どうぞ傷跡を重ねて混ぜて

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扉を開けた先は林の中だった。 いや、正しくは林ではなく、積み重ねた書籍がまるで木のように、何本も立ち並んでいるだけだ。その隙間から、目当ての少女は顔を覗かせていた。 本の列柱の半分程しかない体軀を紺碧のローブですっぽりと包み、二人の来訪者をぼんやりと見つめている。壁に掛けられた魔法灯の淡い光に反射して輝くその瞳は、瑠璃を加工して作ったかのように青く、ずっと見ていると晴れた日の海原を思わせる。 「読書中に邪魔して済まないな。何だかんだで久しぶりだ、息災か?」 「……久しぶりはアムネロアによっても認識されています。久しぶりとは入団試験以来です。息災はアムネロアによって維持されております。息災とは水の透明度の高さです」 アムネロアは言いながら、読みかけだった手元の本をしばらく見下ろして、栞を挟んだ。そのまま俺達のいる入り口側へ、本の隙間を縫ってやってきた。近づくと彼女の小柄さが際立つ、ドワーフの俺よりも背が低い。 その瞳の中の海が、フィーフィーを捉えた。 「彼女はヤマジロ教官の隣にいる獣人の少女に興味を持っています。彼女とはアムネロアです」 「ああ。先輩団員の割当について、前に延期になっていただろ。時間がかかったが、彼女がお前のメンターだ」 そう言って、俺は少女の前にフィーフィーを引き寄せる。 「こいつはフィーフィー、見ての通り猫人だ。フィーフィー、この小さい娘がさっきから話していた人物で、アムネロアだ」 「え、ああ。よろしくね、アムネロア、さん?」 そう言いながら、戸惑いつつも彼女は銀色の毛並を持つ腕を紺色の少女に差し出した。アムネロアは自分に向かって伸ばされた掌の意味を暫く考えてから、同じようにローブの裾から腕を伸ばす。 その肌は白く、透き通るような色合いをしている。実際、彼女の指先は透き通って透明である。 その異様さに、フィーフィーは慌てて手を引っ込めてしまう。 「あ、ごめんねっ」 自分の行動が相手を傷つけたのではないかと思ったのだろう、彼女は慌ててアムネロアに謝ったが、当人は特に気にした様子もなく、ぼんやりと観察を続けている。伸ばしたままになっている手は相変わらず半ば透明のまま。こぽり、と泡が手首の方から指先へと上がっていった。 フィーフィーは目に見えて狼狽し、助けを求めるように俺の方を向く。 「アムネロアの種族はウンディーネだ。四大精霊の種族に会うのは初めてか?」 「ウンディーネ……」 「ウンディーネは水でできている為、本来は蔵書館にいるのは不適切です。ウンディーネは本好きなアムネロアです」 そう言いながら、アムネロアは指先をゆらゆらと波立たせた。 「さっきの魔術印の問題、答えは『水が必要な人物』も間違いではないが、より正確に言うならば『水そのものがその人物』というのが正しい。彼女達ウンディーネは天性の魔術式により、水を人の形に整えた器を用いて生活をする」 話しながら俺は、近くの本の柱から一冊を抜き出し、パラパラと捲る。 「だが例えば疲弊している時や、何かに集中している時にその器の境界が緩み、人の形を止めなくなる。そうならないように、魔術印のサポートが必要となる」 探していた頁を見つけ、そこを開いたままフィーフィーに渡す。そこには四大精霊の性質と慣習に関する、基礎的な記述が載っている。 「魔術印は元来相容れないウンディーネと書物の距離を近づけます。魔術印は入口の『安定化』の術式です」 俺の説明に補足を入れながら指を上に突き出したアムネロアは、その先で小さな水の魚を跳ねさせた。人差し指から小指へ、透明な身を翻し、何匹も。 「『安定化』すると、そんな芸当までできるようになるんだな」  少ない水を形を定めて操ることは上位の魔術師でも難しい技だ。強化されているとはいえ、それを手遊びにできるのは流石精霊族と言うべきか。フィーフィーは初めて鏡を見た猫のようにただその指の先の芸を食い入るように見つめている。  一通り見せることができて満足したのか、アムネロアは自分の指から再びフィーフィーに視線を戻す。 「フィーフィーはアムネロアによって以前認識されている名前です。フィーフィーは目の前の彼女です」 「それって、私のことを前から知っている、ってこと?」 アムネロアは頷く。 「フィーフィーはブリジブック卿の本を館内に入れておくよういつも言ってきて鬱陶しいと言われています。フィーフィーとは司書さんがよく話題に出す名前の一つです」 「フィーフィー、お前あの人にそんな迷惑をかけていたのか?」 尋ねると彼女は慌てて手を振って否定する。 「一回ガツンと怒られてから、もうそんなことしていないってば」 「彼女はフィーフィーの読む本に興味を持っています。彼女とは前からフィーフィーの話を聞いているアムネロアです」 「ええ、私の読む本が?」 フィーフィーが戸惑うのは周囲に置かれている本のジャンルを見たからだろう。アムネロアの縦に並べた書籍は思想史や哲学、政治学、芸術と言った、学術書がうず高く積まれている。確かにここに、彼女の好むラブロマンスを並べる隙はないように見えるだろう。 「多分だけど、アムネロアちゃんの気にいるような内容じゃないと思うよ」 「ですが、フィーフィーはその本が気に入っています。フィーフィーとはアムネロアが興味を持っている対象です」 「それって、私のことをもっと知りたいってこと?」 「彼女はその通りだと肯定しています。彼女とはアムネロアです」 「えへへへ、そっかそっか。そう言われたら仕方ないなぁ。じゃあお姉さんが色んなこと、教えてあげるね」 そう言って相好を崩す彼女を見て、単純な奴めと俺は内心で思う。  フィーフィーは誰かに頼られるのが嫌ではない、というかむしろ好きな手合いだ。しばしば他の人のことを優先し過ぎて、自分事を疎かにしてしまう程に。ウンディーネと初めての邂逅という点を突破できれば、彼女はぐいぐいとアムネロアと距離を近づけるだろう。  そしてこれは俺も知らなかったが、アムネロアもフィーフィーのことを事前に認識しており、あまつさえ興味を抱いていたというのは嬉しい誤算だった。ウンディーネというその種族の性質柄、アムネロアは他者の区別が苦手であり、初対面の人物を独立した一個人として理解するのにすら、通常の手段では数日はかかる。その工程を飛ばすことのできたことは、時間に制限のある今回の取組みでは非常に助かることだった。  フィーフィーは次第にいかに恋愛が尊く、切ないものかを滔々と語っていた。白熱する耳年増な彼女の語り口に、わかったのかわかっていないのか曖昧な表情でふんふんと相槌を打つアムネロア。具体的なカリキュラムは明日から始める旨だけ伝えて、先に俺は宿舎に戻ることにした。  あの熱中具合だと夜が更けるまで続きかねないが、もう半刻もすれば司書が戻ってくる時間だ。戻ってきたらあのかしがましい娘を寝床に送り返すだろう。
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