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次の日碧は高熱を出し、二日ほど寝込んだ。
夢現に、祖母と医者が話しているのが聞こえる。
「昨日の今日で、まさか」
「この子はまだ六つだろう、七つの祝いまでは気が抜けん」
「名前を教えたんじゃ……」
「いや……」
「でも……」
夢の中で、誰かが自分を抱いてくれている。
暖かくて優しい、知っている感触。
冷たい手が時々額や頬に触れるけれど、とても眠たくて目を開けることが出来ない。
「あと一つ。あとは名だけ」
誰かが耳元で、そう囁いた気がした。
目を覚ますと熱はすっかり引いていたけれど、祖母に外に出てはいけないと言われ、仕方なく家の中で過ごした。
そして数日が過ぎ、遠くに行かないことを約束してやっと外に出る事が許された。
祖母の花壇を眺めていると、ひらひらと綺麗な蝶が飛んできて、抱えていたウサギのぬいぐるみに留まり、また飛び始める。
自分を誘うように飛ぶ蝶に、碧はふらふらとついて歩き出した。
少し家から離れたところで、蝶はふと、男に姿を変える。
「約束を果たしに来たよ」
さぁ、おいで。と、腕を広げる男に歩み寄ると、そのまま抱き上げられた。
男は碧の額に触れ、手に触れ、足に触れ、最後にお腹に触れる。
「もう大丈夫。準備は出来たよおひいさん」
ゆっくり歩きながら男は機嫌良さそうに口を開く。
「少しお話しをしようか」
そう言った男の背から大きな翼が生え、あっという間に雲より高く飛び上がった。
「よく、気付いているのに口にしなかったね。賢い子だ。偉い子だ」
ばさり、ばさり、と羽を羽ばたかせながら、男は碧の髪を愛しそうに撫でた。
とん、と足元の雲を蹴ると、瞬く間に山の中腹辺りに降り立っていた。
目の前に、苔むした石の社があり、腐りかけたしめ縄がようやく、といった形で繋がっている。
ひんやりと冷たい空気が満ちていて、碧はぎゅっと男にしがみついた。
「子供は可愛い。けれど、皆親を恋しがり泣き、やがて還って逝く。七つは人の子、私の腕には納まらない」
社をじっと見つめたまま、男は訥々と語り続ける。
「名は姿を現す故に、口に出してはならぬ。子供は無邪気で悪意無く、その可愛らしい口で残酷な事をする」
男はそっと碧を下ろし、膝を付いて碧と向かい合った。
「帰りたいと言えば、私は帰すしかない。役目を果たさぬ事は許されぬ」
見えないはずの表情は、碧には泣いているように見えた。
「おひいさん、お願い事は……あるかい?」
しんとした静寂と、冷たい空気。
人の場所か、そうではないのか。曖昧なこの空間の中で、碧は一歩足を踏み出し口を開いた。
「おにいさんの、およめさんになりたい」
はっきりとそう言って、碧はにっこりと笑んだ。
「お嫁さん、と来るとは」
男はまた袖で口元を隠し、くつくつと笑う。
肩を震わせる男に、碧はむぅ、と小さな唇を尖らせた。
「その願い、二度と覆す事が出来ぬが……それでも良いと?」
ぴり、と一瞬にして張り詰める空気にも碧は動じず、じっと男を見つめ返す。
「ふたりでいれば、さびしくないよ」
碧の腕から、ぽとり、とウサギのぬいぐるみが落ちた。
どこへ行くにも離さなかったそれを落とした腕で、碧はしっかりと男を抱き締める。
男も碧の背中に腕を回し、しっかりと抱き締め返した。
「では、最後に……名を、名前を教えておくれ、おひいさん」
男の声音は、抑揚を失い全てを飲み込もうとする闇のようだった。
碧は表情の見えない布をじっと見つめ、
「とおさき、あお」
と、名前を告げた。
「ありがとう、あお。いい名だ。とても、いい名だ」
満足げに男は数度頷き、するりと布を取って碧に顔を見せた。
見えているのかいないのか、碧は布の無くなった男の顔に触れ、次に頬を寄せる。
「あお。遠崎碧。可愛い私のお嫁さん。もうこれで、あおと私はずっと一緒だよ」
何度も何度も男は碧の名を呼びながら、冷たい手で碧に触れていた。
碧も小さな暖かい手で男に触れ、時折笑い合いながらお互いを確かめ合った。
夕暮れまで二人で過ごし、家の近くまで碧を送り男が口を開く。
「碧、お嫁さんになるには碧が十六にならなければならない。これは決まりなんだ」
「わかった」
「そして、何度も聞いたと思うけれど、七つになると私の事は見えなくなる。声も聞こえなくなる。けれど、私と碧の縁は途切れる事は無い」
「うん」
「碧が十六になったら、必ず迎えに来るよ。それまで少しお別れだけれど、いい子で待っていてくれるかい?」
男の言葉に、碧はしっかりと頷いた。
そして、小さな小指を男に差し出す。
「あぁ、これはいい。うん、ゆびきりげんまん。だね」
男はにこにこと笑いながら小さな小指に自分のを絡め、唇を寄せてふーっと息を吹きかけた。
「約束、したからね、とおさきあお」
そう言うと、男は碧に後ろを向かせその背をとん、と押した。
とと、っと二、三歩前によろめいた碧は、つい先程まで自分がどこで何をしていたのか分からなくなり、きょろきょろと辺りを見渡す。
見慣れた祖母の家の前。変わらぬ花壇の花と、時折吹く乾いた風。
ぼんやりと立ち尽くしていると、畑から帰って来た祖母に家の中に入るように言われた。
お風呂に入り、夕食を食べ、布団に横になる。毎日繰り返していることなのに、今日は何だか身体の中に穴が開いてしまったみたいだった。
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