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その吉野は、遼から健康食品部門を受け継いだ男で
右肩上がりの業績を自慢し、低迷している酒造部を
散々こき下ろしていた。
売り上げが良かったのは、冷酒胡蝶だけで、ビールや清酒は
他のメーカーに、大きく後れを取っている。
他の部門の、足を引っ張っているだけだ、特に、この夏売り出すビールは
豊が亡くなった騒ぎで、売り出す準備さえ、まだ進んでいない。
お前は、義兄さんが居ないと、何も出来ないのかと、守を責めた。
「今年のビールは、今までになく、美味しいのだが」と
守は、弱々しい声で言った。
「折角、旨いビールを作っても、売れなきゃ何もならん」
吉野は、ぴしゃりと言い、業績の良い化粧品と、健康食品を合わせて
世界へ市場を広げようと、景子に持ち掛けた。
景子も、まんざらでもない顔をしたが「それじゃ、酒造部は、、」
と言う守に「足手まといの酒造部は、切り捨てるだけだ」
吉野は、けろりと言った。
さすがに景子も「それは、ちょっと」と、二の足を踏んだ。
いくら業績が悪くても、切り捨てるなんて。
「じゃ、蘭子さん、あんた私と組まんかね
元々、お兄さんが関わっていた所だ、あんたが、兄さんの後を継いで
もっと業績を伸ばすのも、良いでしょう
そうなれば、景子と組まなくても、株は、38%になり
私達が、トップに立つ、蘭子さんは、副社長だ」
「叔父さん」守が顔色を変えた。
蘭子は、皆の前で愛人ごときがと言った、自分に
良い感情は持っていないだろう、兄がやっていた、健康食品には
思い入れも有るだろう、何より副社長なのだ、吉野と組むに違いない。
吉野が、社長になれば、酒造部は切り捨てられ、市川酒造は終わりだ。
「お父さん」守は心の中で父を呼び、唇を噛んだ。
それまで黙っていた蘭子が、立ち上がり、吉野に言った。
「今までのお話しでは、市川酒造を切り捨てる事ばかりを
考えている様ですが」「そうだ、もう古い市川酒造なんて、要らないんだ
切り捨てて、全く新しい会社にするべきなんだ」吉野はそう言った。
「それは、間違いです、何故、健康食品や、化粧品が売れているのか
本当の事が、お分かりなんですか?
ただ、良い商品だから売れていると、思っていませんか?
それは、違います、市川酒造が出している商品だから、売れるんですよ
百五十年も続いている、老舗の商品だから、間違い無いって
皆様は、買って下さるのです。
もし、市川酒造が無くなったら、ただの健康食品、ただの化粧品です
消費者は、直ぐ、ライバルの栄酒造や、波野酒造の商品に流れます」
ライバル社も、健康食品や、化粧品を販売していた。
「まさか」吉野と景子が、同時に言った。
これほど人気が有る、自分達の商品が、見捨てられる筈は無い。
「いいえ、そうなります、貴方達は、一般の人々の生活を
知らないでしょうが、私は、普通の家に育ち、仕事もただのOLでした。
一般の人が、何を、どう考えているか、良く知っています。
家計を預かる主婦は、一円でも安い商品が有れば、自転車で
例え10分、20分掛けてでも、買いに行きます。
貴方達は、そんな事はしないでしょうが、それが普通の消費者なんです。
その安さが無い商品は、何を求めて買うと思いますか?
信用です、一円もおろそかにしない消費者が、大事なお金を使うのです。
確かな会社の物を買おうとするのは、当然でしょう。
百五十年もの、長きに渡り、先人たちが、血と汗と涙で築き上げ
守って来た、この市川酒造、だからこその信用です。
この商品に、何が有っても、市川酒造が後ろにいる、そこに消費者は
安心感を持って、買ってくれるのです、それが、老舗の強みです。
その親会社が潰れた健康食品や、化粧品を、誰が信用するでしょうか」
蘭子は、吉野と組んでいる、親戚達の方を向き
「皆様は、営々と続いて来た、この誇り高き市川酒造の一族でしょう
その市川酒造を、簡単に潰して良いと、お考えなのですか?
先人達に対して、恥ずかしいと思わないのですか?」と、言った。
親戚は、全員、目を伏せた。
「お兄様っ」蘭子は、守に、強い声で呼びかけた。
「えっ、お兄様?」守は、驚いて、目をぱちぱちさせた。
「お兄様は、その市川酒造の当主ですよ、お兄様が、ふらふらしていては
下の者が、不安になります、もっと、どんと構えていて下さい」
「し、しかし、蘭子さんと叔父さんが組めば、私は、、」
「そんな事はしません、何故私に、助けを求めないのですか?
何もしないで、もう駄目だと諦めるのですか?
もし、前社長なら、私に土下座してでも、この市川酒造を助けてくれと
言った筈です」守は、はっとした。
そうだ、父なら、絶対そうして、市川酒造を守った筈だ。
「私の持ち株は、全てお兄様に譲ります」「ええっ」
皆は驚き、吉野は慌てた。
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