4人が本棚に入れています
本棚に追加
まだ風が冷たい三月中旬。梅の木が花を咲かせようと蕾を膨らます時期だ。
だけど悲しいかな。今のわたしには、しみじみと春の訪れを楽しむ余裕などなかった。
「……ぬ……う」
わたしは現在、電車の窓ガラスに頬をぎゅうぎゅう押し付けている。アヒルみたいな口になってしまうほどにだ。アホみたいな顔になっているが、断じて変態などではない。
(マジで…………死ぬ)
シュールなおしくらまんじゅう、といったところか。どこを見ても人しか見えない。至るところに他人の体が密着していて、はっきり言って気持ち悪い。しかも空気が異常なまでに薄く、立っているのもままならない状態だ。
(噂には聞いてたけど、東京の満員電車……マジでカオスだ)
乗る時は『入って入って!』とぐいぐい押し込められて、無理やり箪笥に詰められた布団になった気分だった。こんなのに毎日乗っている東京の人たちの気が知れない。わたしは徒歩で良かった、などと考えて気を紛らわす。
そうしている内に駅に着き、ホッと一息つく。地獄のような時間だった。たかだか数分が永遠に感じてしまうほどに。
(――――あ!)
雪崩るように電車を降りると、ホームに従兄のタカ兄の姿があった。
わたしはすぐに、「タカ兄!」と涙目で飛びついた。電車に揺られ、四方八方を取り囲む人の大群に戸惑い、別の電車に乗り換えるを繰り返してきたからか、東京に来て初めて生きた心地がした。
「タカ兄、久しぶりだね! 元気?」
「うん。ユキも元気そうだな。あ、髪切ったんだ。似合うじゃん」
「本当?」
「うん。前よりずっと良いよ」
へへっと笑って三日前に切ったばかりの髪に手を添える。首にスースーと当たる冷たい風すら、愛おしく思えてしまう。
「でも、驚いたな。『男みたいだ』って言われるのが嫌だからって、昔から切りたがらなかったのに」
「まぁ、せっかく上京するわけだから、気分変えてみようと思って」
(本当は、タカ兄が可愛いっていう子が、みんなショートだから……)
「じゃあ、行こうか」
「うん」
わたしは頷いて、差し出された手を握った。
(タカ兄の手……あったかい)
高校を卒業したとはいえ、やっぱりわたしはまだ子供だ。タカ兄が側にいてくれて、今、凄くほっとしてる。
(まぁ、上京したからって、いきなり大人になれるわけじゃないしね)
「ねぇ、今から行くアパートってどんな所? 幽霊アパートとか?」
これから一人暮らしをする所なのだ。わたしは気になって、道中にそんな風に尋ねた。もちろん幽霊アパートなんて言葉に深い意味はない。その場で思い付いた冗談だ。
だけどタカ兄は、一瞬だけど表情を硬くした。
最初のコメントを投稿しよう!