かみさまのたったひとりのおひいさん

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 碧は三歳で母親に捨てられ、田舎の祖母の家で暮らす事になって二年が過ぎた。  衣食住の苦労は無くなったが、一日の話し相手がウサギのぬいぐるみなのは変わらない。  田植えや畑仕事に行く祖母を見送った後、碧は一日の大半を近所の寂れた神社で過ごす。  木の枝を拾って土に絵を描いたり、雑草を摘んでぬいぐるみとままごとをしたり。  昼は祖母が作った弁当を食べ、日が傾いたら家に帰る。  よそから来て保育園にも通っていない碧には、友達というものがいなかった。    ある日、いつも通りに朽ちかけた鳥居をくぐり石の階段を登ると、そこに見慣れぬ人が立っていた。  真っ白な狩衣に烏帽子を被った黒髪の男がくるりと振り返ると、碧はびくりと大きく身体を跳ねさせる。  男は白地に赤色で目のような模様の書かれた布で顔を覆っていたが、同じように驚いたように碧には見えた。  恐怖か、困惑か、或いは両方か。瞳をせわしなく彷徨わせながら立ち尽くす碧に、男は優しく語りかける。 「此処に、何か用事かな?小さなおひいさん」  しかし、碧は両手をぎゅっと握ったまま、凍り付いたように身動き一つしない。  少しの間男は思案すると、懐から紙を取り出し、細く白い指で器用にちぎり始める。その様子を小さな瞳がじっと見つめていた。  蝶の形にちぎった紙を手のひらに乗せ、男が息をふっ、と吹きかけると、蝶はひらひらと羽ばたいて舞い上がり、碧に向かって飛んで行く。  恐る恐る広げた小さな手のひらに、蝶は降り立ちゆっくりと羽をゆらめかせる。  それを眺めた後顔を上げ、きらきらした瞳で男を見つめた。  少し警戒が解けた様子に、男は足を一歩踏み出す。二歩、三歩と歩みを進めても碧が逃げない事を確かめ、向かい合ってしゃがみ視線を合わせた。 「蝶は好きかい?」  優しい声音に、碧は小さく頷く。そしてまた、手の中の蝶を見つめた。  男がその蝶に指先を近付けると、蝶は羽ばたき指先に留まる。  少女の手を取り人差し指を立たせると、蝶は今度は少女の指先に向かって羽ばたいた。 「すごい……」  初めて声を漏らした少女を、男はそっと抱き上げる。  まるで重みなど感じていないかのように腕に座らせ、そっと少女の薄桃色の柔らかい頬に触れた。 「なんと愛らしい事か。なんと可愛らしい事か」  布の向こうの表情は見えないが、男はとても嬉しそうだった。  つやつやした髪を撫で、大事に大事に腕の中に抱き込んだ後、少女を地面に下ろしまたしゃがんで向かい合う。 「あの……」  碧は言いにくそうにしているが、男は敢えて何も言わず静かに続きを待った。 「……ここで、いつもあそんでて……」  風が吹いたら消えてしまいそうな声で、少女は続ける。 「あそんだら……だめ、ですか……?」  その言葉に、男は思わずぽん、と手を打った。  そして二歩、三歩と距離を取り、「どうぞ」と声を掛ける。  碧はぺこりと頭を下げると、近くの木の下にリュックサックを置き、中からウサギのぬいぐるみを取り出して遊び始めた。  一人でぬいぐるみを相手に遊ぶ様子をしばらく眺めた後、男は踵を返し姿を消した。  しばらく遊んでいると、遠くで昼を告げるチャイムが鳴っているのが聞こえ、碧はリュックサックの中からお弁当を取り出す。  今日はおにぎりが二つだった。  一つを持って立ち上がり、辺りをきょろきょろと見回す。御神体を収める社の周りを歩いたり、何かを探すようにうろうろしている。 「いかがされたかな?」  こつこつと石段を上がりながら、男は碧に声を掛けた。  すると小走りに駆け寄って来た少女は、おずおずと手にしていたおにぎりを差し出す。 「あの……おれい、です……ちょうちょ、くれたから……」    男はどうしたものかと首を捻るが、少女が引き下がる様子もないのでとりあえずそれを受け取ることにした。  碧はまた木の下に座ると、もう一つのおにぎりを半分にしてウサギのぬいぐるみに持たせ、半分を食べ始める。  昼ご飯を食べ終え日が傾くまで時間を過ごし、そろそろ帰ることを男に伝えようかと思ったけれど、探しても姿が見当たらないので片付けをして祖母の家に帰った。
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