん?じゃないよ。顔怖いって!」
向かいに座る友人がからかって笑って、それにまともに返事できるようにはなったけど。
ああ、あの子の持っている水筒の色、何色だろう、とか。
今あっちで食べてるお菓子、どんな色なんだろう、とか。
不意に知りたくなって、抑えられなくなりそうなんだ。
史帆の顔が今どうなっているか、想像がつくから隣を見られない。
この世界が白黒なだけなのに、こんなに人って変わるものなの?
ここにいる皆に聞いて回りたい。答えがないことは分かってるのに。
...はぁぁ。
久しぶりに我慢しないで溜息を外に逃がしてやれた。
「どうしたのー?そんな溜息ついて」
「うん、ちょっとね」
声を漏らしながら、顔を上げる。苦笑いしてみせようと思いながら。
その数秒だけ、忘れていた。私の怖いもの。何も意識していなかった。
瞬き。
「あ」
目の奥に飛び込む。向かいの手に握られたフォークに、艶やかな赤色が、光を反射して、私の瞳に、真っ直ぐ。
予測してなかった。
一番油断してはいけないのに。
「うわわあああああっ」
「ちょっと、祐希」
史帆がまた身を乗り出す。
「また?」
「...見ちゃった」
顔を手のひらで覆いながら、自分の危機管理能力の低さに幻滅する。
脳の中にはまだ、真っ赤なプチトマトの残像が点滅していた。
人間のために太陽が創り出してくれたのが、色なのかな。人間がこの世界の美しさを知るように、生きる喜びを見出せるように。
でも、私の手に残っているのは、白と黒の絵の具しかない。本当は一番いらない赤色の絵の具も残っているけれど。
失くしちゃったのか、誰かが盗んでいったのか、他の絵の具は私の手から消えてしまったんだ。
ちょうど半年前くらいのことだった気がする。
確かに覚えてる。私の記憶のフィルムに唯一はっきり色が残っているんだもの。
ガラス瓶に閉じ込められたまま眩しいほどの色を保っている記憶の断片が、時々現実に混じってちらつく。
ここだけ、どうしても色褪せない。なんでその周りは全部モノクロなのに、ここだけ。
どうして神様は、ここだけ塗りたての絵の具を残していったのだろう。
いっそのこと全部白黒に塗り替えてくれたら良かったのに。
風に引っ張られた髪が、視界を邪魔する。翻る紺色のスカート。右手でなびく髪を押さえる。くらくらするほど太陽は高く上っていた。フェンスは銀色の鈍い光を反射する。
揺れる人影。私は大声で彼女を呼び止める。振り向いて、負けじと声を張り上げてくる。でも全てを空が吸い込んで、私の耳を微かに擦るだけ。
淡い桃色と透けるような白が重なり合う、丸い花びらが風に巻き上げらる。
一歩、足を踏み出す。それと同時に彼女の足はもう前に進んでいた。唇が動いた気がした。彼女は白っぽく霞む日差しに溶け込んで、そこにいるのかあやふや。
それでも、私には何を言っているのか分かったように思えた。
マッテテ、ユウキ―――。
言葉が喉に引っ掛かって、うまく出てきてくれなかった。私の足も、動かなかった。あの時私がするべきことはなんだったの?
フェンスに絡みつくように腕を広げる桜の木が、さわさわ揺れた。
日向に透ける花。遠くで響く歓声。今立っている屋上が、少しずつ天に浮かび上がっている錯覚に陥る。
「彩映!」
イロハ、その響きは風に遮られてしまった。
彩映がくるりと振り向く。
彼女の背中に白い羽が生えて、ふわふわと飛んで行ってしまいそうに、空気も記憶も霞んでゆく。
「大丈夫だから!待ってて、祐希!」
なんで、最後の呼びかけだけはちゃんと耳に届いたの。
これが「本物の」最後だって暗示してた?
今だから考えられるけど、当時は何も分からなかった。ただ、その声を、彩映の声を聞き取っていただけ。
彩映
いろは
の後ろ姿は気付いたら扉の向こうに吸い込まれていた。
錆びた鉄が地面と擦れる音がギィギィと私の鼓膜も擦る。
「...お腹空いたって言ったくせに」
ぽつんと佇むベンチに向かって呟いた。彩映に向かって言いたかった、本当は。でも、私の口が動かなかったのはなぜだろう。
ベンチにちょこんと置かれた弁当箱。桜の花びらが一枚、のっていた。
小学校の頃から私と彩映のお弁当箱は同じ曲げわっぱのものだった。波打つ木目が少しだけ私を落ち着かせてくれる。
「もう先に食べちゃうからね」
誰に対して言ったわけでもない。それなのに、耳元を吹き抜ける風が、人の声に聞こえた。
「あ...」
弁当箱の蓋から、桜がひらりとこぼれ落ちた――。
最初のコメントを投稿しよう!