かみさまのたったひとりのおひいさん

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 それからは、めまぐるしく時間が過ぎた。  村の人たちが指揮を取って葬式や通夜が進み、あっという間に祖母はお墓の中へ入ってしまった。  祖母は写真一枚と小さな位牌となって古い仏壇に並んでいる。  新しくした蝋燭とお線香の煙がゆらゆらと揺れていた。  しんと静まり返った仏間でそれを見つめていると、玄関の戸を叩く音がやけに大きく響いた。  村の人たちなら勝手に上がってくるのに。と、思いながら、碧はのろのろと立ち上がって玄関に向かう。  磨り硝子の向こうには人影が無いのに、戸を叩く音ははっきりと繰り返し続いていた。 「碧、開けておくれ。碧」  向こうから、聞き慣れた男の声がする。 「碧、私だよ。開けておくれ」  改めて、その存在の異質さを目の当たりにし、碧の手が小さく震えた。 「碧、開けておくれ。碧」  男の声と、戸を叩く音は続いている。  開けなければ。と、思うのに、誰かが身体を掴んでいるみたいに動かなかった。  不意に、戸を叩く音が止み、一瞬の静寂が辺りを包む。  そして、左手の小指がじりじりと熱を持って痛み始めた。 「約束を、違えるというのか」  低く冷え切った恐ろしい声に、碧の全身がぞわりと粟立った。  歯がかちかちと鳴り、吐く息が氷になりそうなほど寒いのに、左手の小指は焼け爛れてしまうのではないかというくらい熱くて痛い。  約束。  その言葉と指の熱に、碧の記憶は一気に六歳のあの日に引き戻される。  待っている。と、約束した。指切りを交わした。  白く冷たい指の向こうで笑みを浮かべる男の顔を、確かに碧は見ていた。  開けてはいけないと止める何かを必死に振り払い、碧はゆっくりと、玄関の戸を開いた。  次の瞬間冷たい風が一気に吹き込み、思わず目を閉じる。そして恐る恐る目を開くと、碧は男の腕の中にいた。 「かみ、さま……?」  碧の声に、男は笑みを浮かべた。 「迎えに来たよ、碧。私の美しいお姫さん」  キー!と、屋根の上で鳥が甲高い声で鳴く。  顔を布で覆った巫女姿の女性たちが、碧に向かって恭しく頭を下げた。 「支度をしておいで」  男は碧を腕の中から解放すると、女房達が碧を身支度の部屋へと導く。  家の中は先程と一変し、御簾で部屋部屋が区切られていた。  碧が寝起きしていた部屋も様変わりしていて、奥が一段高くなった所に着物が用意されている。  女房達はてきぱきと碧の洋服を脱がせ、着物を着付けていく。  十二単と書いて字の如く、何枚も何枚も色の違う衣を着せられていくのだが、不思議と重みや息苦しさは無かった。  化粧を施され髪を結われ、支度を整えて男の元へ戻ると、そちらも着替えを済ませ白の衣冠束帯姿で出迎えられた。  布の向こうの表情は見えないけれど、優しく笑みを浮かべているのが碧には分かる。  一歩距離を詰めた男は、懐から扇子を取り出して広げた。 「碧、彼方へ行くのに此方の物は持っては行けない」  男の言葉の意味を図りかねていると、左胸をとんとんと指先で叩かれた。 「何も怖くないよ、碧。直ぐに終わるからね」  促されるままに男の手に自分の手を重ねると、くるりと翻した扇子で一度大きく扇がれる。  思わず息を止めた拍子に目の前がぐにゃりと歪み、よろめいたところを抱き締められた。 「振り返ってはいけない。さぁ、こちらにおいで」  すっ、と男が身を引くと、玄関前に立派な牛車が用意されており、付き人達が二人を待ち侘びていた。 「あれに、のるの?」 「そうだよ」  手を引かれるままに、一歩、二歩と歩みを進める。 「ひとりぼっち?」  無意識のうちに零れた碧の言葉に、男はゆるゆると首を振り、碧を抱きかかえた。 「碧と私はずっと一緒だよ」  暖かい春の日差しに包まれているような感覚に、碧は男の胸にもたれて目を閉じる。  ことことと牛車は進み、祖母と暮らした家から離れて行く。  離れていくにつれて、碧は自分が何者であったのか、何故この男と出会ったのか、これまで歩んで来た人生が細切れになり記憶から薄れていった。  言い知れぬ不安感にぎゅっと男の着物を掴むと、するりと瞼を撫でられまた眠りに落ちる。  十六歳だった遠崎碧は、男の腕の中で六歳のあおに戻っていた。 「可愛いこと。愛らしいこと。ようやくようやく手に入れた」  壊れ物を抱くようにそっと腕に力を込め、男はあおの額に頬を寄せる。 「私のお嫁さん、可愛らしいお嫁さん。貰った貰った、全部貰った」  男の笑い声と共に、碧と祖母が暮らした家から尾の長い鳥が舞い上がり、ぐるぐると円を描くように飛ぶと山の方へと姿を消した。  開きっぱなしの玄関に気付いた近所の女性は、中を覗いて悲鳴を上げる。  中で倒れていた碧の身体は氷のように冷え切っており、仏壇の蝋燭も線香も火が消えていた。  扉という扉が開け放たれ、村人たちは何が起こったのかを容易く察して手を合わせた。  七つに満たない子供のうちの何人かは、山に行列が向かうのを見たと言う。  その年、村はかつてない程の豊作に恵まれ、次の年には元気な子供がたくさん産まれた。  村人は社を修繕し、新しく女神像を子取り様の隣に納め祈りを捧げた。  そして、村には新たに言い伝えが出来る。  七つになる前におひいさんと遊んだ子供は、家族に恵まれ健康長寿を授かる。と。
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